上 下
97 / 106

車椅子の踊り手が、立つ時

しおりを挟む
莉子は、こんなにも、冷静でいられるんだ。僕は、あのニュースが流れた日から、莉子の様子を見ていた。心配だったから。けれども、彼女は、淡々としていた。まるで、人ごとの様に。僕は、思い余って、唇を重ねてしまった。どうしても止められない衝動があったが、莉子は、その後、僕の唇を両手で塞いで
「まだ、何も始まっていないし、終わっていないの。」
「どういう意味?」
「そのまま」
莉子は、車椅子に乗ると、自操して、コーヒーを淹れにいってしまった。
「藤井先生が、戻って来るまで、完成させたい事があるの。そちらが、優先」
「そうだけど・・」
奥は、少し、しょんぼりする。莉子は、ようやく、掴まりながら立てる様になったが、踊り続ける事は、まだまだ、難しい。一歌だけでも、踊れればいいのだが、今すぐには、困難だ。床うちする時に、どうしても、足首が、曲がってしまう。
「まだ、練習するの?」
「もちろん。」
「見てていい?」
「帰っててもいいわよ。終わったら、連絡する」
「いや・・・待つよ。何があるか、わからないから」
僕は、そう言った後、思い切って、聞いてみた。
「架に、合わなくていいの?」
「いいの」
「まだ、夫婦なんだろう?」
「関係なんて、最初から壊れていた。私を妻と思うなら、どうして、外に子供を作ったの?子供ができないかも知れない妻の前で、子供ができた、認知するなんて言える?」
僕は、言葉を失った。あの時の莉子の苦しみを知っているから。堪えきれない感情は、莉子の人格を蝕んだ。
「受け入れるようとしたわ。だけど、本当に、許す事ができなかった。憎しみが募っていったわ」
「君は、どうして、架に合わせようとしたの?」
「分かり合えると思ったから。架のピアノが好きだった。私も、フラメンコが好きだったから、表現者として、分かり合えると思ったの。だけど、架葉、そうじゃなかった」
「莉子は、ピアノを弾ける架が、好きだったの?彼自身を見た事は、なかったの?」
莉子は、ふと、悲しそうな目をした。
「そうなの。私も、架に申し訳なかった。彼は、私の家族に、お金で、買われた形になっていた」
莉子は、両手で、コーヒーの入ったカップをそっと包んだ。
「架は、ピアノを失い、私も、フラメンコを失った。けど、私は、また、やり直す」
口元には、笑みが浮かんでいる。
「新といると、できそうな気がするから」
そう言われて、僕は、身体が熱くなるのを感じた。自分の身体を取り戻す手伝いができた事は、僕ら、リハビリ士にとって、これ以上、嬉しい事はない。
「一歌だけでも、踊ってみせるわ」
莉子の目が輝いていた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ともだちさがして

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:5

声を聞かせて

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:176

私が遊んだファミコンソフト

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:6

プラグマ 〜永続的な愛〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:92pt お気に入り:21

お飾り王妃の死後~王の後悔~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,817pt お気に入り:7,295

処理中です...