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予感
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マンションに到着して怜の肩に捕まりながらなんとか歩いていた美羽の足取りは、インターホンに辿り着く数歩一歩手前で完全に停止してしまっていた。美羽の額から大粒の汗が拭き出し始めている。
「部屋番号は?家に誰かいる?」
天井が高いせいかやけに声が響いていた。
「六二一。……母がいる」
それだけ言うと、力尽きたように足から力が抜けて完全に怜に身体を委ねていた。右側にあるのは管理人室のようだが時間外なのか無人だった。左側にベンチが設置されているのを見つけて、そこに美羽を座らせるといわれた番号を入力し、呼び出しボタンを押す。
夕飯時のせいか、エントランスに人の行き来はなかった。静かな空間にピンポンと場違いなほど弾んだ音が響いた。
『はい』
美羽の母親らしき女性の声がすぐに応答した。
「伊藤さんと同じ大学に通っている大隈と申します。途中で伊藤さんの具合が悪くなってしまい送らせていただきました」
インターホン越しでもわかるほどの息をのむ音がして、すぐに「そちらに行きます」と焦りのような声が飛んできた。
怜がすぐに「僕が玄関までお連れしますが」と申し出ると、「そうしていただけると、助かります。すみません、よろしくお願いします」との返答がきて、ピピっと電子音が響くとエントランスのドアが自動で開いた。
肩を貸すくらいじゃ動けないと判断した怜は座っている美羽の前にしゃがみ両手を引き両肩に乗せ、美羽の体を背中に乗せて背負い、急いで閉まりかけた自動ドアに身を滑り込ませた。突き当たりにエレベーターのボタンを押すとすぐに、磨かれた銀色の扉が開き六のボタンを押すとすぐに閉まる。
静かなモーター音と肩越しから聞こえる美羽の浅い息遣いが響く。自然と美羽を支える腕に力がこもっていた。一度も止まることなく六階まで上昇し、到着を告げるアナウンスが響くと扉が開いた。
右は行き止まりで迷う道はなかった。左に直進しながら玄関ドア横の表札と一緒に掲げられているの番号を順に確認しながら進んでゆく。二つ目に伊藤という表札と番号を見つけると、ちょうど美羽の母親らしき中年のショートヘアの女性が出てきた。丸い小顔に大きめの瞳はまだ少女の面影を残しているようだったが、その顔には小さな小皺がいくつも刻まれていた。
怜の姿と背負われている美羽を見つけると、元々の刻まれていた小皺に深い影が刻まれ元々若そうに見えた顔立ちが年相応に見えた。
慌てて駆け寄ってきて、怜に頭を下げた。
「すみません。ご迷惑おかけしてしまって」
美羽の母は顔を上げると、すぐに美羽の方に視線がいく。心配でたまらないと顔にかいてあった。怜の肩に置かれた美羽の頭に母が大丈夫なの? と声をかけると、小さく頷いたのか振動だけ右肩から伝わってきたが、どうみても大丈夫そうじゃなかった。母もぐっとまた眉間に深く濃い皺が新しく浮かんだ。
「よかったら、中まで運びますが」という怜の申し出に二つ返事で「お願いします」と言いながら、母親が玄関のドアを開き潜る。靴棚の上に生けられたバラ花瓶があった。華やかな香がふわりと漂う。怜の背中にいる美羽の靴を手早く脱がせた母は廊下の右側の一番手前部屋のドアを開けて電気を付けた。
右奥にきれいに整頓された勉強机。その左側にベッドにサイドテーブルが置かれていた。
「ここにお願いします」と言って布団を取りに行ったのか母がパタパタと忙しくなく部屋を出て行った。いわれた通り、背中の美羽をベッドにゆっくり下ろす。怜の肩から手が離れて振り返ると、美羽は力なく横に倒れ、うっすらと開いた瞳が怜を映していた。
「……ごめんなさい。こんなことになって……」
血の気を失った白い唇が震えるように開いた。怜が汗で張り付いた美羽の前髪を払う。
「気にするな。ゆっくり休めよ」と怜が口角を上げたところで、分厚い布団を持ってきた母親が戻ってきた。体にばさりとかけると、美羽はその中に蹲るように身を縮めた。
母が美羽に「病院行く?」という質問には首を振り「そこまでじゃない。大丈夫」と告げる。「薬は飲んだ?」という質問にも首を振る。
「後で、持ってくるわね」という母。
怜はそんなやり取りを耳の端に聞きながら、部屋を出ようと立ち上がった。その背中を「……ありがとう」と美羽の小さな声が追いかけて来るのを振り切るように怜は頷いて玄関に向かう。パタパタと音を鳴らしながらスリッパが怜を追ってきた。
「あ、ちょっと待って! 大隈……怜さんよね?
娘から話をよく聞いています。いつもお世話になっているようで」
美羽が母親にどんな風に自分のことを話しているのかわからず、怜は曖昧に頷く。
「いえ、こちらこそお世話になってます」
当たり障りのない言葉で返し「お邪魔しました」とそのまま帰ろうとする怜をまた母は引き留めた。
「ねぇ、よかったらご飯食べていかない?」
いたずらっぽい目をしてそういう美羽の母に少し目を大きくする怜。突然、そんなことを言い出すところは、どことなく美羽に似ていてやっぱり親子だなと思いながら見返す。
「美羽は、今日食べられないと思うの。食べられても、お粥くらい。せっかく作った夕飯だめになっちゃうし、ボランティアだと思って」
ね?といたずらっぽい顔をしてお願いと笑いながら懇願するように手を合わせてそういう母親の目は美羽を彷彿とさせた。
そのせいか、怜のいつも警戒心でがんじがらめの硬い心が解れていく。不思議な感覚に戸惑いながら、怜は苦笑しながら頷いていた。
「よかった! さ、上がって上がって!」
スリッパを下駄箱横からさっと取り出して怜に出すと、どうぞと廊下の突き当りにあるリビングへと小柄な背中が廊下を跳ねていた。
美羽の部屋のドアを横目で通り過ぎ、二つほどドアを通り過ぎた先にリビングがあった。左にキッチン。その奥のダイビングテーブル。その上に、二人分ラップがかけられた夕食が並べられていた。奥の方の椅子にどうぞと言われるがまま、怜は座る。サラダ、肉じゃが、ほうれん草のバター焼き、イチゴがのっていた。
「美羽から聞いたわ。変なことに巻き込んでごめんなさいね」
母親はキッチンでコップや白米を用意し始めているようだった。白米の匂いが鼻腔をくすぐる。
両親ともに仕事人間の家にはなかった家庭的な匂いにくすぐったさを感じながら、食器がぶつかる音が鳴っていた。
「……約束のことですか?」
「そう、それ! 当時は美羽のこと大隈さんのこと全く知らなかったくせに疑似恋人になれって持ちかけたんでしょ?」
本当にごめんなさいね。そういいながら、お盆に茶碗と黒塗りのお椀を載せて怜の前へ。
茶碗に入った白米とみそ汁の香りで、お腹がぐうっと鳴った。考えてみたら、昼も大したものを口にしていなかったことを思い出すと余計に空腹を感じた。美羽の母親は皿のラップをとって「遠慮なく食べて」といわれるがままに怜は「いただきます」と軽く頭を下げて箸を手に取り、肉じゃがに口を付けた。甘くてほっこりする味がした。母も正面の席に座り一口味噌汁を飲む。
「あの子いつも突拍子のないことを言い出すものだから、ずっとヒヤヒヤさせられているの。幼稚園の時にね、泳げないくせに、プールで二メートル近くある飛び込み台から飛び込んでみるって急に言い出したり。小学生の時は、その日仲良くなったっていう友達を急に連れてきてね。小学校も学年も違う女の子。突然家に連れてきて大騒ぎになったのよ。危うく誘拐犯にさせられるところだったこともあったのよ」
美羽ならやりかねないなと思い、怜は苦笑を漏らす。
「あ。でも、悪い子じゃないのよ!」
慌ててフォローし始める美羽の母親にやっぱり似ているなと思う。味噌汁を飲むと温かさが染み渡った。
「わかります」
「わかってくれる? あーよかった! 理解者がいてくれて」
目じりを下げてフフっと笑う母親が一口ほうれん草を頬張ると、ふっと影が忍び寄り顔が曇った。
「ずーっとそのままいくと思ってたんだけどね……」
思わず漏れた本音に、母親はしまったという顔をして瞳を揺らしていた。きっといつもの怜なら敢えて見逃すところだ。だが、今はそうしたくはなかった。
きっと美羽に直接聞いたところで口を割ることはないのだろう。そのためのお互い詮索はしないという最初に交わした約束だったはずだ。聞き出すのなら今しかない。怜は箸を置いてじっと美羽の母をみた。
「美羽さんは、何の病気なんですか?」
怜の突然の問いに美羽の母の目は血走るほどに大きく見開いていた。
罪悪感はあった。だが、聞かないという選択肢は怜にはもうなかった。
――――
その日の夜中。美羽はひどい寝汗に目を覚ました。
ぼんやりとした美羽の視界に映ったのは、サイドテーブルに置かれた水と薬を飲んだ形成の跡。昨日の記憶は横浜の海までで、その後はぼんやり霧がかかっていた。怜に散々彼に苦労を掛けたことはだけは覚えている。未だに、頭がクラクラする。暗い部屋に怜が貸してくれたジャケットがハンガーがぼんやりと揺れていた。きっと母が掛けてくれたんだろう。
何時だろう。
美羽の頭のベッド床に昨日持っていた白いバッグが転がっていた。
手を伸ばし中を漁ると固い感触。手に取りディスプレイを光を灯すと、午前三時と浮かび上がる。その下に怜からのメッセージがあることを告げる文面があった。
『よくなったら、連絡が欲しい』
怜らしいシンプルな文面から溢れる優しさが美羽の目を滲ませた。
スマホを床にポトリと落とし、布団を被る。
悔やんでも悔やみきれない。
あんな約束を持ち掛けた自分自身に一番腹が立った。
どうして、あんなふうに近付こうとしたのか。あの時は、あの状況から抜け出したいという純粋な一心だったと思う。
本当にそれだけだったはずなのに。
怜の表の顔だけ見ていればよかった。
そうすれば、多くの人が冷たく無表情、不愛想という鉄壁の怜のままずっといられたはずだ。
手のあたたかさなんて、感じなければ、透き通った瞳なんて気づかなければ。
布団の中に籠った空気は、熱くて息苦しい。涙が布団にしみこんで、不快で仕方がない。なのに、目から涙が次々と溢れて止まらない。
私はどうしてこうなってしまったんだろう。体がゆっくり壊れていくのならば、心も一緒に壊れてしまえばいいのに。
何も感じなければこんな風に涙をすることも、こんな体になって悲しいと思うことも、遠からず訪れる闇の世界への恐怖も、誰かを好きになることも、なかった。
誰を恨むこともできないこのやり場のない憤りをどこに向けることもできない。涙を流すことでしかこの感情を鎮める術がない自分自身が情けなかった。
ベッドの上で丸まった美羽の布団はうっすらと空が明るくなるまで、震えていた。
「部屋番号は?家に誰かいる?」
天井が高いせいかやけに声が響いていた。
「六二一。……母がいる」
それだけ言うと、力尽きたように足から力が抜けて完全に怜に身体を委ねていた。右側にあるのは管理人室のようだが時間外なのか無人だった。左側にベンチが設置されているのを見つけて、そこに美羽を座らせるといわれた番号を入力し、呼び出しボタンを押す。
夕飯時のせいか、エントランスに人の行き来はなかった。静かな空間にピンポンと場違いなほど弾んだ音が響いた。
『はい』
美羽の母親らしき女性の声がすぐに応答した。
「伊藤さんと同じ大学に通っている大隈と申します。途中で伊藤さんの具合が悪くなってしまい送らせていただきました」
インターホン越しでもわかるほどの息をのむ音がして、すぐに「そちらに行きます」と焦りのような声が飛んできた。
怜がすぐに「僕が玄関までお連れしますが」と申し出ると、「そうしていただけると、助かります。すみません、よろしくお願いします」との返答がきて、ピピっと電子音が響くとエントランスのドアが自動で開いた。
肩を貸すくらいじゃ動けないと判断した怜は座っている美羽の前にしゃがみ両手を引き両肩に乗せ、美羽の体を背中に乗せて背負い、急いで閉まりかけた自動ドアに身を滑り込ませた。突き当たりにエレベーターのボタンを押すとすぐに、磨かれた銀色の扉が開き六のボタンを押すとすぐに閉まる。
静かなモーター音と肩越しから聞こえる美羽の浅い息遣いが響く。自然と美羽を支える腕に力がこもっていた。一度も止まることなく六階まで上昇し、到着を告げるアナウンスが響くと扉が開いた。
右は行き止まりで迷う道はなかった。左に直進しながら玄関ドア横の表札と一緒に掲げられているの番号を順に確認しながら進んでゆく。二つ目に伊藤という表札と番号を見つけると、ちょうど美羽の母親らしき中年のショートヘアの女性が出てきた。丸い小顔に大きめの瞳はまだ少女の面影を残しているようだったが、その顔には小さな小皺がいくつも刻まれていた。
怜の姿と背負われている美羽を見つけると、元々の刻まれていた小皺に深い影が刻まれ元々若そうに見えた顔立ちが年相応に見えた。
慌てて駆け寄ってきて、怜に頭を下げた。
「すみません。ご迷惑おかけしてしまって」
美羽の母は顔を上げると、すぐに美羽の方に視線がいく。心配でたまらないと顔にかいてあった。怜の肩に置かれた美羽の頭に母が大丈夫なの? と声をかけると、小さく頷いたのか振動だけ右肩から伝わってきたが、どうみても大丈夫そうじゃなかった。母もぐっとまた眉間に深く濃い皺が新しく浮かんだ。
「よかったら、中まで運びますが」という怜の申し出に二つ返事で「お願いします」と言いながら、母親が玄関のドアを開き潜る。靴棚の上に生けられたバラ花瓶があった。華やかな香がふわりと漂う。怜の背中にいる美羽の靴を手早く脱がせた母は廊下の右側の一番手前部屋のドアを開けて電気を付けた。
右奥にきれいに整頓された勉強机。その左側にベッドにサイドテーブルが置かれていた。
「ここにお願いします」と言って布団を取りに行ったのか母がパタパタと忙しくなく部屋を出て行った。いわれた通り、背中の美羽をベッドにゆっくり下ろす。怜の肩から手が離れて振り返ると、美羽は力なく横に倒れ、うっすらと開いた瞳が怜を映していた。
「……ごめんなさい。こんなことになって……」
血の気を失った白い唇が震えるように開いた。怜が汗で張り付いた美羽の前髪を払う。
「気にするな。ゆっくり休めよ」と怜が口角を上げたところで、分厚い布団を持ってきた母親が戻ってきた。体にばさりとかけると、美羽はその中に蹲るように身を縮めた。
母が美羽に「病院行く?」という質問には首を振り「そこまでじゃない。大丈夫」と告げる。「薬は飲んだ?」という質問にも首を振る。
「後で、持ってくるわね」という母。
怜はそんなやり取りを耳の端に聞きながら、部屋を出ようと立ち上がった。その背中を「……ありがとう」と美羽の小さな声が追いかけて来るのを振り切るように怜は頷いて玄関に向かう。パタパタと音を鳴らしながらスリッパが怜を追ってきた。
「あ、ちょっと待って! 大隈……怜さんよね?
娘から話をよく聞いています。いつもお世話になっているようで」
美羽が母親にどんな風に自分のことを話しているのかわからず、怜は曖昧に頷く。
「いえ、こちらこそお世話になってます」
当たり障りのない言葉で返し「お邪魔しました」とそのまま帰ろうとする怜をまた母は引き留めた。
「ねぇ、よかったらご飯食べていかない?」
いたずらっぽい目をしてそういう美羽の母に少し目を大きくする怜。突然、そんなことを言い出すところは、どことなく美羽に似ていてやっぱり親子だなと思いながら見返す。
「美羽は、今日食べられないと思うの。食べられても、お粥くらい。せっかく作った夕飯だめになっちゃうし、ボランティアだと思って」
ね?といたずらっぽい顔をしてお願いと笑いながら懇願するように手を合わせてそういう母親の目は美羽を彷彿とさせた。
そのせいか、怜のいつも警戒心でがんじがらめの硬い心が解れていく。不思議な感覚に戸惑いながら、怜は苦笑しながら頷いていた。
「よかった! さ、上がって上がって!」
スリッパを下駄箱横からさっと取り出して怜に出すと、どうぞと廊下の突き当りにあるリビングへと小柄な背中が廊下を跳ねていた。
美羽の部屋のドアを横目で通り過ぎ、二つほどドアを通り過ぎた先にリビングがあった。左にキッチン。その奥のダイビングテーブル。その上に、二人分ラップがかけられた夕食が並べられていた。奥の方の椅子にどうぞと言われるがまま、怜は座る。サラダ、肉じゃが、ほうれん草のバター焼き、イチゴがのっていた。
「美羽から聞いたわ。変なことに巻き込んでごめんなさいね」
母親はキッチンでコップや白米を用意し始めているようだった。白米の匂いが鼻腔をくすぐる。
両親ともに仕事人間の家にはなかった家庭的な匂いにくすぐったさを感じながら、食器がぶつかる音が鳴っていた。
「……約束のことですか?」
「そう、それ! 当時は美羽のこと大隈さんのこと全く知らなかったくせに疑似恋人になれって持ちかけたんでしょ?」
本当にごめんなさいね。そういいながら、お盆に茶碗と黒塗りのお椀を載せて怜の前へ。
茶碗に入った白米とみそ汁の香りで、お腹がぐうっと鳴った。考えてみたら、昼も大したものを口にしていなかったことを思い出すと余計に空腹を感じた。美羽の母親は皿のラップをとって「遠慮なく食べて」といわれるがままに怜は「いただきます」と軽く頭を下げて箸を手に取り、肉じゃがに口を付けた。甘くてほっこりする味がした。母も正面の席に座り一口味噌汁を飲む。
「あの子いつも突拍子のないことを言い出すものだから、ずっとヒヤヒヤさせられているの。幼稚園の時にね、泳げないくせに、プールで二メートル近くある飛び込み台から飛び込んでみるって急に言い出したり。小学生の時は、その日仲良くなったっていう友達を急に連れてきてね。小学校も学年も違う女の子。突然家に連れてきて大騒ぎになったのよ。危うく誘拐犯にさせられるところだったこともあったのよ」
美羽ならやりかねないなと思い、怜は苦笑を漏らす。
「あ。でも、悪い子じゃないのよ!」
慌ててフォローし始める美羽の母親にやっぱり似ているなと思う。味噌汁を飲むと温かさが染み渡った。
「わかります」
「わかってくれる? あーよかった! 理解者がいてくれて」
目じりを下げてフフっと笑う母親が一口ほうれん草を頬張ると、ふっと影が忍び寄り顔が曇った。
「ずーっとそのままいくと思ってたんだけどね……」
思わず漏れた本音に、母親はしまったという顔をして瞳を揺らしていた。きっといつもの怜なら敢えて見逃すところだ。だが、今はそうしたくはなかった。
きっと美羽に直接聞いたところで口を割ることはないのだろう。そのためのお互い詮索はしないという最初に交わした約束だったはずだ。聞き出すのなら今しかない。怜は箸を置いてじっと美羽の母をみた。
「美羽さんは、何の病気なんですか?」
怜の突然の問いに美羽の母の目は血走るほどに大きく見開いていた。
罪悪感はあった。だが、聞かないという選択肢は怜にはもうなかった。
――――
その日の夜中。美羽はひどい寝汗に目を覚ました。
ぼんやりとした美羽の視界に映ったのは、サイドテーブルに置かれた水と薬を飲んだ形成の跡。昨日の記憶は横浜の海までで、その後はぼんやり霧がかかっていた。怜に散々彼に苦労を掛けたことはだけは覚えている。未だに、頭がクラクラする。暗い部屋に怜が貸してくれたジャケットがハンガーがぼんやりと揺れていた。きっと母が掛けてくれたんだろう。
何時だろう。
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手を伸ばし中を漁ると固い感触。手に取りディスプレイを光を灯すと、午前三時と浮かび上がる。その下に怜からのメッセージがあることを告げる文面があった。
『よくなったら、連絡が欲しい』
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スマホを床にポトリと落とし、布団を被る。
悔やんでも悔やみきれない。
あんな約束を持ち掛けた自分自身に一番腹が立った。
どうして、あんなふうに近付こうとしたのか。あの時は、あの状況から抜け出したいという純粋な一心だったと思う。
本当にそれだけだったはずなのに。
怜の表の顔だけ見ていればよかった。
そうすれば、多くの人が冷たく無表情、不愛想という鉄壁の怜のままずっといられたはずだ。
手のあたたかさなんて、感じなければ、透き通った瞳なんて気づかなければ。
布団の中に籠った空気は、熱くて息苦しい。涙が布団にしみこんで、不快で仕方がない。なのに、目から涙が次々と溢れて止まらない。
私はどうしてこうなってしまったんだろう。体がゆっくり壊れていくのならば、心も一緒に壊れてしまえばいいのに。
何も感じなければこんな風に涙をすることも、こんな体になって悲しいと思うことも、遠からず訪れる闇の世界への恐怖も、誰かを好きになることも、なかった。
誰を恨むこともできないこのやり場のない憤りをどこに向けることもできない。涙を流すことでしかこの感情を鎮める術がない自分自身が情けなかった。
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