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7. 私と兄とあの人と
49枚目 貴方に着いていく
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和則が待つ市場は、沢山の人でごった返していた。
当たり前だが、夕飯時のこの時間は結構な人が店先で商品を物色している。
(いつもながらすごい人ね。和さまは……)
市場の近くに居る、と言っていたが、美和の身長では上を向かないと誰が誰なのかが分からない。
人にぶつからないように慎重に歩を進める。
「あ」
野菜を売っている店の幟に隠れるように、周囲よりも身長の高い男がいた。
(和さまだわ)
腕を組んで顔を俯かせているが、遠目から見ても端正な顔立ちは間違えるはずもない。
「和さま」
人波を縫って、和則の佇むほど近くまで歩いていく。
名前を呼ぶと伏せられていた黒曜石の瞳がゆっくりと上向かれ、やがて美和を捉えた。
「美和。……待ってたよ」
鼻の頭が、ほんのりと赤く染まっていた。首には紺色の襟巻きを巻いているが、それだけでも寒そうだ。
随分長い間待たせてしまったんだな、と反省すると同時に罪悪感が生まれた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「これくらい大丈夫だ。──行こうか」
ぽん、と頭を一度撫でられ、手を差し出される。
「はい!」
桜を抱いているから片手を出せないが、その分和則にくっつくようにして歩く。
和則も桜に気付いたのか、差し出した手を美和の肩に回した。
触れ合う箇所がじんわりと温かく、それだけで幸せな気持ちになった。
一通り買い物が終わると、仄かな闇が辺りを包み込んでいた。
大きな風呂敷に包まれた食材を持ち、美和は半ば鼻歌を歌うようにして店から出る。
和則は店の前でじっと待っていた。
桜を預け、美和だけが店に入っていたのだ。
時折ゆらゆらと腕を揺らして桜をあやすさまは、紛れもない父親のそれだ。
「……終わったか?」
美和に気付いたのか、和則が視線を向ける。
「はい、大体は……。あとは和さまの飲むお酒だけですね」
にこにこと微笑みながら和則に駆け寄る。
いつも買う酒店は市場から少し歩いた先だ。
他愛ない話をしつつ、則房に呼び出された事を話してくれた。
なんでも、和則に自分の道場を継がせる、というの 事だった。
則房は今年で数え六十になる。自分の目が黒いうちに後継者を決め、則房自身は隠居しようという心積りなのだろう。
しかし、そうなると和則を養子にしなければならない。
和則は華山の名を捨てることに躊躇はないというが、美和の気持ちも聞いておきたい、という事で一度この件を持ち帰ったのだ。
「私は大丈夫ですけど……」
美和としては、和則がそれでいいのならば着いていくだけだ。
それに、和則にとっても日々の鍛錬が仕事になるのだから、良い事だろうと思う。
「面倒な手続きは全部師匠がやってくれるらしい。ただ……俺はあまり乗り気じゃないんだ」
ほんの少し目を伏せて和則が言った。
「え……? でも、先程は名を捨てる事に躊躇いは無いと言っていたではないですか」
「確かに躊躇いは無い」
「では何故」
これほどはっきりと言ってのけるのだ、何が和則の決心を邪魔しているというのか。
「……結局、俺は弱いんだと思う」
美和と隣り合って歩いていた歩を止め、和則を立ち止まる。
「和さま?」
和則が止まったことで美和も足を止め、振り向いた。
微かにだが、桜を抱く和則の手が震えている。
「後継者になるって事は師匠の門下生たちをそのまま引き継ぐって事だ。それだけならまだいい。問題は……美和、お前なんだ」
「私、ですか?」
美和の何が問題だというのだろう。
人並み以上に炊事や家事はできるし、裁縫だってゆっくりとだができる。
(あ、もしかして……)
そこで美和はぴんと来た。
「和さまは私を心配してくれているのですか?」
「え?」
ぱちくりと目を瞬かせ、和則は虚をつかれたような声を出した。
「それなら心配ご無用です。私は強いので」
手に持っている風呂敷を抱え直し、むん、と力こぶを作る仕草をして微笑む。
精神的な面でいえば、美和は強いと自負している。
それに、こうでも言わないと和則は決心してくれないだろう。
苗字が変わっても、正式に道場の後継者となっても、美和は和則に着いていくだけだ。
初めて会った時よりも、夫婦となった時よりも、遥かに心を許している。
その証拠に子にも恵まれ、今があるのだ。
ここで何も言わずにいるというだけは、できなかった。
(仮にお話を受けないとしても、悔いのない選択をしてほしい)
それが美和の願いであり、すべてなのだ。
「ふ、ははっ……はははははっ!」
唐突に和則が笑い出し、今度は美和が目を丸くする番だった。
今まで大人しく眠っていた桜も声に驚いてか、ぱっちりと目を開けてじっと和則を見ている。
「か、和さま……?」
どうしていいか分からず、おろおろと空いている手を右往左往させる。
和則はそんな美和の手首を掴み、ぐいと引き寄せた。
「わ」
「ありがとうな、美和」
ぽんぽんと優しく頭を撫でられ、はっとする。
まばらとはいえ、人が通る道だ。誰が見ているか分からず、このままでは少し恥ずかしい。
「ちょ、和さま! 離して……!」
人がいるから離してほしい、と小声で言っても聞いてくれはしない。
「本当に美和は自慢の嫁だ。桜もありがとうな」
和則は腕の中にいる愛しい娘に微笑みを向ける。
桜はまだ小さい。何を言われているのか理解していないはずだが、楽しそうにきゃっきゃっと笑っていた。
「──さて、行くか」
そうして手首を掴まれたのが唐突だったように、すぐさま美和を解放した。
心なしか鼻歌を歌って美和との距離をゆっくり離していく。
何故礼を言われたのか分からず、先を行く和則に「置いていくぞ」と言われるまで美和はその場で固まっていた。
当たり前だが、夕飯時のこの時間は結構な人が店先で商品を物色している。
(いつもながらすごい人ね。和さまは……)
市場の近くに居る、と言っていたが、美和の身長では上を向かないと誰が誰なのかが分からない。
人にぶつからないように慎重に歩を進める。
「あ」
野菜を売っている店の幟に隠れるように、周囲よりも身長の高い男がいた。
(和さまだわ)
腕を組んで顔を俯かせているが、遠目から見ても端正な顔立ちは間違えるはずもない。
「和さま」
人波を縫って、和則の佇むほど近くまで歩いていく。
名前を呼ぶと伏せられていた黒曜石の瞳がゆっくりと上向かれ、やがて美和を捉えた。
「美和。……待ってたよ」
鼻の頭が、ほんのりと赤く染まっていた。首には紺色の襟巻きを巻いているが、それだけでも寒そうだ。
随分長い間待たせてしまったんだな、と反省すると同時に罪悪感が生まれた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「これくらい大丈夫だ。──行こうか」
ぽん、と頭を一度撫でられ、手を差し出される。
「はい!」
桜を抱いているから片手を出せないが、その分和則にくっつくようにして歩く。
和則も桜に気付いたのか、差し出した手を美和の肩に回した。
触れ合う箇所がじんわりと温かく、それだけで幸せな気持ちになった。
一通り買い物が終わると、仄かな闇が辺りを包み込んでいた。
大きな風呂敷に包まれた食材を持ち、美和は半ば鼻歌を歌うようにして店から出る。
和則は店の前でじっと待っていた。
桜を預け、美和だけが店に入っていたのだ。
時折ゆらゆらと腕を揺らして桜をあやすさまは、紛れもない父親のそれだ。
「……終わったか?」
美和に気付いたのか、和則が視線を向ける。
「はい、大体は……。あとは和さまの飲むお酒だけですね」
にこにこと微笑みながら和則に駆け寄る。
いつも買う酒店は市場から少し歩いた先だ。
他愛ない話をしつつ、則房に呼び出された事を話してくれた。
なんでも、和則に自分の道場を継がせる、というの 事だった。
則房は今年で数え六十になる。自分の目が黒いうちに後継者を決め、則房自身は隠居しようという心積りなのだろう。
しかし、そうなると和則を養子にしなければならない。
和則は華山の名を捨てることに躊躇はないというが、美和の気持ちも聞いておきたい、という事で一度この件を持ち帰ったのだ。
「私は大丈夫ですけど……」
美和としては、和則がそれでいいのならば着いていくだけだ。
それに、和則にとっても日々の鍛錬が仕事になるのだから、良い事だろうと思う。
「面倒な手続きは全部師匠がやってくれるらしい。ただ……俺はあまり乗り気じゃないんだ」
ほんの少し目を伏せて和則が言った。
「え……? でも、先程は名を捨てる事に躊躇いは無いと言っていたではないですか」
「確かに躊躇いは無い」
「では何故」
これほどはっきりと言ってのけるのだ、何が和則の決心を邪魔しているというのか。
「……結局、俺は弱いんだと思う」
美和と隣り合って歩いていた歩を止め、和則を立ち止まる。
「和さま?」
和則が止まったことで美和も足を止め、振り向いた。
微かにだが、桜を抱く和則の手が震えている。
「後継者になるって事は師匠の門下生たちをそのまま引き継ぐって事だ。それだけならまだいい。問題は……美和、お前なんだ」
「私、ですか?」
美和の何が問題だというのだろう。
人並み以上に炊事や家事はできるし、裁縫だってゆっくりとだができる。
(あ、もしかして……)
そこで美和はぴんと来た。
「和さまは私を心配してくれているのですか?」
「え?」
ぱちくりと目を瞬かせ、和則は虚をつかれたような声を出した。
「それなら心配ご無用です。私は強いので」
手に持っている風呂敷を抱え直し、むん、と力こぶを作る仕草をして微笑む。
精神的な面でいえば、美和は強いと自負している。
それに、こうでも言わないと和則は決心してくれないだろう。
苗字が変わっても、正式に道場の後継者となっても、美和は和則に着いていくだけだ。
初めて会った時よりも、夫婦となった時よりも、遥かに心を許している。
その証拠に子にも恵まれ、今があるのだ。
ここで何も言わずにいるというだけは、できなかった。
(仮にお話を受けないとしても、悔いのない選択をしてほしい)
それが美和の願いであり、すべてなのだ。
「ふ、ははっ……はははははっ!」
唐突に和則が笑い出し、今度は美和が目を丸くする番だった。
今まで大人しく眠っていた桜も声に驚いてか、ぱっちりと目を開けてじっと和則を見ている。
「か、和さま……?」
どうしていいか分からず、おろおろと空いている手を右往左往させる。
和則はそんな美和の手首を掴み、ぐいと引き寄せた。
「わ」
「ありがとうな、美和」
ぽんぽんと優しく頭を撫でられ、はっとする。
まばらとはいえ、人が通る道だ。誰が見ているか分からず、このままでは少し恥ずかしい。
「ちょ、和さま! 離して……!」
人がいるから離してほしい、と小声で言っても聞いてくれはしない。
「本当に美和は自慢の嫁だ。桜もありがとうな」
和則は腕の中にいる愛しい娘に微笑みを向ける。
桜はまだ小さい。何を言われているのか理解していないはずだが、楽しそうにきゃっきゃっと笑っていた。
「──さて、行くか」
そうして手首を掴まれたのが唐突だったように、すぐさま美和を解放した。
心なしか鼻歌を歌って美和との距離をゆっくり離していく。
何故礼を言われたのか分からず、先を行く和則に「置いていくぞ」と言われるまで美和はその場で固まっていた。
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