氷上の悪役令嬢

Estella

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第一章 『前皇帝と北境の主』

第一章7 『三年の傷』

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 彼女の接近を感知したノアリデアートは、反射的に肩を跳ねさせて体を壁に貼り付け警戒の視線を向けた。
 戸惑いと警戒に揺れる瞳を、今度はマルガリータも直視しなかった。

「何を、する気だ……?」

 マルガリータは質問に答えず、彼の傷を観察する。ここまで近くに来れば、汚れと血液と腐敗の香りが鮮明に伝わってくる。最初から彼を医者に診せなかったのは、ノアリデアートの存在が極秘過ぎたから。しかし、彼が強硬な態度すぎるため気が付かなかったが、恐らく医者に診せた囚人たちよりよほど状態が悪い。
 マルガリータは手を伸ばしたが、彼に触れることなく、粗悪な布でできた服の襟をつかんだ。
 その瞬間、ノアリデアートは尾を踏まれた猫かのように肩を跳ねさせ、勢いよく後ろに下がろうとして壁に背中を激突させた。その瞳によぎるのは驚愕と憤怒両方である。

「お前……!」

「治療です」

 マルガリータの絞り出した有無を言わさぬ言葉に、ノアリデアートの怒声が押し込められる。
 彼女の言葉通り、その手つきは機械でも点検するかのような冷酷さがあった。マルガリータは手早く劣化しもはや服としての役目を為していない服を破り捨て、傷を観察し――瞠目した。
 この三年様々な死線を潜り抜けてきたマルガリータをもってしても、硬直に値する。彼女はやや眉を顰め、冷たく象っていたはずの表情も揺れ動いていた。

「貴方……」

 刃で切られたような跡。鞭の跡。打撲の跡。焼かれたような跡。貫かれた跡。なんの跡か分かるものから分からないものまで、とにかく全身に広がる傷跡は、戦場の人間でもそうそう見るものではない。
 触れて見れば、変色した皮膚や、骨折の跡も多々見られる。まだ折れているのか、もう治っているのか、もうすこし診なければ分からないことだ。
 さらに極めつけには、肩に銃で撃たれた跡が存在することに息を吞んだ。銃弾がどうなっているのかが一番気になるが、とりあえず問題なのは適切な処置を受けていないがために甘酸っぱい臭いを放つ腐敗した傷口と、今も流血している新たな傷だろう。連れて来られている間も、何かあったに違いない。
 彼がここに来てから一週間と少し。もっと早く気付くべきだった。
 マルガリータは手を引っ込め、視線を上げる。顔を背けたままのノアリデアートは、全身が緊張で気張っている一方で、痛みから来る小刻みな震えが隠しきれていなかった。

 エルムライトとアメリアは、一体この三年彼に何をしてきたというのか。
 権力を剥奪し、皇帝だった男を牢に放り込んで、そして殺す気だったくせに。
 何かマルガリータらしくない、哀しいような、苦しいような感情が込み上がる。過去を考えれば、自分は彼に復讐をしても誰も責められない。でも、本当にこんなことを、望んでいただろうか?

「ふ……」

 マルガリータは自嘲のような笑い声を漏らした。あの二人の偽善的な態度への嘲笑か、それとも長年恨んだ相手を救っている自分への嘲笑か。
 それを振り切るために立ち上がったマルガリータは、何か言いたげに口を開いたノアリデアートに終ぞ気付かなかった。当然、一度タイミングを失った彼が、再度機会を伺うこともない。
 マルガリータは綺麗なハンカチを手に取り、綺麗な水をバケツに入れ、もう一度彼の前にしゃがみこんだ。
 ノアリデアートは相変わらず顔を背けて、彼女の忙しない動きに何一つ動じていないかのようだった。

「耐えて」

 短い指令には余計な感情は含まれていないようで、呟きにさえ思える声をしていたが。
 次の瞬間、濡れたハンカチが目にも当てられぬほど無惨な彼の傷口に当てられた。

「うあっ――!」

 ノアリデアートの身体が生理的に震えあがり、喉から耐えきれないうめき声が響き渡る。とっくに腐り切った傷口が今更刺激されたことによる、刺すような鋭い痛みが全身に広がる。
 無意識に身を縮めハンカチを避けようとする彼であったが、マルガリータが空いている手で無情に肩を押さえつけた。

「動かないで」

 彼女の動きは決してやさしいとは言えず、むしろ乱暴であったとも言えたが、異常に早く正確であった。水とハンカチは出来る限り傷口周りの血液の塊や膿を清めることができたが、傷口の本来の姿が露わになり、状態の悪さを示していた。
 今マルガリータにできる最も良い治療は、と考えた彼女は、救急箱から緑色の軟膏を取り出した。これは北境特製の薬で、マルガリータも何度かこれに命を救われたことがある。

 しかしまたもややや乱暴な手つきで、緑の軟膏が傷口に塗り付けられる。警戒しているだろうに、反抗することも暴れることもなかった。
 ただ強烈な刺激は伴うようで、ノアリデアートが奥歯を血が出そうなほど食いしばり、額から冷や汗が流れ地面に零れているのが分かる。だがそうまでなってもなお、呼吸を深く押さえつけることはあっても、二度と声一つ上げることはなかった。

 マルガリータは彼の蒼白な顔を一瞥すると、包帯を取り出して体全体に巻き付けた。もはや傷のない箇所がないから、これが妥当だ。その慣れた手つきは、誰が見ても公爵令嬢には見えないだろう。一応身分はまだ公爵令嬢だが、この三年の間、彼女も色々あったであろうことがノアリデアートにも分かった。
 全てを終わらせると、マルガリータは立ち上がって自分の手を清め、肩で息をする彼に魔法を使用して着替えさせ、あくまで冷たい瞳で見下ろしながらなんでもないことのように話を続けた。

「医者を付けるべきね。薬もちゃんとしたものを」

「……」

 マルガリータはそう言うと、さっさと背を向けて救急箱を手に取り去っていく。またもや何か言いたげに口を開いたノアリデアートに気づけず、置き去りにして。
 彼に医者を付けるというのは、秘密を知る人間を増やすということ。もうすぐ宴会だというのに、その危険性を分からないマルガリータではないはずだ。
 鉄の門が閉じていく不快な音が、またもや彼を外の世界と隔離する。

 地下牢に暗闇と静寂が戻った。ノアリデアートは相変わらず隅にうずくまったままだ。それでも、薬の刺激の分だけ治療後は体が相当軽くなったようだ。エルムライトやアメリアよりはるかに自分を恨んでいるはずで、そしてそうあるべきである彼女が、唯一彼を救っている。
 屈辱なのか? それとも無力なのか? 怒りなのか? どれともわからない感情が、水面に石を投げたかのような波動を生んでじわりと染み渡り、生きた鼓動を生んだことは、確かだった。
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