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「中森さん、ですか?」

 病棟から帰ってきて、リハビリ室に入る入口に、所在なさそうに立っているスーツ姿の男性がいて、声をかける。
 振り返ったその男性に、ちょっとだけドキリとする。
 ふ、と息を吐いて、恋愛脳になってしまったらしい自分を戒める。
 男性ならば誰でもいいわけではないというのは、朝から会った田中君や他のスタッフで理解している。だけどきっと、どこかに面影を見つけると、きっとコトリと心が動いてしまうんだろう。

 黒髪で、眼鏡をかけていて、黒目で、背もそこそこはあるけれどひどく高いわけでなく、細身で、どこにマシュー様の面影が? と言える相手なのに。
 私を認めた相手は、目を見開いて、そしてほっと笑顔を見せた。

「良かった、会えた」

 その笑った顔は、私が思っていたよりも相手が年若いことがわかる。もう30にはなっているだろうか。だけど、私より確実に年下だ。

「すいません。お約束の時間を過ぎてしまいましたか」

 一応間に合うように病棟から降りてきたつもりではいたんだけど。

「いえ」
「あ、狭山さん、見学の方」

 通りすがりのスタッフが私に声をかけてくれて、了解の意味で頷く。

「ありがとうございます」

 頷くスタッフが通り過ぎたのを見て、中森さんを促すように手を差し出す。

「こちらへどうぞ」

 リハビリ室の入り口とは違った隣の扉を開けると、中森さんが、へぇ、と声を出す。

「外は公園なので、眺めはいいんですよ」

 そこそこ都会の中にあるとはいえ、隣は大きめの公園で、その景色を借景できるのが、この部屋のいいところだ。

「それで、この間の学会で発表した資料の具体的なデータが見たいんでしたね」

 私は棚に置いていた自分のパソコンを取り出すと、椅子を促しながら、テーブルにパソコンを開く。
 既に何度かメールや電話でやり取りだけはしていて、時間をかけないためにもここに来たらすぐにデータを見せるという話になっていた。

「ええ。今日はお時間を取っていただきありがとうございます」

 ぺこりときれいなお辞儀をした中森さんが、椅子に掛ける。

「いいえ。私の研究のデータが役に立つのであれば、いくらでも協力します」

 カーソルを動かして研究のデータを開く。

「どうぞ」

 私がパソコンを中森さんに向けて、マウスを渡すと、中森さんはその研究データをじっと見つめだした。 

 *

「なるほど」

 ふー、と息を吐く中森さんが、眼鏡をはずして、瞼を揉んだ。

「すいません、あんまりデータ整理できてなくて、わかりにくかったですよね?」
「いえ」

 そう言って瞼から手を放した中森さんと目が合う。
 合った目に、息をのむ。

「どうかしましたか」

 中森さんに問いかけられて、我に返る。

「いえ」

 まだ私の頭の中は、あの世界の中にいるのかもしれない。
 だから、まったく関係のない人間に、マシュー様の面影を見つけてしまうのかもしれない。
 本当に、私も馬鹿だな。

「えーっと、仕事は何時までなんですか」

 部屋にかけられた時計を見れば、ちょうど5時半は過ぎていた。

「今の時間が終業時間ですね」
「じゃあ、私が来てなければ、これで帰るところですか」
「そうですね、カルテを書き終わっていれば」

 中森さんが頷いて、眼鏡をかける。

「すいません。私がこんな時間を指定したから、すぐに帰れなくて」
「いえ」

 どうせ帰っても、何もやることはないのだ。……誕生日だから、と言うのは私には無関係だ。

「この後はご予定は?」
「いえ、とくにはないのでお気になさらず」

 あったのなら、この予定など入れるはずもないけど。

「じゃあ、データを見せてもらったお礼に、食事でも行きませんか」

 まっすぐと私を見るその視線には、変な下心など感じはしなかった。

「そんなたいしたデータじゃありませんし、お気になさらず」

 それは本当のことで、わざわざ見に来るなんて研究者魂がすごいな、と思うくらいだった。
 なぜか中森さんがクスリと笑う。

「どうかしましたか」
「病院ではピアスを外す必要はないんですか」

 はぐらかされた話に少し戸惑いつつ頷く。

「ええ。このくらいの石の大きさならこの病院はOKなんです」

 左耳を触りながら思いを馳せる。
 届くことのない思いを。

「そのピアスは、大事なものなんですか?」

 思いがけない問いかけに、気持ちが漏れていたのかと思う。

「ええ。それで、何か役に立ちそうなデータはありましたか」

 話を断ち切るため、話を戻す。

「そうですね、面白そうなデータがいくつか。研究に協力していただけるとありがたいんですが」
「ええ。それはもちろん。患者さんには再度協力の同意を取らないといけないですね」
「ありがとうございます」

 うんうんと頷いていた中森さんが、ふいに私をじっと見る。

「狭山さんは、どうしてこんな研究を?」
「……マイノリティだから、ですかね。他にこんな研究する人もあまりいないでしょう? でも、患者さんは確実にいますから」 

 失語症や発達障害のリハビリをしたいと言語聴覚士になる人は多い。ただ、治療にあまり光を当てられない障害も沢山ある。学校での勉強も、社会人となってからの研修も、マイノリティの内容ほど情報は少ない。
 だから、自分で研究していく必要もある。日々のリハビリも、その一環だ。

「研究熱心なんですね」
「言語聴覚士であれば、皆そうだと思います」

 少しでも患者さんを良くしたい、そう皆思っている。
 それでも私が学会で発表したことは、今までに一度もなかった。
 だけど、高野さんの面倒を見ているうちに、今私が持っている拙い知識でも、他の人に伝えていく必要があるんじゃないか、と思ったのだ。
 私ひとりじゃ拙いリハビリのままかもしれないけど、これを知った誰かが、もっと効果的なリハビリを考えてくれるかもしれない。そういう願いを込めた発表だ。

「そうなんですね。誰かのために、頑張っているんですね」

 ふいに滲んできた涙に、慌てて顔をそらす。
 確かに私は患者さんのためにと思って頑張ってきた。
 だけど、今朝、私は一つの世界を終わらせるかもしれない選択肢を選んできたのだ。
 たくさんの人たちがいる世界の。愛する人がいる世界の。
 私がここで頑張ったことが、その償いになるわけではない。
 そう思い至って、後悔の念が湧き出てくる。
 ……でも、他にどうすることもできなかったのだ。

「そんな狭山さんに、ご褒美を」

 ご褒美?
 中森さんの言葉に疑問を持ちつつ、気付かれぬように涙をぬぐって、顔を中森さんに向ける。

「はい、これ」

 何かを握った中森さんの手が、私に差し出される。

「えっと、何、ですか」
「いいから、手を出してください」

 おずおずと手を差し出すと、中森さんが頷いた。
 おかしか、何か? 初対面の人に気づかいされちゃった?
 中森さんの手の中から落ちてきたのは、黒く見える小さな石だった。

 え? と声が漏れる。
 引き寄せた手のひらに乗ったその石は、黒ではなく、深い青い石だった。
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