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本編
10.認識は合わせておきましょう
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クロエはリュカの予想外の行動に目を見開いた。
有事の際の判断力には定評のあるクロエだが、男女の機微に関しては他人の痴話喧嘩の仲裁くらいしか経験がない。
リュカに対しては『まだ子供』だと認識していたから、警戒も何もしていなかった。
混乱して固まっている内に、上着のボタンはすべて外されてしまう。
あっと言う間の早業だった。
ブラウスのボタンに手をかけられ、クロエはようやく我に返った。
一気に顔に血が上る。
「リュカ! 大丈夫だと言っているでしょう!?」
胸元を押さえ、後ずさりしながらクロエは訴えた。
リュカが美しい薄藍の瞳を潤ませて、開いた分以上の距離を踏み込んでくる。
これがただの酔っぱらいや変態相手なら、蹴り飛ばすなり殴り倒すなりして留置場にでも放り込むのだが、今目の前で距離を詰めてきているのはリュカだ。
この美しく愛らしい少年を蹴り飛ばすなど、極悪人でもなければ出来まい。
少なくとも、クロエには無理だった。
どう言葉で説得すべきか思い悩んでいると、リュカが顔を曇らせる。
「見せられないってことは、やっぱり怪我を隠してるんじゃ……」
形の良い眉尻が下がり、今にも泣きそうだ。
全身で『心配です』と訴えるリュカに、クロエは負けそうになる。
別に下心があってというわけではなく、クロエを心配してのことだろう。
目くじらを立てて怒るようなことではない。と。
この時のクロエは、リュカのことを十六歳の青年ではなく、幼気な子供だと思い込んでいた。
毎夜クロエの寝台に潜り込み、胸に頬を寄せて眠りにつくのも精霊の特徴に引きずられた幼児性ゆえだと。
なんだかんだと他人に偉そうなことを言いつつ、自身も相手を甘く見ていたのである。
そこにまだ気づいていないクロエは、リュカをなだめすかすように言う。
「とりあえず玄関でする話でもないし、居間に行きましょう」
「…………」
じーっと疑わしい目で見られ、クロエは苦笑する。
「逃げやしないわ」
「……分かりました」
リュカはそう言ってクロエの右手をとって、指をからませた。
それほど信用がないのかと、クロエはわずかに肩を落とし、隣を歩くリュカを見る。
リュカの目元がほんのりと赤く色づいているのを認めて、なんだかいけないものを見たような気分になる。
この少年は、実に他人の劣情を煽るのが上手い。
短い廊下を歩き、こじんまりした居間に入る。
リュカは当然のように二人掛けのソファにクロエを誘導し、その隣にぴったりと寄り添うように座った。
「じゃあ」
リュカが早速と、クロエのブラウスに手を伸ばそうとする。
クロエはその手を掴んで下ろした。
「止めなさい」
「むぅ」
ぷっくりと滑らかな頬を膨らませ、恨みがましい目でリュカが見てくる。
クロエは重たい息を吐いた。
「怪我がないのは本当よ。相手の木剣はかすりもしなかったから」
「でも、この目で見ないと心配で仕方ありません」
僕を安心させてください。ね? と甘えた声でねだられる。
このおねだりに、クロエはどうにも弱い。
仕方ないわね、と渋々ながらも許してしまいそうだ。
(い、いえ。やはり脱いで見せるのはおかしいわよね)
「べ、別に直に見る必要はないでしょう」
何とか毅然とした態度をとろうと思い直したクロエに、リュカがたたみかけてくる。
「上だけでもいいですから」
「…………」
「クロエさんの歩き方に不自然な所はなかったので、足は大丈夫だと思いました。だから、上だけでも確認させてください」
リュカの訴えに、クロエはちょこんと首を傾げた。
「動かしてみせればいいの?」
「いえ、ブラウスを脱いで見せてください」
何故かキリッとした顔で、リュカが言う。
クロエは目眩を感じて己の額に手を当てた。
「……何か……違わなくない?」
「違わなくなんてありません! 本当なら僕はクロエさんの夫として全身くまなく隅から隅まで無事を確かめる権利があるんですよ。そこを上だけと妥協してるんです」
ぐっとリュカが身を乗り出して熱弁してきた。
勢い、クロエは上半身を斜め後ろに倒し、肘掛けに背中を預けるはめになる。
そこですかさず、リュカがクロエの腰に手を回し、胸下にすがりついてきた。
「ね? 僕はクロエさんが心配なんです」
上目遣いでねだられたが、あざと過ぎる。
クロエは半眼でリュカを見下ろした。
「……やはり詭弁よね。とってつけたように心配だと言っても駄目よ」
「そんな……。僕は心からクロエさんを心配しているだけなのに……」
ほろり。
リュカのすべすべの頬に、涙が一筋流れた。
とてつもない罪悪感がクロエを襲う。
明らかに無茶なことを言っているのはリュカなのに、陪審員が有罪無罪を判断したならクロエが有罪になるだろうくらいの威力が、リュカの涙にはあった。
常識と恥じらいとやけに主張する罪悪感を秤にかけて、そっと目に毒なリュカから視線をそらす。
ほんのりと頬を染めて、クロエは言った。
「す、少しだけなら……」
「はい!」
元気の良い返事をして、リュカが上半身を起こした。
ほっそりとした指がクロエのブラウスへと伸び、殊更ゆっくりとボタンを外していく。
ブラウスの前を開けても下着をつけているから肌が露出する部分は少ないが、下着自体、人に見せるものではない。
(は、早く納得して終わって!)
クロエはどうにも恥ずかしくて仕方がなく、顔をそむけて固く目をつむった。
ボタンを外し終えたリュカが、そっとブラウスを左右に開く。
「……っ」
リュカが息を呑む気配がした。
「ク、クロエさん!?」
声音に狼狽の色が混じる。
異変を感じたクロエはおそるおそる目を開き、リュカに視線を向けた。
「リュカ?」
リュカは本当に泣きそうな顔をしていた。
先ほどまでのこちらの罪悪感と劣情を煽るような顔ではなく、途方に暮れて後悔するような本当に心配そうな、そんな顔だった。
クロエはその変化に目を瞬き、自身の胸元に視線を落とす。
(……あぁ、うっかり忘れていたわ……)
左肩から胸の間までを走る醜い傷痕が、そこにはあった。
「や、やっぱりクロエさんは怪我を! 僕のせいで!」
クロエのブラウスの前身頃を掴んだまま、リュカの目尻にみるみる涙が溜まり、仕舞にはえぐえぐと泣き出してしまった。
「あぁ、違うのよ、リュカ」
クロエは身を起こし、そっとリュカの頬を撫でた。
「これは今日ついた傷ではないの」
「……今日より前に絡まれて」
「違うわ。リュカのせいじゃないの。これは妖魔討伐の時の傷なのよ」
「え」
リュカが驚いたように目を見開いた。
涙が止まったことにほっとしつつ、クロエは困ったように笑った。
「私も何度か妖魔討伐に出ているけれど、一昨年の討伐の時にヘマをしてね。妖魔の鉤爪にやられてしまったの。現場では魔力を温存しなくてはならないから、傷をふさいで浄化するくらいの手当しかしないのが普通でね。年期の入った騎士は、傷痕の一つや二つ残っているものなのよ」
もっとも、傷痕が勲章になるのは男だけだ。
やはり女性の傷痕持ちは敬遠される。
若い女性騎士が傷を負った時は、撤退後に優先して傷痕が残らないように治療を受けることが出来るが、クロエは婚期を逃したと確定した二十歳過ぎから部下に治療を譲るようになった。
医療騎士の数も魔力も有限だからだ。
どうせ、肌を見せる相手はいないのだ。
後遺症が残るのは困るが、痕は見た目だけで動きに支障があるわけではない。
そう考えてのことだった。
リュカに迫られて、傷痕のことが頭から抜けていたのは本当にうっかりだった。
「見苦しいものを見せてしまって、ごめんなさいね」
そう言って、クロエは目を伏せた。
純粋培養の箱入り息子であるリュカの目には、この傷痕が気持ち悪く映るだろう。
嫌悪されても仕方がない。
「そんな! 見苦しいなんて!」
「無理しなくて良いのよ、リュカ。気持ち悪いでしょう?」
クロエは口元を歪め、自嘲する。
歳だけでもそうなのに目立つ傷痕まで持っている自分は、女としての価値がないのだ。
この美しい少年と比べるのもおこがましい。
やはり、分不相応な思いは一欠片も持つものではないな、とクロエは思う。
自分の役割は、リュカの盾になること。
成体になるまで彼を守ることなのだから、勘違いしてはいけない。
「さぁ、リュカ。手を離し……」
伏せていた視線を上げたクロエは、最後まで言い切ることが出来なかった。
視線が合ったリュカの目に、怒りの色が見えたからだ。
(や、やはり怒るわよね。こんなみっともない姿をさらして……。リュカの為にもきちんと突っぱねておくべきだったのよ)
「え、と。ごめんなさい。本当に、気持ち悪いものを見せて……」
「いくら僕が大好きなクロエさんでも、僕の大事なクロエさんのことを悪く言うのは許しませんよ」
「え?」
クロエはぽかんと見返した。
リュカはクロエがよく分かっていないことを悟ったようで、言葉を重ねた。
「僕はクロエさんのことが大大大好きですから、そのクロエさん本人でもクロエさんの悪口は言ったら駄目です」
「いえ、でも。こんな傷痕、見苦しいでしょう?」
混乱しつつ、クロエは言う。
リュカはむっとした顔をした。
「僕を見くびってもらったら困ります。僕はクロエさんのものなら何でも好きです。この傷痕だって……」
「なにを言って。あっ」
れろり。
顔を伏せたリュカが、クロエの肩口を舐めた。
滑らかな舌がゆっくりと執拗に、傷痕を這い下がっていく。
ちゅっと胸の間の傷痕の終わりを吸って、リュカが顔を上げた。
幼げな顔に似合わない色香をまとい、微笑む。
「クロエさんのものだと思えば、愛おしい」
「~~~~~!!?」
クロエは声にならない悲鳴を上げた。
全身が真っ赤に染まる。
どう反応すべきか混乱しているクロエを押し倒し、リュカは再び胸に顔を埋めた。
「あ、傷のところは他よりも赤くなるんですね。可愛い」
ちゅっちゅと肌を吸い、より赤い跡を残していく。
「だ、駄目! リュカ!」
「何が駄目なんですか? 僕たち夫婦なのに」
下着の縁に指をかけて、リュカが言う。
そのまま下にずり下げられそうになり、クロエは慌ててその手を掴んだ。
「駄目に決まってるでしょう!? 子作りは禁止だと約束を交わして」
「はい。でも“ここ”に子種を注がなければ、子は出来ない。そうでしょう?」
掴まれているのと逆の手でクロエの下腹を撫で、リュカが首を傾げる。
「そ、そんな屁理屈を!」
「だってそうじゃないですか。だから、吸ったり揉んだり舐めたり擦ったり挟んだりはしても大丈夫ですよね? あ、指なら入れてもいいのかな?」
「全ッ然大丈夫じゃないし、良くもないわ!!」
「えー」
「えー、じゃない!! んやっ、こら!」
「わっ」
下着の縁沿いに胸をちろちろと舐めるリュカに、このまま流されてはいけないと上半身を無理矢理起こした。
クロエは腐っても現役騎士だ。
本気になれば、小柄なリュカを押し返すくらいのことは出来る。
押し返されたリュカは後ろに倒れ、反対側の肘置きにひっくり返った。
クロエはその隙にソファから立ち上がり、素早くブラウスのボタンをきっちり止めた。
「あっ、もう隠しちゃうんですか! もったいない!」
振り返ると、上半身を起こしたリュカが口を尖らせていた。
見た目はやはり天使だが、中身はとんだ悪たれだ。
クロエはまだ熱の残る顔を横に振り、今後の方針を言い渡す。
「……リュカからの身体接触は全面禁止とします」
「そんな……。あっ、クロエさんから触ってくれる」
「わけがないでしょう!! リュカの身に危険が及ばない限り私から触ることもありません!! ついでに言っておくけれど、わざと危険な目に遭おうとしたら見捨てますからね!!」
腰に手を当て、ソファにちょこんと座るリュカを見下ろす。
リュカは不満そうな顔をしていたが、クロエがにらむと渋々とうなずいた。
「分かったなら良し。着替えたら少し出掛けてくるから、何なら先に夕飯を食べててちょうだい」
「えっ。ご飯は待ってますけど、こんな時間からどこへ」
「鍵屋よ。私の寝室に鍵をつけないと」
「えぇっ。夫婦なのに一緒に寝ないなんて!!」
愕然とした顔をするリュカ。
「あれだけのことをしておきながら、まだ一緒に寝ると思っていたことの方に驚くわ!」
「そんな! これを期にお風呂も一緒に入ろうと思ってたのに!」
「そんなこと企んでいたの!?」
(やっぱり鍵は必要だわ! 風呂場の内鍵も外から開けられないように強化しないと!)
鍵の必要性を強く確信したクロエは、追いすがるリュカを振り切り着替えて、鍵屋に駆け込んだ。
時間外だと渋る鍵屋に相場の倍の手間賃を叩きつけ、その日の内に作業させた。
こうして、クロエの寝室と風呂場に頑丈な鍵がつけられたのである。
有事の際の判断力には定評のあるクロエだが、男女の機微に関しては他人の痴話喧嘩の仲裁くらいしか経験がない。
リュカに対しては『まだ子供』だと認識していたから、警戒も何もしていなかった。
混乱して固まっている内に、上着のボタンはすべて外されてしまう。
あっと言う間の早業だった。
ブラウスのボタンに手をかけられ、クロエはようやく我に返った。
一気に顔に血が上る。
「リュカ! 大丈夫だと言っているでしょう!?」
胸元を押さえ、後ずさりしながらクロエは訴えた。
リュカが美しい薄藍の瞳を潤ませて、開いた分以上の距離を踏み込んでくる。
これがただの酔っぱらいや変態相手なら、蹴り飛ばすなり殴り倒すなりして留置場にでも放り込むのだが、今目の前で距離を詰めてきているのはリュカだ。
この美しく愛らしい少年を蹴り飛ばすなど、極悪人でもなければ出来まい。
少なくとも、クロエには無理だった。
どう言葉で説得すべきか思い悩んでいると、リュカが顔を曇らせる。
「見せられないってことは、やっぱり怪我を隠してるんじゃ……」
形の良い眉尻が下がり、今にも泣きそうだ。
全身で『心配です』と訴えるリュカに、クロエは負けそうになる。
別に下心があってというわけではなく、クロエを心配してのことだろう。
目くじらを立てて怒るようなことではない。と。
この時のクロエは、リュカのことを十六歳の青年ではなく、幼気な子供だと思い込んでいた。
毎夜クロエの寝台に潜り込み、胸に頬を寄せて眠りにつくのも精霊の特徴に引きずられた幼児性ゆえだと。
なんだかんだと他人に偉そうなことを言いつつ、自身も相手を甘く見ていたのである。
そこにまだ気づいていないクロエは、リュカをなだめすかすように言う。
「とりあえず玄関でする話でもないし、居間に行きましょう」
「…………」
じーっと疑わしい目で見られ、クロエは苦笑する。
「逃げやしないわ」
「……分かりました」
リュカはそう言ってクロエの右手をとって、指をからませた。
それほど信用がないのかと、クロエはわずかに肩を落とし、隣を歩くリュカを見る。
リュカの目元がほんのりと赤く色づいているのを認めて、なんだかいけないものを見たような気分になる。
この少年は、実に他人の劣情を煽るのが上手い。
短い廊下を歩き、こじんまりした居間に入る。
リュカは当然のように二人掛けのソファにクロエを誘導し、その隣にぴったりと寄り添うように座った。
「じゃあ」
リュカが早速と、クロエのブラウスに手を伸ばそうとする。
クロエはその手を掴んで下ろした。
「止めなさい」
「むぅ」
ぷっくりと滑らかな頬を膨らませ、恨みがましい目でリュカが見てくる。
クロエは重たい息を吐いた。
「怪我がないのは本当よ。相手の木剣はかすりもしなかったから」
「でも、この目で見ないと心配で仕方ありません」
僕を安心させてください。ね? と甘えた声でねだられる。
このおねだりに、クロエはどうにも弱い。
仕方ないわね、と渋々ながらも許してしまいそうだ。
(い、いえ。やはり脱いで見せるのはおかしいわよね)
「べ、別に直に見る必要はないでしょう」
何とか毅然とした態度をとろうと思い直したクロエに、リュカがたたみかけてくる。
「上だけでもいいですから」
「…………」
「クロエさんの歩き方に不自然な所はなかったので、足は大丈夫だと思いました。だから、上だけでも確認させてください」
リュカの訴えに、クロエはちょこんと首を傾げた。
「動かしてみせればいいの?」
「いえ、ブラウスを脱いで見せてください」
何故かキリッとした顔で、リュカが言う。
クロエは目眩を感じて己の額に手を当てた。
「……何か……違わなくない?」
「違わなくなんてありません! 本当なら僕はクロエさんの夫として全身くまなく隅から隅まで無事を確かめる権利があるんですよ。そこを上だけと妥協してるんです」
ぐっとリュカが身を乗り出して熱弁してきた。
勢い、クロエは上半身を斜め後ろに倒し、肘掛けに背中を預けるはめになる。
そこですかさず、リュカがクロエの腰に手を回し、胸下にすがりついてきた。
「ね? 僕はクロエさんが心配なんです」
上目遣いでねだられたが、あざと過ぎる。
クロエは半眼でリュカを見下ろした。
「……やはり詭弁よね。とってつけたように心配だと言っても駄目よ」
「そんな……。僕は心からクロエさんを心配しているだけなのに……」
ほろり。
リュカのすべすべの頬に、涙が一筋流れた。
とてつもない罪悪感がクロエを襲う。
明らかに無茶なことを言っているのはリュカなのに、陪審員が有罪無罪を判断したならクロエが有罪になるだろうくらいの威力が、リュカの涙にはあった。
常識と恥じらいとやけに主張する罪悪感を秤にかけて、そっと目に毒なリュカから視線をそらす。
ほんのりと頬を染めて、クロエは言った。
「す、少しだけなら……」
「はい!」
元気の良い返事をして、リュカが上半身を起こした。
ほっそりとした指がクロエのブラウスへと伸び、殊更ゆっくりとボタンを外していく。
ブラウスの前を開けても下着をつけているから肌が露出する部分は少ないが、下着自体、人に見せるものではない。
(は、早く納得して終わって!)
クロエはどうにも恥ずかしくて仕方がなく、顔をそむけて固く目をつむった。
ボタンを外し終えたリュカが、そっとブラウスを左右に開く。
「……っ」
リュカが息を呑む気配がした。
「ク、クロエさん!?」
声音に狼狽の色が混じる。
異変を感じたクロエはおそるおそる目を開き、リュカに視線を向けた。
「リュカ?」
リュカは本当に泣きそうな顔をしていた。
先ほどまでのこちらの罪悪感と劣情を煽るような顔ではなく、途方に暮れて後悔するような本当に心配そうな、そんな顔だった。
クロエはその変化に目を瞬き、自身の胸元に視線を落とす。
(……あぁ、うっかり忘れていたわ……)
左肩から胸の間までを走る醜い傷痕が、そこにはあった。
「や、やっぱりクロエさんは怪我を! 僕のせいで!」
クロエのブラウスの前身頃を掴んだまま、リュカの目尻にみるみる涙が溜まり、仕舞にはえぐえぐと泣き出してしまった。
「あぁ、違うのよ、リュカ」
クロエは身を起こし、そっとリュカの頬を撫でた。
「これは今日ついた傷ではないの」
「……今日より前に絡まれて」
「違うわ。リュカのせいじゃないの。これは妖魔討伐の時の傷なのよ」
「え」
リュカが驚いたように目を見開いた。
涙が止まったことにほっとしつつ、クロエは困ったように笑った。
「私も何度か妖魔討伐に出ているけれど、一昨年の討伐の時にヘマをしてね。妖魔の鉤爪にやられてしまったの。現場では魔力を温存しなくてはならないから、傷をふさいで浄化するくらいの手当しかしないのが普通でね。年期の入った騎士は、傷痕の一つや二つ残っているものなのよ」
もっとも、傷痕が勲章になるのは男だけだ。
やはり女性の傷痕持ちは敬遠される。
若い女性騎士が傷を負った時は、撤退後に優先して傷痕が残らないように治療を受けることが出来るが、クロエは婚期を逃したと確定した二十歳過ぎから部下に治療を譲るようになった。
医療騎士の数も魔力も有限だからだ。
どうせ、肌を見せる相手はいないのだ。
後遺症が残るのは困るが、痕は見た目だけで動きに支障があるわけではない。
そう考えてのことだった。
リュカに迫られて、傷痕のことが頭から抜けていたのは本当にうっかりだった。
「見苦しいものを見せてしまって、ごめんなさいね」
そう言って、クロエは目を伏せた。
純粋培養の箱入り息子であるリュカの目には、この傷痕が気持ち悪く映るだろう。
嫌悪されても仕方がない。
「そんな! 見苦しいなんて!」
「無理しなくて良いのよ、リュカ。気持ち悪いでしょう?」
クロエは口元を歪め、自嘲する。
歳だけでもそうなのに目立つ傷痕まで持っている自分は、女としての価値がないのだ。
この美しい少年と比べるのもおこがましい。
やはり、分不相応な思いは一欠片も持つものではないな、とクロエは思う。
自分の役割は、リュカの盾になること。
成体になるまで彼を守ることなのだから、勘違いしてはいけない。
「さぁ、リュカ。手を離し……」
伏せていた視線を上げたクロエは、最後まで言い切ることが出来なかった。
視線が合ったリュカの目に、怒りの色が見えたからだ。
(や、やはり怒るわよね。こんなみっともない姿をさらして……。リュカの為にもきちんと突っぱねておくべきだったのよ)
「え、と。ごめんなさい。本当に、気持ち悪いものを見せて……」
「いくら僕が大好きなクロエさんでも、僕の大事なクロエさんのことを悪く言うのは許しませんよ」
「え?」
クロエはぽかんと見返した。
リュカはクロエがよく分かっていないことを悟ったようで、言葉を重ねた。
「僕はクロエさんのことが大大大好きですから、そのクロエさん本人でもクロエさんの悪口は言ったら駄目です」
「いえ、でも。こんな傷痕、見苦しいでしょう?」
混乱しつつ、クロエは言う。
リュカはむっとした顔をした。
「僕を見くびってもらったら困ります。僕はクロエさんのものなら何でも好きです。この傷痕だって……」
「なにを言って。あっ」
れろり。
顔を伏せたリュカが、クロエの肩口を舐めた。
滑らかな舌がゆっくりと執拗に、傷痕を這い下がっていく。
ちゅっと胸の間の傷痕の終わりを吸って、リュカが顔を上げた。
幼げな顔に似合わない色香をまとい、微笑む。
「クロエさんのものだと思えば、愛おしい」
「~~~~~!!?」
クロエは声にならない悲鳴を上げた。
全身が真っ赤に染まる。
どう反応すべきか混乱しているクロエを押し倒し、リュカは再び胸に顔を埋めた。
「あ、傷のところは他よりも赤くなるんですね。可愛い」
ちゅっちゅと肌を吸い、より赤い跡を残していく。
「だ、駄目! リュカ!」
「何が駄目なんですか? 僕たち夫婦なのに」
下着の縁に指をかけて、リュカが言う。
そのまま下にずり下げられそうになり、クロエは慌ててその手を掴んだ。
「駄目に決まってるでしょう!? 子作りは禁止だと約束を交わして」
「はい。でも“ここ”に子種を注がなければ、子は出来ない。そうでしょう?」
掴まれているのと逆の手でクロエの下腹を撫で、リュカが首を傾げる。
「そ、そんな屁理屈を!」
「だってそうじゃないですか。だから、吸ったり揉んだり舐めたり擦ったり挟んだりはしても大丈夫ですよね? あ、指なら入れてもいいのかな?」
「全ッ然大丈夫じゃないし、良くもないわ!!」
「えー」
「えー、じゃない!! んやっ、こら!」
「わっ」
下着の縁沿いに胸をちろちろと舐めるリュカに、このまま流されてはいけないと上半身を無理矢理起こした。
クロエは腐っても現役騎士だ。
本気になれば、小柄なリュカを押し返すくらいのことは出来る。
押し返されたリュカは後ろに倒れ、反対側の肘置きにひっくり返った。
クロエはその隙にソファから立ち上がり、素早くブラウスのボタンをきっちり止めた。
「あっ、もう隠しちゃうんですか! もったいない!」
振り返ると、上半身を起こしたリュカが口を尖らせていた。
見た目はやはり天使だが、中身はとんだ悪たれだ。
クロエはまだ熱の残る顔を横に振り、今後の方針を言い渡す。
「……リュカからの身体接触は全面禁止とします」
「そんな……。あっ、クロエさんから触ってくれる」
「わけがないでしょう!! リュカの身に危険が及ばない限り私から触ることもありません!! ついでに言っておくけれど、わざと危険な目に遭おうとしたら見捨てますからね!!」
腰に手を当て、ソファにちょこんと座るリュカを見下ろす。
リュカは不満そうな顔をしていたが、クロエがにらむと渋々とうなずいた。
「分かったなら良し。着替えたら少し出掛けてくるから、何なら先に夕飯を食べててちょうだい」
「えっ。ご飯は待ってますけど、こんな時間からどこへ」
「鍵屋よ。私の寝室に鍵をつけないと」
「えぇっ。夫婦なのに一緒に寝ないなんて!!」
愕然とした顔をするリュカ。
「あれだけのことをしておきながら、まだ一緒に寝ると思っていたことの方に驚くわ!」
「そんな! これを期にお風呂も一緒に入ろうと思ってたのに!」
「そんなこと企んでいたの!?」
(やっぱり鍵は必要だわ! 風呂場の内鍵も外から開けられないように強化しないと!)
鍵の必要性を強く確信したクロエは、追いすがるリュカを振り切り着替えて、鍵屋に駆け込んだ。
時間外だと渋る鍵屋に相場の倍の手間賃を叩きつけ、その日の内に作業させた。
こうして、クロエの寝室と風呂場に頑丈な鍵がつけられたのである。
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