氷上の悪役令嬢

Estella

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第二章 『「主人公」と「ヒロイン」』

第二章6 『感情の定義』

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 そうしてついに、北境の心臓ともいえるマルガリータとその腹心たちが、北境の民衆に見送られながら帝都へ去っていった。
 その光景はノアリデアートには見ることができないが、不思議と、同じような寂しさを覚える。彼もまたここへ来て初めて、というより三年来初めて、看守のいない状況にあった。地下監獄の審問官もいなければ、定期的に訪れるマルガリータもいない。
 カゲロウの言う通り、今やどこよりも静かな隔世殿はたくさん考え事をするのに最適だった。

 核心たちがいなくなった北境に混乱は生まれなかった。元々北境で尊敬を集めていたレガード医師が、今は政務を安定的に処理している。
 だが、マルガリータの帝都行きは、全北境人の生活の中に緊張の色をしみこませていた。

 部屋の中は静かだ。炭火の音と自分の呼吸しか聞こえない。目を閉じれば、あの日のことばかりが頭に浮かんだ。
 あの日、マルガリータに警鐘を鳴らす言葉を選んだ自分は、どれほど彼女に影響を及ぼせただろうか。
 ヴァイスはああ言ったが、囚人の自分が彼女の心持ちを変えられるだなんて、それは思い上がりではないのか。今の彼がマルガリータのためにできることなんて、ほとんどないのに。

「いつから、こうなったのか……」

 全てがマルガリータを中心に回っている自分の思考に、ノアリデアートは首を傾げた。
 初めて彼女にここに連れてこられた時は、自分は警戒と憤怒と屈辱でいっぱいで、彼女に敵意を露わにしていたはずだ。そしてマルガリータも、軽いものながら七年の鬱憤を晴らすかのような復讐行為を試みていた。
 それが、いつからこんなことになったのだろうか。
 マルガリータは彼に環境と地位と仕事を与え、ノアリデアートの世界は彼女を中心に回っている。彼女の心中を測ることはできないが、自分自身はどうだろうか?

 ノアリデアートは、結局のところマルガリータ・エステルをどう思っているのだろうか?

 感情、というものが不必要であると教わってきたノアリデアートにとって、今彼女に抱いているこの複雑な想いに名前を付けることはあまりにも難しい。
 だから、考えた。
 自分が彼女に抱いてきた想いの全てを思い出して、連ねることで、言葉を探した。

 初めは、警戒と恐怖だった。自分はマルガリータが最も激しく残酷に復讐を行うものと思っていたから、全てを受け入れる準備をしていた。彼女の悪意と殺意に溺れる準備を。けれど彼女は自分に治療を施して、綺麗な部屋を与えた。自分はそれにただ喜んだだろうか? いや、違う。彼女は自分に関心がないのではないかと、生死さえ気に掛けていないのではないかと、恐れた。そんな感情の機微が、今までの自分にあったはずがない。

 アメリアの二度の来訪の時。未だにあの時の恐慌と嫌悪、そして罪悪感を覚えている。アメリアに語った事としたことを、彼女が本気だと認識してしまうことを恐れた。彼女の信用を得る機会さえもらえなかったときは、彼女が完全に彼のことを忘れ、無視するつもりなのだと思った。それならば、まだ悪意と殺意の方がましであるだなんて、初めてそんなことを考えた。

 マルガリータがエルムライトを「ルカス」と呼んでいたことを意識した時、心がささくれ立つのを感じた。七年の婚約期間でも、エルムライトに関わることについては大層厳しかった。あの時は、残忍な手段で彼女を『戒める』ことでごまかしていたのかもしれない。今やはるか上に立つ彼女には、手を伸ばすことさえ叶わない。ただ見ていることしかできない哀しみも相まって、あのアメリアの前で動揺してしまった。

 この感情を何と呼ぶのだろうか?
 こんなにも複雑で、自分自身を圧し潰しそうになるほどの感情を、表せる言葉がこの世に存在するのか。

 依存? 感激? 憧憬?
 どれも違う。
 そして、これ以上考えていくのも怖かった。
 もしも何か答えを出してしまったら、後戻りができない気がしたから。今の自分には、彼女に何かを期待し求める資格など一切ないというのに。

 そうやって、何か感情に名前を付けて、彼女の冷たい嘲笑と拒絶を受けたくない。
 自分は、ここまで臆病だっただろうか?

「……時間が、ありすぎるのも難儀だな」

 だが、こうしたことを考えていなければ、帝都にいる彼女の状況を考えてしまって、座っていられない。
 まだまだ考えていよう。
 大事なところを意図的に避けながら。自分の罪を一個ずつ数えながら。思考で苦しむこともまた、ある種の罰の一つだ。
 時間は、飽きるほどにあるのだから。

 ――隔世殿は、今日もまた静かだった。静かな宮殿に、深い思考が沈んでいった。
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