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第一部・第三章 窮途末路

孤城落日……消えゆく威光②

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◇◇
 屋敷に戻った辰丸だったが、ホッと息つく間もなく、登城の準備が彼を待ち受けていた。

 さながら一軍を率いる大将のような勝姫の大号令によって、屋敷の中の下男、下女たちが一斉に動き始めると、まさにそこは戦場と化した。


ーー佐彦! 早く辰丸様のお召し物を持ってきなさい!

ーーああ! ダメダメ! そんな菓子が贈り物では却って無礼よ! ないなら町まで出て買ってきなさい!

ーーちょっと、辰丸様! すぐにどこかへ行こうとしない! 大人しくお座りください!


 まるで強風の中にある風車のように、クルクルと勝姫の舌が回る。

 その様子を、完全に引きながら辰丸は見つめていた。


 こうして瞬く間に辰丸の支度は整え終わった。


「よいですか、辰丸様! まずは、昨日より城にお泊まりになられている長尾政景(ながおまさかげ)様、そしてお屋形様の御姉様にもあたる、政景様の奥様の綾(あや)様。
このお二人には必ずご挨拶を! 」


「長尾政景様ですか……」


 長尾政景の名前が出ると、辰丸の表情が少し曇った。しかしそんな様子の彼を見て、口をキュッと結んだ勝姫は、ポンと両手を彼の肩に乗せて言った。


「何をいきなり弱気なのですか!
大丈夫です! 辰丸様ならきっと! 」


 勝姫は強い瞳で辰丸を見つめると、自分の言葉に納得しているかのように、うんうんと頷いている。

 一方の辰丸は、勝姫の気迫に圧倒されながら、彼女の事を、目を丸くして見ていたのだった。


 ……と、そこに低い声が聞こえてきた。


「おいおい、真昼間から見せつけてくれるじゃねえか。
夫婦(めおと)芝居もいい加減にしないと、熱くて出来立ての屋敷が焼けちまうぜ」


 その言葉に、ビクリと肩を震わせた勝姫は、みるみるうちに顔が沸騰していった。
 そしてすぐに辰丸から離れると、声の持ち主に向けてなじったのだった。


「お父上! 夫婦芝居とは何ですか!?
私は辰丸様がいつにも増して弱気だったから励ましていただけです!! 」


 そう……
 その声の持ち主とは、勝姫の父、宇佐美定勝であった。

 彼は耳の穴をほじりながら、彼女に向けて片手を振った。


「はいはい、そうカッカするでない。若いうちから皺が増えるぞ」

「もう! お父上なんか大嫌い! 」


 腕を組んで、プイッとふくれっ面をした勝姫を横目に、定勝はいつも通りの眠そうな目を辰丸に向けた。


「なんだよ、初めての評定だってのに、随分としけた面してるじゃねえか」


「い、いえ……そんなことはございません」


 すると定勝は、ふぅとため息をついた。


「大方、時宗殿の事があったから、その父である長尾政景殿に顔を合わせ辛いとか、そんな小せえ事で悩んでるんだろ……? 」


 それは辰丸の顔を暗くしている原因を、ズバリと言い当てたものであった。

 辰丸は、一瞬言葉を失って、目を大きく見開いた。

 その表情を「図星」と見た定勝は、少し表情を固くして続けたのだった。


「いいか、所詮この世は食うか、食われるか。
食った相手の事をいつまでも引きずってたら、前に進めねえぞ。
堂々としておればよいのだ。
誰の目も気にすることなんてねえし、万が一嫌味の一つでも言われたとしても、涼しい顔しておけばいいんだよ」


 そう言うと、定勝はじっと辰丸を見つめた。

 辰丸は始めこそ驚いたものを顔に浮かべていたが、定勝の言葉に腹をくくったのか、徐々に研ぎ澄まれた鋭い表情へと変わっていった。

 定勝は辰丸の表情の変化を見て、口元を緩めると、辰丸の肩に片手をかけながら言った。


「ふふ、下っ端の俺が吐く言葉ではないがな。
まあ、楽に行こうぜ。
政景殿は家中では重鎮中の重鎮だ。
実の息子が馬鹿やって、それを露見されたからって、逆恨みをしてくるような小せえ器じゃねえよ。
それよりも変に下手に出て隙を見せちまう方が、後々に響くってもんだ」

「はい、ありがとうございます」

「うむ、ではそろそろ行くか」


 その定勝の言葉に、辰丸と勝姫は目を丸くした。
 すると、定勝は眉をひそめて、言ったのだった。


「なんだよ? 言ってなかったか?
今日は父上の言いつけで、俺が辰丸を城内に連れていくことになってるんだよ」


 と……


………
……
 春日山城――
 
 蜂ヶ峰と呼ばれる山に堀や塀を張り巡らせたその城は、もはや山そのものが城と言っても過言ではない。
 
 重臣たちの多くはこの蜂ヶ峰の中に屋敷を与えられて暮らしている。
 大手道から大手門をくぐるとまず見えてくるのは長尾家の猛将たちの屋敷。
 すなわち、『四天王』の一人柿崎景家と、侍大将へと昇格した小島弥太郎の屋敷だ。
 万が一敵に攻め込まれても、彼らがまさに鬼の形相で迎え討つことになるのだから、たまったものではない。
 
 そして彼らの屋敷から一つ門をくぐると、そこには宇佐美定満や辰丸の住む屋敷が並んでいる。
 
 ここからは急坂でかつ細い道。
 もう一つ門を抜けた先が、上田長尾家当主、長尾政景の屋敷だ。
 
 小高い山の山頂にある政景の屋敷までの構えだけでも、一つの山城といってもよいほどに険しい。
 しかし長尾景虎の御屋敷まではまだまだ道のりが続く。
 
 政景の屋敷を抜けると、今度は急な下り坂となり、その先に門がある。
 その先には再び重臣たちの屋敷が並ぶ。
 特に景虎が側においた甘粕景持、斎藤朝信らの屋敷がそれにあたる。
 
 ここからは一旦下り坂が緩やかになると、いよいよ蜂ヶ峰の中腹に到達。
 そこが城の三の丸にあたる場所だ。
 すなわち城に入ったところで、三の丸に到達するまでに細い道を上がったり下がったりを繰り返さねばならず、この時点でもはや攻め入ることは不可能と言っても過言ではないだろう。
 
 そこからはまた厳しい上り坂が続き、二の丸を抜ければいよいよ山頂、すなわち景虎の暮らす本丸だ。
 しかし天守、すなわち三層以上の建物はなく、景虎の暮らす平屋の御屋敷と、その隣には彼が信奉する毘沙門天を祀った毘沙門堂が続けて建てられているのだった。
 
 ただ……
 
 評定はこの景虎の御屋敷で行われるわけではない。
 
 実は、三の丸から二の丸へと続く道に分かれ道があり、そこから山を下る方へと抜けることが出来るのだ。
 いわゆる中城と呼ばれるその一帯は、重臣たちの屋敷が立ち並び、完全に山を下り、城を出る門をくぐると、春日山神社へと続く。
 
 その先にあるのが「御館(おたて)」と呼ばれる広大な屋敷だ。
 
 ここは関東管領で、上野国平井城を北条氏康に追われた上杉憲政(うえすぎのりまさ)が暮らしている。
 しかし単に彼の住居としてではなく、長尾家の政務全般を行う場所にも利用されているのだ。
 そこに「評定の間」と呼ばれる、重臣たちが集まって評定を行う大広間があるのであった。
 
 
 つまり辰丸と定勝は、城を抜けて御館へと入る道すがら、主だった重臣たちの屋敷へ出向き、挨拶をして回ることにしたのである。
 
 評定は日没前から始まることになっている。
 しかし、もう既に陽は高い。
 二人は足早に、まずは最初の目的地である長尾政景の屋敷へと足を運んだのであった。
 
 
………
……
「では、ここからはお主一人で行ってこい」


 定勝は辰丸に対して、そう告げると、ぽんと彼の背中を叩いた。
 
 そこは長尾政景の屋敷の前。
 辰丸はきゅっと唇を引き締めると、小さく頷いた。
 

「そう、固くなるな。同じ家中のお味方なんだからな。その事を忘れてはならん」

「はい、ありがとうございます」


 定勝の言葉に辰丸はどことなく救われたような気持ちとなって、ゆっくりと歩きだす。
 そして小姓の案内によって屋敷の奥へと姿を消していった。
 
 その背中を見ながら、定勝は先ほどまでの緩やかな表情を、普段の彼からは考えられないほどに険しい物へと一変させると、誰にも聞かれぬ程の小さな声でつぶやいた。
 
 
「辰丸よ……ここからが本番だぜ……
荒波に飲み込まれるか、それとも荒波にも負けずに大海を突き進むか……
あわよくば後者であって欲しいものだが……
それも全てお前さん次第だからな。
頑張れよ」


 熱を帯びた定勝の切なる祈りの言葉は、秋の爽やかな空気に似合わぬ、湿り気のあるものであった……
 
 
 
 
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