氷上の悪役令嬢

Estella

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第一章 『前皇帝と北境の主』

第一章9 『憎しみに勝る』

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 北境離宮、『隔世殿』。長らく人が住まずにいた離宮の使用人部屋の扉が、ゆっくりと開かれた。
 汚水の染み出た石壁も、腐った草の臭いも、湿り切った空気も、ここには一切ない。部屋は大きいとはとても言えないが、簡素で清潔な普通の一室で、一般的な住居と変わらないものだった。
 固定された小さな机、更には蛇口や体を清める箇所も用意されている。一人用のベッドはシーツもしっかり敷かれていて、生活するには申し分ない。
 ただ変わらないのは、ノアリデアートの腕にはめられた魔力を封じる枷と、それを壁に繋げる鎖。

 ノアリデアート・エンバースはマルガリータの命を受け、ヴァイスの手によってこの部屋に運ばれてきた。丁重にベッドの上に下ろされ、この部屋の全体が見えるようになると、彼の表情に滲む困惑と驚愕は隠しきれなくなっていた。
 エルムライトとアメリアの殺意と執着を考えれば、ノアリデアートの完全な被害者であるマルガリータは更なる暗闇と絶望、苦痛でもって復讐しに来るに違いないと予想していたし、同時にそれで構わないとも思っていた。
 ――こんな、優遇とさえ言える待遇を受けるとは、夢にも思っていなかったのだ。

 ヴァイスが退室すると、マルガリータが入れ替わるように部屋に入った。その手には、炎が盛んに燃えるランプが握られている。ローブは脱いだものの、相変わらず軍服を着た彼女の佇まいは、やはり冷徹さに満ちていた。
 彼女はノアリデアートの氷上に滲んだ隠しきれぬ驚愕を見つめたが、そこまで内心に波紋は立たなかった。脳裏に描かれるのは、あの日の治療時に見た見るも無残な傷口だけ。あんな重罪人用の、湿気と腐敗にまみれた場所で過ごさせていては、いくら彼であろうと命を落としてしまうだろう。
 そんな死に方は、望んでいない。

「……ここなら、死にやしないでしょう。治療次第ではありますが」

 そう口にしてから、マルガリータは自分の言い方がなんだか寄り添っているようにさえ感じられて眉を顰め、語気を強めて続けた。

「死んだ前皇帝など、わたしにとって何の価値もないですから」

 ノアリデアートの唇がわずかに震え、その視線は清潔な石壁から冷たい鎖へと移動し、最後にマルガリータの無表情な顔で静止した。
 優待にさえ思える彼女の采配こそ、純粋な苦痛や屈辱よりも一層心を苛む――そう、不安をもたらしている。自分に向けられたのが憤怒でも憎悪でも、暴力でも嘲笑でも、この不安と絶望に揺れ続けるよりはましだったに違いない。こんな、メンテナンスの必要な機械を前にしたかのような冷静さを、見続けるくらいなら。

 その瞬間、白々とした白衣を来た、白いひげを長く伸ばした老人が、古びた薬箱を手に持ち、ヴァイスの案内のもと部屋の中に入ってきた。
 老人の表情は温和であるが、その瞳は悟りを開いたかのような深さを帯びている。彼は薄く微笑みながら、マルガリータに対しゆっくりと頭を下げた。

「われらが女王」

「おやめください、レガード医師。一応は帝国の領域内、そして貴方の前には前皇帝がいるのですよ」

「ほっほっほ、冗談です。しかし女王に相応しい器をお持ちだとは思いますがな……」

「冗談なら早く止めてください。とりあえず、この人の治療をお願いします。薬は貴方の采配に任せます、値段は問いません」

 レガード医師と呼ばれた老人は、どうやらユーモアに溢れた人物のようだ。そして、北部に君臨するマルガリータが下手に出て敬意を表す数少ない人物でもある。
 何せ、北境の厳しい気候の中で何度も命を落としかけたシャトーブラン家の面々を、何度も救ってきた恩人であるのだから。

 その情景をぼんやりと眺めていると、レガード医師はゆっくりとベッドに歩み寄った。本能で身体を固くしたノアリデアートは、強く医師を睨みつける。

「少年、力を抜きなさい」

 医師の声はしゃがれていたが平静で優しく、不思議な落ち着かせる力を持っていた。ノアリデアートも思わず言われた通りに力を抜いてしまう。

「私はただの医者だ、恐れずともよろしい」

 レガード医師は急がず焦らず、ノアリデアートの顔色と瞳孔を静かに観察した後、彼に横たわるように指示した。
 医師は慣れた手つきでマルガリータの巻いた包帯を外し、目も当てられぬ残忍な傷口を見つめて眉をひそめた。彼はしわだらけだが安定した手つきで、軽く傷口の周囲を触診する。

 痛みが体を走り、生理的な硬直反応が起こるが、ノアリデアートはいつもと同じように声一つ出しはしなかった。
 マルガリータは医師の隣に立ち、ただ静かにじっと治療の過程を見つめる。レガード医師が医療用の小さなナイフで腐り切った肉を削いでいくのを、そして全身から冷や汗が吹き出し、爪を深々とベッドに食い込ませて耐える彼の姿を。
 レガード医師は茶色の軟膏を傷口に塗ると、消毒済みの包帯で再度傷を包み直した。

 目が合うと、彼の瞳に、警戒とも、戸惑いとも、屈辱とも、動揺とさえ取れるような、感情の数々がよぎるのが伝わってくる。
 だが、マルガリータの方から何か視線を返すことは、なかった。

「毎日薬を一度替える必要がありますな。銃弾の跡に関しては……一度手術を検討せなばなりますまい。内服薬も私がお持ちしましょう」

 レガード医師はくるりとマルガリータの方を向いて、

「静養が必要です。くれぐれも寒さにあたらせず、激しい運動をさせませぬよう」

「ええ、承知しています。ああ、手術の件も医師のお好きなように」

「……。承知しました」

 マルガリータは肩をすくめたのち、ヴァイスに視線でレガード医師を送り出すように伝える。
 部屋の中は再び二人きりになり、その沈黙が消毒したばかりの傷口の痛みを目立たせる。だが、その痛み方は数日前とはくらべものにならない。
 ノアリデアートは体を起こし、部屋を見回す。下には布団があって、空気中には腐敗した香りは一切ない。あれから三年、こんな一般的な環境に置かれたのは、初めてだった。今も、目を閉じれば夢が覚めてしまうのではないか――などと荒唐無稽なことを考えるほどに。

 沈黙の末にマルガリータが立ち去ろうと身を翻した時、ノアリデアートが唐突に口を開いた。相変わらず掠れた声には、恐る恐るといった震えが伴っているように思えた。

「――俺を殺したいと思わないのか」

 マルガリータの足がぴたりと止まる。彼女はやや驚いた眼をして、彼の方を振り向いた。
 そうして、マルガリータは確かに、彼の瞳に灯る複雑な感情を目にしたのだ。挑戦でも侮蔑でもなく――、深く重く、彼自身を飲み込んでしまいそうなほど膨れ上がった、恐怖を。
 その恐怖は死に対するものだろうか? そうは、思えない。

 マルガリータはしばし彼の姿を眺め、その真意を掴み取ろうとしたが、諦めて小さく首を振った。彼女はノアリデアートと視線を合わせて、相変わらず冷徹な声で返す。

「殺すだなんて、あまりに安すぎるでしょう」

「――」

「貴方にはまだ価値がある。その価値を発揮していないのに、死んでもらっては困りますね」

 その言葉を吐き捨てるや、マルガリータはさっさと立ち去って行った。扉が静かに閉まり、鍵のかかる音が静かに部屋に響く。
 ノアリデアートは暗くなった室内を眺めて、静かに、倒れるように布団に横たわった。

 恨んでいるのなら。
 殺意にさえ勝るような憎しみが、彼女にあるのなら。

 それなら、いい。

 彼女の無関心よりも恐ろしいことは、今の自分にはないのだから。
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