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10. 陽、「ヨウ」の正体に気づく
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なんとかひと段落して会社を出たのが夜の九時。
弁当という気分でもなくて、駅前のちいさな居酒屋に入ったのが九時半。
ビールをちびちび傾けながら眺めるスマホの画面には、ヨウの自宅の座標をしめすマップが浮かんでいる。
やっぱここ、行ったことあるな。具体的には二回ほど。うち一回は、半分記憶にないけれど。
たこわさをつまみながら、陽は最近増えた『友だち』のアイコンを見つめる。まっしろでやわらかそうなぬいぐるみ。うん、よく見たらこれも見覚えあるな。見覚えっていうか、にぎり覚えっていうか。
『夢海原、よかった?』
酔いに任せて送ったメッセージは、思いがけずすぐに返信がくる。
『すごくよかった。コンセプトもいい。不眠は若い女性の悩みって思われがちだけど、案外高齢者も悩んでるひと多いから、よろこばれると思います』
ヨウだってことを隠しもしない。文字を打つのが面倒くさくなって、通話に切り替える。
「いつからわかってた?」
『打ち合わせのとき』
いや言えよ。
『見覚えあるなと思って、でも確信したのはこのIDもらってからですね。同じ名前、CCに入ってるなって』
「まさか、カメラオンにしてくれなかったのって」
『いや、それは単純にカメラが壊れてるだけ』
直せよ。
「言ってくれればよかったのに」
『別に、必要性を感じなかったので』
なんともドライなお返事。必要ないか? けどまあ確かに、「あのとき助けた水岡です」って名乗られても、「その節はどうも」と言うほかないし、気まずい。つーか、動揺しすぎてため口になっちゃったよ。
「まあ、そうか」
『はい』
「つーか気まずいんだけど」
『なにが?』
「何もかもが」
自分だけ気づいてなかったこととか、こうして電話しちゃったこととか、うっかり取引先とため口聞いちゃったこととか、元を正せばあの日寝落ちしたこととか。
『いまさらでは?』
ほらこうやって傷をえぐってくる。
『お酒飲んでます?』
「飲んでる」
『やっぱり』
「ヨウさんは飲まなそう」
『そっちの名前で呼ばないでほしい』
「なんでヨウなの?」
『睡眠っていったら羊かなって』
やっぱり、とちょっと愉快な気分になっていると、『似たような名前でびっくりした』とまた爆弾を投げてくる。
「覚えてたんだ」
『この短期間で忘れてたら、記憶力の検査をしたほうがいいと思いますけど』
いや、俺は男の下の名前とか興味ないし。
くだらない話をしているあいだに十時になって、『寝ます』とヨウ――水岡はあっさり通話を切った。しずかになった端末をポケットにねじ込み、会計を頼む。
外に出ると、すずしい風が首元を抜けていった。ライトの落ちたショーウィンドウには秋物が並び、行き交う人々のなかには長袖姿もめずらしくない。
ここで水岡と会ったあの日から、もう半年経つのだと思うと、不思議だった。ポケットに突っ込んだ指先にはまだ、あのぬいぐるみのやわらかさが残っている。
◇
勢いで電話なんかしちゃったけれど、これからもまあほどほどにつき合っていければいい(あわよくば、親しみを覚えてもらって仕事がしやすくなればいい)とは思っていた。
けど、まさかこんな早々に再会するとは。
朝から出社して、午後に自宅の最寄り駅前で打ち合わせをした。終わったのは十七時近く、また帰社するのも面倒で、駅前の適当なカフェで雑務をこなすことにした。
メニューも見ずにブレンドを注文して、開いている席に座って、ひと息ついたとき、ななめ向かいのカウンターに、いた。
あれ、水岡さんじゃん。
こちらに背を向ける形で座る背中は、テーブルが低すぎるのか、ずいぶんと丸まっていた。シャツのうえに薄手のニットを重ねた姿は、足元をのぞき込むシロクマみたいだ。
声をかけるか、正直迷う。
仕事相手なら何がなんでも話に行くけど(気安い関係を作っておくと何かと仕事がスムーズだ)、うっかりプライベートでも知り合ってしまった仕事相手というジャンルが未知すぎて、さすがに二の足を踏む。
態度を決めかねて視線をさまよわせていると、水の入ったピッチャーを持って店員が近づくのが見えた。タブレットをのぞき込んでいた顔が横を向き、顔の半分があらわになる。
長いポニーテールをゆらすかわいらしい店員さんは、大学生くらいだろうか。細い指がグラスをつかみ、お代わりを注いでまた戻す。差し出されたたっぷりの水を、男はわざわざ両手で受け取った。
ありがとう、の形にうごく口元はやわらかくほどけ、いつか「帰ってくれます?」なんて言った顔からは想像もつかない穏やかさがにじんでいる。
ミリ単位で角度を調整したガラスのオブジェみたいな顔が、わずかにほぐれると、それだけでひと目を惹くなあ、と陽は思った。ほら、お姉さんだってうれしそうに話しかけて。
ふーん、と思った。
俺たちの打ち合わせと、なんだかずいぶん態度、違わない?
まあね、仕事とプライベートじゃ違いますよね。
女性には優しい、という評判を思い出す。男としてはたぶん何も間違っていないはずなのに、自分でも不思議なくらいもやもやする。かわいがっていたペットの交尾を見てしまったときみたいな気まずさというか、いたたまれなさというか。
パソコンを立ち上げ、仕事をするフリをしながら様子をうかがう。二言三言、話しかけて離れていったお姉さんを追いかけるように、水岡はいそいそとタブレットをしまうとトレイを持って出て行ってしまう。
見すぎかな、とちょっと焦ったけれど、水岡は一切、陽に気づく素振りを見せなかった。
不思議だ。女性にでれでれするおっさんなんて、それこそ見飽きているというのに、いまさらどうして、こんなにもやもやするんだろう。
安いコーヒーは苦みばかりが強くて、クッキーくらい買うんだったと陽は若干後悔した。
弁当という気分でもなくて、駅前のちいさな居酒屋に入ったのが九時半。
ビールをちびちび傾けながら眺めるスマホの画面には、ヨウの自宅の座標をしめすマップが浮かんでいる。
やっぱここ、行ったことあるな。具体的には二回ほど。うち一回は、半分記憶にないけれど。
たこわさをつまみながら、陽は最近増えた『友だち』のアイコンを見つめる。まっしろでやわらかそうなぬいぐるみ。うん、よく見たらこれも見覚えあるな。見覚えっていうか、にぎり覚えっていうか。
『夢海原、よかった?』
酔いに任せて送ったメッセージは、思いがけずすぐに返信がくる。
『すごくよかった。コンセプトもいい。不眠は若い女性の悩みって思われがちだけど、案外高齢者も悩んでるひと多いから、よろこばれると思います』
ヨウだってことを隠しもしない。文字を打つのが面倒くさくなって、通話に切り替える。
「いつからわかってた?」
『打ち合わせのとき』
いや言えよ。
『見覚えあるなと思って、でも確信したのはこのIDもらってからですね。同じ名前、CCに入ってるなって』
「まさか、カメラオンにしてくれなかったのって」
『いや、それは単純にカメラが壊れてるだけ』
直せよ。
「言ってくれればよかったのに」
『別に、必要性を感じなかったので』
なんともドライなお返事。必要ないか? けどまあ確かに、「あのとき助けた水岡です」って名乗られても、「その節はどうも」と言うほかないし、気まずい。つーか、動揺しすぎてため口になっちゃったよ。
「まあ、そうか」
『はい』
「つーか気まずいんだけど」
『なにが?』
「何もかもが」
自分だけ気づいてなかったこととか、こうして電話しちゃったこととか、うっかり取引先とため口聞いちゃったこととか、元を正せばあの日寝落ちしたこととか。
『いまさらでは?』
ほらこうやって傷をえぐってくる。
『お酒飲んでます?』
「飲んでる」
『やっぱり』
「ヨウさんは飲まなそう」
『そっちの名前で呼ばないでほしい』
「なんでヨウなの?」
『睡眠っていったら羊かなって』
やっぱり、とちょっと愉快な気分になっていると、『似たような名前でびっくりした』とまた爆弾を投げてくる。
「覚えてたんだ」
『この短期間で忘れてたら、記憶力の検査をしたほうがいいと思いますけど』
いや、俺は男の下の名前とか興味ないし。
くだらない話をしているあいだに十時になって、『寝ます』とヨウ――水岡はあっさり通話を切った。しずかになった端末をポケットにねじ込み、会計を頼む。
外に出ると、すずしい風が首元を抜けていった。ライトの落ちたショーウィンドウには秋物が並び、行き交う人々のなかには長袖姿もめずらしくない。
ここで水岡と会ったあの日から、もう半年経つのだと思うと、不思議だった。ポケットに突っ込んだ指先にはまだ、あのぬいぐるみのやわらかさが残っている。
◇
勢いで電話なんかしちゃったけれど、これからもまあほどほどにつき合っていければいい(あわよくば、親しみを覚えてもらって仕事がしやすくなればいい)とは思っていた。
けど、まさかこんな早々に再会するとは。
朝から出社して、午後に自宅の最寄り駅前で打ち合わせをした。終わったのは十七時近く、また帰社するのも面倒で、駅前の適当なカフェで雑務をこなすことにした。
メニューも見ずにブレンドを注文して、開いている席に座って、ひと息ついたとき、ななめ向かいのカウンターに、いた。
あれ、水岡さんじゃん。
こちらに背を向ける形で座る背中は、テーブルが低すぎるのか、ずいぶんと丸まっていた。シャツのうえに薄手のニットを重ねた姿は、足元をのぞき込むシロクマみたいだ。
声をかけるか、正直迷う。
仕事相手なら何がなんでも話に行くけど(気安い関係を作っておくと何かと仕事がスムーズだ)、うっかりプライベートでも知り合ってしまった仕事相手というジャンルが未知すぎて、さすがに二の足を踏む。
態度を決めかねて視線をさまよわせていると、水の入ったピッチャーを持って店員が近づくのが見えた。タブレットをのぞき込んでいた顔が横を向き、顔の半分があらわになる。
長いポニーテールをゆらすかわいらしい店員さんは、大学生くらいだろうか。細い指がグラスをつかみ、お代わりを注いでまた戻す。差し出されたたっぷりの水を、男はわざわざ両手で受け取った。
ありがとう、の形にうごく口元はやわらかくほどけ、いつか「帰ってくれます?」なんて言った顔からは想像もつかない穏やかさがにじんでいる。
ミリ単位で角度を調整したガラスのオブジェみたいな顔が、わずかにほぐれると、それだけでひと目を惹くなあ、と陽は思った。ほら、お姉さんだってうれしそうに話しかけて。
ふーん、と思った。
俺たちの打ち合わせと、なんだかずいぶん態度、違わない?
まあね、仕事とプライベートじゃ違いますよね。
女性には優しい、という評判を思い出す。男としてはたぶん何も間違っていないはずなのに、自分でも不思議なくらいもやもやする。かわいがっていたペットの交尾を見てしまったときみたいな気まずさというか、いたたまれなさというか。
パソコンを立ち上げ、仕事をするフリをしながら様子をうかがう。二言三言、話しかけて離れていったお姉さんを追いかけるように、水岡はいそいそとタブレットをしまうとトレイを持って出て行ってしまう。
見すぎかな、とちょっと焦ったけれど、水岡は一切、陽に気づく素振りを見せなかった。
不思議だ。女性にでれでれするおっさんなんて、それこそ見飽きているというのに、いまさらどうして、こんなにもやもやするんだろう。
安いコーヒーは苦みばかりが強くて、クッキーくらい買うんだったと陽は若干後悔した。
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