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14 出立 3

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 宿では、ユルディスが非常に気をつかってくれた。
 街でも目立たない宿を取ったので、当然部屋も小さかった。衝立ついたてを入れる余地もなかったほどだ。
 しかし彼は少しも慌てずに、壁にロープを吊るし、その間にシーツをかけて即席のカーテンで仕切りにしたのだ。
「ご不快でしょうが、これでご辛抱を」
「不快じゃないし、辛抱ってほどのこともないわ。言ったでしょう? あなたを信頼しています」
「……光栄です。私はミザリー様をお守りいたします」
「守るって、誰が襲いかかってくるというの? 街で一番小さな宿にしたのに」
「それでも、です。さぁ」
 ユルディスは奥の寝台にミザリーを押し込め、カーテンの中へは決して立ち入っては来なかった。
 話は布越しにできたから問題はなかったが、ミザリーが寝る支度を終え、もう平気だから布をどかしましょう、と言っても聞かなかった。
「でも、うっとおしくない? そっちからじゃ窓が見えないでしょう? 今夜は月が綺麗よ」
「……月はどうでもいいです。とにかくそのままで」
「わかった」
 その生真面目さがミザリーに安心をもたらす。
 寝る前に、二人はいろいろな話をした。
 ほとんどミザリーがしゃべっていたが、時折聞く彼の話は、とても興味深いものばかりだった。
 十代の頃から大陸を放浪していた彼は、実にいろんなことをよく知っていた。知っているだけではなく、滞在した土地の職人や商人、農民たちと交流し、多くの知人を作ってきたと言う。
「きっとユールの人柄が魅力的だったのね」
 窓の外の冷えた月を見上げながらミザリーは言った。
 空気は澄んでいて、外は冷え込んでいる。明日の朝は霜が下りるかもしれない。
「そうでもありません。私は子どもの頃、人づきあいが全くできず、部族の中では一人浮いた存在でした。剣と鷹さえあればよかった」
「鷹? 飼っていたの?」
「飼うというよりも、家族です。草原の民にとって鷹は、家族であり、神でもあります。男は自分の鷹を持っていて、意思の疎通ができます」
「それはすごいわね……あなたは確か、私の髪が鷹の羽根の色だって言ってたわ」
「ええ。ミザリー様の髪は草原の鷹の羽根の色、そのものです。そして瞳も」
 布ごしの男の声は低い。
「飼っていた鷹の名前はなんていうの?」
「アサクル。しかし私は度を過ぎてアサクルを可愛がり、部族の誰とも話さなくなった。父と兄に叱られてもどうでもよかった。そのうち、面倒なことを押しつけられそうになり、俺は草原を出奔しゅっぽんしました」
「面倒なこと?」
「まぁ、慣習のようなものです。俺は小僧で、全てのしがらみが嫌だった。しかし、外に出てみて、私がいかに無知であったかわかりました。世間はしがらみでできている。街も、軍も」
「そうね。そうかもしれない」
 ユルディスがこんなに喋るとは思わなかったミザリーは、感慨深く彼の言葉を聞いていた。
「今までどんなことをしてきたの?」
「まず剣の刃を研ぐために鍛冶屋に弟子入り、衣服が古びたので織物職人にも色々教えてもらいました。あとは農家や市場に住み込んで商売や流通を知り、最後に軍隊に入って規律を学びました」
「すごいわ。その間一度も故郷に帰ってない?」
「帰っていません」
「アサクルはどうしたの?」
「最初のアサクルは死んでしまい、今いるのは彼の息子で二代目です。どちらも優れた鷹です」
「まぁ。そんなに大切にしていたのに、あなたはアサクルを置いてきたのね」
「まぁ……そうであるとも、そうでないとも言えます」
 ユルディスは、謎のような言葉をつぶやいた。
「アサクルには翼があるので」
「では、もしかしたら、あなたを見守っているかもしれないのね」
「……かもしれません」
「もしかして、時々見かける鷹はひょっとして……?」
「さぁ……どうでしょうね」
 布の向こうで男が密かに笑う気配がする。
「あなたは今ではエルトレーの屋敷に必要な人となっている。それは子爵様も執事のピエールも認めているわ。何しろ帳簿付け、消耗品の選定、大工仕事までできる万能な人だもの。でも……」
「でも?」
「軍隊に入って、それからエルトレー家に来て……あなたはこの次、どこに行くのかしら?」
「……わかりません。ミザリー様は、俺……私にどうして欲しいですか?」
 ユルディスはいつの間にか、俺に変わっていた一人称を修正した。
「もちろん、これからもお屋敷の運営を手伝って欲しいわ」
「あなたの元で?」
「ええ。でも、あなたの雇い主は私ではないから」
「ミザリー様の指示は的確で無駄がなく、合理的だ。私は、あなたの指示を受けたいです」
「そ、そう? じゃあ、私とずっと一緒に仕事をしてくれる?」
「もう要らないと言われるまで」
「要るとか、要らないとか……あなた……ユールは、道具じゃないわ。大切な仲間よ」
「大切な、仲間……」
 その声は聞き取れないほど低かった。
「そうですか。では私は、持てる知識や技を全部使って手伝います」
「ありがとう……ありがとう、ユール。私嬉しい!」
 ミザリーは思わず寝台から滑り降りた。
「ミザリー様? どうし……」
 薄い布を透かせて、月明かりに照らされた女の影が見えた。ユルディスは驚いて身を起こす。
「私……本当はね、本当は少し自信がなかったの。子爵夫妻があまりに浮世離れしすぎていて……ルナール様とも約束したのに」
「約束? それはどんなものです?」
 男の声が強くなる。
「あの方が戻るまで、お屋敷を守るって約束。今の危機的な状況を、なんとかして、子爵家を建て直すって」
「ルナール様とそんな約束を……」
「ええ、したの」
 ミザリーは寝間着ねまきのまま、ふわりと体を揺らせた。何だか少し気分が高揚している。月明かりのせいか、ユルディスの頼もしい言葉のせいか。
「では、私はましょう」
 ユルディスは布ごしに揺れる、寝巻き姿の若い肢体を見つめて言った。下ろした髪が明るく透けて幻のようにも見える。
「……え?」
 ミザリーの動きがふと止まった。
「誓います。私はずっとあなたのそばにいて、あなたの望みを叶えましょう」
「そんなこと誓っていいの?」
「すみませんが、布の隙間から手を出していただけますか?」
「こう?」
 ミザリーは布の切れ目からすっと腕を差し出した。その手が大きな両手に包み込まれる。それはびっくりするほど熱かった。
「俺はあなたを助けることを鷹に誓う」
 ユルディスは取ったミザリーの手を、自分の額に押し当て、それから手のひらに口づけを落とした。
「これが草原の男の誓いです」
「……ありがとう」
「さぁ、もう寝台にお戻りを。明日も馬車の旅ですから」
 名残惜しいとも言える仕草でユルディスは手を離した。
「空気が冷えています。しっかりとくるまってください」
「そうね。そうする……おやすみなさい。ユール」
「……おやすみなさい」
 横になってすぐにミザリーは寝息をたて始めた。
 寝つきがいいのもグリンフィルドの血筋なのだ。眠りは体力と気力を回復させるためのものである。
 次第に深くなる吐息に聞き耳を立てながら、ユルディスの意識はなかなか途切れない。

 誓いはあなたを助けることだ。
 
 男は寝台を抜け出し、薄い布をめくった。
 そこには思った通り、青い月明かりに照らされた寝顔がある。

 だから、お許しください。
  
 柔らかく冷たい頬にそっと唇を落とし、ユルディスはすぐに離れた。
 自分からミザリーを守るために。
「これからは、長い夜になるな……」
 ユルディスは目を閉じた。 



     *****



宿屋と、月光にすかしたミザリーのイメージがあります。

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