ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜

若宮 卯芽

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夢見鳥(ゆめみどり)

目覚め(2)

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 暗闇の中で、緑の光がいくつか、またたいている。
 濃さや薄さがまばらな光は、十数羽の蝶だった。ここが海だと知らないように、ひらひらと飛んでいる。

 洗濯機に入れられた洋服さながらにぐるぐる回され、めまいと吐き気と呼吸困難に襲われている今、点滅しながら動く光の群れは、刺激が強すぎる。とうに天地はあやふやだ。少年を抱きしめる腕がおのずとゆるみかけ、全身を使ってしがみつく。

 吸ったり吐いたりする空気は尽きた。だいぶ水を飲んでいる。だが、意識が遠くなることもなく、ただただ苦しいだけの時間が過ぎる。後ろだけ長くなったスカートの裾が、水の流れに沿って揺らめく。

 ようやく回転が止まった。閉じたがる目をこじ開けて、少年の様子をうかがう。

 少年はいっそう苦しいはずだ。深手をった上に、塩水にひたっている。その痛みは凄まじいことだろう。
 行きつ戻りつする明かりを受けて、血が黒い煙のように立ちのぼっているのが見えた。こうして血が固まらず流れ続けたら、取り返しがつかないことになる。

 ──だからって、どうしたらいいの。

 少年の心臓は動いているだろうか。息があるだろうか。まぶたの下に隠れた瞳孔は、蝶を見て反応するだろうか。
 心配でたまらないのに、杞憂に終わる予感がしている。
 そのことに不服と納得を同時に覚えて、理由を探るうち、少年が教えてくれた言葉を思い出した。

『死なずの島の近海でございます』
 死なず。死なないということ。

『──お、御身がお隠れあそばされ、わたくしどもが死を賜れなくなったことから──』
 死を賜われない。死ねないということ。

『女神様!』
 神。人間を超越した力を持つ存在ということ。

 すべての言葉が真実なら、どういう答えが導けるか。

 ──私がいなければ、少年が「わたくしども」と括ったものは、死ぬことができない?

 違う。いるだけでは意味がない。少年は生きているのだから。

 ──死を与えなければ? 死を許可しなければ?

 わからない。だが、積極的な意志が必要だと思われる。

 では、「わたくしども」とは誰か。
 当然、全生物や全人類ではないだろう。自分の意志と関わりなく、人間も動植物も死んでいく。おそらく、例外となる条件──たとえば、「死なずの島」の住民のみ、など──があると考えられる。いずれにせよ、少年が含まれることは確実だ。

 そう、女性は「死ぬわけねえ」と言った。男たちは「ブッ壊す」と言った。

 殺せないからだ。殺せないと知っていたからだ。

 出血しても、窒息しても、生きられる。苦しさは終わらず、それを感じる心も終わらないまま、生かされる。

 ──でも……でも、死ねとか、死んでいいとか、言えるわけないでしょう。

 塩水に満ちた場所だ。あと何粒か増えたところでわかりはしない。

 ふと、たくさんの蝶の中で、たった一羽だけが目にまった。
 網目あみめが広がる四枚のはねは、芽吹く新緑しんりょくのようだ。

 小さくて、やわらかに光る、若葉の子。
 その蝶がか、わかった。

 こちらに向かって羽ばたいている。しかし、姿がだんだん遠ざかる。
 引きずり込まれているのだ。水底みなそこに、深淵に──。

 ──だめ!

 精一杯、右手を差し伸べた。肩が外れてもいい。せめて爪がれられたら、き寄せられる。

 ──お願い、こっちよ。離れないで、こっちに来て。

 声にならない言葉が届いたのか、緑の蝶は背後を振り切り、せわしく翅を動かしながら近づいてくる。腕を伝って顔までたどり着き、翅で目尻をくすぐった。涙をぬぐおうとしてくれたのだろうか。
 右手の人差し指を寄せると、緑の蝶は意を汲んで、をおかずに止まった。そっと、少年の胸元に連れていく。

 ──どうか、死なないで。

 緑の蝶が強くきらめいた。同時に、少年の体が光に包まれた。
 やがて光が収まると、緑の蝶はもうそこにいなかった。少年の口から、空気の泡がわずかに漏れた。

 ──苦しませて、ごめんなさい。

 溺れる。溺れ続ける。
 少年の死を願えるなら、苦しみを終わらせてあげられるのに、どうしてもできない。そんな方法で助けたくない。

 ──恨んでくれていいから。……どうか、生きて。

 ほどなくして、頭上が輝き始めた。
 真っ黒な海が光を受けて、青く色を変えていく。ネイビー、サファイア、シアン。影が去れば去るほど、天に近いはずだ。
 細い体をしっかり抱えて、より明るい方向を目指して足を動かす。
 行き着けば水面みなもに出られる。息ができる。

 ──無事に、済んだら。その時は、自己紹介からやりなおさせてくれる?

 苦しい。構わず、もがきながら海を蹴る。
 上へ、上へ。進むほど淡くなる青のグラデーションの先へ。
 彼方から架けられた梯子はしごを登っているようだった。

 どれほど泳いだか。
 あと少しで届く、そう確信した時──。

「──紫苑しおんちゃん!」

 その呼び声に、意識が引っぱり上げられた。
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