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訳あり王子と秘密の恋人 最終章

3.寄せ植えとワルツ

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 リトル・カルバートン宮殿に帰り着くころには、小雨を降らせていた灰色の雲は東の空へ流れ、午後になると日差しが戻ってきた。

「彼女はまさに『ストーム・レディ』だったな」

 スコップを手にカーキ色の地味な長靴をはいたバッシュが、広げたブルーシートの上で土をかき混ぜながらいった。水を含んだ植え付け用の培養土は黒々として、雨上がりの庭と同じ匂いがする。

「嵐を連れてこられるほうは大変そうだけどな」

 答えるエリオットは、素焼きの鉢を四つ並べて軽石で底の穴をふさいでいる。パーカーを肘までまくり上げているが、陽が当たっているのでそんなに寒くはなかった。必要な道具を準備するだけでも、ちょっとした運動になる。

 デニムの裾を突っ込んだ紺色の長靴をがぽがぽ鳴らして、エリオットは裏口前に置いた箱を取りに行った。ルードが鼻先で中身を確認しているのは、けさ届いたばかりの花の苗。

 久しぶりの寄せ植え作りだ。

 イェオリの話しによると、クィンはエリオットに庭造りの心得があると知り、植物園と公園の一部をデザインさせる案を、恐ろしい速さで通してしまったらしい。ただパトロンとして座るだけではなく、実際に王子が作った庭となれば注目度はけた違いだと熱弁をふるったとか。公共事業のいち広報担当かと思いきや、なかなかのやり手ですよ、と彼は苦笑していた。

 その彼女が、「参考になれば」と世界中のガーデンの資料を送ってきたのは先週のことだ。膨大な写真──そのほとんどをエリオットは一度ならず見たことがあったが──をめくっているうちに、理由をつけて我慢していたガーデニング欲を抑えられなくなった。

 それでも、いきなり庭に手を出すのはさすがにためらわれたので、まずは玄関と裏口の左右にふたつずつ、寄せ植えの鉢を置かせてもらうことにしたのだ。

 箱から取り出した苗を、ポットのまま鉢に並べる。大きな鉢を回してバランスを確認し、ふと顔を上げると土をこねていたはずのバッシュがスマートフォンを構えていた。

「……肖像権の利用料払え」
「いままさに体で払ってるな」
「休日のリフレッシュが労働にカウントされてんのが既におかしいだろ」

 鼻で笑ったエリオットに、バッシュは撮った写真を確認しながら「違いない」と、そのいい分を認めた。

「レゴブロックを積み上げてる子どもみたいな顔してたから、ついな」

 なにが「つい」だ。

 それでもエリオットは恋人に対してとても寛大なので、写真を消せとはいわない。

 子どものころ、どうしてみんなが自分を撮りたがるのか分からずに、カメラを向けられるのが怖かったものだ。けれどルードの写真を収集するようになって、どんな瞬間も残しておきたい気持ちはそれなりに理解できるようになった。それに──これは一番大事なことだが──彼は見ず知らずの大衆ではない。気恥ずかしさはあっても、嫌だとは思わなかった。

 土を入れるために、エリオットがいったん苗を箱へ戻していると、バッシュの手の中のスマートフォンがポーンとメッセージの着信を告げた。

「エリオット」
「なにー?」
「レディ・キャロルからメッセージが来た。お前宛てだ」

 エリオットは首をひねりながらバッシュを見上げた。

「なんで俺に送ってこないわけ?」
「お前がスマホを持ち歩かないことを知ってるんじゃないのか」
「あんたがスマホを手放さないこともな」

 内容は? と聞けば、彼はささっと画面に指を滑らせる。

「動画だな」

 バッシュは隣まで来ると、しゃがんでスマートフォンの画面をエリオットに向けた。背景画像が初期設定のままのメッセージアプリに、再生ボタンのマークがついた動画の吹き出しが浮かんでいる。付随するスレッドは、「練習よ」の簡潔な一文だけ。

「練習?」

 動画を送る練習か?

 エリオットは手を伸ばし、途中でガーデングローブをつけたままなのに気付いてそれを外すと、人差し指で再生ボタンをタップした。

 わずかな沈黙の後、小さなスピーカーから明るいメロディーが溢れ出す。

 キャロルが送ってきたのは映像ではなく、録音したピアノの演奏データだった。

 飛び跳ねるような速い八分音符で始まり、三拍子が加わる円舞曲ワルツ

「子犬のワルツだ」
「ショパンだな」
「うん。……あ、あれか」

 耳慣れない音に引き寄せられてきたルードの頭を撫でながら、エリオットは思い出した。

「あれ?」
「キャロルに、レッスンを録音してくれたら聞いてみたいっていったんだよ」

 夏の終わり、美術館に行ったときだ。

 画家のスケッチについて話していて、作品として残る演奏会ではなく、一番キャロル本人に近いレッスンの音が聞きたいといった。

 そのときは不機嫌に流されたから、エリオットのなかでは終わった話だと思っていた。キャロルがいつこれを録音したのかは分からないけれど、旅立ってから送ってきたあたり、聴衆ではなくたったひとり──もしくはふたり──だけのために弾くのは、ちょっと恥ずかしかったのだろうか。

 わざわざ「練習」と念押ししているのを見ても、普段こういうことをしないんだろうな、というのは想像できた。

 しっぽを振ったルードが、子犬とはいえない大きな体で踊るようにわっふわっふと跳ね回る。二分ほどの短い曲は、転がるような軽やかさとロマンチックな穏やかさ、それを生み出す指使いをコントロールする確かな技量がうかがえる。そして茶目っ気を忘れない、キャロルらしいものだった。
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