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3章 動きはじめた運命

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 和真は、早朝の庭で冷えた指先を擦り合わせた。
 こんなまだ肌寒い時間に庭に出てくる家人などいるわけもなく、澄み切った朝の空気に和真はぶるりと肩を震わせる。
 けれど、このわずかな時間が和真には何よりの楽しみであり、この多忙な日々の救いでもあった。

「おはよう、和真。今朝は一段と冷えるわね」

 その声に振り返り、和真は心からの笑みを浮かべた。

「これ、どうぞ」

 あたたかそうなふわふわなショールを肩にかけた椿が、湯気を立てているカップをこちらに手渡す。
 立ち上るその甘い香りに、和真は微笑んだ。

「ココア? 椿の大好物だね」
「和真の分は甘すぎないようにちゃんとお砂糖少なめにしてあるから、大丈夫よ。朝は甘いものをとるといいんですって」

 椿は、自分用にいれた砂糖たっぷりな甘いココアをおいしそうに口に含んだ。
 その幸せそうな表情だけで心まであたたまる気がするな、と和真は思う。

「商談の準備は順調? 美琴様が当矢様の体を心配していたわ。無理をしすぎてないかしらって」
「無理もするさ。結婚の許しがかかっているんたから。でもまぁ、あいつならうまくやれるだろう。思った以上に優秀だし、このまま遠山家で仕事を任せてもいいと思うくらいにはね」

 そして、その優秀さだけではなくあのエレーヌも当矢を気に入ったらしい。でなければあんなふうに、当矢も同席の上での晩餐を持ちかけてこなかったはずだ。
 おかげで、ゴダルドを屋敷に招き関係を深めることができる。これまでもゴダルドとはエレーヌを通して一応面識はあったが、深く話をする機会などなかったのだ。今回、待ちに待ったセルゲンの新作が海を渡ると聞いて、なんとしてもゴダルドに商談を持ちかけるきっかけが欲しかったのだ。

 そういう意味では、エレーヌに感謝していた。
 けれど、和真は懸念していた。

 エレーヌは間違いなく遠山家の屋敷でも、いつも通りの行動を取るはずだ。そしてそれに椿がどう反応するのかが、気がかりだったのだ。
 それを椿に伝える機会は、今日この庭しかないと思っていたのだが。

 和真は椿がココアで一息ついたのを見計らい、口を開いた。

「……椿。実は近いうちにこの屋敷に来客がある。商談相手のゴダルドを晩餐に招待することになってね」
「まぁ! すごいわ。もうそんなところまでお話が進んでいるの?」

 椿は、嬉しそうに目を輝かせた。

 確かにあのゴダルドを屋敷に招くなど、普通に考えれば今回の商談の成功に一歩近づいたと言えなくもないのだが。
 実際には、これはエレーヌの望みから叶った招待だ。
 そしてその目的は多分、父親に自分が気に入った男、つまり和真を結婚相手の候補として値踏みをさせるためだろう。

「どうかしたの? そんな難しい顔をして」
「いや。……実はその場に娘もくる。エレーヌという娘なんだが、少し」
「少し……? なぁに?」

 椿がけげんそうに顔をのぞき込んだ。

 エレーヌのことをどう椿に説明するべきか、和真は悩んでいた。
 べたべたとくっついて好意をあからさまに見せてくるが、ただの商談相手の娘だから気にするな?
 こちらには特別な感情など微塵もないから、商談相手のご機嫌を損ねないよう適当にあしらっているだけだとか?

 どんな伝え方をしても、椿は気にするだろう。

 なにしろ、湖で美琴の手を握っただけであの態度だ。あの時は当矢との仲を取り持つためと分かって、すぐに落ち着きを取り戻したようだったが。

「……椿。エレーヌがどんな態度をとっても何を言っても、そこに僕の気持ちはない。それを忘れないで。……いいね?」
「それは一体どういう……?」

 椿の顔に、不安そうな色が浮かんだ。

「いいね。忘れないで。椿と一緒にいられることだけが、僕の望みだってこと」

 これが、今伝えられる精一杯だった。
 いくらあのエレーヌとは言え、双方の家族がそろった晩餐の席であからさまな態度を見せたりはしないだろう。それにエレーヌの性格からいって、セルゲンの新作をこちらが欲していることを知った上で、商売と自身の恋愛感情とを絡めて揺さぶってくるような卑怯な真似はしないはずだ。

 けれど椿の目が不安に揺れるのを見て、和真は不安を隠せない。

 椿の心を失うのが、和真にとっては何よりも怖いことだった。その存在をなくしてしまったらきっと生きてはいけないと思うほどに、心から望んでいるのだから。
 その椿がどんな思いでエレーヌと対するのかを思うと、どうしても心がざわめくのだった。



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