ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜

若宮 卯芽

文字の大きさ
6 / 20
夢見鳥(ゆめみどり)

目覚め(1)

しおりを挟む
 小さい頃、ヴラド三世の絵を見た。
 串刺しにされた人々のそばで、男性がテーブルについて食事をしている。そういう絵だ。
 あまりに恐ろしくて、その夜は眠れなかった。

 いま、あの絵とよく似た光景がある。違う。絵よりもっと恐ろしい。

 赤黒い粘液は凝縮して固まり、縦に長く伸び、マストのてっぺんより高い場所へ女性を連れ去った。
 粘液がかたどった槍は、女性の胃のあたりを貫通している。

 自分の喉がくぐもった声を出す。眼鏡がなくてもよく見える目が、女性の吐血した姿を捉えた。その手から長剣が滑り落ちたところも。

 ──危ない!

 少年に当たらないよう、横たわる体に覆いかぶさる。
 空から布がはためく音がした。
 幸いにも、剣は離れた場所に落ちた。血はまだ降ってこない。
 上を見ると、帆を張るロープが切れて、白い布が風になびいていた。それが、血を受け止めていた。また、布の破れた箇所から、剣の軌道を変えたらしいとわかった。

 男たちが叫んでいる。
 大男が狂乱して手斧を振り回している。粘液がばらばらに飛び散るが、それは数を増やすだけだった。ひとかたまりの粘液だったものが、群体として増殖していく。ぼこぼこと泡が消えては浮かび、次の瞬間には杭となって四方から大男を貫いた。
 同じようなことが、船のあちこちで起こっている。

 自失し、惨劇を眺めることしかできずにいたが、粘液が忍び寄る気配で我に返った。
 粘液は少年に近づいている。押しのけようと突っぱった手は、ぶよぶよした塊に沈み込んでしまい、まったく抵抗できていなかった。

「や、やめて。この子には何もしないで」

 粘液に対する手段が頭に浮かばず、ぶざまに懇願することしかできない。
 駄目で元々だったが、粘液は素直に引いていった。

 ──言葉が通じる?

 理屈はわからないが、ひとまず粘液に攻撃されることはなさそうだ。
 とはいえ、安心はできない。もともと浸水していたところに、増殖する粘液の重さが加わり、徐々に船が沈んでいる。
 この船は終わりだ。しかし、突っ込んできた船は、まだ無事に見えた。あの船に移れば、もしかしたら助かるかもしれない。

「どうか、お早く……構わずに……」

 息も絶え絶えに伝えたい言葉が、それか。
 緑の頭を抱きしめて、答えに代える。

「ああ……そんな、……」

 ここまでしてくれた子供を置き去りにして、一人だけ助かって、その先はどうする。
 恋人は、親友は、祖父は、緊急避難を理由に、責めないでくれるだろうか。
 いな。誰にゆるされても、法的に無罪でも、自分が自分を心から見下げ果てるに違いなかった。

 ──この子を、助けたい。

 医者、病院、どちらも無理だ。
 それでも、少年をあの船に運ぶくらいならできる。祖母の介護をした経験があるのだから。
 見様みよう見真似みまねで覚えた、床から車椅子への移乗。その手順を応用できないか、頭の中でシミュレーションした。不安がつのるが、やるしかない。
 少年の腰のあたりに正座する。まずは声かけだ。これから何をするのかを説明しようと口を開きかけ、少年がナイフを握り込んでいることに気づいた。

「ナイフ、放せる?」

 少年はためらう様子を見せた。一つ頷き、そのままでいいと示す。ただ、抜き身では危ない。
 眼帯の男を確認する。ナイフケースを取りに行けたらと期待したものの、もぞもぞと動く体が粘液に覆われているところを目にし、その考えは即座に捨てた。

「少しだけ、借りさせてもらうね」

 ナイフを握る少年の手ごとつかんで、スカートの裾を裂く。少年が身じろぎした。驚かせたことを申し訳なく思いつつ、作業を続ける。不恰好なフィッシュテールスカートができた。
 切り取った生地を、さらに裂く。血が染みた箇所を取り除き、数枚の端切れを作る。そのすべてをナイフに巻きつけた。引越しの時に包丁をタオルで梱包したことがあるが、包丁と違ってが湾曲していて、とてもやりづらい。

 手間取ったが、なんとか巻き終えた。これで移乗の最中さいちゅうに刃が当たることはないだろう。
 本当は、包帯代わりに使えたらよかったが、用尺ようじゃくが足りなかった。

「よし、いまから体を起こすよ。痛いだろうけど、ごめんね」

 改めて声かけしてから、少年の上半身を起き上がらせる。ほっとした。体が覚えていたらしい。

「あれ、あの椅子、あれに座ろう」

 一番近くの椅子を指差す。
 少年の骨盤を両膝で挟み、力まかせにしないポイントを思い返しつつ、細い体をかかえ上げて膝に乗せる。予想していたより重い。
 肩から胸元に濡れた感触がした。少年の傷口が当たっているのだ。急いで、慎重に、事を進めなければならない。
 少年を抱え上げたまま両膝で立ち、次に片膝で立つ。そして、立てた膝に座らせる。短い休憩を入れ、少年を膝から椅子へ移動させる。

 激しい運動をしたわけでもないのに、こめかみから汗が流れ落ちた。
 少年は、服の下に鎖帷子くさりかたびらのようなものを着込んでいる。重いはずだ。この金属で編まれたものまで両断した女性のパワーに寒気がする。
 一つ息を吐いて、無用な感想を追い出す。椅子に座らせることがゴールではない。

「隣の椅子に移るよ。ほら、見える? あの船、あれに乗り換えよう」

 椅子から椅子へ、何度も移動を繰り返す。

「も、もう少しだから……」

 息が切れる。言葉が続かない。
 がんばってとは言いたくなかった。もう十分にがんばってくれた。これ以上は何もしなくていい。
 大人が子供に守られるなんて、立場が逆だ。恥ずべきことだ。

「……がんばるからね」

 そう。それはこちらの役目である。子供を不安にさせてはいけない。口角を上げることすら大変だが、表情を改める。

「次はこっちよ」

 少年を抱えなおした時、足首に激痛が走った。
 反射的に下を見ると、スカートごと足首を掴む手が見えた。少年の血を吸った裾が、足首と手のあいだで押し潰され、ブチュブチュと音を立てる。絞り出された血が、手から肘へと流れるのを目で追う。
 視線の先には、腹這いの男がいた。少年に牙を突き立てられた男だった。顔の半分、眼帯をつけているがわが、粘液で隠れている。

「この、アマ……にがして、たまる、かよ……」

 男は全身に粘液を絡みつかせたまま、床から鬼気迫る形相ぎょうそうでつぶやく。首に刺された牙のせいで、声を出しづらそうだ。口のはしから、首の傷から、血が垂れている。それを押しても恨み言を吐きたいのか。

 残念ながら、恨み言ならこちらにもある。人身売買に一番乗り気だった相手なのだから当然だ。口に指を突っ込まれそうになったのも気持ちが悪かった。ただ、状況が状況なので、構っていられない。逃げることが最優先だ。

 しかし、足首を握り潰されかねない強さで掴まれ、振り払うどころか、そもそも足を動かすことが難しい。奥歯が割れそうなくらいりきんでいるのに、びくともしないのだ。少しでも抵抗をやめると引きずり倒されることがわかるから、必死だった。

 傍目はためには不動であろう攻防をしている間に、船が激しく傾いた。向かい側のへりが、頭よりはるかに高い位置まで上がったのが見えた。
 同じタイミングで、男の腕を覆う粘液が無数の釘に変化へんげし、小手を軽々と突き破って、上下に貫通した。おかげで、万力じみた手が離れる。
 だが、男に対する反作用が急に釣り合わなくなったためにはずみがつき、自ら海に身を投げる形になった。

 せめて少年を船へ放り投げなければと、腕に力を込めた。
 その時──。
 こちらの思案を知ってか知らずか、少年はナイフを捨てて、ワンピースの肩紐のあたりを握りしめた。
 戸惑い、ほんのわずかな猶予をふいにしてしまった。そのことに気づいても、遅すぎる。

 二人一緒に、波の底へさらわれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

花嫁召喚 〜異世界で始まる一妻多夫の婚活記〜

文月・F・アキオ
恋愛
婚活に行き詰まっていた桜井美琴(23)は、ある日突然異世界へ召喚される。そこは女性が複数の夫を迎える“一妻多夫制”の国。 花嫁として召喚された美琴は、生きるために結婚しなければならなかった。 堅実な兵士、まとめ上手な書記官、温和な医師、おしゃべりな商人、寡黙な狩人、心優しい吟遊詩人、几帳面な官僚――多彩な男性たちとの出会いが、美琴の未来を大きく動かしていく。 帰れない現実と新たな絆の狭間で、彼女が選ぶ道とは? 異世界婚活ファンタジー、開幕。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...