残りの時間は花火のように美しく

雨宮 瑞樹

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確かな思い

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 あれから一週間。美羽は大学を休み続けていた。
 美羽がいない間、怜の脳裏に時折青白い顔が閃光のように蘇ることがある。いつもそれは突然だ。校舎を歩いている時。アパートに帰った時。講義の合間のふとした瞬間。その度に、美羽の母親から聞いた真実が呪いのように木霊して足元に絡み付いていた。

そんな中、文乃が「美羽は大丈夫なんですか?」と聞きに来たが「大丈夫だろ」というだけで精一杯だった。うまく取り繕える言葉なんて、何一つ思い浮かばなかった。
 美羽がいなくてもいつも通り、講義はあり、ゼミもある。学生たちの笑い声は常に響き、いつも通りの日常は淡々と進んでいく。
 なのに、自分だけどこかの真っ暗な穴に落ちたような感覚に陥っていたが、無理に這い上がる気にもならなかった。今はそれでいいと思った。静かな場所で、周りに惑わされることもなく、自分自身と向き合うべき場所のような気がした。すべての答えを導き出すまでは。美羽とまた顔を合わせる時までは。

 そう思っていたが、甲高い声が否応なしにその場所から無理やり引きずり出そうとしていた。
 通常のゼミの授業が終わりを告げて、四年生だけが集まっていた研究室の怜の目の前に一段と濃い香水が漂った。
「やっぱりそういうことだったのね」
 血管が浮き出た手の下に拘束されて、逃げ道を失った一枚の紙の端がふわり浮いた。だが、やがて机に平伏すように力を失っていた。
「急に怜の態度がおかしくなったのは、これが原因だったのね。怜も怜よ。こんなくだらないお遊びに付き合うなんて、お人よしがすぎるわ」
 ここ最近荒れ狂っていた綾とは思えぬほどに落ち着き払い、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべていた。赤い唇がきれいな右上がりの曲線を描く。
「その紙を見る限り、どうせ自分の恋人を演じろとでも言われたんでしょう? 私に相談してくれれば、あんな女蹴散らしてあげたのに」
 怜は無表情のまま目の前に置かれた紙を一瞥する。
 それが何なのかすぐに分かった。先日美羽から渡された『作戦を成功させるための辻褄合わせの問答集』と書かれた紙。ゼミの自分の机の引き出しにあったはずのそれが、綾の手の中にあった。まさか勝手に自分の引き出しを開けることまで想定していなかった自分への後悔が過った。家に持ち帰ってわざわざ読み返すものではないと思い、部屋に誰もいないときに引き出しの一番奥深くに仕舞い込んでいた。引き出しの中には、資料やらレポートがぎっしり詰まっている。そう簡単に見つかるものではなかったはずだ。綾一人でやったこととは思えず、ちらりと周りを見れば小泉と千葉の顔もしたり顔を浮かべていた。やっぱりあいつらも一緒か。一方の隣に座っていた渡は、綾が指示した紙を食い入るように見つめていた。
 どれだけ暇なんだと呆れる思いと、勝手に机を漁っていたことへの怒りが沸々と込み上げる。どいつもこいつも。ずかずかと土足で俺のテリトリーに入ってきて、勝手に踏み荒らしていく。踏み荒らされた土から静かに芽生えていく芽をこれ以上成長させないために、怜は大きくため息を漏らし、講義の準備に取り掛かるために床に置いてあった自分の鞄に手をかけた。綾は長い髪をさらりと流して、香水を振りまいていた。

「ま、ともかく。そんな茶番劇に付き合う必要なんてないわよ。私の友達に警察官がいるの。今度会って相談してみるわね。偽りの恋人を演じろと強要されたときはどうしたらいいのか」
 なけなしの理性で蓋をしていた激情を綾の声は簡単に吹き飛ばす。きつい香水の匂いで、鼻がもげそうだ。怜の淡々していた動作が止まる。綾はすべてを操っている女王のように雄弁に語り続ける。
「きっと、こういうのってストーカー案件になると思うのよね。弁護士の方にも相談した方がいいかもしれないわよね。私、弁護士も知り合いがいるのよ。そっちにも話を通しておくわね。ま、この話が表沙汰になったら、あの子このゼミからも追い出されるのは間違いないわね。マスコミにも報道されたら、東慶大学の名誉問題にもなっちゃうかもしれないわ。だったら、早く退学させた方がいいわよね。ノーダメージにはならないけど、『元』東慶大学の学生っていえば聞こえ方は少しはましになるでしょうし。私からも溝口教授に進言しておくわ」
 綾の楽しそうな弾んだ声が教室の隅々に反響して煩い。黒板を爪で引っ掻くような気の障る声が怜の全身の血液を逆流させていく。
「いい加減黙れ」
 足元から這い上がるような低音が教室内に電流が走った。雑音が一掃されたかのように静まり返る。その中で、怜が立ち上がり凍り付くような視線が一直線に綾に向けられていた。鋭利な刃物を首に突き付けられたような顔をして綾は固唾を飲む。だが、気の強い目を丸くながら赤い唇を震わせていた。
「な、何よ……私はあなたのことを思って……」
「お前の醜い話なんて聞きたくない。自分の思い通りにならないこの状況が耐えられない。だから、気に入らないものは排除したい。そんな薄汚れたお前の願望なんて、耳障りの何物でもない」
 鋭利な言葉は、綾に躊躇いなく投げつける。吊り上がった目は確かに傷ついていることがわかった。だが、荒れ狂う激情の流れを止める術は今の怜に持ち合わせていなかった。
「私は怜を思って、あなたを助けようと思って話してるんじゃない!!」  
「助けよう? いつだって、お前は人を陥れるか、思い通りにさせるかだ。そんなことしか考えてないだろう。人の思いを踏みにじったって、なんとも思わない。自分さえよければどうだっていい。それがお前だ。人を助けようだなんて微塵も考えたことがないだろう。薄汚いことばかり思いつく」
「……何言ってんのよ! 薄汚いことばかり思いつくのは、あの女よ!!」 
 醜く叫ぶ綾を目の前に、怜の心臓はすっと冷えていく。
 何で、こんな人間がのうのうと生きているんだ? 健康な命が与えられているんだ? 本当に生かされるべきは、心まで透き通っているはずの美羽のはずだろう。悪魔に魂を売ったような人間こそが、過酷な運命を請け負わせるべきなんじゃないのか?
 怜の目の奥に赤黒い炎が点火する。どうしようもない激怒が、呼吸を乱す。すべての怒りの熱が右手に集中し、自分の肩より高い場所に上がっていった。

「落ち着け! 怜!」
 赤い視界に渡の顔が飛び込んできた。両肩を揺さぶられて、怒りの支配から解かれる。冷静さを取り戻したと判断した渡はほっとした表情をしていたが、その顔にはお前らしくないと書かれていた。
 渡のいう通りだ。自分でも驚いていた。自分の中にこれほどの激しい感情が眠っていたことに。そして、それは自分でも制御できないほどの激しさであることに。理性で抑え込もうとしても、どうしようもないものもあることに。怜は上げかけた手をゆっくりを下ろしながら、再度綾を睨んだ。
「綾。これは俺たちの問題だ。お前はこれ以上余計な口出しも、行動もするな。もし、本当にさっき言っていたようなことをしたら、俺は黙っちゃいない。お前のこれまでやってきた汚い悪事も全部晒してやるからな」
 怜は、最後の鋭い感情の切れ端を綾に突き付けて、部屋を出た。


「おい、怜」
 追いかけてきた渡が怜の横に並ぶ。少し遠慮したような伺うような目を寄こしてくる渡に怜は少しばつの悪そうな顔をしていった。
「すまない」
「え?」
「渡が止めてくれなかったら、俺は綾に手をあげていた。助かった」
 怜はいつもの口調でぼそりと呟くと、渡は急に飛び出した予想外の謝意の言葉で戸惑いながら照れたような笑みをこぼしていた。
 荒れる波を潜り抜けた先は、薄暗く凪いだ水面が広がっていた。頭に上っていた血の気も引いて、冷静な自分が戻ってくるとどうしてあんなことになったのかと分析が始まっていた。自分のことをいわれただけならば、抑え込めたはずの感情だった。だが、美羽のことを罵るような言葉は、何にも耐えがたかった。どんな思いで、あの作戦を持ち込んだのか。これまで、どんな思いをして生きてきたのか。何も知らないくせに薄汚く罵声を浴びせる綾がどうしても許せなかった。

「まぁ、お前が怒るのは仕方ない。綾のいつものこととはいえ、あまりの言いようだったし。だが、手を出したらお前も終わる。綾なんかのせいで、人生終わらせたら死んでも死にきれねぇぜ」
「そうだな……」
「きっかけがどうあれ、お前の中にある今ある美羽ちゃんへの思いは本物なんだろうってことは、よくわかったよ。大隈怜は、無口、不愛想、無表情の鉄壁の三拍子。怜の頑丈な鉄仮面を美羽ちゃんは簡単に壊すんだから、本当にすごい子だよなぁ」
 渡はそういって笑ったが、それに怜は何も答えなかった。
 無口は相変わらずかと渡は思ったが、言葉にいちいちしなくてもわかるほどに、その表情は柔らかかった。
 
 校舎を出ると、春の風が花の香と夏の若葉を感じさせる匂いが吹いていた。
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