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夢見鳥(ゆめみどり)
目覚め(1)
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小さい頃、ヴラド三世の絵を見た。
串刺しにされた人々のそばで、男性がテーブルについて食事をしている。そういう絵だ。
あまりに恐ろしくて、その夜は眠れなかった。
いま、あの絵とよく似た光景がある。違う。絵よりもっと恐ろしい。
赤黒い粘液は凝縮して固まり、縦に長く伸び、マストのてっぺんより高い場所へ女性を連れ去った。
粘液が模った槍は、女性の胃のあたりを貫通している。
自分の喉がくぐもった声を出す。眼鏡がなくてもよく見える目が、女性の吐血した姿を捉えた。その手から長剣が滑り落ちたところも。
──危ない!
少年に当たらないよう、横たわる体に覆いかぶさる。
空から布がはためく音がした。
幸いにも、剣は離れた場所に落ちた。血はまだ降ってこない。
上を見ると、帆を張るロープが切れて、白い布が風になびいていた。それが、血を受け止めていた。また、布の破れた箇所から、剣の軌道を変えたらしいとわかった。
男たちが叫んでいる。
大男が狂乱して手斧を振り回している。粘液がばらばらに飛び散るが、それは数を増やすだけだった。ひとかたまりの粘液だったものが、群体として増殖していく。ぼこぼこと泡が消えては浮かび、次の瞬間には杭となって四方から大男を貫いた。
同じようなことが、船のあちこちで起こっている。
自失し、惨劇を眺めることしかできずにいたが、粘液が忍び寄る気配で我に返った。
粘液は少年に近づいている。押しのけようと突っぱった手は、ぶよぶよした塊に沈み込んでしまい、まったく抵抗できていなかった。
「や、やめて。この子には何もしないで」
粘液に対する手段が頭に浮かばず、ぶざまに懇願することしかできない。
駄目で元々だったが、粘液は素直に引いていった。
──言葉が通じる?
理屈はわからないが、ひとまず粘液に攻撃されることはなさそうだ。
とはいえ、安心はできない。もともと浸水していたところに、増殖する粘液の重さが加わり、徐々に船が沈んでいる。
この船は終わりだ。しかし、突っ込んできた船は、まだ無事に見えた。あの船に移れば、もしかしたら助かるかもしれない。
「どうか、お早く……構わずに……」
息も絶え絶えに伝えたい言葉が、それか。
緑の頭を抱きしめて、答えに代える。
「ああ……そんな、……」
ここまでしてくれた子供を置き去りにして、一人だけ助かって、その先はどうする。
恋人は、親友は、祖父は、緊急避難を理由に、責めないでくれるだろうか。
否。誰に赦されても、法的に無罪でも、自分が自分を心から見下げ果てるに違いなかった。
──この子を、助けたい。
医者、病院、どちらも無理だ。
それでも、少年をあの船に運ぶくらいならできる。祖母の介護をした経験があるのだから。
見様見真似で覚えた、床から車椅子への移乗。その手順を応用できないか、頭の中でシミュレーションした。不安が募るが、やるしかない。
少年の腰のあたりに正座する。まずは声かけだ。これから何をするのかを説明しようと口を開きかけ、少年がナイフを握り込んでいることに気づいた。
「ナイフ、放せる?」
少年はためらう様子を見せた。一つ頷き、そのままでいいと示す。ただ、抜き身では危ない。
眼帯の男を確認する。ナイフケースを取りに行けたらと期待したものの、もぞもぞと動く体が粘液に覆われているところを目にし、その考えは即座に捨てた。
「少しだけ、借りさせてもらうね」
ナイフを握る少年の手ごと掴んで、スカートの裾を裂く。少年が身じろぎした。驚かせたことを申し訳なく思いつつ、作業を続ける。不恰好なフィッシュテールスカートができた。
切り取った生地を、さらに裂く。血が染みた箇所を取り除き、数枚の端切れを作る。そのすべてをナイフに巻きつけた。引越しの時に包丁をタオルで梱包したことがあるが、包丁と違って刃が湾曲していて、とてもやりづらい。
手間取ったが、なんとか巻き終えた。これで移乗の最中に刃が当たることはないだろう。
本当は、包帯代わりに使えたらよかったが、用尺が足りなかった。
「よし、いまから体を起こすよ。痛いだろうけど、ごめんね」
改めて声かけしてから、少年の上半身を起き上がらせる。ほっとした。体が覚えていたらしい。
「あれ、あの椅子、あれに座ろう」
一番近くの椅子を指差す。
少年の骨盤を両膝で挟み、力まかせにしないポイントを思い返しつつ、細い体を抱え上げて膝に乗せる。予想していたより重い。
肩から胸元に濡れた感触がした。少年の傷口が当たっているのだ。急いで、慎重に、事を進めなければならない。
少年を抱え上げたまま両膝で立ち、次に片膝で立つ。そして、立てた膝に座らせる。短い休憩を入れ、少年を膝から椅子へ移動させる。
激しい運動をしたわけでもないのに、こめかみから汗が流れ落ちた。
少年は、服の下に鎖帷子のようなものを着込んでいる。重いはずだ。この金属で編まれたものまで両断した女性のパワーに寒気がする。
一つ息を吐いて、無用な感想を追い出す。椅子に座らせることがゴールではない。
「隣の椅子に移るよ。ほら、見える? あの船、あれに乗り換えよう」
椅子から椅子へ、何度も移動を繰り返す。
「も、もう少しだから……」
息が切れる。言葉が続かない。
がんばってとは言いたくなかった。もう十分にがんばってくれた。これ以上は何もしなくていい。
大人が子供に守られるなんて、立場が逆だ。恥ずべきことだ。
「……がんばるからね」
そう。それはこちらの役目である。子供を不安にさせてはいけない。口角を上げることすら大変だが、表情を改める。
「次はこっちよ」
少年を抱えなおした時、足首に激痛が走った。
反射的に下を見ると、スカートごと足首を掴む手が見えた。少年の血を吸った裾が、足首と手の間で押し潰され、ブチュブチュと音を立てる。絞り出された血が、手から肘へと流れるのを目で追う。
視線の先には、腹這いの男がいた。少年に牙を突き立てられた男だった。顔の半分、眼帯をつけている側が、粘液で隠れている。
「この、アマ……逃して、たまる、かよ……」
男は全身に粘液を絡みつかせたまま、床から鬼気迫る形相でつぶやく。首に刺された牙のせいで、声を出しづらそうだ。口の端から、首の傷から、血が垂れている。それを押しても恨み言を吐きたいのか。
残念ながら、恨み言ならこちらにもある。人身売買に一番乗り気だった相手なのだから当然だ。口に指を突っ込まれそうになったのも気持ちが悪かった。ただ、状況が状況なので、構っていられない。逃げることが最優先だ。
しかし、足首を握り潰されかねない強さで掴まれ、振り払うどころか、そもそも足を動かすことが難しい。奥歯が割れそうなくらい力んでいるのに、びくともしないのだ。少しでも抵抗をやめると引きずり倒されることがわかるから、必死だった。
傍目には不動であろう攻防をしている間に、船が激しく傾いた。向かい側のへりが、頭よりはるかに高い位置まで上がったのが見えた。
同じタイミングで、男の腕を覆う粘液が無数の釘に変化し、小手を軽々と突き破って、上下に貫通した。おかげで、万力じみた手が離れる。
だが、男に対する反作用が急に釣り合わなくなったために弾みがつき、自ら海に身を投げる形になった。
せめて少年を船へ放り投げなければと、腕に力を込めた。
その時──。
こちらの思案を知ってか知らずか、少年はナイフを捨てて、ワンピースの肩紐のあたりを握りしめた。
戸惑い、ほんのわずかな猶予をふいにしてしまった。そのことに気づいても、遅すぎる。
二人一緒に、波の底へさらわれた。
串刺しにされた人々のそばで、男性がテーブルについて食事をしている。そういう絵だ。
あまりに恐ろしくて、その夜は眠れなかった。
いま、あの絵とよく似た光景がある。違う。絵よりもっと恐ろしい。
赤黒い粘液は凝縮して固まり、縦に長く伸び、マストのてっぺんより高い場所へ女性を連れ去った。
粘液が模った槍は、女性の胃のあたりを貫通している。
自分の喉がくぐもった声を出す。眼鏡がなくてもよく見える目が、女性の吐血した姿を捉えた。その手から長剣が滑り落ちたところも。
──危ない!
少年に当たらないよう、横たわる体に覆いかぶさる。
空から布がはためく音がした。
幸いにも、剣は離れた場所に落ちた。血はまだ降ってこない。
上を見ると、帆を張るロープが切れて、白い布が風になびいていた。それが、血を受け止めていた。また、布の破れた箇所から、剣の軌道を変えたらしいとわかった。
男たちが叫んでいる。
大男が狂乱して手斧を振り回している。粘液がばらばらに飛び散るが、それは数を増やすだけだった。ひとかたまりの粘液だったものが、群体として増殖していく。ぼこぼこと泡が消えては浮かび、次の瞬間には杭となって四方から大男を貫いた。
同じようなことが、船のあちこちで起こっている。
自失し、惨劇を眺めることしかできずにいたが、粘液が忍び寄る気配で我に返った。
粘液は少年に近づいている。押しのけようと突っぱった手は、ぶよぶよした塊に沈み込んでしまい、まったく抵抗できていなかった。
「や、やめて。この子には何もしないで」
粘液に対する手段が頭に浮かばず、ぶざまに懇願することしかできない。
駄目で元々だったが、粘液は素直に引いていった。
──言葉が通じる?
理屈はわからないが、ひとまず粘液に攻撃されることはなさそうだ。
とはいえ、安心はできない。もともと浸水していたところに、増殖する粘液の重さが加わり、徐々に船が沈んでいる。
この船は終わりだ。しかし、突っ込んできた船は、まだ無事に見えた。あの船に移れば、もしかしたら助かるかもしれない。
「どうか、お早く……構わずに……」
息も絶え絶えに伝えたい言葉が、それか。
緑の頭を抱きしめて、答えに代える。
「ああ……そんな、……」
ここまでしてくれた子供を置き去りにして、一人だけ助かって、その先はどうする。
恋人は、親友は、祖父は、緊急避難を理由に、責めないでくれるだろうか。
否。誰に赦されても、法的に無罪でも、自分が自分を心から見下げ果てるに違いなかった。
──この子を、助けたい。
医者、病院、どちらも無理だ。
それでも、少年をあの船に運ぶくらいならできる。祖母の介護をした経験があるのだから。
見様見真似で覚えた、床から車椅子への移乗。その手順を応用できないか、頭の中でシミュレーションした。不安が募るが、やるしかない。
少年の腰のあたりに正座する。まずは声かけだ。これから何をするのかを説明しようと口を開きかけ、少年がナイフを握り込んでいることに気づいた。
「ナイフ、放せる?」
少年はためらう様子を見せた。一つ頷き、そのままでいいと示す。ただ、抜き身では危ない。
眼帯の男を確認する。ナイフケースを取りに行けたらと期待したものの、もぞもぞと動く体が粘液に覆われているところを目にし、その考えは即座に捨てた。
「少しだけ、借りさせてもらうね」
ナイフを握る少年の手ごと掴んで、スカートの裾を裂く。少年が身じろぎした。驚かせたことを申し訳なく思いつつ、作業を続ける。不恰好なフィッシュテールスカートができた。
切り取った生地を、さらに裂く。血が染みた箇所を取り除き、数枚の端切れを作る。そのすべてをナイフに巻きつけた。引越しの時に包丁をタオルで梱包したことがあるが、包丁と違って刃が湾曲していて、とてもやりづらい。
手間取ったが、なんとか巻き終えた。これで移乗の最中に刃が当たることはないだろう。
本当は、包帯代わりに使えたらよかったが、用尺が足りなかった。
「よし、いまから体を起こすよ。痛いだろうけど、ごめんね」
改めて声かけしてから、少年の上半身を起き上がらせる。ほっとした。体が覚えていたらしい。
「あれ、あの椅子、あれに座ろう」
一番近くの椅子を指差す。
少年の骨盤を両膝で挟み、力まかせにしないポイントを思い返しつつ、細い体を抱え上げて膝に乗せる。予想していたより重い。
肩から胸元に濡れた感触がした。少年の傷口が当たっているのだ。急いで、慎重に、事を進めなければならない。
少年を抱え上げたまま両膝で立ち、次に片膝で立つ。そして、立てた膝に座らせる。短い休憩を入れ、少年を膝から椅子へ移動させる。
激しい運動をしたわけでもないのに、こめかみから汗が流れ落ちた。
少年は、服の下に鎖帷子のようなものを着込んでいる。重いはずだ。この金属で編まれたものまで両断した女性のパワーに寒気がする。
一つ息を吐いて、無用な感想を追い出す。椅子に座らせることがゴールではない。
「隣の椅子に移るよ。ほら、見える? あの船、あれに乗り換えよう」
椅子から椅子へ、何度も移動を繰り返す。
「も、もう少しだから……」
息が切れる。言葉が続かない。
がんばってとは言いたくなかった。もう十分にがんばってくれた。これ以上は何もしなくていい。
大人が子供に守られるなんて、立場が逆だ。恥ずべきことだ。
「……がんばるからね」
そう。それはこちらの役目である。子供を不安にさせてはいけない。口角を上げることすら大変だが、表情を改める。
「次はこっちよ」
少年を抱えなおした時、足首に激痛が走った。
反射的に下を見ると、スカートごと足首を掴む手が見えた。少年の血を吸った裾が、足首と手の間で押し潰され、ブチュブチュと音を立てる。絞り出された血が、手から肘へと流れるのを目で追う。
視線の先には、腹這いの男がいた。少年に牙を突き立てられた男だった。顔の半分、眼帯をつけている側が、粘液で隠れている。
「この、アマ……逃して、たまる、かよ……」
男は全身に粘液を絡みつかせたまま、床から鬼気迫る形相でつぶやく。首に刺された牙のせいで、声を出しづらそうだ。口の端から、首の傷から、血が垂れている。それを押しても恨み言を吐きたいのか。
残念ながら、恨み言ならこちらにもある。人身売買に一番乗り気だった相手なのだから当然だ。口に指を突っ込まれそうになったのも気持ちが悪かった。ただ、状況が状況なので、構っていられない。逃げることが最優先だ。
しかし、足首を握り潰されかねない強さで掴まれ、振り払うどころか、そもそも足を動かすことが難しい。奥歯が割れそうなくらい力んでいるのに、びくともしないのだ。少しでも抵抗をやめると引きずり倒されることがわかるから、必死だった。
傍目には不動であろう攻防をしている間に、船が激しく傾いた。向かい側のへりが、頭よりはるかに高い位置まで上がったのが見えた。
同じタイミングで、男の腕を覆う粘液が無数の釘に変化し、小手を軽々と突き破って、上下に貫通した。おかげで、万力じみた手が離れる。
だが、男に対する反作用が急に釣り合わなくなったために弾みがつき、自ら海に身を投げる形になった。
せめて少年を船へ放り投げなければと、腕に力を込めた。
その時──。
こちらの思案を知ってか知らずか、少年はナイフを捨てて、ワンピースの肩紐のあたりを握りしめた。
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