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第一部・第一章 臥龍飛翔
勇往邁進! 上野原の戦い⑤
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◇◇
弘治3年(1557年)6月22日 夕刻ーー
それはまさしく疾風迅雷のごとき進撃であった。
千曲川を西へと渡河した長尾軍第一軍は、市河藤若の守る日向城を急襲した。
「皆の者!! すすめぇぇぇ!! 」
ーーオオオオッ!!
長尾軍のほとんどは、越後国に戻れば田畑を耕す農民ばかり。
元より越後の土壌は柔らかく、沼地のような大地が広がっている。
そんな田畑を耕している人々だから、腕力と足腰は日ノ本一強靭と言っても過言ではない。
超人的な身体能力を有した軍勢を率いているのが、戦の天才、『軍神』長尾景虎なのだ。
強くない訳がないーー
ーーウオオオオオオッ!!
門を木っ端微塵に破壊すると、一気に城内へと雪崩れ込んでいく長尾軍。
城内の各所に設けられた障害など、ないものと等しいと言わんばかりに吹き飛ばしながら、土煙を上げて本丸へと駆け抜けていったのだった。
そんな中にあって、一人もやしのような背格好の辰丸は軍団の最後方で、長尾軍の猛攻を見つめていた。
そこに中年太りの男……宇佐美定勝が口元を緩めながら近づいてきた。
「どうよ? 初めての戦は? 」
辰丸は目を丸くして定勝を見つめる。
彼が驚いている理由を即座に理解した定勝は頭を掻きながら、どこかばつが悪そうに言った。
「俺はどうも血生臭いのが嫌いでね。
まあ、俺の兵たちには悪いが、後方で別の敵が近づいてこないか見張るというのも、立派なお役目さ」
「弥太郎殿は? 」
「ふふっ、あいつは戦の申し子みたいな男よ。
今頃はあそこらにいるんじゃねえか」
定勝が指差した先に目を移すと、煙の上がる本丸が目に入ってきた。
もう間も無く城の陥落が高らかと告げられるはずだ。
辰丸は目を細めた。
そしてとても戦場に立つのが初めてとは思えぬほどに、穏やかな口調で言ったのだった。
「戦はまだ始まったばかりにございます」
あまりの辰丸の落ち着きように、定勝は思わず苦笑いが漏れる。
「城一つ落ちそうっだっていうのに、未だ序の口と気を引き締めるか……
本当に何者なのだ? お主という男は……」
定勝の問いとも言えぬ独り言に対して、微笑みで返す辰丸。
その視線は早くも次の目標へと注がれていたのだった。
………
……
長尾景虎が日向城を攻めている頃ーー
「甲山の猛虎」とうたわれ、「赤備え」と呼ばれる真紅の甲冑の兵たちを率いる猛将ーー
その名も飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)。
かつて長尾景虎率いる軍勢八千に対しわずか八百で切り抜けたこともある、甲州一の強者と言えよう。
その強さは後に弟の山県昌景(やまがたまさかげ)へと受け継がれ、その魂とも言える「赤備え」は、井伊直政そして真田信繁へと繋がっていくのだ。
そして比類なき戦上手の彼は、川中島における武田軍の最前線を一任されていた。
この戦における武田晴信の彼に対する信頼は絶大なもので、「兵部だけは俺の指示なく兵を動かしてよい」というお墨付きさえも得ているのだ。
そんな彼は今、川中島の南部に位置する塩田城の城主の間に静かに腰を下ろしていた。
もちろんその身には彼を象徴する赤い糸が編み込まれた甲冑をまとっており、いつでも戦に出られるだけの準備は整えてある。
そこに一人の男がやってきた。
「源四郎か……」
源四郎と呼ばれた青年は小さく頭を下げた。
彼の名は飯富源四郎。
飯富虎昌の弟であり、後の山県昌景だ。
後に武田軍一の強さを誇る彼の軍。
まだ三十にも満たない彼であったが、勲功は随一であり、武田家の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していた。
この兄弟は実に二十以上も歳が離れており、さながら親子のようであった。
そして源四郎も虎昌のことを師のように仰いでいたのであった。
「兄上。準備が整いました」
「そうか……なら行くか」
長尾景虎が日向城を攻めていることは、既に耳に入っている。
そして彼らは景虎の次の目標が中野城であるとふんでいた。
しかし虎昌は中野城の防衛については諦めていた。
確かに川中島を東から睨みつける絶好の地であり、まさに要衝といえる城だ。
だがいかんせん守りにくい。
無理して守ろうとしても犠牲が増えるだけだ。
ならばあっさりと明け渡して、長尾軍が引いた後に、再び奪取すればよい、そう考えていた。
つまり虎昌は「いかに長尾景虎を撃退するか」、その一点に集中していたのだ。
そこで考えたのは「李代桃僵(りだいとうきょう)」の計。
すなわち長尾軍に、あえて城を明け渡していって川中島の南へと深入りさせる。
そこを背後から回り込んで急襲するという作戦であった。
その為、長尾軍が南下してくると同時に、虎昌は軍を率いて北上し、善光寺を守る栗田永寿と合流する。
その後、上野原を通過して飯山城を攻め落とす。
こうして長尾軍の退路を絶った後に、勢いに乗って南下し続けるであろう長尾軍の背後を衝く。
これが虎昌の立てた作戦だったのである。
静かに立ち上がった虎昌。
源四郎は彼に対してもう一つ報せた。
「義信様も千の軍を率いて、こちらに向かわれているとのことでございます」
『義信』という言葉が発せられると同時に虎昌は嬉しさを表に出して目を細める。
ここで言う『義信』とは、武田晴信の長男、武田義信のこと。
彼のことは虎昌が傅役となって公私にわたって面倒を見ているのだ。
この時義信は十九歳。
そんな若い彼が、晴信の命によって長尾景虎との大一番を任されたことが、まるで自分ごとのように嬉しかったのである。
「この戦……間違いなく大一番となる。
当然、殿もこちらへ向かわれているのだろうな? 」
「はい……信濃には入られると……」
源四郎はそこで言葉を濁した。
虎昌の眉がぴくりと動くと、元より低い声をさらに低くして問いかけた。
「信濃には入るが川中島には来られない……そう申すか? 」
「恐らくは……」
そう源四郎が答えた瞬間だった。
ーードォォォン!!
という床が抜け落ちてしまうのではないかと思われる程の強烈な音が響いた。
それは言わずもがな、虎昌が床をふみ鳴らした音であった。
見れば顔は真っ赤に染まり、目は血走っている。
彼は怒りのあまりに震える声で言った。
「殿は……殿はこの大一番を何だと心得ているのだ!?
若殿を送り込まれ、自分はゆうゆうと高見の見物のおつもりか!!?
それとも勝てぬと諦めておられるのか!? 」
虎昌は誰よりも武田義信のことを大事に思っている。
それはさながら実の親子と同じ情であったと言えよう。
それだけに義信を前線に送っておきながら、自分は安全な後方で待機するつもりの武田晴信のことが許せなかったのだ。
源四郎は激昂する兄をなだめようと、「落ち着いてくだされ」と声をかけると、ようやく虎昌の怒りは少しだけ収まったようだ。
しかし不機嫌なまま、大股で部屋を出ていくと、兵たちに号令もかけずに、数人の側近たちとともに今宵の目標である塩崎城へと向かって行ってしまったのだった。
源四郎はその様子を見て、嫌な予感に胸を痛めていた。
「兄上……怒りは人を狂わせます……」
彼はそう呟いて馬上の人となった。
そして「赤備え」の軍をまとめて、進軍を開始したのだった。
【川中島 概略図 1557年6月22日時点】
弘治3年(1557年)6月22日 夕刻ーー
それはまさしく疾風迅雷のごとき進撃であった。
千曲川を西へと渡河した長尾軍第一軍は、市河藤若の守る日向城を急襲した。
「皆の者!! すすめぇぇぇ!! 」
ーーオオオオッ!!
長尾軍のほとんどは、越後国に戻れば田畑を耕す農民ばかり。
元より越後の土壌は柔らかく、沼地のような大地が広がっている。
そんな田畑を耕している人々だから、腕力と足腰は日ノ本一強靭と言っても過言ではない。
超人的な身体能力を有した軍勢を率いているのが、戦の天才、『軍神』長尾景虎なのだ。
強くない訳がないーー
ーーウオオオオオオッ!!
門を木っ端微塵に破壊すると、一気に城内へと雪崩れ込んでいく長尾軍。
城内の各所に設けられた障害など、ないものと等しいと言わんばかりに吹き飛ばしながら、土煙を上げて本丸へと駆け抜けていったのだった。
そんな中にあって、一人もやしのような背格好の辰丸は軍団の最後方で、長尾軍の猛攻を見つめていた。
そこに中年太りの男……宇佐美定勝が口元を緩めながら近づいてきた。
「どうよ? 初めての戦は? 」
辰丸は目を丸くして定勝を見つめる。
彼が驚いている理由を即座に理解した定勝は頭を掻きながら、どこかばつが悪そうに言った。
「俺はどうも血生臭いのが嫌いでね。
まあ、俺の兵たちには悪いが、後方で別の敵が近づいてこないか見張るというのも、立派なお役目さ」
「弥太郎殿は? 」
「ふふっ、あいつは戦の申し子みたいな男よ。
今頃はあそこらにいるんじゃねえか」
定勝が指差した先に目を移すと、煙の上がる本丸が目に入ってきた。
もう間も無く城の陥落が高らかと告げられるはずだ。
辰丸は目を細めた。
そしてとても戦場に立つのが初めてとは思えぬほどに、穏やかな口調で言ったのだった。
「戦はまだ始まったばかりにございます」
あまりの辰丸の落ち着きように、定勝は思わず苦笑いが漏れる。
「城一つ落ちそうっだっていうのに、未だ序の口と気を引き締めるか……
本当に何者なのだ? お主という男は……」
定勝の問いとも言えぬ独り言に対して、微笑みで返す辰丸。
その視線は早くも次の目標へと注がれていたのだった。
………
……
長尾景虎が日向城を攻めている頃ーー
「甲山の猛虎」とうたわれ、「赤備え」と呼ばれる真紅の甲冑の兵たちを率いる猛将ーー
その名も飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)。
かつて長尾景虎率いる軍勢八千に対しわずか八百で切り抜けたこともある、甲州一の強者と言えよう。
その強さは後に弟の山県昌景(やまがたまさかげ)へと受け継がれ、その魂とも言える「赤備え」は、井伊直政そして真田信繁へと繋がっていくのだ。
そして比類なき戦上手の彼は、川中島における武田軍の最前線を一任されていた。
この戦における武田晴信の彼に対する信頼は絶大なもので、「兵部だけは俺の指示なく兵を動かしてよい」というお墨付きさえも得ているのだ。
そんな彼は今、川中島の南部に位置する塩田城の城主の間に静かに腰を下ろしていた。
もちろんその身には彼を象徴する赤い糸が編み込まれた甲冑をまとっており、いつでも戦に出られるだけの準備は整えてある。
そこに一人の男がやってきた。
「源四郎か……」
源四郎と呼ばれた青年は小さく頭を下げた。
彼の名は飯富源四郎。
飯富虎昌の弟であり、後の山県昌景だ。
後に武田軍一の強さを誇る彼の軍。
まだ三十にも満たない彼であったが、勲功は随一であり、武田家の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していた。
この兄弟は実に二十以上も歳が離れており、さながら親子のようであった。
そして源四郎も虎昌のことを師のように仰いでいたのであった。
「兄上。準備が整いました」
「そうか……なら行くか」
長尾景虎が日向城を攻めていることは、既に耳に入っている。
そして彼らは景虎の次の目標が中野城であるとふんでいた。
しかし虎昌は中野城の防衛については諦めていた。
確かに川中島を東から睨みつける絶好の地であり、まさに要衝といえる城だ。
だがいかんせん守りにくい。
無理して守ろうとしても犠牲が増えるだけだ。
ならばあっさりと明け渡して、長尾軍が引いた後に、再び奪取すればよい、そう考えていた。
つまり虎昌は「いかに長尾景虎を撃退するか」、その一点に集中していたのだ。
そこで考えたのは「李代桃僵(りだいとうきょう)」の計。
すなわち長尾軍に、あえて城を明け渡していって川中島の南へと深入りさせる。
そこを背後から回り込んで急襲するという作戦であった。
その為、長尾軍が南下してくると同時に、虎昌は軍を率いて北上し、善光寺を守る栗田永寿と合流する。
その後、上野原を通過して飯山城を攻め落とす。
こうして長尾軍の退路を絶った後に、勢いに乗って南下し続けるであろう長尾軍の背後を衝く。
これが虎昌の立てた作戦だったのである。
静かに立ち上がった虎昌。
源四郎は彼に対してもう一つ報せた。
「義信様も千の軍を率いて、こちらに向かわれているとのことでございます」
『義信』という言葉が発せられると同時に虎昌は嬉しさを表に出して目を細める。
ここで言う『義信』とは、武田晴信の長男、武田義信のこと。
彼のことは虎昌が傅役となって公私にわたって面倒を見ているのだ。
この時義信は十九歳。
そんな若い彼が、晴信の命によって長尾景虎との大一番を任されたことが、まるで自分ごとのように嬉しかったのである。
「この戦……間違いなく大一番となる。
当然、殿もこちらへ向かわれているのだろうな? 」
「はい……信濃には入られると……」
源四郎はそこで言葉を濁した。
虎昌の眉がぴくりと動くと、元より低い声をさらに低くして問いかけた。
「信濃には入るが川中島には来られない……そう申すか? 」
「恐らくは……」
そう源四郎が答えた瞬間だった。
ーードォォォン!!
という床が抜け落ちてしまうのではないかと思われる程の強烈な音が響いた。
それは言わずもがな、虎昌が床をふみ鳴らした音であった。
見れば顔は真っ赤に染まり、目は血走っている。
彼は怒りのあまりに震える声で言った。
「殿は……殿はこの大一番を何だと心得ているのだ!?
若殿を送り込まれ、自分はゆうゆうと高見の見物のおつもりか!!?
それとも勝てぬと諦めておられるのか!? 」
虎昌は誰よりも武田義信のことを大事に思っている。
それはさながら実の親子と同じ情であったと言えよう。
それだけに義信を前線に送っておきながら、自分は安全な後方で待機するつもりの武田晴信のことが許せなかったのだ。
源四郎は激昂する兄をなだめようと、「落ち着いてくだされ」と声をかけると、ようやく虎昌の怒りは少しだけ収まったようだ。
しかし不機嫌なまま、大股で部屋を出ていくと、兵たちに号令もかけずに、数人の側近たちとともに今宵の目標である塩崎城へと向かって行ってしまったのだった。
源四郎はその様子を見て、嫌な予感に胸を痛めていた。
「兄上……怒りは人を狂わせます……」
彼はそう呟いて馬上の人となった。
そして「赤備え」の軍をまとめて、進軍を開始したのだった。
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