手繋ぎ蝶

楠丸

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慟哭

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~慟哭~
 鎌ヶ谷まで走り、東武野田線に飛び乗った。がら空きの席に二人で座り、村瀬は菜実の手を握りながら、絶えず左右に目を配った。その時、スマホのGPSのことに気がついた。純法が、構成員を監視していないとは考えづらい。村瀬は菜実のスマホを拝借し、GPSの位置情報を解除した。
 船橋で降りると、百貨店の入る駅ビルの前で、菜実はしゃがみ込み、膝の上に重ねた手の上に顔を埋めた。村瀬は鼻と口からの荒れた呼吸と、震える唇を整えながら、周りを見回した。菜実の呼吸も乱れている。今はまだ、追手らしき者が来る気配はない
 「具合でも悪くされたんですか?」顔を上げない菜実を見た中年の女が、隣に立つ村瀬に声をかけてきた。「大丈夫です、ありがとうございます」村瀬が言うと、女はそうですか、と残して、菜実に心配げな目を送りながら去っていった。
 傘で倒した男の拳を受けた頬には、まだ重い疼痛が残っている。顔は青く腫れているだろう。菜実は顔をカーディガンの袖に伏せたままだが、GPSを解除したとは言え、うかうかしてはいられない。
 菜実を落ち着かせなくてはいけない。純法が歴とした犯罪集団であることはすでに明白だが、菜実の中には、若い美貌と可愛い仕草で男を引く勧誘員に身をやつしていたことの理由が必ず存在する。また、彼女の障害特性では、純法の実態は分かっていながら、あれが心の支えのようなものになっていたことも間違いないだろう。その実態がくっきりと分かったからこその腹を据えての処断だったわけだが、菜実の支えだったかもしれないものを、彼女の目前で、この手で壊したことにもなる。それは生々しい暴力のやり取りで場を制し、人の血まで見せるという、これまで彼女が知り得なかった自分の恐ろしい面を見せてしまったことも、同じ罪のように思えていた。
 菜実の受けた傷を思い、胸に絞めがかかるのを感じた時、足の下から、低音域から高音域に変わる何かの警報サイレンを思わせる音(ね)が上がった。菜実の頭、背中が激しく震えている。
菜実の顔が、夕方の空を仰ぐ形に上がった。堅く閉じられた瞼からは大粒の涙、鼻からも同質のものが流れ出し、縦に長く開いた口から顎まで、涎が伝っている。
子音を長く絞る号泣が上がった。行き交う人の目が一斉に二人のほうへ向いた。みんな、目を丸くして見ているが、見てはいけないものを見てしまったという体で、すぐに進行方向へ視線を戻して去っていく。
「菜実ちゃん‥」村瀬が菜実の肩に手を置こうとした時、じゃっという水音がした。菜実の足許を見ると、パンプスの底を浸すように、尿が広がり始めていた。これでさらに収拾のつけようのない事態になった。
「嫌だぁ!」菜実が曇った船橋の夜空に向かって、声をわななかせて叫んだ。
「私がお参りやめたら、お母さんと一緒に暮らせられなくなる! 暮らせらんなくなるよぉ! そんなの嫌だぁ! 嫌だぁ! 嫌だぁ! 嫌だぁー!」菜実は腹からの声と言葉を振り撒いて泣き喚いた。やがて、大量の涙と鼻水、涎で歪んだ顔を濡らしながら、自分の尿が撒かれた路面に尻から座り込んだ。ギンガムチェックのスカートも濡れていた。
 村瀬は菜実の顔の高さにしゃがんで、彼女の頭に掌を載せ、もう片手を背中に回した。その手で、背中をさすった。かけるべき言葉が見つからなかった。
 菜実が純法で男を引いていた理由の一端が分かった。菜実の母親は「遠い所にいる」ということがあの時印旛沼の畔で語られたが、母親の身柄を金で買い戻さなければいけない事情があるか、あるいは。 
 ‥服役‥
 仮にそれだとしたら、何を理由に何の罪状を作ってそれを打たれたか、菜実がいくつくらいの時からの何年かは、聞いていない以上分からない。だが、そこには菜実の語彙では表現も出来るべくもない、底の知れない暗黒を、村瀬の想像の端がわずかに捉える。
 その暗黒が引いた道を、菜実は歩んできた。裸足の足に、茨のように鋭い霙が食い込み刺さる、一人の道を。
 今、公衆の前で菜実が振り撒いている、何本もの筋を頬に引く涙と、大きく開いた口から響かせる号哭には、全てが詰まっている。抑えに抑えていたものが一挙に噴き上がり、それが膀胱まで緩めたことによってどっと漏れ、何かのマークを描くような形を取って、路面に放たれている尿も同じだ。‥同じだ。あの時、千葉市のあの軽食喫茶で、怯える母親が落としていた肩と、年齢に相応しくないお下げの髪をした中年の娘がカレーライスを前に流していた涙と。一切が鮮明に再生されていた。終わりの見えない苦労がしのばれる母親の白髪と、娘が声を抑えて泣きながら食べていたカレーの色合までが、記憶の中に蘇った。
 失禁しながら、いつ終わるとも知れない泣菫を続ける菜実の手を取って握り、背中をさすっている時、二人の頭上から笑い声が降り注いだ。高くうら若い声だが、嘲る調子が含まれており、崩れた生活を送っている人間が発するそれだった。
 村瀬が見上げると、まだ幼さの残る顔が四つ、二人を見下ろしていた。金のかかった髪型、髪色、上下の服を決めた男二人、女二人だったが、右端に立つ若者の手に挟まれた煙草が、顔に浮かべている薄笑いとともにその品を下げている。それぞれリュックや巾着袋をしょっていることから、学生らしい。四人ともそこそこ整った顔造りだが、暗く翳った目つきをしている。
 「何やってんだよ、スマホ、スマホ」指に煙草を挟んだ、金髪のメンズボブの髪をした、瘦せた男が、左に立つ緑色に染めた髪をツーブロックに刈った男を肘で突いた。
 「駅前で泣きションチビリ女。これ、ショートに投稿したら、ぜってえバズんぜ」金髪メンズボブの男が言うと、緑髪の男が喉から短い笑いを漏らして、村瀬にも見覚えのある、今年発売されたモデルの最新機種のスマホを胸ポケットから出し、依然として泣き続ける菜実に向けた。女達も、嘲るような笑いを口許に刻んで菜実を見ている。
 「やめて下さい。見世物じゃないですから」スマホの前に立ち、緑髪の男に目を伏せる恰好で言った村瀬の声、言葉は優しかった。
 「何だよ、邪魔だよ。お前は帰れよ、親爺」メンズボブの男が凄む顔を突き出した。女二人は、男を煽るような顔を向けている。菜実の号泣は、啜り上げるようなものに変わっていた。
 「何? これ、お前の子供?」緑髪の男が、スマホを持っていないほうの手で菜実を指差して村瀬に訊いた。「ねえ、これ、俺らに貸して、お前は帰ってよ。これから傑作の動画撮んだからさ」緑髪の男が目を大きく剥いて、腹から出ていない声の嚇しを村瀬に浴びせ、ボブの男はにやつきながら、口の端に煙草を運び、煙を吐き出している。手つきが拙く、吸うというよりも吹かしで、非喫煙者である村瀬から見ても、煙草に慣れていないことが分かる。
 四人とも、かなり可愛がられて育ってきたようだ。それは髪や服、メイクなど、まとっているもの全てに、読み間違いようがないまでによく出ている。物心がついた頃には、大きな構えの豪奢な家で、あたかも家族の中心のような扱いをされ、親や祖父母は彼らに仕えていたのだ。それで高価なおもちゃや、美味しい食べ物にも事欠くことがないまま、体ばかりが大きくなり、その中で子どもの人権を盾にした理屈のこねくり回しも覚えた。一般常識レベルの徳育すら知らない保護者から、普通の倫理観や、最低限の常識感覚も分からなくなるまでの甘やかしに首までどっぷり浸かり、甘やかしを受けているという自覚、それについての反省の心も持ち得なくなるほどに。だから、どの町のどこも自分の庭だと思っているし、今、自分の遣っている言葉、取る態度がどこへ行っても、また、いつまでも通用すると本気で思い込んでいる。だから、他人の迷惑も分からない。礼儀も知らない。おじさん、おばさん、お爺さん、お婆さんになった自分の姿など想像出来ないのだろう。
 心身ともに脆弱、貧弱な人間達だ。村瀬の人生経験上、全く接点がなかったタイプでもない。世の中に履いて捨てるほどいることも分かる。だが、それにしても愚かすぎる。もっとも、だからといって、自分がどうにかしてやるような義理のある人間達でもない。
 村瀬は濡れた顔でしゃくりあげる菜実の手を持ち、腰に腕を添えて、ゆっくりと立たせ、ハンカチを出して、菜実の顔を拭った。そこでまたスマホを菜実に向け始め、録画ボタンを操作しているところの緑髪の男に気づいた村瀬は、相手が自分の子供のような年少者であることを、今は無視するべきだと思った。それはその一瞬に、ずっと自分で気づかなかったことに気がついたからこそだった。
 自分が、弱い者に弱い人間だということを。
 「スマホを向けるのをやめろ。どけ。俺達は帰るんだ」緑髪の男の目を見て、優しさが抜けきれない声で言った時、女の一人が、ああ、と何かを見つけたような声を発した。
 「緑色の手帳持ってる。こいつ、シンチャンだ」「シンチャン?」ボブの男が女の言葉を訊き返した時、村瀬は菜実の左手に療育手帳が持たれているのを見た。これから電車に乗ることが分かっていて、バッグから出したようだった。
 「知ってる? こういう奴らが一番怖いんだよ。人殺しても罪にならないから、犯罪とかやりたい放題なんだって。だからばんばんいじめてやるのが世の中のためになるんだって。うちのお父さんが言ってるよ」女が貧しいボキャブラリーで、村瀬もどこかで聞いたことのある間違った知識を振りかざしでぶつと、へえ、という声が上がった。
村瀬は誤りの知識に涌いている四人をすり抜けるようにして、菜実を引いて改札口へ急ごうとした。そこを二人の男が通せんぼした。
「ねえ、シンチャンいじめショーの動画、撮らせてよ。撮らせるまで帰れないよ」ボブの男が村瀬を舐めきった顔で言った時、先から聞いている言葉の貧困さ、日頃頭に詰めていることがお里の如しに知れる幼稚さに、一体こいつらはどこの大学の何の部に在学しているのかという訝かりが村瀬の胸に生まれた。
村瀬が卒業したのは江戸川区に本校のキャンパス、神奈川にも分校を持つ、世間の評判では二流というところの四大だったが、当然、いろいろな人間の坩堝ではあったにせよ、それなりに学や文化、スポーツの充実に力を入れていたし、村瀬を含む在学者も、これまたそれなりに年齢相応だった。
それと比べて、この四人は、普段何を学んでいるのだろう。上物の服を着て煙草を燻らすなど、やることだけが大人だが、よく聞くと、語彙レベルは小学生程度に留まっている。だが、村瀬がよく知らなかっただけで、珍しくも、さしておかしくもないのかもしれない。言動に次元の低さが出ている者は、村瀬の学友にも少なくなくいたからだ。
「ああ、池沼(ちしょう)のことか。俺らの親の頃はシンチャンたったんだな」ボブの男が言うと、緑髪の男が、洟を啜り上げている菜実に横から顔を寄せるなり、彼女の髪に二回、ぴゅ、ぴゅと唾を吐きかけた。唾は菜実の髪先へどろりと垂れた。
「おい、池沼、じゃなくてシンチャン。一+一は?」緑髪の男が囃し、後ろの女達が笑い、超受けるんだけど、という声も混じった。村瀬の胸を怒りが焼いた。その怒りは、この男女に直接というよりも、その親や、こういう者達をつけあがらせる教育環境に向いていることが自分で分かった。
「そんなものはお前らのほうだ。そこをどけ。どかないとどうなるか分からないぞ」村瀬が低い怒気を込めた声で言った時、どう関わっていいのかという困惑、または興味の目を向けて去っていく者達の列を割るようにして立っている男がいることに村瀬は気づいた。
「何それ。てめえ、俺らが誰だか分かってそんな口叩いてんの?」緑髪の男が目を丸く剥いて、さも悪党気取りの顔を作って村瀬に詰め寄った時、立っていた一人の男が歩き進んでくるのが視界に捉えられた。
「そうか。君達は誰なのかな。自分達が何者だと言いたいの?」村瀬を囲んだ輪に割って入った男が、緑髪の男の前に立って問いかけた。四人の顔に、うっとなった驚きが走っていた。
問いかけた男の口調は、包み込むように穏やかだが、トーン高めで少し掠れ気味の声には迫力があった。それでいて、誰もがあっと振り向くような、腹からの声だった。齢の頃は六十年配だが、黒くふさとした髪を後ろへ撫でつけ、目がぱっちりとして鼻筋がすっと通った顔立ちは、若い時分には主役級の俳優ばりの美男だったことをしのばせている。
男はどこかの工務店のものらしい社名の刺繍が胸元に入った紺のブルゾンの上着に、同じ紺の社用スラックスという姿で、分厚い書類が覗くバッグを手に提げている。
四人の男女の顔から瞬く間に威勢が消えていき、二人の男の足つきは逃げる準備をしている。
「さっきから君達がこの人達にやってたことを見てたぞ。君達が遣った言葉も聞いてたよ。どうしてこういうことをするのか、筋道立てて説明出来るか」男は一人一人の顔を見渡しながら言ったが、四人からは何の返答もない。緑髪の男が深く顔を伏せて俯き、金髪ボブの男は眦を下げ、口をへの字に開け、工務店ブルゾンの男を見ている。女二人も俯いていた。
「みんな、体はもう一端だけど、頭のほうは普段どうやって手入れしてるんだ。まさかこの世の中が、人様にこういう真似をしてただで済むように出来てると本気で思ってるわけじゃないよな」四人は答えない。
「君らは学生か? それともフリーターか? どうなんだ」工務店ブルゾンの男が問うと、下を向いた緑髪の男が、聞き取れない小さな声でぽつ、と何かを答えた。「ん?」と、工務店ブルゾンの男が耳を寄せると、大学です‥と、か細い声の答えを絞り出した。「どこの大学だ」「東京フレンドシップカレッジ‥」
緑髪が答えたその学名と概要を、村瀬は知っていた。そうだ、と蔓を引くように思い出したところによると、創立、開校は四年前、キャンパスの所在地は練馬区、「自由」をコンセプトにした方針を打ち出している私立大学で、四年制と短期に分かれている。学長も教授も助教授も友達のように関われる人物を揃えていると喧伝し、ゆとりの学育というものを売りとしている。創立当時、自分の母校とどう違うのかと興味を持って検索したところ、「偏差値二十台のド底辺畜生高校からも進学可。自分とこの馬鹿若様、阿呆お姫様を入れるために借金地獄に陥る親も多数」「正真正銘の池沼学生が在学」「自分の名前が分からない奴でも入れる」という書き込みが見られた。無論、村瀬にはそれらの真偽は分からないが、この大学が掲げる方針に、基本的に禄がないことくらいはよく分かる。うんざりするまでに。さらに思い出した。都内の回転寿司店で、廻っている寿司に唾を吐き回し、それを「実況中継」して逮捕された大学生のグループがいたが、それもこの東京フレンドシップカレッジの学生ではなかったか。
「君達のことを、犬猫や猿じゃない、人間だと見込むから訊くよ。これは何だ」工務店ブルゾンの男は、菜実の髪から滴っている唾を指して問うた。緑髪は俯いたきり、黙っている。
「これは何だ。誰がやった」工務店ブルゾンの男は少し語気を強めた。緑髪は答えない。端の曲がった唇から、怯えた犬が発するような声を上げ始めている。金髪ボブの男は口をぽかりと開いたまま、目に涙を光らせ始めている。女二人も下をむいたきりだった。
「この唾を吐きかけたのは、君だよな。今出来る、お詫びの始末をつけよう。何を出す?」
緑髪はしばし黙りこくってから、ポケットのハンカチを出した。震える手で、菜実の髪についた自分の唾を拭い始めた。その顔は完全に怯えきっていた。
「いじめるの、かわいそです‥」頬を涙と鼻水で濡らし、瞼と鼻を赤く腫らした菜実が言ったのは、その時だった。「ん?」工務店ブルゾンの男は菜実を見て、優しく微笑した。
「安心して。いじめてなんかいないから、大丈夫だよ」男が言うと、菜実は不思議そうにその顔を見つめた。
髪の唾を拭いた緑髪がハンカチを持ったまま、工務店ブルゾンの男、村瀬、菜実、仲間に背を向けた。
「待ちなさい。まだ終わっていないよ」一人で逃げ去ろうとする背中に、男の声がかかった。
「言わなくちゃいけないがあることは分かってるね」男の促しに首を垂れたまま、緑髪はぼそりと、ごめんなさい、と発語した。
「私にお詫びするの?」工務店ブルゾンの男が言ったことが呑み込めないのか、緑髪はまた黙り始めた。男は緑髪と金髪ボブの首根っこをがしと捕まえ、村瀬と菜実の前に、足をもつれさせたその体を並べた。「彼女達、君らもだ。こっち来なさい」呼んで寄せられた女二人も、首根を持たれた男達の隣に並んだ。
「謝れ」男はよく張った声で言って、緑髪、金髪ボブの頭を、腕力を駆って、村瀬と菜実に向かって下げさせた。「相手を見てこういう真似をしたんだろうけど、相手によってはこんなもんじゃ済まなくなることがあるんだぞ」男が気魄たっぷりに言うと、緑髪がもう一度「ごめんなさい」と言い、金髪ボブがそれに倣った。男が女達を見て、君達もだ、と言うと、女も頭を垂れて、ごめんなさい、すみませんでした、と口々に詫びた。
「もう、やめてあげて下さい。もう、かわいそです‥」菜実が先と同じ旨のことを男に呼びかけると、男はまた微笑した。半世紀以上前も昔の、旧いブロマイドの笑みだった。
「少しもいじめてなんかいないよ」男は言って、二人の首根から手を離した。「僕が今やっていることは、無関心の反対、というやつだからね。それが何か分かるかな」「愛?」「そうだよ」きょとんと答えた菜実に、男はまた微笑みを返した。
菜実は、自分の髪に唾を吐きかけた緑髪の男にててっ、と歩み寄り、男の頭に掌を載せ、撫でた。緑髪の男は、恐ろしいものに寄られたようにのけ反ったが、菜実の撫でを受けた。緑髪が戸惑った顔で背中を向けると、金髪ボブの男と二人の女がのろのろと続いて、背中を丸めた意気消沈の後ろ姿を村瀬達に見せつつ、コンコースへ去っていった。
「ありがとうございました」頭を下げた村瀬に、工務店ブルゾンの男は「いやいや」と返し、バスターミナルのほうへ踵を向けた。周りを見ると、何人かの通行人が立ち止まって遠巻きに見ている。
「すみません。もしもお名刺などお持ちでしたらいただけますでしょうか。お礼をさせていただきたいと思いますので」去りゆく男の横に追いついた村瀬の言葉に、男は、はは、と小さく笑った。
「私は、昔に散々やらかしたことを、この齢になってもまだ償ってる途中の人間です。こんな性分の者に、あなたさんが礼なんてものを返さなきゃいけない筋合はありませんよ」「でも‥」「そんなことより、早いとこお連れさんを着替えさせてやってあげなさいよ。安い下着やスカートを売ってる店がまだやってますよ」村瀬は男の言葉に圧倒されたようになり、去っていく、潜ってきた修羅の年輪が浮き出したブルゾンの背中を見送ることしか出来なかった。
安物でも何でもいいから、スカートと下着、それに靴下を買ってやろうと思い、背後、周囲を見渡しながら、菜実を引いてイトーヨーカ堂へ向かおうとした時、「待って」という若い女の声を耳元すぐに聞いた。
足を止めて声のほうを見ると、学校の制服を派手に着こなした、高校生らしい女の子が、目を丸くして、手を挙げて立っていた。菜実と同じくらいの身の丈で、ぽちゃっとした体つきをした子だった。耳にはピアスをし、金のメッシュが入ってサイドに膨らみを持たせて技巧をこなした髪、メイクとルージュ、短いスカートの下に履いたジャージのズボンという出で立ちを見ると、偏差値の高くない高校に在学する少々突っ張らかった女子のようだ。手には、いくつものアクセサリーがじゃらじゃらとついた通学鞄、脇には大きなカラービニールを抱き込むように抱えている。
「これ、あげる」女子高生はピンク色のビニール袋を村瀬に差し出した。口ぶり、動きを見ると、村瀬がこの場を早くに立ち去らなくてはいけない急ぎの事情を察しているようだった。
「制服のなんだけどスカートと、ちょうどパンツとソックスも入ってんの。あげる。返さなくていいから」ハスキーな声で言った女子高生に、村瀬は驚いて頷くだけだった。
「ありがとう!」ヨーカ堂の反対方向へ去っていく女子高生の背中に向かって礼の言葉を投げると、女子高生は振り向かず、挙手した手を振った。村瀬はまだ冷めない緊張の中に、ほのかな感動を覚えていた。
突っ張り女子高生が立ち去ったあとで、失念していたことを思い出した。菜実と初富で待ち合わせ、あの出来事を経て二時間あまりだが、まだ食事を摂っていない。自分達の身と権利を守るためだったとは言え、人に血を流させるという出来事が出来事だったせいで、食欲は感じない。それは菜実も同じだろうが、何かを食べないわけには行かない。そこでようやく、今から二人でどうするかということが思いついた。自分達以外の人気がない場所へ行く。どこまで要領を得られるかは分からないにせよ、菜実から聞き取らなくてはいけないことがある。出来れば、人の耳には入らないほうがいい。
菜実を促し、駅の障害者トイレで下を着替えさせた。十分近く経って出てきた菜実の履いていたスカートは、腿までの丈の短いものだった。年齢的に少しお姉さんのチアリーダー、というセンスになっていたが、そんなに違和感はない。靴下は、足首までのショートソックスだった。村瀬は障害者トイレに入り、尿で濡れたスカート、パンティ、靴下をピンク色のビニール袋に回収した。それらを、病災の鎮静化以来、街中に戻ったダストボックスに投げて捨てた。
トイレの中で船橋のラブホテルを検索すると、本町の裏手に値段的に高くないホテルがあることが分かった。平日の夜なので、部屋に空きはあるだろうと踏んだ。
飲み系飲食店がぎしり狭しと並ぶ通りを抜け、広い駐輪場のある道の突き当りに、そのポップな外観デザインのホテルはあった。村瀬は二時間のレストを選び、パネルをタッチした。受け取り口からキーが落ちて出てきた、号室番号の記されたキューブ型のホルダーがついた部屋のキーを握りしめ、403号室へ急がんとエレベーターに乗った。帰りは、タクシーで恵みの家と実籾へ帰ればいいと思った。
部屋はお菓子箱を思わせる、色使いなどがいかにも若い女子向けの可愛い内装だった。ボディソニックのスイッチが並ぶベッドの枕元には、小さなバスケットに入ったコンドームとティッシュが置かれている。
テーブルセットの椅子に菜実を座らせた村瀬は、農茶色の革カバーが掛けられたルームサービスのメニューを手に取った。角にはバイブレーターなどの玩具、ローションその他のグッズを売る自販機がある。
カップラーメン他、冷凍物のスパゲティやピラフなどに馬鹿高い値段を吹っかけているのは昔も今も変わらないが、これはホテルが利鞘を稼ぐための、何というか容認的な軽犯罪で、いくら文句を言ってもどうなるものでもない。菜実に何を食べたいかと訊くと、答えが返ってこないので、何でもいいと解釈、自分の食べるエビピラフ、菜実の分として、ツナと卵のサンドイッチをルームホンから注文した。応対した中年女の声は無愛想だった。
十五分ほどしてピラフとサンドイッチが来た。それを待つ間、村瀬も菜実も寡黙を貫いたが、菜実は自分の話したいことを村瀬が引き出してくれるタイミングが来るのを待っているようにも見えた。
大昔に流行ったレイヤーの髪に、マスクをしたそろそろ初老という年齢程の女が愛想なく運んできたエビピラフとサンドイッチを、まずは言葉なく食べ始めた。飲み物は、備付の冷蔵庫から、村瀬はペットボトルのお茶、菜実には缶のコーラを出して置いた。
菜実はサンドイッチを両手で持ち、げっ歯類のように口許を動かしながら、ゆっくりと食べ進め、村瀬は無理をしてでもカロリーを摂取しなければ、という思いが出た目と手つきでエビピラフをさっさと掻き込んだ。
芸のうちの早さでピラフを胃に送り込んだ村瀬は、コーラをちまちまと飲みながらサンドイッチを食べる菜実を見守ったが、卵サンドを二切れ残した彼女は、腿に手を重ねて、沈痛な顔を手元に落とした。瞼と鼻はまだ赤らみ、睫毛には涙の粒が残っている。
これ以上食が進まないだろうと見た村瀬は、菜実の手を取って、声をかけ、二人でベッドの縁に座った。頬に痛みがまだある。純法の支部は、今頃どんな騒ぎになっているだろう。自分が傘で倒した男は、潜りの医者の所へでも担ぎ込まれたか。峰山とあの小男は、まだいちびって震えているのか。傘の先端があの男の目に突き刺さった時に、柄を通して手に伝わった、軟体を潰す手応えが、まだ頭から離れない。あれは窮鼠の反射的な行動で、自分の実力で勝ったわけではないという思いがある。あの傘なしにあの喧嘩屋に勝てたとは思えないし、やはり場数というところでは、自分を舐めきった頭が空の若者達にきっちりと詫びを入れさせて退散させた、あの小さな工務店の社長か、中堅規模の建設会社の専務風の男には及ばないと思う。そこでやはり、自分の空手などに自信を持つには至らない。
 「菜実ちゃん、あの宗教は、いつ頃から始めたの?」村瀬が自分の手を菜実の手の甲に置いて訊くと、ぽうとした目が村瀬を見つめた。
 「しゅうきょうって何?」菜実はまだ赤い目を丸くして訊き返してきた。これは村瀬の想像の範囲内だった。
 「あとで教えるよ。菜実ちゃんがやってたお参り、だけど、あれはいつからやってたの?」「前。夏だった」菜実の語彙表現では、西暦や元号を出して具体的に何年前と説明することは厳しいようだ。だから、一年前も十年前も、「前」で言い表すのだろう。だが、決定的なことを訊き出せればそれでいい。
 「同じお仕事で前にいた、高野さんっていう人から言われて入ったんだ。それでお休みの日に、高野さんと一緒に今日行った支部行って、純法さんに入ったの」「菜実ちゃんにとって、お参りのどういう所が良かったの?」村瀬が訊くと、菜実ははたと黙した。言い回しが抽象的だったらしい。
 「お参りで、どんないいことがあったの?」村瀬は訊き方を変えて、同じことをもう一度訊いた。
 「男の人達が私のこと可愛い可愛いって言ってくれて、お洋服とか指輪とか、お化粧品とかいろいろ買ってくれて、お金もくれて、純法さんからも、私が頑張った分のお布施返しもらえるのが嬉しいから」
峰山の口からも聞いたこの「お布施返し」とは、菜実のような立場の信者が、組織が鴨と定めた人間を引くことによって支払われる報酬だろう。忠犬、とは借金漬けの鴨、奴隷要員で、菜実のランクである鳳凰こそみてくれに恵まれ、あの手この手で教団組織に利益を運ぶ最重要ポジションだ。口八丁は菜実の持ち得ない武器だが、菜実には、ある特定の嗜好を持つ人間を、言うなれば萌えさせる魅力がある。菜実と同じものを持つ者は、男はカードローンの借金を背負わされ、女で若く見た目が良い者が、脅しすかしとおだての使い分けの下で鴨の取り込みに従事させられていることは何かを、村瀬はすでに掴んでいる。
 その中で菜実が教義に従って男を引き、金を得ている理由、動機は、彼女の浪費衝動などによるものでは断じてない。それは、村瀬には所在の分からない母親のためだ。
 「菜実ちゃん、俺も上手くは説明出来ないんだけど、宗教っていうのはね」しばし黙してから口を開いた村瀬の目は、菜実が食べかけて残しているサンドイッチに向いていた。一つ残ったサンドイッチは、三角の実体を天井に向けながら静物然として、ナプキンが敷かれた皿の上にぽんと佇んでいる。これを愛美が描いたらどういうタッチの絵になるか、と一瞬思った。
 「人間の目には見えなかったり、自然じゃ計り知れないものを信じることを、観念、っていうんだよ。それに基づいた教えとか、その教えの下に集まった人達の集団のことを宗教って言うんだ。その種類によって、拝むものが違うんだ。神様、仏様は分かるかな」「うん‥」
 菜実が小さく頷くと、村瀬はベッドを降り、床の上に跪いて、伸ばした腕と上半身を、床に額をつけるようにして上げ下げした。
 「これがアッラーを崇める、マホメットが始めたイスラム‥」次に正座し、合掌した。「これが仏教。日蓮上人の南無妙法蓮華経と、親鸞聖人の南無阿弥陀仏と、それと真言があって‥」ここでベッドに座り直して十字を切り、指を重ねた両掌を組んだ。「イエス様のキリスト教。カトリックと、聖母マリアではなく父子精霊を崇めるプロテスタントの両方があるんだ。他にはヒンズー教、ラマ教とかね。でも勿論、俺は全然詳しくはないよ。もう亡くなったお祖母ちゃんが、お祖父ちゃんと一緒に浄土真宗をやってたけどね」
 菜実は初めて聞くことを聞く顔で、隣から村瀬の顔を見上げている。これから自分が話すことは、菜実には一度では理解出来ないことだろう。でも、いい。自分が彼女に分かってほしいことが、彼女に伝わってくれて、納得する方向へ落ち着いてくれたら。
 「これは、そのそれぞれを信じる世界中の人達にとって、心の支えであって、自分がどう生きるかって考える時の、心の教科書みたいなものになってるんだ。キリスト教の聖書、イスラムのコーラン、仏教のお経巻と数珠は、自分はそれを深く信じているっていうことを証明するアイテムで、みんな神聖な物とされているんだよ」「せいしょ、知ってるよ。働く所、一緒の人で、いつもご唱和っていうのしてる女の子、いる‥」「そうなんだね」村瀬の合いの手に、菜実はゆっくりと頭を垂れた。
 「でもね、神様も、時に仏様も、しばしば独善的なんだ。結構簡単に、人に死ねだとか、人を殺せとかって命令するものなんだよ」独善という言葉は菜実には難しいはずだが、彼女が身を乗り出してきたように思えた。
 「今も起こってるんだよ。神様の名の下の争いとか、仏様を使った強要や、集団ストーカーみたいなことがね。たとえば、アラブの人がお腹に爆弾撒いてイスラエル軍の車に突っ込んでいく自爆テロは、聖地を守るっていう目的があるものだけど、死んだら何人もの美しい女の人に囲まれて暮らせる天国へ行けるって信じてるからこその行動なんだ。十字軍だって、キリスト教の押しつけのために、残虐なことを散々やったんだ。他にも、過去には集団自殺や、菜実ちゃんが生まれる前にはあの九官鳥だかオカメインコだかが起こした地下鉄の無差別毒ガステロが起こってるし、東日本大震災を天罰だなんて言い張って、津波で亡くなった人達を卑しめた団体もある。危険な教団は他にもたくさんあるんだ。第一、新興宗教っていうのはみんな、貧しい人に課金させたお金で、税金が課されない教祖が何不自由のない暮らしをしている造りは、世にいうカルトも、良心的な団体のアピールをしてる所も、根っこでは一緒なんだよ。人間から、自分でものを考える力を奪っちゃうっていう所もね。今の与党の少なくない数の議員から献金を受けて癒着してた、家族の和合とか何とかを説いている、韓国に本部を持つ、壷を売って合同結婚式をやってた団体も、これまでたくさん、二世会員の人達の人権を踏みにじってきたんだ。みんな、造りは同じなんだよ。新興宗教っていうのは‥」
 だいぶ難しい説明をしてしまったと反省しながら、菜実の顔を見た。目の奥に、抗弁をしたそうな光が見える。
 「でも、大法裁様は‥」「菜実ちゃん」金沢大法裁様だけはそんな俗物の教祖ではないと言いたいようだが、それを説明できる語彙がないため、言葉が続かないようだ。あんなものを見せた挙句に、さらに酷なことをこれから言わなくてはならない。村瀬は自分の心も切り立てられる思いを覚えていた。
 「菜実ちゃん、あの男がバイリンガルの元商社マンなんていうのは真っ赤な嘘なんだ」村瀬は最も肝心な部分の説明にかかったが、菜実の顔に変化はない。ただ、自分の言いたいことをどう伝えていいのか分かりあぐねた表情で、壁と床の中間にある空間に目線を固定させているだけだった。
 「ふとしたことから、俺は知ることになったんだ。あいつは、三十年とちょっと前に子供を殺して刑務所に入ってた男なんだよ。それだけじゃない。自分がやったことの重大さも自分で判断出来ない人間なんだ。つまり、あの男は‥」
 重要な具体的表現で何、という主語を言いかけた時、菜実が村瀬の顔を見た。目の奥から、言うのはやめて、という訴えが見えた。
 菜実の様子から、彼女の中に在ることを確実に刺したと村瀬は感じた。いや、分かった。
 「私がお参りやめたら、お母さんと住めらんなくなる‥」菜実がまた頬と体を震わせ始めた。村瀬はその肩を抱き、手の甲に自分の掌をそっと載せた。菜実が打ち明けを迷っている事柄を、今はまだ無理に訊き出すことはしまい。年齢差と、一般には健常とされる自分と障害の垣根はあるにせよ、この先暮らしを共にする、そこから指輪を渡すような進展がある場合、ゆくゆくは知ることになるだろう。だが、彼女の言葉を介することなく、先に知る方法を探す必要もあるかもしれない。
 数少ないと思われる、彼女の肉親と繋がることは出来るか。
 「お母さんと一緒に暮らすのに、弁護士さん、要るの。弁護士さんのお金、私、叔母さんのとこに送って預けてるんだ。銀行さん、分からないから」
  村瀬は目の前が暗くなる思いになった。大丈夫なのだろうかという懸念を覚えたからだった。菜実が送るその金は、叔母という人によってちゃんと保管されているのか。弁護士を、などという話は、きちんとした話し合いの上で決まったことなのか。それともその叔母が勝手に決めて、菜実にやらせていることなのか。
「お母さんとは、いつから離れてるの?」「私、小っちゃい時から‥」何を行い、長い刑を打たれたかは、ここで訊き出すことは気が引ける。
 「菜実ちゃん、よく分かったよ」村瀬は菜実の手の甲に置いていた掌を、彼女の肩に移した。
 「お父さん、お母さんいなくて、私、お祖母ちゃんと叔母さんに見てもらいながら、一人でいしょけめい、お仕事頑張ってた」ふた呼吸置いてから菜実が言った時、耳を塞ぎたくなる話のくだりを聞かなくならなければならなくなる予感を覚えた。母親が服役してから、菜実は祖母に育てられていた。その祖母も、知的に高い人ではなかったのだろう。父親は、菜実が物心のついた時にいなくなったようだが、存命なのだろうか。所在は分かっているのか。
 「お祖母ちゃんは、まだ生きてるの?」「もういない。前、心臓のお病気で死んじゃった」「いつ頃に亡くなったの?」「私が大人になって、ちょっとあとだった‥」
 幼少時からの菜実が暮らしてきた家の風景が、村瀬にはまざまざと分かった。幼くして母親と引き離された菜実は、生活能力が低い祖母と二人で、困窮した暮らしを送ってきたのだ。そこへ叔母が出入りしていたらしい。
「お祖父ちゃんは?」「お祖父ちゃんは、いなかった」菜実は特に感慨はない感じにぽそりと言ったが、菜実の母親が子供だった頃の失踪か死別かというところまでは、今の時点では村瀬には分からない。
「中学校卒業してから、いろんなお仕事したんだ、私‥」「小学校、中学校では、特別支援学級だったの?」「‥とく、べつし?」「障害持った子が、養護の先生に見てもらいながら、普通の勉強よりも簡単な勉強するクラスのことだよ。そこから、特別支援学校へ行く子もたくさんいるんだ」「‥? 分かんない‥」菜実は不思議なことを初めて聞いたような目と口つきをし、村瀬を見上げるだけだった。
 菜実はハンデを持ちながら、短いとは言えない期間、福祉と繋がっていなかったようだ。これまで菜実をひたすら喜ばせようと思うあまり、ほとんど訊き出せていなかった過去だった。その容量的な重さは、村瀬などに計り知ることは出来ないものだろう。胸に込み上げる重さを堪えながら、村瀬は手を菜実の肩から彼女の手に戻し、その手を握りしめた。
 これは二十年あまり一緒に棲み、菜実の養育者という立場だった祖母も、知的に高い人ではなかったことを意味する。
 「一番最初にクリーニング屋さんで働いて、そのあと、お弁当とかサンドイッチ作る会社で働いて、パチンコ屋さんも、とんかつ屋さんもやったの。機械つくる会社もやったし、お化粧品の仕分したりお値段の札つける、物流センターっていう所でも働いたよ。でも、私は頑張ったんだけど、みんな辞めさせられちゃうの。池内さんが苦しむだけだからって言われて。一番大変だったの、お化粧品のセンターさんだった‥」菜実の口調は、その表情ともども、淡々と過去の一部を語るだけのものだったが、それがより一層、暗い幕の降りた、凍てついた世界を村瀬に想像させた。その時、学校は元よりそれらの職場で菜実が受けた扱い、浴びてきたであろう数々の心無い言葉までが、まるで自分がその場に立っていたような臨場感をともなって村瀬の中に再生された気がした。
 「私、お仕事間違えてばっかりで、そこの主任さんみたいな人から、いっつもすごい怒られた。それで、女の子達から、てめえなんか邪魔だとか、臭え身体障害者とかって言われて、顔、グーでぶたれたり、お腹とかお尻とか蹴っ飛ばされて、手とか背中に針刺されたりしたの。頭良くなる手術受けてから来い、とかも言われたよ。それで辛かったけど、私、頑張った‥」菜実は言って、小さく笑った。その様子には、そういった仕打ちを加えた相手に対する恨みや怒りが、顔、言葉には全く見えない。被害の感情もないらしい。てめえ、臭い障害者、を始めとして、どんな言葉をわずかな容赦もなく菜実が受けてきたかが、ありありと分かった。
 おそらく懲役刑のために母親不在の家に生きることになった菜実を、祖母は福祉に繋げなかった。叔母もたいしたことは何一つしなかった。何年か前にやっとのことで療育手帳を取得、質はともかくようやく福祉サービスらしきものを受けられるようになるまで、彼女を結果的に、右も左も分からない一般学級、一般枠就労という闇へ追いやっていたことになる。祖母も叔母も、菜実の障害に気づかなかったということになる。祖母は、自分の障害にもはっきりとは気づいてはいなかったのだろう。そうでなければ、古い因習を信じ、障害を腫物の目で見ていたかだ。
 はっきりとしたことはまだ分からないなりに、村瀬は、連鎖という言葉を思い出した。
  その時、菜実がベッドの縁を立ち、バッグの置かれたテーブルまで歩いて、バッグをまさぐり、一枚の写真を出した。村瀬に手渡された写真には、あまり手入れされていない肩までの長さをし、安物のTシャツを着た化粧気のない、まるで垢抜けない、今よりも幼い感じのする菜実が、やっと歩き始めるくらいの年齢の女児を笑顔で抱きしめている。
 「菜実ちゃんの子?」村瀬はしんと驚いて、写真に目を見張った。菜実に出産、育児歴があった。だが、それは聞く側も耐え難い悲しみを共有しなければならないことが語られることが分かりかけた。その一葉の中の子供が現在形で、いる、としても、授かった経緯が幸福なものではないこと、いた、という過去形だとすると、その話を村瀬自身が抱えてやることが出来るものだろうか。
「パチンコ屋さんも大変だったよ。お客さんの玉の箱ひっくり返しちゃって、お客さんと店長さんから怒られたり、景品間違えた時も怒られた。でも、私、頑張った。その時、お客さんで、すごい優しい、かわいさんっていう人がいて、その人から、好きだから付き合いほしいって言われて付き合ったの。だけど、赤ちゃんお腹に出来たこと話したら、お店来なくなった。電話にも出なくなったの。その人知ってる別のお客さんが教えてくれたんだ。かわいさん、本当は奥さんと子供いるんだよって」村瀬は愛美の夫の話を思い出した。世の中には確かにあることだ。それでも愛美の夫は、世間一般の常識からすれば屑ということになるにせよ、不貞で出来た子供のいる家で、それなりに父親を勤めていた。だが、そのかわい、という男は菜実が用済みになった、または妻に菜実との関係を知られることを恐れて、彼女を切り離した。
「大きいお腹して、私、お仕事頑張ったよ。それで、お家で赤ちゃん産んだの。お名前は、叔母さんが、なつみってつけてくれたの。だけど、一歳半で死んじゃったの。私が見てない時に、歩いてお家出ちゃって、小さいオートバイに轢かれちゃったんだ。それで、叔母さんと一緒に斎場さん行ってお骨にしてもらったの。オートバイの人からは、二十万円もらった‥」菜実の頬に、また涙が滴り始めていた。
村瀬の頭の中に、白い幕が張った。覚えている感情は、まず怒りだった。だいぶ前の法改正で、事故の加害側の処罰が「相手に原因がある場合」に限定されて緩和された。二十万円などという金は、倹約次第で、長くても一年程度で貯められる額だ。その程度の金が、子供の命の代償になるものなのだろうか。第一、子供の命が奪われ、その母親に一生を左右する悲しみを与えておきながら、そんな金をぽんと渡して自己都合の埒を明けようとする気持ちが分からない。
体が震え、視界がぶれた。村瀬の憤怒が向いているのは、その原付らしいバイクの運転者に対してだけではなかった。叔母は自分の生活と金を第一にしつつ、申し訳程度のインフォーマルな世話を菜実に行っていたが、その他の多勢は、ハンディキャップを抱える菜実をこぞって見て見ぬふりをし続けた。育児への助言や、可能なだけの援助を、菜実の素直さなら受け入れたはずだろう。しかし、周りはそれを一切しなかった。だから菜実は何の医療的ケアも受けられない状態で、家で陣痛に耐えて子供を産み、多分、祖母ともども知らないために出生届も出さなかった。それにより、戸籍もない私生児の子供を一年あまり、ほぼ独りで育児し、発達の不全な注意力のために子供の生を断たれた。その妊娠、出産と短い期間の育児に、祖母も叔母も菜実の援助者にはなり得なかった。
河合、または川井、という氏名の男が菜実の体を玩弄した動機は、妻と子供から逃げたかったからだろう。その男が菜実の障害に気づいていなかったとは考えづらい。最初はともかく、ある一定の期間関われば、健常の人間ではないことは分かる。分かっていて、体を求め、妊娠したことを伝えた途端に逃げた。
だから、あんな誰のケアも受けられないままの地獄の苦しみと、その挙句の悲しみを与えた。
怒りが根底にある、生木を裂く痛みが胸に走るのを感じた時、村瀬は自分の頬に滂沱の涙がかかっていることに気がついた。横隔膜が激しく蠕動し、腹腔から、自分では抑えようにも抑えられない声が上がった。
菜実の体を両腕で締めた。抱いた体の骨格が軋んだ。村瀬は菜実の背中と後頭部を振戦する手でさすりながら、声を圧して哭菫した。菜実の流す、血の色さえ見えるような涙と自分の涙が、互いの頬で交わった。
火のような涙がとめどなく流れ、頬を濡らした。時間にして五分あまりだった。村瀬は菜実の体を腕の中に締め、号泣をほとばしらせた。
 「泣かないで。村瀬さんは悪くないもん‥」菜実は平静な声で言って、一時間半ほど前、緑髪の男にやったように村瀬の頭を撫でた。菜実のその優しさが、より村瀬の胸を締めつけた。
 村瀬が泣いたのは母親が死んだ時以来だったが、菜実が誰知れずただ一人で処理してきた痛みを自分のことのように体感し、彼女の体を押し頽れながら、彼はある気づきを得ていた。
 それは菜実が知的な遅滞こそ持ちながら、恐ろしいまでの根性を有した人間であるということであり、まさにそれを武器に命を繋いで生存してきたということだった。また、工務店ブルゾンの男と交わしたやり取りにもあった、愛と言う言葉の対極にある無関心の冷たさ、あれだけの仕打ちが、菜実から人間的優しさを奪えなかったのは何故だろうかとも考えた。まだ理解が及ばないことをよぎらせながら、村瀬はまた慟哭した。詰まった声を振り絞る彼の背中を、菜実の手がさすり続けた。
 「菜実ちゃんを絶対に独りにはしないよ。たとえ俺が最後の一人になっても‥」片方が声を上げ、片方がほろほろとひとしきり哭いてから、二人手を取り、並んで横たわったベッドで囁いた村瀬の顔を見た。
 「そのために、まず菜実ちゃんの叔母さんと会えたらって思うんだ。ゆくゆくは、お母さんともね」村瀬はまだ泣いている声で言って、顔の涙を手で拭い、洟を啜った。それは半ばプロポーズのような要請だったが、そのことで迷いはない。だからこそ体を張り、刑法上は過剰防衛となりかねないような修羅場を経て、菜実を連れ出した。その恐怖が心からまだ去ったわけではないが、菜実のような立場の人への利他行というものには近づけたと、少しながら思えていた。
 「叔母さんの名前は何っていうの?」「たかこ‥」「たかこさんか。苗字が同じということは、結婚はしてないのかな?」村瀬は訊きながら、涙を拳で拭った。「一緒に住んでるおじさんがいるみたい。住んでるの、柏。柏の、アップルハイツっていうアパート‥」「仕事はしてるの?」「前はスナックさんにいた。今は分かんない」「そうなんだね。連絡がつく電話番号は、菜実ちゃんの携帯に入ってる?」村瀬が訊くと、菜実は分かりかねた顔になった。
 村瀬は起き上がり、ごめんね、と言って、テーブルに置かれた菜実のバッグからスマホを取り出すと、登録のアドレスを見た。着信履歴には、発信元の分からない電話番号ばかりが羅列され、その中に「神辺」「支部」というものと、050で始まる恵みの家の業務用携帯の番号が登録されていた。また、「中丸」「あらかわ」という氏名の番号もあった。5710、で終わる村瀬の番号もあった。村瀬はそれを「むらせ」と登録してやった。神辺とは、純法の関係者で間違いないだろう。これで叔母に会う手段は、叔母の身がある場所へ直接ノーアポで訪ねていくしかないことが分かった。
 「今度の休みに行くよ」村瀬はベッドに座り直した。菜実も体を起こした。「気をつけてね。結構怖いから」「怖いの?」「前に、飲み屋さんで人ぶっちゃって、お巡りさんに捕まったことあるから。パチンコ屋さんのガラス、割ったこともあるし」「そうなんだね。でも、俺、大丈夫だよ。ずっとお客さんの仕事して、いろいろなタイプの人を接客してきたから、ちゃんとお話をしようと思えば出来ると思うからね」
 何かしら普通ではない。
村瀬は察しを持つと同時に不安も覚えた。それは今日立ち合った純法の喧嘩屋にも言えることだが、こちらが常識的な話をしようとする場合、それが通用するか。
それでも、菜実との関係が遊びではないと自分で自覚する以上、数少ない近親者であることから、挨拶はしなくてはいけない。察する通り、母親が服役で、どこに収監されているか分かった暁には、面会に行き、結婚の許しをもらう肚も出来つつあった。「菜実ちゃん‥」村瀬は壁に掛かった、海岸にカクテルのグラスが二つ舞うポップアートのイラスト絵画に目を遣りながら、菜実に呼びかけた。「あのお参りがなくても、菜実ちゃんはいつかお母さんと暮らせるようにするよ。そうなるように、俺が頑張るから。だから、もうあんなことを菜実ちゃんはしなくていいんだ。どんなことをしても、俺があそこを抜けさせるよ。どんなことをしたって‥」村瀬が宣言すると、菜実は一寸ののち「‥はい」と答えたが、この瞬間に納得したか否やかは分からない。
チェックアウトを済ませてラブホテルを出た時、時間は十時前だった。村瀬は菜実のスマホを借り、恵みの家に電話を入れた。常識的にはそれを先にやらなくてはいけなかった。だが、事が事の動転で、菜実ともどもそれを忘れていた。出たのは、いつかのアジア人の女のようだった。女は、誠に申し訳ございません、今から送り届けます、という村瀬の詫びに、投げやりなハイ‥ハイ、という応答を返しただけで通話が終わった。
やはり菜実は、現在在籍する福祉機関からも思ってもらっていない。受けている扱いも、ぞんざいなものだろう。村瀬は確信した。確信した上で、自分が彼女を幸せにしようと思い、握った手に、菜実の握力をも押し返すような力が籠っていくのが分かった。
抜けさせる。どんな手を使っても。ロータリーから乗ったタクシーのリアシートに並んで座り、色とりどりの看板、信号の灯りが乱れて通り過ぎるのを窓越しに見ながら、村瀬は決意した。
村瀬の言ったことが理解しきれていない顔をした菜実を送り届けた恵みの家の前に、今日は黒の族車は停まっていなかった。村瀬は、「分からない」とばかり言う菜実の父親はどんな人間で、今生きているとすればどこにいるのだろうと考えたが、顔も知らないとすれば、よほどの複雑な事情があるのだろうと思った。
~しゃれこうべの目~
「不味いね。いつもと全然変わらない。一体何を考えてるの?」食卓には、小松菜のお浸し、じゃこの載った大根おろし、焼き鯖、ゆかりご飯と、わかめの味噌汁が並んでいる。「うちの味つけは、この家に入った時にあれほど教えたでしょう? 困るのよ。お前が育った品位が低い家の味なんかをうちに持ち込まれたらさ。味噌の分量も、魚の焼き加減も、こんな風にしろって、私が教えた?」これ見よがしにしかめた顔で副菜をつまみ、味噌汁を啜る姑の嫌味は、今日はいつもに増して激しい。白のYシャツにネクタイを締めた夫は上座で、母親に同調するような顔色で、妻の作った和食の朝食をつまんでいる。
十三年前にまどかがこの家に嫁いできた時から変わらない、いつもと同じ朝だった。この姑にとり、一人息子も息子の嫁も、自分が県内、都内に保有する計数千坪の土地と同じ所有物で、偏愛するのも侮辱するのも、自分の勝手だ。この家の主人はまどかがここに入る前に車の事故で死んでおり、その際に妻である姑が、名義変更の上で夫の土地を継いだのだ。
「感謝ってものが感じられないよ。お前みたいな、他に嫁の行き手がない女をうちの嫁にもらってやっただけでもありがたいと思って尽くさなきゃ。パンツの洗い方だって、あれほど私が教えたやり方、無視してるよね。何の意図があってやってることなの? この子は、来年に市議選に出馬するのよ。お前がしっかり立てて支えてやらなくてどうするのよ」
姑の勝子(かつこ)が言うことのまま、夫の君津(きみつ)俊彦(としひこ)は、すでに供託金を納め、立候補の準備に入っている。政策ビジョンの第一には「教育環境の充実」を挙げている。
俊彦は五十後半で、まどかとは二十数歳の年齢差がある。二人の間には子供はいないが、勝子は俊彦の妹の子供である孫に満足しているため、これまで子供を作れというプレッシャーをかけてくることはなかった。夫の職業は学習塾のオーナーで、市内に二軒の塾を持ち、六段の腕前を誇る剣道家でもある。塾では自ら教壇に立ち、また、講師達を指導し、かたわら、体育館を借り切った剣道教室で師範代をしている。そのかたわら、教育指南の著書も過去に二冊出版している。
身体能力と勉強の出来には優れるが、家の経済的優位と、六十前の息子とべったりとした関係を保ち続ける母親による積齢というものを弁えない愛情を享受して、それに甘えたままのこの男の下に、まどかがこの家の従順な嫁、義理の娘として事実上身柄を売却された事情には、幼い頃に突如襲った出来事があった。それこそが彼女から普通の外見と、女としての平凡な幸せも奪取したものだった。
まどかの父親は薬局やガソリンスタンド、喫茶店を経営、夫婦でそれを切り盛りするやり手の商売人だった。だが、ある深夜、商売仇の雇ったごろつきが、一家の住む家にガソリンを撒いて火を点けた。
その火事は家を全焼させ、母親と同居の祖父母、まだ乳児だった妹の命、命を取り留めた父親とまどかから尋常の外観を奪った。父親は頭髪を失い、目が変形し、耳の耳朶が焼け落ち、唇が倍以上に膨らんだ顔になった。まどかは幼くして顔と体の半分が溶けた見た目になった。
教唆犯、実行犯ともに逮捕されたが、それはまどか父娘にとっての溜飲のようなものにはならなかった。父親は仕事への意欲を失い、所有していた店舗の経営権を他人に売り渡し、娘とともに移った借家で朝から酒を浴びる暮らしを送るようになった。降りた保険金類はみんな酒と、パチンコ、競馬、競輪、競艇、オートレースなどのギャンブル代に費やされることになった。
まどかは小、中学校では「被爆亡霊」という仇名を陰からつけられ、主に無視のいじめを受けたが、不登校になることもなくこつこつと勉強に励みながら、精一杯父親を支えた。十代に成長してからは、顔の半分を伸ばした前髪で隠し、ファミリーレストランのホール係の仕事をしながら、親類の援助で進学した定時制高校で学んだ。その間、まどかに寄り着く男子はいなかった。まどかの人目前に出ている部分は美しいが、その「顔半分」はふとしたことから知れ渡っており、その赤紫色の皮膚、焼けた魚のような眼球、額骨が剥き出しになった口から唾液が流れ出す顔に、男子生徒達がみんな尻込みしたからだ。それでも、まどかを色眼鏡で見ることなく優しさを渡してくれた数少ない人達の存在もあり、彼女は人間不信になることもなく、まっすぐで勤勉な心を保ち続けた。その間、身体障害者手帳も取得した。
君津の家に嫁ぐ話がまどかの許に来たのは、彼女が定時制高校を卒業し、社会福祉士の養成所に通い、その勉強に勤しんでいた頃だった。塾の講師をしている年長の男で独身、母親が土地のオーナーをしていて金はある。その家が、息子の配偶者を報酬づくで求めている。もしもお前がそこへ嫁いでくれたら、百万円の礼金と、月々に二十五万円の月報酬がもらえる。頼む、と言って、父親は泣きながらまどかに土下座した。その頃、下りた金はすでに使い果たしており、兄弟からのわずかな援助も自分の慰み代に充てており、借家の家賃、光熱費は何ヶ月分と溜まり、消費者金融会社や銀行カードローンからの督促状も唸るほど来ていた。
まどかはそれを数週間考えたのちに承諾した。承諾へ踏み切らせた動機は、父親へのひたすらな憐みと情だけだった。この要請を断ることは父親を切り捨てること、と、その時の心が認識したからだった。
その時、まどかは二十歳だった。社会や世の中のことは手探りで知ろうとしていた。だが、金で嫁を募るような二十以上年上の男と送る結婚生活がどんな様相のものかはいくらか想像がついており、覚悟も据えていた。
都内の高級ホテルで大袈裟な演出の結婚式を挙げてから、姑同伴の上、姑と息子だけで盛り上がっていた熱海への新婚旅行、それからは三人分の朝食を作って食べてから市役所、日によっては母子福祉施設へ出勤、疲れて帰ってくれば姑からは長い嫌味、夫からは怒鳴られ、その夫が、ただ仕事への不満の代用満足を求めてくるような営みがある夜。その不満をただ受けるだけのセックスに、まどかは一度も喜びを感じたことはなかった。夫は子供を作りたがらなかった。勤務する学習塾や師範を勤める剣道教室で、小学生から高校生の子供達に父親風を吹かせるのは愉悦だが、自分が子を持ってそれを育てることなどは煩わしいようだった。
父親は娘の身柄を販ぐことで手にした金で、変わらず酒とギャンブルの放蕩を続け、それがもたらした病気で死んだ。行きつけの居酒屋で酒を飲んでいたところで大量に吐血し、救急車に担ぎ込まれたが、病院に着く前に、救急車の中で帰らぬ人になった。
葬式は出さなかった。娘一人を除く家族を商売仇の悪意で亡くし、自分も娘ともども普通の容姿を失ったショックから自堕落な人間になり果てて以来、それまでついていた人がみんな去り、兄弟筋からも見放され、その死を悼む人がいなかったからだ。それに従業員の引き抜きなど、あざとく強引な手法で自らの商売を行っていたため、元々人の好意を得られていなかったということもあった。
支援機関と連帯し、知的な所、精神や身体、または環境上のハンデを持つ人を支援に繋げていく社会福祉士の仕事を行う中で、まどかは一つの哲学を貫いてきた。周りの誰もがどうにも手がつけられない状態の世帯には障害が隠れ、世間の怒りを一心に浴びる事件の裏には、「生まれ持った愚」の問題がある。その愚によって、罪のない人が死に追いやられたり、一生消えることのない傷を負うことが、悪質、もしくは残虐な悪事の本質と見ている。
手早い愚者の救済。これこそが、私が社福士として働く間に一件でも多く成さなければならないこと、と心得て、数々の困難事例に立ち合ってきた。失敗の形になったケースも少なくなかった。だが、一度や二度の失敗で諦めはしない。それがまどかの揺るがない信念だ。関わるケースの中には、脱法、触法、人道上の罪の履歴を抱える者も少なからずいる。一度犯した罪は消えない。だが、償いを決意させることで、ソーシャル・インクルージョンの輪の中へ導くことが出来る。
「十三年前にうちに来た時から、お前は全然変わってない。社会福祉士なんて、いっちょ前に世間様の聞こえがいい仕事やってりゃ許されるってもんじゃないんだよ。ねえ、聞いてる? 俊彦君の市議選の出馬は来年に迫ってるのよ。そんな時に雑な家仕事ばっかりして、一体何考えてるの? 俊彦君が落選すればいいとかって思って、わざと私の言うことを無視するような家事をやってるの? お前みたいな気持ち悪い女が俊彦君の嫁になって、十何年もここに置いてもらえるなんてことは、本来あり得ないんだよ。ただでさえ定時制の高校ぐらいしか出られなかったのろまで、見た目も気持ち悪い化け物なんだから、しっかり俊彦君に仕えるぐらいのことはしなさいよ。この家は校長先生だって出てる血筋なんだよ。世間体が悪いったらありゃしないわよ」勝子は朝食を不味そうに食べながら、まどかを責め立てた。夫の俊彦はそれに口を挟むこともなく、黙々と食べているだけだが、面白くないものを噛んでいる不満の色が表情に出ている。
その時、まどかが意を決した顔をして箸と茶碗をとんと置き、勝子と俊彦がその態度に不審の目を向けた。
「何? 何か言いたいことがあるの?」勝子が食事の手を止めて言うと、まどかはふた呼吸して唇を開いた。
「私の作るご飯が不味いと言うなら、今後は安心して下さい。今並んでいるのが、ここで私が作った最後のご飯です。これからはデリバリーサービスでもコンビニの食べ物でも何でも、これまでよりもましなご飯を好きなように食べるのがいいと思います」「え? 何?」
ぴんと背筋を伸ばして、これまで見せたことのない態度、宣言をしたまどかに、勝子だけでなく、俊彦も驚きを隠せない顔になっていた。
「私はここを去ります。言いつけに従ってお義母さんのお眼鏡通りにパンツを洗う新しい奥さんなど、その他、そのあとのことはご自分達でお考えになって下さい」「何の冗談でそんなことを言ってるの?」「私の言ってることが冗談でも何でもないことを証明する人が、今来ます」
「君津」の木札が掛かった、瓦屋根の、大きな門構えの和屋敷前に黒のソアラがすっと停まった。エンジンを止め、降り立った義毅は、手に紫の風呂敷を提げている。石段をステップ軽やかにほいほいと上がった義毅がチャイムのボタンを押してから返答があるまで、少しの時間があった。
はい、という応答が遅れて返ってきた。「おはようございます、荒川と申します。そちらさんが土地をお持ちになってると聞きまして、ちょっとした商談のようなものをしに覗ったんですが。実はですね、そちらのお嫁さんのまどかさんと懇意にしている者でして」「懇意って何ですか? まどかはうちの息子の妻ですよ!」「まあ、とりあえず開けて下さいよ。学習塾を経営されてる息子さん、来年出馬でしょう? 話の運びによっちゃ、そのあたりで、息子さんの立候補が有利に働くかもしれないですよ。もっとも私の話をちゃんとお聞きになれば、ですがね」「お金が目当てですね。そういう類いの人は、主人が亡くなって、私が土地を相続してからたくさん来ました。お帰りいただけますでしょうか。帰らないと警察を呼びます」ドアホンの向こうから勝子が言った時、義毅は喉を鳴らして低く笑い、手に提げた風呂敷の包みを見た。
「どうぞ、警視総監でも検事局長でも何でもお呼びになって下さい。不退去なんてションベンも同じですから。実は、警察なんぞに介入されたら、そちらさんのほうが大いに困ることになる物を、今日、私は持ってきてるんですよ」「何だか知りませんけど、そんな物に覚えはありません。迷惑です。帰って下さい」「だから、私がこのまま帰ったら、あなた方が困ることになるんですよ。どうですか。そちら次第でどうにでも転ぶ話ですから。お時間は取らせませんよ」
疚しいことを突かれたという風に応対する勝子の後ろを、席を立ったまどかがすり抜けた。「何やってるの! 開けるんじゃないよ、馬鹿!」ドアの鍵を開けるまどかに勝子がむしゃぶりついたが、まどかは構わず開けた。
風呂敷を提げた一人の男の姿が現れた時、勝子は口を大きく開け、腰が退けた体の恰好になった。勝子の後ろからは、不安げな顔の俊彦が顔を覗かせている。
ブーツを脱いだ義毅は、風呂敷を手に廊下を渡ってリビングへ進んだ。後ろにまどかが続いた。
「君津俊彦さんだね」義毅が問うと、目一杯の不安を顔に刻んだ俊彦が、立ち尽くしたまま小さく頷いた。「剣道式最強エリートの育成法。あんたの著書だ。古本落ちしてるのをちょっくら読ませてもらったよ。呼吸を読む。それで敵の足許をすくう。それで蹴落とす。それがあんたが考える出世の方法か。楽しみだな。そんな考えに凝り固まってるあんたが、市政でどんな辣腕を振るうかがな。俺はいいぜ。一票入れてやってもさ」義毅が足を進めて寄ると、俊彦は後ずさった。
「帰れ、このチンピラ!」ヒステリックな声を張り上げた勝子が、義毅の肩に拳の小指側を打ちつけるようにしてぽかぽかと殴りかかった。義毅がそれを軽く払うと、勝子は小さな悲鳴とともに尻餅をついた。
義毅はテーブル中央に置かれている花瓶をシンクに移し、そこに風呂敷の包みを載せた。「これを見ちゃもらえねえかな」さらっと言って、風呂敷の結びをちゃちゃ、と解き始めた。俊彦はへなりと立ち、勝子はテーブルの縁に手を着いて立ち上がりながら息を吞んでいる。風呂敷は、縦に長い白い箱を包んでいた。箱の蓋が開けられると、濁った色をした半円形の物が見えた。
義毅が両掌に包むようにして箱から出し、ぽんと置いたものは、灰色にくすんだ、額骨までがついた人間の頭蓋骨だった。サイズとしてはいくらか小さく、骨としてはどこか優しげな面持ちをしている。少女の頭蓋骨、という感じがする。
勝子が空気を裂く高い号叫をほとばしらせ、俊彦が不安を爆発させたような顔になってのけ反った。
「これが何だか分かるか。骸骨だってことは幼稚園生でも分かるがね。本物だ。何もどっかの理科室からかっぱらってきた標本じゃねえ」義毅が指を揃えて伸ばした手で頭蓋骨を指して言うと、勝子がまた尻餅をついた。目と同じく動揺の出た形に開いた口から震える呼吸を漏らす俊彦の顔に、汗が光り始めている。
「本当に覚えがねえっつうんなら、きっちり説明するこった。君津さん、これ、あんたの何だっけ‥」問う義毅に、俊彦は答えない。まどかは義毅の隣に並んで立ち、事の次第を冷静に据えて見ている。
「じゃ、代わりにこっちから行くぜ」義毅は勝子と俊彦を順繰りに見回した。
「こんな話が乗ってる新聞の縮小版なんて、今さらどこの図書館にも置いてねえ。今から三十二年前、習志野台のアパートで、中年の女がベルトで首を締められて殺されたんだ。着衣の乱れはなかった。逮捕されたのは、別居してた旦那だった。不自然な点がいくつかあったけど、その旦那が黒と見なされて、実刑判決だ。何故なら杜撰な捜査の上、自白を強要、誘導されたからだ。その別居夫婦は二人とも、その頃の言葉で言う知恵遅れ、精神薄弱者だった」義毅の顔と声の色に、かすかな悲しみが滲んだ。
「その夫婦には、娘が一人いた。その娘も知恵遅れだった」俊彦の体が強張りを見せた。勝子は座り込んだきりだった。
「その女を殺したのは、君津さん、あんただよな」「何を言ってるんだ! 俺が何でそんなことをやらなくちゃいけないんだ!」俊彦が初めて口を開いた。
「証拠はあるのか! お前が誰だか知らんが、俺がそんなことをやらなくちゃいけない理由はないぞ!」俊彦は顔を汗で濡らしながら、分けて整えたグレーの髪を逆立たせて叫んだ。
「なるほど、周りから頭脳明晰と勘違いされて、おだてられていい気になってやってきたあんたらしい突っ込みだな」「名誉棄損と誣告罪で告訴してやる!」「どうぞ、告訴してくれよ。けど、こっちにも、今言ったことの全概要をあっちゃこっちゃに流す用意はあるぜ」「ふざけるな!」「ふざけちゃいねえさ。この可哀想な女の子のしゃれこうべこそが、動かねえ証拠であって、もう物を言うことのねえ当事者だからな」
テーブルの頭蓋骨は、四人の生きた人間のやり取りを、どことなく庇いを含んだ眼差しで眺めているように見えた。
「事件の二ヶ月くらい前だったんだよな。その障害者のおばさんから、あんたら親子がその娘を嫁として、三十万の金で買い取ったのは。その娘は、お嫁さんになれるっていうことで飛び上がって喜んでた。お袋さんも喜んだ。娘の結婚を、というよりも、自分が好きなゲーセンに何百回と行ける金が手に入ったことでな。その女の子を、あんたらは労働力として使い潰して、来る日も来る日もいじめ抜いたんだ。あんたは日常的に暴力も振るってた。そのDⅤで、死なせちまったんだよな、この前妻さんをさ。ここの家筋は、あんたを含めて教育者を何人か輩出してる。遠縁には、地方の大学の学長もいる。あんたの名誉と家柄に傷がつくことを恐れて、こっちの母ちゃんと二人で、風呂場かどっかで死体を解体したんだ。それであっちゃこっちゃに分散して深く埋めたんだ。立地条件上々の土地なのに、三十年以上買手を募ってねえ。もっとたちの悪いのに嗅がれる前に俺が嗅いだってわけだよ、良心からな。いい仕事してくれたよ。知り合いのブリーダーから拝借したシェパードの仔犬がね」「出任せを言うな! でっち上げだ!」怒鳴った俊彦の顔は、泣く恰好に歪んでいる。
「ゲーム代欲しさに三十万ぽっちに目をくらませたお袋さんを殺したのは、いなくなった理由を隠し通せねえための口封じだったわけだ。それでその旦那、この女の子の親父に嫌疑がかかって判決が下りた時にゃ、にちゃりと笑って喜んだんじゃねえのか」俊彦は左右に視線を走らせた。
「お袋さんを口無しの死人にして、その旦那に罪をなすりつけることには確かに成功したよな。だけど、意外な証人がいたんだ。それは、この前妻さんが入って生活してた女子寮で、ここに来るまで仲良くしてた女の子だ」義毅が述べると、俊彦の目が丸く見開かれた。「その子は、手紙をやり取りするために番地を教え合ってたから、ここの住所を知ってた。だけど、ある時から手紙の返事が来なくなったことを、その子なりに不審に思い始めたんだ。それでここを訪ねた。その時は正月時で、あんたは遊び仲間を集めて、昼飲みして馬鹿騒ぎしてた。沙織ちゃんはどこ行ったの、と訊いたその子を引っ張り込んで、あんたは居合わせた仲間と七、八人がかりで輪姦して、ポラロイドカメラで写真を撮った。その子を犯しながら、酔いの勢いで、あんたは言ったんだな。あれはもう土の中に埋まってるんだよ、俺が埋めたんだよ、ってな。これを誰かに言ったら写真ばら撒くぞって脅すことも忘れなかった。以上のことは、今、船橋の社福がやってる入所で生活してる、その子本人が俺に直接話してくれたことだよ」
俊彦は奥の部屋に走った。戻ってきた俊彦の手には、黒い柄に鞘の、一振りの備前長船が掴まれている。荒い息を吐きながら、俊彦が鞘を払い、刀身が現れた。俊彦は備前長船を八双に構えた。義毅の目は、その刀身と俊彦の顔を交互に見つめた。体勢は全く動かない。刀身を見ても、顔色も変わらない。
「その刀で俺を斬るのか?」義毅は飄々と問うた。「太く短く、が俺の人生流儀でね。おむつ着けて徘徊するボケ爺さんになってまで長生きしてえとは思わねえから、やるならばっさり首飛ばしてみろよ。ただし、そいつをやんなら証人も始末しなきゃならねえよ」義毅はまどかをさっと指した。まどかの冷静な顔、姿勢もそのままだ。小さく愛らしい頭蓋骨は、静かにテーブルからその様子を見ている。
「たとえじゃねえけど、二つもの死体を始末すんのは骨だぜ。風呂場で解体すんのは勝手にやれって話だけど、市議会議員候補の教育者から死刑囚になり果てるってのも世話ねえな。そうなりゃ、集団強姦一件、時効のものを含めた殺人が四件、遺体損壊に遺体遺棄がこれまた四件だぜ、四件。どうするよ、先生」義毅は語尾に小さな笑いを交えた。
俊彦もつれた足でどたどたと後退し、備前長船の柄を握りしめたまま、壁に背中をつけた。柄を持つ手が緩み、備前長船が床に落ちた。背中が滑り、床に尻が着いた。端を下げた目を四方にさまよわせ、への字に開いた口からは、悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れている。母親の勝子も座ったままだ。
「いくら欲しいんだ‥」恐ろしいものから目を反らすように目線をそっぽに向けた俊彦が、Yシャツの胸を収縮させながら、咽びの入った声を絞った。
「五つで手ぇ打とうか。そいつは服を買う金じゃねえ」義毅は言い、右手の指を五本立てた。
菱形に開いた口から、ああ、ああ、と子音を切るような泣き声が上がった。頬には堰を切ったように流れ出た涙が伝っていた。
 モスグリーン色をした義毅の革ジャンパーの懐から、二つ降りされた一枚の紙切れが取り出され、まどかが手を出して受け取った。まどかは受け取った紙を、泣くばかりになった俊彦の足許に置いた。それはすでにまどかの署名がされている離婚届だった。
 「ここに署名と捺印をして」まどかは夫の涕泣がいくらか鎮まるのを待って、声を落とした。
 「頼む! 赦してくれ!」俊彦はまどかの腰にしがみついた。「お前がいないと俺は駄目なんだ。お袋の目が届かない所をやってくれる女がいないと、俺は困るんだよ。だから、別れるのは思い留まってくれないか。これでもお前のお陰で俺は助かってたんだ。口じゃいろいろ言ったし、良くない態度を取ってしまったこともたくさんあったよ。でも、心じゃお前に感謝してたんだ。本当だ。お前がいなきゃ、来年の市議選で勝って議席入りする自信も持てそうにないんだ。これまでのことがまずかったなら、謝る。だから頼む! 俺を捨てないでくれよ!」俊彦は咽びながら、腰を両手で掴んだまどかの体を揺さぶった。
 「お袋も口調はきついけど、お前に向上してほしくて言ってたんだ。理解してくれ」俊彦はまどかの下腹に顔を埋めて啜り泣いた。まどかは体を引いて、すがりつく俊彦を避けたが、彼に注ぐ目に冷たさはなかった。俊彦は両手を挙げた恰好でまどかを見上げた。
 「そういうのは確かにあったかもしれないよね。でも、あなたは、自己都合で、罪のない女の人を二人殺めてる。酔って歯止めが利かなくなった欲望に任せて、知的障害者の女の子相手に、最低のレイプまでやった。それを償うでもなく、反省するでもなく、お金に囲まれて今日まで来て、時効も迎えた。私は、あなたが死なせた前の奥さんの穴埋めに、この家に売られてきたの。赦しっていうものは、私とその人達、どっちに求めるべきだと思う?」「まどか! 頼むよ!」「私は父を助けるために、お金で買われてこの家に来た。あなた達の仕打ちにこれまで耐えてきたのは、全て父のためであって、あなた達のためじゃないの。でも、私が支えてきた父はもう死んだ。それからずっと考えて、今日、結論を出したのよ。あなたが今さらそんな風に泣いたって、私がここにいる理由はもうないの」俊彦はより激しい泣き声を上げ、カーペットの上に突っ伏し崩れた。
 義毅が歩いて俊彦の横に移動し、日本刀を遠くへ蹴り遣った。飛んだ備前長船を見る目にはクールな光があった。その光を宿したままの目で振り返り見て、二人のほうへ向き直った。
 前妻のしゃれこうべは、優しい顔のまま佇んでいる。それは長い間埋まっていた冷たく寂しい土の中から、自分を見つけてくれた感謝を伝えているようにも見えた。勝子は足を崩してすわったまま呆然と、泣く息子を見ている。
 俊彦はのろのろと立ち上がると、乱れたグレーの髪もそのままに角の箪笥に寄り、腰をかがめて、引出から印鑑を取り出し、ペン立てからボールペンを一本取った。まどかの置いた離婚届の用紙を、しゃれこうべと朝食が並ぶ食卓まで持っていき、背中を震わせながら名前を書き、捺印した。義毅がそれをひったくるような手つきで取り、まどかに渡した。
 それからまどかはキャリーバッグに下着などの何点かの衣類、生理用品や整容用品、保険証、印鑑など、身の回りの物を詰め込んだ。俊彦はうなだれていた。勝子は立ち上がらなかった。食卓の朝食は冷めてしまっているようだ。
 「愚かな人、経済的な貧しさから心までも貧しくなった人の手を取ることが、私の仕事なの‥」まどかが言うと、俊彦は涙の乾かない顔を上げた。
 「あの頃の私が持ってた知恵では、悲しみとトラウマのために愚かになった父のために出来ることは、あれが手一杯だった。今の私があなたのために出来ることは、何の意味もない関係性を終わらせることなの。あなたは私に不満や苛々をぶつけることで、これまで私に甘えてきた。私はそれを受けてきた。これからあなたが甘えられる人は、お母さんだけ。あなたが持ってる塾の社屋だって、家のお金で買ったものだものね。私は今日をもって、あなたの甘え役を降りる。これからは、自分の苛々事は自分で処理するか、せいぜいお母さんに存分にぶつけるのよ。あなたにそれをされることは、むしろお母さんにとって喜びなんじゃないの? だけどお母さんだってもう八十を回ってるわけだから、そう長くは生きないことは間違いないよね。そのあとのことは自分で何とかする知恵を、時には誰かの助けを借りても練っておくことね。社福士の立場からだったら、いつか、どうにもならなくなったあなたを助けることも出来なくはないから‥」
 沙織という生前名をしていたという、戒名もない頭蓋骨を、義毅は箱と風呂敷に包み直し終えていた。俊彦は立ち、慄く手で、箪笥から出した小切手に数字を書き込んで義毅に渡した。義毅の言った五つ、五百万の金額が書かれている。義毅はにんまりとした顔でそれを受け取って、革ジャンの懐にしまった。
「こんな所に置き去りは可哀想だからな。こっちで、簡易的なりに手厚く葬らせてもらうよ。あばらや大腿はあそこに埋まったまんまになっちまうがね、これは時間の都合上しかたがねえ‥」消え入るような言葉尻には、憐憫らしいものと一緒に残念そうな響きがあった。
 「お世話になりました」まどかは床に尻を着いたきりの義母と、届出書を提出次第、夫でなくなる男に挨拶し、キャリーバッグを引いて玄関へ向かった。その後ろから、据わった目の顔を向けた義毅が続いた。
 キャリーバッグをトランクに納め、まどかを助手席に乗せて走り出したソアラのエンジン音に混じり、「覚えてろ!」という金切り声が聞こえた。バックミラーには、両拳を振り上げて立つ勝子の姿が写っていた。ソアラは滝不動から、296号の方面へと走り出した。
 まどかと義毅の馴初めは半年前に始まった。まどかは義母には「同僚と食事をする」と伝えた上、一ヶ月に一回程度の楽しみで、南船橋駅近くのダーツバー「フリーゲール」に通い、カクテルを味わっていた。ボリュームほどほどに流れるオールディロックを聴き、もっぱらウイスキーベースのカクテルを傾けながら、自分はほとんどやらないダーツを他の客がやるのを鑑賞するのが楽しみだったが、来るたびに居合わせ、ダーツの矢をいつも百発百中で的の中心に当て、豊富な人生経験が窺えるトークでバーテンダーと盛り上がっている、赤い鱈子唇が印象的な三十代の男に、自分から声をかけて意気投合した。それが義毅だった。
 浄水器をネット販売する自営をやっている、と自分の職業を語った際、一般社会から反れたような怪しさも確かに感じたが、自分やバーテンダーと交わす話の内容に、口調こそいささかの悪羅つきが見られながらも、人間的な優しさも感じ取った。そこにまどかは「解放者」を見出した。
 ラインを交換し、はしごでもう一軒行こうとなって、連れ立って店を出た時、人通りの少ないビルの陰で、まどかは前髪をたくし上げて、ケロイドで変形した顔の半分を義毅に見せた。義毅は、そんなものが何だと言わんばかりに笑って、ケロイドの頬にキスをした。まどかが義毅と結ばれたのは、二軒目に入った寿司屋で、義毅がビール、まどかがウイスキーの水割を飲みながら、一つの皿の上寿司を一緒に食べたのちの時間だった。
 限られた時間で逢瀬するうち、まどかは義毅に、自分が嫁として入っている家の実情を話した。義毅はそれとなく、詳しく知りたがり訊いてきた。そこで彼が自分のいる家の財を狙い始めていることがはっきりと分かったが、たとえあなたがそれを全て奪うつもりでも、私はあなたについていく、と、情事のあとでまどかは義毅に言い、義毅は、そんなことは別に俺は、と言って笑った。それから、君がそのオーナー先生と別れたいなら俺が手伝う、と言って、独自に身辺や過去の洗った情報をまどかに話し、今日、決行に運んだのだった。
 沙織の頭蓋骨は、八千代の新川付近の雑木林の奥まった場所に、トランクに携えていたスコップを使って深くに埋めた。埋め終わり、片手でちゃっと拝んで立ち上がった義毅の目に、涙の光が一瞬だけ見えたように思えた。
 「出来たかもしれないの」下腹に手を置いたまどかが言った時、車は彼女があらかじめ借りていたウィークリーマンションのある勝田台へ向かい、国道十六号を昇っていた。
 俊彦との間に、もう数年と夜の生活がなかったことは事実としてすでに話済みだった。
 義毅がアクセルを踏むソアラは、通学バスに続いて宮内歩道橋を潜ったところだった。義毅はまどかの打ち明けにちらりと顔を向け、また前方へ視線を戻した。
 「初めて会った時に言った通り、俺は特定の女はめとらねえ主義でね」義毅の言葉は、あしらう、または言い捨てる風でもなかった。まどかには言わんと意図することが分かる。
 哀れな父(てて)無し子を作る結婚などは初めからしない、ということだ。
 「でも、私、産む‥」まどかが言った時、義毅が頷いたように見えたのは気のせいではないと思えた。カーステレオのFMからは、夜明け前のミルキーウェイ、二人で見ようよ、手をとって‥というJ―POPのウェディングソングのバラードが流れていた。
 まどかはそれを聴き留めながら、しゃれこうべの沙織が自分達の子として来世を設け、生まれてきてくれたら、と願い想った。
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