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7. 私と兄とあの人と

50枚目 出掛けた先で

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 ほんの少しの疑問を美和に残して、翌日の朝。
 美和はすやすやと眠る桜を背負い、洗濯にいそしんでいた。
 昨日の今日だというのに太陽は暖かく、春の陽気かと思うほどだ。

 「……よし。これでいいかな」

 物干し竿に干した洗濯物が風に乗ってはためき、気持ちがいい。
 こうも天気がいいと、ふと一年前の事を思い出してしまう。

 和則と祝言を挙げて少ししたあの日。
 美和は着物を仕立てるため、一人で街に出ていたのだ。

 (結局お店に出されているものを買ってしまったけれど)

 ふふ、と誰にも聞こえない声音で苦笑し、そっと着物の袖を触ってその日の事を回顧する。
 美和が今着ているのが、一年前に買った着物だ。
 ほとんど毎日着ているため少し色褪いろあせてきているが、それでも手入れをおこたった事はない。

 (そういえばあの方のお店……ご挨拶もしていないような。確かかんざし屋さん、だったわよね)

 その日は祭りで賑わっていた。
 ふと覗いた小ぢんまりとした店で、椿の簪に一目惚れしたのを覚えているのだ。

 日常が落ち着いたら行こうと思ったが、すぐに桜を身篭みごもった事で一年近くが経ってしまった。

 (行ってみようかしら)

 簪屋までの行き方は忘れないよう紙に書き留め、文箱に入れてある。
 和則は昨日の件を道場に報告する、と言っていたから遅くなるだろう。

 しかし、和則が美和よりも早く帰宅する場合もあった。出掛けてくる、と一言書き置けばいいだけだが、家に誰も居なければきっと心配を掛けてしまう。

 「……和さまに直接言いましょう」

 簪屋に行く前に道場へ寄ろうと思い立ち、美和は桜を連れて出掛ける準備をした。


 「申し訳ございません。父上とお話中のため、和則さまは離席できないのです。代わりに私がお伝えしますが……」

 道場の門前で、妙子にそう言われた。
 妙子は申し訳なさそうに眉尻を下げ、今にも頭を下げようとする。
 少し釣り上がった目尻には、うっすらとだが涙が溢れそうになっていた。

 「そ、そんな! お話していると知っていてうかがった私が悪いんですから!」

 和則に直接会えないかもしれない、という事は分かっていた。けれど、自分の口で言いたいと思ったのは美和だ。
 取り次ぎの人間が出てきてくれただけ、まだマシだろう。

 「でも、そうですね。一言、街に行っていると言付ことづけてください。簪屋さんにいる、とも」
 「……わかりました! お伝えしておきますね」

 それまで沈んでいた妙子の表情が、花開いたようにほころんだ。
 美和は妙子と話した事は数えるほどしかない。
 その勝ち気そうな見目みめとは相まって、性格は真逆らしかった。

 (妙さんは可愛らしくて、慎ましくて……まるで姉さまを見ているよう)

 美和には一つ違いの姉がいた。十年ほど前に不慮の事故で天に還ってしまったが、自慢の姉だった。
 いつでも美和を気にかけてくれ、時々二人で街へ行って活動写真を観にいく事もあった。
 楽しい思い出であると同時に、姉に会いたいという思いが強くなる。

 「美和さん?」

 返事がないことを心配してか、妙子がひらひらと美和の前で手を振る。

 「あ、すみません、考え事をしていて。──よろしくお願いします」

 慌ててぺこりと頭を下げる。
 美和の腕の中で心地よさそうに眠っていた桜が起きだし、泣き出すまであと少し。


 目印である饅頭まんじゅう屋を右に曲がると、いかにも民家のような建物が見える。
 入り口であろう引き戸の傍には「緋ノ龍ひのりゅう」と直筆であろうのぼりが風に揺れている。

 「ここがあの方のお店ね……」

 外見は庶民が住む家と変わりない。むしろ寂れているような印象を受ける。

 (失礼だけれど、普通のお家よりも古いような)

 どこか懐かしさを漂わせるが、ここで躊躇ちゅうちょしていては何も始まらない。
 美和は意を決して引き戸を開けた。

 「失礼致します」

 律儀に頭を下げ、店に入る。

 「いらっしゃい」

 美和から見えない場所で声が聞こえた。
 店主だろうか、と思う前に目の前の景色に感嘆の息が漏れる。

 「綺麗……」

 建物の質素な外見とは相まって、その中は色鮮やかなかんざしで溢れ返っていた。
 四季折々の簪が、美和の胸ほどまである台に所狭しと置かれている。

 一年ほど前の祭りで見た椿つばきの簪だけをとっても、蕾《つぼみ》であったり花開いていたり、枝葉が付いていたり、様々だ。色だけにしても赤や白、桃色とじっと見ているだけでも楽しい。

 蝶をかたどった飾りに、きらびやかな丸びらが付いたもの。少し季節が外れているが、大輪の桔梗ききょうが一輪咲いたものまである。

 「ん……? お嬢さん、か? 来てくれたんだな」

 奥からひょこりと出てきたのは、祭りの日に出会った男だった。
 祭りの日のような着崩した格好ではなく、襟元をきっちりと正した装いだ。

 ゆっくりと美和の方へ足を向けてくる。
 一年前と違い、長く伸ばした前髪の隙間から海のように深い瞳が美和をとらえていた。

 「うかがうのが遅くなってしまってすみません」

 男が近付くと、すぐさま頭を下げる。
 一年ほど音沙汰もなく、店に来なかったのだ。怒られても無理はない、と覚悟した。

 「いや、大丈夫だ。こうして来てくれただけで嬉しいよ」

 けれど、にっこりと男は快活に笑う。
 その表情が少年のように幼く見えて、少し怖いと思っていた自分を恥じる。

 「その子はお嬢さんの子か?」

 それどころかそっと桜を覗き込む。

 「はい、昨年の末に生まれて……桜といいます」
 「あーうっ!」

 まるで返事をするように、桜がにこにこと手を伸ばす。
 美和はその小さな手に答えながら、ゆっくりと男を見上げた。
 懐からおもむろに煙管きせるを取り出し、軽くもてあそんでいる。

 「桜、か。いい名前じゃないか、お嬢さんが名付けたのか?」
 「そうですね……桜のように強い子になってほしいので」

 何故かするりと言葉が出る。ともすれば、和則と話す以上に思ったことが口から出てしまうのだ。
 あの日の異様な出で立ちといい、これもこの男が持つすべなのだろう、とかんぐった。

 (いえ、駄目よね。男性にこのようなこと、失礼だわ)

 ふるふると首を振り、考えを打ち消す。

 「なぁ、お嬢さん。少し奥で話さないか?」

 男の言う店の奥まった場所は入り口付近と違って、ほんのりと明かりが付いているだけだ。

 「流石にそれは悪いので」

 今日は顔を見にきただけ、と言っても等しかった。妙子に言付けているといっても、すぐさま家へ帰って和則を出迎えたい。

 「そうか、お客から貰った菓子があるんだがな……」
 「お菓子?」

 引き返そうとした足を止め、ぴくりと反応してしまう。
 美和は甘い菓子に目がない。桜を産んで以降は甘味を絶っていたが、久しぶりに出た言葉に興味を隠せなかった。

 「そうだ。ここじゃあ駄目だが、奥に行けば菓子を出せる。お嬢さんもここに来るまで疲れただろう? 幼子を抱いてるんだ、少しくらい休憩しても罰は当たらない」

 まるでまくてるように、口早に男が言った。
 確かに少し疲れてはいるが、それよりも早く菓子を食べてみたい。

 「では……本当に少しだけ」

 お邪魔します、と言って桜と共に男の後に着いていった。
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