ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜

若宮 卯芽

文字の大きさ
8 / 20
夢見鳥(ゆめみどり)

ハニーホットミルク(1)

しおりを挟む
 紫苑しおんは飛び起きた。
 空気がある。心臓が猛烈な勢いで血を送り出している。視界はぼやけて、よく見えない。
 状況の変化についていけず、激しくき込んだ。

「紫苑ちゃん、大丈夫?」
響也きょうやさん……」

 恋人に背中をさすられ、紫苑はやっと気がついた。ここは海ではない。自宅の、寝室の、二人用のベッドの上である。

「え……?」

 腕の中に、緑の髪の少年はいない。肌の色は、蝋燭のような白さではない。来ている服は、ノースリーブのワンピースではない。
 誰かに誘拐されていない。人体実験されていない。
 昨夜、眠りについた時から、変わったものは何一つなかった。

「夢、だったの……?」

 紫苑は途方に暮れて、彼を見る。これだけ近くにいれば、眼鏡がなくても視線を交わすことができる。
 彼の目は、いたわりに満ちていた。

「どうだろう。でも、随分うなされてたよ」

 紫苑は、整わない息をそのままに、ほんの少し前までの出来事を訴える。

「う、海で……」
「海?」
「溺れて、苦しくって……」
「そっか。……しわさんけー。ここは海じゃないよ。苦しいのはおしまい」

 しわさんけー。心配しないで、という意味だ。
 彼の祖父母は、彼を励ます時にそう言ったらしい。なんくるないさーより、しわさんけーのほうが、なじみのある言葉だと、前に教えてくれた。

 青いグラデーションの残像が、波のように引いていく。

 それでも、紫苑は息がうまくできなかった。
 彼は、紫苑を包むように抱きしめる。紫苑の耳元で深呼吸し、手本を示した。

「吸って、吐く。吸って、吐く。なんにも難しくないよ。僕に合わせて息してごらん」

 彼に言われたとおり、紫苑は呼吸を繰り返す。彼はゆっくりゆっくり、紫苑の背中を撫でさする。

「体が冷えてるね。汗ばんでるけど、何か羽織はおるもの出そうか」

 紫苑は彼のシャツをぎゅっと握りしめる。小さく笑った彼が、紫苑の二の腕をこすった。
 しばらくして、ようやく落ち着き始めた。

「焦ることないからね。時間をかけていいんだよ」

 彼の言葉に、紫苑は泣いた。泣きながら、笑えた。

「もう、大丈夫」
「エッ⁉︎ 待って待って。ちっとも大丈夫じゃなさそう」

 彼は慌てて、ティッシュで紫苑の目元をぬぐう。

「病気じゃないし、平気。ごはん作るね」
「や、やめて~! 僕、泣いてる彼女にごはん作らせる鬼畜じゃないから~!」
「でも……」
「ほら、昨日の飲み会で胃もたれ気味だから、朝はナシってメッセ……は、見てないか」
「ほんとにいらない?」
「いらなーい。そして、なんと、食べたくなったら自分で作れるわけよ。はっさ、しにえらいやんに?」
「とってもえらい!」

 彼のおどけた自画自賛に、紫苑は泣くのも忘れて、全力で同意した。

 彼は料理するだけでなく、後片付けも食器洗いもする。時間がなければ水につけておく。とってもえらい!

 また、彼が誰かに料理をふるまわれる場合、コロッケや冷やし中華を気軽にリクエストしないし、「から」などという寝言をぬかさないし、一口も食べずに調味料を足すような無礼を働かないし、もちろん食べ終わったら食器を流しに持っていく。とってもえらい!

「まあ、僕も一人暮らし長かったし。君には及ばないけどさ」
「響也さんのごはん、おいしいよ」
「うへへ……キモ、うへへとか言っちゃった……あ、紫苑ちゃんは? ごはん食べる?」
「んーん」
「じゃあ、何か飲む?」

 紫苑はその質問をきっかけに、喉の渇きを自覚した。だが、それを彼に伝えるべきか、ためらった。伝えれば、用意してくれることを知っている。彼は出張から帰ったばかりだ。疲れているだろう。そんな相手に気遣わせるわけにはいかない。
 いまはいい。そう答える前に、彼が口を開いた。

「四択です。白湯さゆ? 紅茶? ホットミルク?」
「……」
「三択です!」

 あまりにも堂々とした訂正に、紫苑は思わず笑った。素直に甘えようと思えた。

「ホットミルクがいいな。はちみつ入りのやつ」
「オーケー。作ってこようね」
「はぁい」

 彼の「しよう」「しましょう」は、相手の行動を促しているのではなく、自分の行動を伝えている。つまり、「作ってこよう」は「作ってくる」という意味だ。紫苑は昔、彼に「トイレに行ってきましょうね」と言われ、大混乱したことがあった。
 ついでに、水回りつながりで、風呂のことを思い出した。

「あ、お湯張りしないと……」
「こら、じっとしてなさい」
「ピッてするだけよ」
「実にカンタン。僕でもできるね。はい、ゴートゥーベッド」
「……」
「ん? ゴートゥーベッド?」
「定冠詞いらない……」

 そもそも、定冠詞の有無を気にしたわけではない。

「学びを得ました。じゃ、僕はゴートゥーキッチンね」

 彼は、紫苑の髪の乱れを軽く整えてから、キッチンに向かった。
 ややこしいことに、キッチンの場合は定冠詞がいる。




【方言】
・はっさ……もう。まったく。
・しに……とても。
・やんに……でしょう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

花嫁召喚 〜異世界で始まる一妻多夫の婚活記〜

文月・F・アキオ
恋愛
婚活に行き詰まっていた桜井美琴(23)は、ある日突然異世界へ召喚される。そこは女性が複数の夫を迎える“一妻多夫制”の国。 花嫁として召喚された美琴は、生きるために結婚しなければならなかった。 堅実な兵士、まとめ上手な書記官、温和な医師、おしゃべりな商人、寡黙な狩人、心優しい吟遊詩人、几帳面な官僚――多彩な男性たちとの出会いが、美琴の未来を大きく動かしていく。 帰れない現実と新たな絆の狭間で、彼女が選ぶ道とは? 異世界婚活ファンタジー、開幕。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...