ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜

若宮 卯芽

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夢見鳥(ゆめみどり)

献身(2)

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 のんびり観戦している場合ではない。何か武器はないかと、あたりを見回す。

 わかっている。子供に武器を渡すのは、罪深いことだ。そうとも。だが、ほかにできることがあるか。

 眼帯の男の首に突き立った牙、床を割った巨大な斧、椅子に刺さった手斧。どれも、まず引き抜くことが難しい。

 では、眼帯の男の太ももに装着されたナイフ。これならどうか。グリップから切っ先までが半円状で、グリップの末端は大きなリングという、短剣とはかなり形が違うものだ。おそらく使い勝手も違うだろうが、素手よりはましかもしれない。

 眼帯の男は完全に脱力し、かろうじて呼吸している。
 大男は酔って寝ている。いつの間にか、大男の両手首が紐で縛られていた。少年のペンダントの紐は、あれではなかったか。つまり、少年は眼帯の男に飛びかかる前に、大男を拘束していたらしい。まったく気づかなかった。
 ほかの男たちは、少年と女性より向こう側で、二人の戦いに釘づけだ。

 それらを確認して、革の鞘から慎重にナイフを抜く。独特なカーブと、鋭い両刃のせいで、下手をすると自分の手を切りかねない。もたつきながらも、なんとか取れた。光の反射で気づかれないよう、そっとスカートの後ろに隠した。

 武器は手に入れた。これをどう渡す。うかつに少年の気を散らしてはいけない。邪魔をしないタイミングを見極める必要がある。

 視線の先で、少年が長剣をけている。
 痛みのせいか、女性が大きく空振りした。少年はすかさずふところに入り込み、短剣のつかを蹴り上げる。

「ぐ……ッ」

 衝撃でさらに深く刺さったらしく、女性が腹を押さえてよろめく。

小癪こしゃくな犬が!!」
 逆上した女性が斬りかかる。少年はぎりぎりで身をかわし、それから後ろに退いた。
 長剣のが、少年が元々いた位置の背後にあったマストに食い込んだ。

 ──いましかない!

 ナイフを床に滑らせる。声は出さない。少年がこちらを振り向くと思ったから。

 革のブーツにぶつかる直前、少年はかかとでナイフを止めた。即座にグリップを踏んで空中にね上げ、見もせずに掴み取った。

神恩感謝しんおんかんしゃ

 少年が短く礼を言い、腰を落としてナイフを構えた。少年が使える武器だったようだ。

 ほっとしたのも束の間、誰かにうなじを掴まれた。悪臭がして、大男がそうしたのだとわかった。手首の拘束を解いたとおぼしい。

「ちょ~っとオイタが過ぎるんじゃねえかァ?」

 あらがう余地もなく投げ飛ばされ、向かい側の椅子にぶつかり、みっともなく転んだ。
 目の前には、女性がいた。マストから引き抜いたらしい長剣を持っている。
 座ったまま手をついて後ずさりするが、それが女性を刺激した。
 女性は肩で息をしつつ、苛立たしげに舌打ちし、長剣を振り上げる。利益より感情を選んだのだ。

「この売女ばいたが……オレのモノをたぶらかしやがって!!」

 銀色のやいばが迫ってくる。

 斬られる。

 死ぬ。

 まばたきもできなかった。

 だから──自分とやいばあいだに割り込む背中もはっきり見えた。

 肉を断つ音がした。
 真っ赤な血が、床に点々と散らばった。
 知らぬうちに、自分の口が耳障りな悲鳴を上げた。

 少年はかしぐ上半身をこらえてでもナイフを振ろうと、一歩踏み出す。だが、その足ではふらつく体を支えきれない。戦意に反して膝が折れ曲がり、もう片方の足が宙に浮き、背中から倒れた。

 遠くで、男たちの歓声が聞こえた。

「あ、あ……」

 仰向けになった少年のもとへって進む。
 肩から斜めに走る大きな傷。あとからあとからあふれる赤い血。
 白いスカートがそれを吸い込んで、まだらに染まる。

「あああ……」

 赤い。赤い。圧迫、どこを、どうやって──。

「い、いや、死なないで」

 涙がぼたぼた落ちて、少年の頬を濡らす。てのひらで血や泥と一緒にぬぐうが、そのそばから、また濡らしてしまう。

「お願い、お願い……」

 少年は苦しそうに眉根を寄せながらも、緑の目を細めて、微笑んだ。

「……あなたが、惜しんで、くださるなら……」

 そのまなざしに耐えきれなくて、緑の頭をできるだけ優しく抱きしめた。
 湿った髪に頬ずりして、ひゅうひゅうと息をする体を撫でさする。
 名前を呼んであげたくても、それができない。
 知らなくてはいけなかったのに。罪の有無よりも、場所や言語のことよりも、真っ先に名前を。

「ハハハッ、感動的なこった! 重ねて四つにしてやるよ!」

 五月蝿うるさい。

 火炙ひあぶりにされたような思いで、目をやる。長剣のには、ほんのわずかに薄紅色のあぶらがついている。血が出るより早く振り抜いたからか。身代わりに受けた傷は、どれほど痛かっただろう。

 ただただ、女性をにらむ。

 しゃくに障った様子の女性が詰め寄ろうとした時、唐突に足を滑らせて膝をついた。

「なんだ!?」

 女性が取り乱して足元を見た。つられて視線を下げると、原因は卵だとわかった。靴底で粉々になった殻があった。

 だが──。

 船が揺れても、ここまで流れるだろうか。
 床に落ちても、ここまで黒ずむだろうか。

 どうして、こんなにあぶくが出ているのだろうか。

 黒いが煮え立っている。まるで水が沸騰しているようだ。
 生卵を焼いたところで固まるだけ。そもそも、水びたしの甲板で、加熱する方法があるだろうか。

 疑問をよそに、それは殻の容量を明らかに超えて、じわじわと広がる。
 あぶくはどんどん激しさを増す。

 もはや卵ではない。
 粘液の怪物だ。

「な……なんだよ、これは!?」

 女性が慌てて立ち上がり、粘液から目を離さないまま後ろに下がる。だが、距離がひらいた分だけ、粘液は追いかける。

 ──意思があるの?

 粘液は、床に流れる少年の血と混ざり合い、てらてらと赤黒く色を変えながら進んでゆく。
 そして、女性の影と重なった時、間欠泉のように高く噴出した。
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