上 下
9 / 79
2. 八坂麗の懺悔と仁愛

8枚目 新しい日々へ

しおりを挟む
 次に目を開けたときには、視界いっぱいにぼんやりともやがかかっていた。
 和則から分かるか分からないかの狭間はざまで、遠くに一筋の光が煌々こうこうと輝いている。

 少しでも身動ぎをすると、周囲に一層白い靄が立ち込める。
 まるで行く手をはばむかのように、靄はどんどん和則自身をおおっていく。

 (ここは……何処だ。俺は今まで布団で寝ていたはずだろう……? それがどうしてこんな、何もない場所に立っているんだ)

 自問自答していても、一向にらちが明かない。
 和則は一度深呼吸をして、ゆっくりと全身を見回した。
 身にまとう衣服は白い着物に、着物と同じ白い帯。所謂いわゆる死装束というやつだろうか。

 数瞬の間をおいて察する。
 いや、自分は死んでしまったのだととっくに理解していた。信じたくなかっただけで。

 「……美和」

 (こんな俺のために泣いてくれるなんて、お前はどうしてそう……俺を好きでいてくれるんだ)

 元々ひねくれた性格をしていた男を、ここまで変えてくれたのは他でもない美和だ。
 ひっそりと二人だけの祝言を挙げて、子宝にも恵まれて。そうして共に老いていくまで一緒にいられると──そう、信じていた。

 最期に遺したかった想いは伝えられたから、まだマシだと思いたい。
 あの時、和則の頬を一筋の涙が伝ったことを、霞んでいく意識の中ぼんやりと憶えている。

 (もう泣かせたりなんてしない)

 もう悲しい思いはさせない。愛しい人にはずっと笑っていてほしいから。

 花がほころぶようなあの笑顔がまた見られるのなら、和則はどんなことでもしようと思う。
 来世でも一緒になれるのなら、和則の前では心から笑っていてほしいと思う。

 そう強く決意し、そろりと不安定な白い大地を踏み締める。
 きっと、あの光の先には桃源郷が広がっているのだろう。生から解き放たれた死者が、飲めや歌えやの宴をする、そんな世界が。

 和則が歩く度、靄は先程よりも強く濃くなっていく。
 けれど新しい日々を歩むことができるのなら、何も怖くなかった。
 段々と確実に、光が近づいていく。
 まばゆい光へもう少しで辿り着ける──そう思ったときには、和則の意識はそこで途切れていた。


 ◆◆◆


 どれほど気を失っていたのだろう。
 次に目を開けたときには、視界いっぱいに顔で埋め尽くされていた。

 (……誰だ?)

 顎まで切り揃えられた、烏の濡れ羽色のように黒い髪。
 髪色と同じ、少女のように黒目がちで大きな瞳。目元に黒子ほくろがあるのが、印象的な女性だった。

 「あ、起きた! おはよう、麗。んー? どうしたの? お腹空いた?」

 ぱぁっと笑みを浮かべたその人は、あろうことが和則を『麗』と呼んだ。
 すると、突然身体が浮いた。ゆらゆらと規則正しく左右に揺れる。

 少し酔ってしまいそうな感覚があるものの、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
 寧ろほわほわとした眠気に襲われる。
 しばらくして、自分は抱き上げられているのだ、と気が付いた。

 (美和ではない誰かが名を呼んでいる。……いや、俺には和則という名前があったはずだろう)

 言葉を発そうとするも、はくはくと息を吸うだけで声にならない。

 「ふふ、ご機嫌ねぇ」

 そう言って、なぜだか一層笑みを深くされた。

 (何故笑っているんだ、この女は)

 何故自分は見知らぬ人の腕に抱かれているのか。
 何故自分は言葉を発せないのか。
 何故こんなにも眠気に襲われてしまうのか。

 (この女は、誰なんだ)

 考えを巡らせるも、おかしなことに頭が働かない。
 自分を見つめる慈愛に満ちたその顔を、ぼんやりと眺めているうちに、段々と瞼が重くなっていった。

 目を覚ましたばかりで眠くなどないはずなのに、不思議と意識が睡魔に襲われていく。
 自身を包み込む腕は、まるで雲の上にいるかのように優しく温かい。
 さながら揺り籠に揺られているように。

 (俺は、眠るわけに、は……)

 襲ってくる睡魔にあらがおうとするも、それもむなしくから回る。
 やがて、小さくすぅすぅと寝息が漏れ出た。

 「あら、寝ちゃった? ……もう少しお休み、麗」

 意識が睡魔に捕らわれていくそばで、そっと頬に柔らかい何かが触れた。
 それは数秒にも満たなかったが、何故か懐かしいほど安心できた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

奴隷女と冷徹貴族が、夫婦になるまでの物語

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:66

幼馴染みの彼と彼

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:50

傾国の美男と同じ馬車に乗った男の話

BL / 完結 24h.ポイント:134pt お気に入り:943

バラのおうち

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:30

『白薔薇』のマリオネット

BL / 完結 24h.ポイント:347pt お気に入り:75

天上人の暇(いとま) ~千年越しの拗らせ愛~

BL / 連載中 24h.ポイント:340pt お気に入り:326

処理中です...