ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜

若宮 卯芽

文字の大きさ
9 / 20
夢見鳥(ゆめみどり)

ハニーホットミルク(2)

しおりを挟む
 じっとしているように言われたので、紫苑しおんは鼻をかんでから、眼鏡をかけるにとどめた。こういう時は、一心不乱にかぎ針で編んではほどくに限る──緩衝材をひたすらプチプチつぶす行為に近い──のだが、やめておく。

 給湯器の音が聞こえてこない。彼は風呂のことを失念したようだ。もしくは、シャワーで済ませるつもりなのだろう。きちんと湯船にかってほしいと思ったが、黙っていた。自分のために飲み物を用意してくれている相手にいちいち指摘するのは、気が引けたのだ。親友なら「根性悪こんじょわる」と言うに違いない。

 ヘッドボードにもたれて、眼鏡のフレームを上げたり下げたりしてみる。レンズの外はぼやけていて、裸眼の視力は悪いままだ。

 ──あれは、夢だったの。

 あの船の上で起きたすべてが、幻だったというのか。
 さっきまで抱きしめていた少年を思い出す。

 ──私をずっと守ってくれた子は、どこにもいないの。

 袈裟懸けさがけに斬られた傷。真っ赤な血。死ぬことができない体。緑の蝶。
 度を越した礼儀正しさ。不屈の戦意。こちらをおもんぱかるまなざし。
 それらは、現実ではなかったのか。

「おまたせ」

 穏やかな声に、はっとした。

「どうぞ。熱いから気をつけて」
「ありがと」

 紫苑は、湯気が立つマグカップを受け取り、口元に近づける。すると、思いがけない香りがした。

「バニラ?」
「当たり。バニラエッセンス入れてみたわけ」
「いい匂い。いつもより甘い気がする」
「気に入ったならよかった」
「ふふ、おいしいよ」

 バニラとはちみつ、鼻と舌で感じる甘さに、紫苑の顔がほころぶ。体の中があたたまり、ほっと息を吐いた。マグカップが空になるまで、語らいを忘れて飲むことに集中していたことに気づかなかった。

 眠気を覚えながら、彼を見る。

 彼はベッドに腰かけ、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいた。布団の中に入らないのは、すぐにスーツケースの中身を整理するつもりだからだろう。つまり、彼が帰ってきたのに、また一人で寝なければならないのだ。

 紫苑の視線に気づいた彼は、にこにこした。

「なーに? 眠い?」
「……うん。響也きょうやさん、添い寝して」
「はい喜んで~!」

 彼は、自身のペットボトルと紫苑のマグカップをサイドテーブルに置くやいなや、ぽいぽい脱いで、ささっと着替えて、いそいそとベッドに入った。
 そのスピード感。紫苑は、わがままを言ってしまったという不安が吹き飛んだ。

「今日は……」

 紫苑は眼鏡を外しながら、意を決して宣言する。

「今日は、いっぱい甘えるからね」
「ほんと? ふふふ……じゃあ、いーっぱい甘やかしてあげようね」

 彼は楽しそうに、わざとリップ音を立てて、紫苑の顔中にキスをする。それがくすぐったくて、紫苑はつい笑ってしまう。
 紫苑が片手に持った眼鏡を、彼が指を絡めて取り上げる。唇へのキスは、数秒間れるだけのものを、何度も何度も繰り返した。
 二人そろって、ベッドで横になる。

「あのね……」

 紫苑はいまから口にすることが気恥ずかしく、甘える宣言したにもかかわらず口ごもる。見かねた彼に、指の背で頬を撫でられた。

「どうしたの、そんなにもじもじして。にーにーになんでも言ってごらん」
「あとでね……一緒に、お風呂入ろ」
「……え? え? え……しんけん⁉︎」

 間近で、驚きの声が上がる。

「も、もう、びっくりしすぎ」
「当たり前! だって特別な日にだけしてたでしょ、これまで。……え、四月二十五日って、なんかの記念日だった? 僕、忘れてる?」
「ううん、なんでもない日」
「であるよね? 出張帰りだよ、ふつうの。いや、僕は大歓迎だけどさ。無理してない?」
「してないよ。ただ……」

 紫苑は彼の手にれた。血管の浮いた甲。ふしくれだった長い指。清潔な短い爪。夢の中でも、紫苑のそばにあったぬくもりに、キスを贈る。

「ずっとひっついていたいの。……お願い、これ以上は聞かないで……」
「ごめん、根掘り葉掘り聞きたい。赤裸々に告白させたい」
「い、いじわるしないで、響也さん」
「ほんとにごめん、もっと意地悪したい。していい? うすまさやばいよや……」
「もう! ばか! ふらー!」

 紫苑が腹立ちまぎれに、彼の指先を甘噛みする。だが、彼は余計にでれでれしている。

「ね、ね、なんの入浴剤にする? 紫苑ちゃん、あれ、りんごのやつ好きだよね」
「カモミール」
「それそれ。すごくいい匂いだよね。……思い出したら、りんご食べたくなってきた」
「うさぎりんご? アップルパイ? ガトーインビジブル? アプフェルシュトゥルーデル?」
「後半の二つ、どんなだば? 今度教えて。いまは……焼きりんごの気分だな。アイスクリーム乗せて……はちみつ、シナモン……ミント……」

 トッピングを挙げる声が、次第にゆるやかになっていく。
 彼のまぶたがくっつきそうだった。

「あー……にーぶいしてきた……」
「ゆっくりして。私も寝るから、続きはあとで、ね」
「うん。起きたら、ずーっと、むちゃむちゃするから」
「嬉しい。起きるの楽しみ」
「僕も」

 穏やかで、たびたび騒がしい人が、隣にいる。
 ここは、とてもあたたかい。世界で一番安心できる場所だ。

 ──怖いことなんか何もない。

 紫苑は思う。願わくは、彼にとってもそうであってほしい、と。

「おかえりなさい、響也さん」
「ん。ただいま、紫苑ちゃん」

 贅沢な二度寝の時間に、紫苑が夢を見ることはなかった。




【方言】
・にーにー……兄。お兄ちゃん。
・しんけん……本当に。マジで。
・であるよ……そうだよ。
・うすまさ……とても。
・ふらー……ばか。
・にーぶい……眠い。眠そう。
・むちゃむちゃ……べたべた。べとべと。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

花嫁召喚 〜異世界で始まる一妻多夫の婚活記〜

文月・F・アキオ
恋愛
婚活に行き詰まっていた桜井美琴(23)は、ある日突然異世界へ召喚される。そこは女性が複数の夫を迎える“一妻多夫制”の国。 花嫁として召喚された美琴は、生きるために結婚しなければならなかった。 堅実な兵士、まとめ上手な書記官、温和な医師、おしゃべりな商人、寡黙な狩人、心優しい吟遊詩人、几帳面な官僚――多彩な男性たちとの出会いが、美琴の未来を大きく動かしていく。 帰れない現実と新たな絆の狭間で、彼女が選ぶ道とは? 異世界婚活ファンタジー、開幕。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...