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第1章 彼女の言葉はわからない
思考の基軸 3
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結局、カサンドラが眠ったのは、深夜になってからだった。
用意された部屋は、宿泊施設内では最も広い部屋だという。
精一杯に飾りつけられ、ベッドにも真新しいシーツや上掛けが揃えられていた。
冬場であるにもかかわらず、花も置かれている。
あのボロ小屋より、ずっといい。
当初、フィッツも、あのボロ小屋を、なんとかしようとした。
が、カサンドラに「必要ない」と言われ、諦めたのだ。
それでも、怪我をする恐れがあったため、床やテーブルは磨きに磨き抜いた。
華やかさは、ひと欠片もなかったけれども。
心地良さげに眠っているカサンドラの傍に、フィッツは控えている。
ベッドの脇に、イスを置いて座っているのだ。
湯につかったり、就寝前の着替えだったりは、アイシャに任せた。
その間、どんな誰も近づけさせてはいない。
ほかの男にカサンドラの裸身を見せてはならないと、いつも以上に厳しい表情で、浴室や部屋の前に立っていた。
ラーザの民に限って、カサンドラに邪な視線を向ける者はいないはずだ。
だとしても、カサンドラ自身が嫌がっている。
とくに、男は。
カサンドラの就寝時刻が遅れたのは、ラーザの民が入れ代わり立ち代わり挨拶に来たからだ。
湯につかっている時も、挨拶のため訪ねて来た者もいる。
もちろん、にべもなく追いはらったが、それはともかく。
「アイシャ、姫様はお疲れだと言ったのではなかったのか?」
「言ったのですが……生きている内に、ヴェスキルの継承者に、お会いできる機会などございませんから、ひと目ご尊顔をと思わずにはいられなかったのでしょう」
ラーザが国として繁栄していた頃から、それは変わらない。
ヴェスキル王族は、人生の大半を、宮殿の中で暮らす。
滅多なことでは、外には出ないのだ。
そのため、ティニカや守護騎士の家門はともかく、それ以外の民は、女王陛下の姿を写真でしか見られない。
ましてや、声をかけてもらえることなど有り得なかった。
生身のヴェスキル王族を知らないまま、人生を終える。
それが、ラーザでは「普通」だったのだ。
「それにしても、我が尊き御方は、なんと慈悲深いことかと、感激いたしました」
カサンドラは、挨拶に来た者たち1人1人に、声をかけていた。
短くはあっても、ちゃんと相手に合わせた言葉を選んでいたように思う。
感涙に、むせび泣く者も大勢いた。
その気持ちは、フィッツにも、わからなくはない。
「姫様は……ヴェスキル王族の中でも特別だ。宮殿の外で暮らさざるを得なかったことで、苦労されている」
「おいたわしいことにございます……誰よりも高貴な御血筋であられるのに……」
アイシャは、イスに座っているフィッツの足元に片膝をつき、跪いている。
視線は、カサンドラだけに向けられていた。
目の縁に、わずかな光が見える。
カサンドラの境遇を思い、涙を滲ませているのだ。
「今後は、姫様の望まれた暮らしができるように尽くすのみ」
「もちろん、我々も……」
「アイシャ」
フィッツは、アイシャに視線は向けず、言葉を遮った。
アイシャの忠誠心は疑っていない。
ラーザの民にしても同じだ。
疑ってはいないが、言っておくべきことがある。
「この坑道の先で、お前とは行動を別とする」
「それは……私が足手まといだから……でしょうか」
「違う」
カサンドラに言われたことを、考えてみた。
アイシャがいれば、フィッツは、カサンドラの傍にいられる。
フィッツのやるべきことを任せられるからだ。
人手があるのは、確かに助かる。
「姫様の身の回りのお世話は、お前がやったほうがいいのだろうしな」
「では、なぜ……」
カサンドラが、どう思うかはわからない。
いずれアイシャとは離れる日が来る、と話したことはあった。
だが、それについての明確な返事は聞けずにいる。
アイシャの同行を、今後もカサンドラが望んでいるのかどうか、判断できているとは言い難い。
「お前には、お前の役割があるからだ」
フィッツは、アイシャのほうへと顔を向ける。
じっと、琥珀色をした瞳を見つめた。
アイシャが同行することで、有利になることはある。
それは、フィッツも認めるところだ。
わかっていても、この決断を覆す気はなかった。
「姫様を、お守りするのが、私の使命だと知っているな? アイシャ・エガルベ」
アイシャの瞳が、ゆらりと揺れる。
しばしの間のあと、なにかを悟ったような表情に変わった。
「ひとつ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」
真剣な眼差しに、小さくうなずいてみせる。
逃亡先がどこかは、アイシャも含め、全員がわかっているはずだ。
いつか「来るべき時」に、彼らは備えてきた。
リュドサイオの者に気づかれないよう、坑道は複雑な造りになっている。
あえて、そのように造られた。
正しく道を選べば、ラーザに抜けられるようにと。
十数年掛かりで、彼らは、それを成し遂げ、管理し続けて来たのだ。
カサンドラが皇太子との婚姻を受け入れていれば、すべてが無意味。
そうでなくとも、ここに来るかどうかは不明。
永遠に使われることはなかったかもしれない。
けれど、それが「ラーザの民」なのだ。
ラーザは領土に非ず、民自身である。
女王の残した言葉通りだった。
ヴェスキル王族のために、なにができるのかを考えることが、日々の生活の軸であり、心の支えとなっている。
領土を離れても、思想は変わらない。
「ラーザに戻られたあとは、どうなさるのでしょうか?」
仮に、カサンドラが「ラーザに戻れ」と呼びかければ、今の生活を捨て、全員がラーザに戻って来る。
それは、一斉蜂起を意味しており、帝国と敵対するということだ。
フィッツは、それでもかまわないと思っている。
とはいえ、カサンドラが望まないことをする気はなかった。
「ティニカの隠れ家に行く。そのあとは……」
カサンドラの望みは、ヴェスキル王族の復権でもラーザの再興でもない。
彼女は、ただ穏やかに過ごしたいだけなのだ。
皇宮での駆け引きや、皇太子との婚姻話がなければ、あのボロ小屋で暮らしてもいいとさえ思っていたかもしれない。
「姫様が快適と思う暮らしができるように、お世話をする」
「かしこまりました」
アイシャは、それ以上、なにも言わなかった。
10日にも満たない短い期間ではあったが、カサンドラと一緒に過ごす中、思うところもあったのだろう。
フィッツも感じている。
恐れてもいることだ。
彼女は、自らの生死に無頓着に過ぎる。
周りの者には「死ぬな」と言うのに、自分自身が死ぬことには無関心なのだ。
どちらでもかまわないと思っている節がある。
(逃亡中の身でありながら姫様は怯えていない。もちろん、それだけの力を持っているからだとも言えるが……)
カサンドラは、力を使おうとはしていなかった。
使う気はないと、はっきり言われてもいる。
なのに、彼女からは恐怖や怯えを感じない。
楽観的というのとは違い、自らの命を突き放しているかのように思える。
それを、アイシャも、なんとなく察しているのではなかろうか。
だから、あえて口を閉ざしたのだ。
カサンドラに穏やかな暮らしを与えたいと考えている。
ラーザの民にしても、ヴェスキルの血の継承にこだわりはあれど、ラーザを、国として再興させるのを悲願とはしていない。
考えていることは、みんな、同じ。
カサンドラが幸せでありさえすればいい。
結果、ヴェスキルの血が絶えるのなら、それに準じるまでだ。
仕える相手のいない世界に存在する意味はない。
消滅するのが自然な流れとなる。
ヴェスキルの継承者は「個」であるのと同時に「総体」でもあった。
カサンドラは、ラーザそのものなのだ。
「フィッツ様、私は私の役目を果たします」
「わかっている。私も私の役目を果たす」
長く、ここに留まるのは危険だとわかっている。
だが、カサンドラにとっては、ここまでの道のりは、強行軍だったに違いない。
1日だけ休息を取り、明後日の朝、出発することにした。
人が動き出す前に坑道に入る予定だ。
管理人から坑道の構造情報は入っている。
休憩を取りながら進んでも、1日もあればラーザに出られるだろう。
管理人が、ほかの者に、その道を教えることはない。
追っ手は坑道で迷うことになる。
(姫様が、ご自身の命を顧みられなくとも、私が、その命をお守りしますよ)
思った時、なぜか胸の奥が、ちくりと痛んだ。
けれど、やはりフィッツには、その理由が思いつけなかった。
用意された部屋は、宿泊施設内では最も広い部屋だという。
精一杯に飾りつけられ、ベッドにも真新しいシーツや上掛けが揃えられていた。
冬場であるにもかかわらず、花も置かれている。
あのボロ小屋より、ずっといい。
当初、フィッツも、あのボロ小屋を、なんとかしようとした。
が、カサンドラに「必要ない」と言われ、諦めたのだ。
それでも、怪我をする恐れがあったため、床やテーブルは磨きに磨き抜いた。
華やかさは、ひと欠片もなかったけれども。
心地良さげに眠っているカサンドラの傍に、フィッツは控えている。
ベッドの脇に、イスを置いて座っているのだ。
湯につかったり、就寝前の着替えだったりは、アイシャに任せた。
その間、どんな誰も近づけさせてはいない。
ほかの男にカサンドラの裸身を見せてはならないと、いつも以上に厳しい表情で、浴室や部屋の前に立っていた。
ラーザの民に限って、カサンドラに邪な視線を向ける者はいないはずだ。
だとしても、カサンドラ自身が嫌がっている。
とくに、男は。
カサンドラの就寝時刻が遅れたのは、ラーザの民が入れ代わり立ち代わり挨拶に来たからだ。
湯につかっている時も、挨拶のため訪ねて来た者もいる。
もちろん、にべもなく追いはらったが、それはともかく。
「アイシャ、姫様はお疲れだと言ったのではなかったのか?」
「言ったのですが……生きている内に、ヴェスキルの継承者に、お会いできる機会などございませんから、ひと目ご尊顔をと思わずにはいられなかったのでしょう」
ラーザが国として繁栄していた頃から、それは変わらない。
ヴェスキル王族は、人生の大半を、宮殿の中で暮らす。
滅多なことでは、外には出ないのだ。
そのため、ティニカや守護騎士の家門はともかく、それ以外の民は、女王陛下の姿を写真でしか見られない。
ましてや、声をかけてもらえることなど有り得なかった。
生身のヴェスキル王族を知らないまま、人生を終える。
それが、ラーザでは「普通」だったのだ。
「それにしても、我が尊き御方は、なんと慈悲深いことかと、感激いたしました」
カサンドラは、挨拶に来た者たち1人1人に、声をかけていた。
短くはあっても、ちゃんと相手に合わせた言葉を選んでいたように思う。
感涙に、むせび泣く者も大勢いた。
その気持ちは、フィッツにも、わからなくはない。
「姫様は……ヴェスキル王族の中でも特別だ。宮殿の外で暮らさざるを得なかったことで、苦労されている」
「おいたわしいことにございます……誰よりも高貴な御血筋であられるのに……」
アイシャは、イスに座っているフィッツの足元に片膝をつき、跪いている。
視線は、カサンドラだけに向けられていた。
目の縁に、わずかな光が見える。
カサンドラの境遇を思い、涙を滲ませているのだ。
「今後は、姫様の望まれた暮らしができるように尽くすのみ」
「もちろん、我々も……」
「アイシャ」
フィッツは、アイシャに視線は向けず、言葉を遮った。
アイシャの忠誠心は疑っていない。
ラーザの民にしても同じだ。
疑ってはいないが、言っておくべきことがある。
「この坑道の先で、お前とは行動を別とする」
「それは……私が足手まといだから……でしょうか」
「違う」
カサンドラに言われたことを、考えてみた。
アイシャがいれば、フィッツは、カサンドラの傍にいられる。
フィッツのやるべきことを任せられるからだ。
人手があるのは、確かに助かる。
「姫様の身の回りのお世話は、お前がやったほうがいいのだろうしな」
「では、なぜ……」
カサンドラが、どう思うかはわからない。
いずれアイシャとは離れる日が来る、と話したことはあった。
だが、それについての明確な返事は聞けずにいる。
アイシャの同行を、今後もカサンドラが望んでいるのかどうか、判断できているとは言い難い。
「お前には、お前の役割があるからだ」
フィッツは、アイシャのほうへと顔を向ける。
じっと、琥珀色をした瞳を見つめた。
アイシャが同行することで、有利になることはある。
それは、フィッツも認めるところだ。
わかっていても、この決断を覆す気はなかった。
「姫様を、お守りするのが、私の使命だと知っているな? アイシャ・エガルベ」
アイシャの瞳が、ゆらりと揺れる。
しばしの間のあと、なにかを悟ったような表情に変わった。
「ひとつ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」
真剣な眼差しに、小さくうなずいてみせる。
逃亡先がどこかは、アイシャも含め、全員がわかっているはずだ。
いつか「来るべき時」に、彼らは備えてきた。
リュドサイオの者に気づかれないよう、坑道は複雑な造りになっている。
あえて、そのように造られた。
正しく道を選べば、ラーザに抜けられるようにと。
十数年掛かりで、彼らは、それを成し遂げ、管理し続けて来たのだ。
カサンドラが皇太子との婚姻を受け入れていれば、すべてが無意味。
そうでなくとも、ここに来るかどうかは不明。
永遠に使われることはなかったかもしれない。
けれど、それが「ラーザの民」なのだ。
ラーザは領土に非ず、民自身である。
女王の残した言葉通りだった。
ヴェスキル王族のために、なにができるのかを考えることが、日々の生活の軸であり、心の支えとなっている。
領土を離れても、思想は変わらない。
「ラーザに戻られたあとは、どうなさるのでしょうか?」
仮に、カサンドラが「ラーザに戻れ」と呼びかければ、今の生活を捨て、全員がラーザに戻って来る。
それは、一斉蜂起を意味しており、帝国と敵対するということだ。
フィッツは、それでもかまわないと思っている。
とはいえ、カサンドラが望まないことをする気はなかった。
「ティニカの隠れ家に行く。そのあとは……」
カサンドラの望みは、ヴェスキル王族の復権でもラーザの再興でもない。
彼女は、ただ穏やかに過ごしたいだけなのだ。
皇宮での駆け引きや、皇太子との婚姻話がなければ、あのボロ小屋で暮らしてもいいとさえ思っていたかもしれない。
「姫様が快適と思う暮らしができるように、お世話をする」
「かしこまりました」
アイシャは、それ以上、なにも言わなかった。
10日にも満たない短い期間ではあったが、カサンドラと一緒に過ごす中、思うところもあったのだろう。
フィッツも感じている。
恐れてもいることだ。
彼女は、自らの生死に無頓着に過ぎる。
周りの者には「死ぬな」と言うのに、自分自身が死ぬことには無関心なのだ。
どちらでもかまわないと思っている節がある。
(逃亡中の身でありながら姫様は怯えていない。もちろん、それだけの力を持っているからだとも言えるが……)
カサンドラは、力を使おうとはしていなかった。
使う気はないと、はっきり言われてもいる。
なのに、彼女からは恐怖や怯えを感じない。
楽観的というのとは違い、自らの命を突き放しているかのように思える。
それを、アイシャも、なんとなく察しているのではなかろうか。
だから、あえて口を閉ざしたのだ。
カサンドラに穏やかな暮らしを与えたいと考えている。
ラーザの民にしても、ヴェスキルの血の継承にこだわりはあれど、ラーザを、国として再興させるのを悲願とはしていない。
考えていることは、みんな、同じ。
カサンドラが幸せでありさえすればいい。
結果、ヴェスキルの血が絶えるのなら、それに準じるまでだ。
仕える相手のいない世界に存在する意味はない。
消滅するのが自然な流れとなる。
ヴェスキルの継承者は「個」であるのと同時に「総体」でもあった。
カサンドラは、ラーザそのものなのだ。
「フィッツ様、私は私の役目を果たします」
「わかっている。私も私の役目を果たす」
長く、ここに留まるのは危険だとわかっている。
だが、カサンドラにとっては、ここまでの道のりは、強行軍だったに違いない。
1日だけ休息を取り、明後日の朝、出発することにした。
人が動き出す前に坑道に入る予定だ。
管理人から坑道の構造情報は入っている。
休憩を取りながら進んでも、1日もあればラーザに出られるだろう。
管理人が、ほかの者に、その道を教えることはない。
追っ手は坑道で迷うことになる。
(姫様が、ご自身の命を顧みられなくとも、私が、その命をお守りしますよ)
思った時、なぜか胸の奥が、ちくりと痛んだ。
けれど、やはりフィッツには、その理由が思いつけなかった。
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