手繋ぎ蝶

楠丸

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綺麗だから

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~綺麗だから~
 柏の街は、二十幾年前と比べて基本色が明るく、きらびやかになったと感じた。学生時分の村瀬が交通量調査のアルバイトで来た時は、もっと鬱蒼と、ごみごみとしていたように思える。だが、東の渋谷と呼ばれるだけあって、若い世代の人間達の姿がよく留まり、少子、高齢というアジア社会の実際的実情はあまり感じられない。
 村瀬は柏駅南口から伸びるハウディモールを、千代田という区域の方面を目指して歩いている。たかこ、という氏名の菜実の叔母が住むという「アップルハイツ」は市の水道局近くにあることは、マップ検索で掴んでいる。アパートの検索で出てきた写真によると、外壁が緑色に塗装された木造二階建てで、部屋はワンルームとのことだった。家賃は共益費を含めて月三万八千円とあった。
駅から二十五分の長きを歩き、千代田地区に入った。アップルハイツは、新旧の住宅家屋が並ぶ、カーブした広い車道沿いにあった。外観は写真で見たままだった。名戸ヶ谷のほうには二号館があるという。前にはゴミ出しのスペースが設けられており、「当アパート住人以外の方は捨てないで下さい」という警告の看板が貼られ、中年の男が勝手にゴミを捨てている監視カメラ映像の写真が載っている。村瀬は曇った空を仰いで見てから、アーチ状の外門を潜った。二段に分かれて横並びになった、錆びたスチールの集合ポスト下段に、「池内」の名前を確認した。一階突き当りの5号室だった。
各階に五つの部屋を配した造りで、廊下の角には一回二百円とあるコイン式の洗濯機が置かれ、「故障中 洗えないものは入れないで下さい 家主」とマジックで書かれた紙が貼ってある。
村瀬は洗濯機の前で立ち止まり、ボディバッグから一枚のメモ用紙を出した。
池内様 姪の菜実さんとお付き合いさせていただいている者です。突然の名乗り出で戸惑わせてしまうことをお詫び申し上げます。ご都合のよろしい日取りでよろしいので、菜実さんとの将来的なことなどについて話し合いたいので、お手すきの時に、下記のアドレスまで連絡をいただけると幸です。電話番号 090‥ メールアドレス‥ 村瀬豊文 よろしくお願い致します。
メモを投函してのちの時間を設ける方法を選んだのは、相手の都合を慮ってのことだった。相手にも、気持ちの準備というものがある。
メモの内容を今一度確認して奥に進みかけた時、突き当り手前の部屋のドアが開き、人相の悪い男が出てきて、村瀬をじろりと一瞥して外へ去っていった。村瀬はその男を気にせず、奥の部屋へ進んだ。
ネームプレートには、上手いとは言えない字で「池内孝子」とマジック書きされた厚紙が挿してある。
「誰?」廊下入口から不機嫌そうな女の声が飛んできたのは、村瀬がドアポストにメモ用紙を入れかけた時だった。
振り返ると、手に煙草を二箱持った、オレンジ色のダウンジャケットを着て灰色のスパッツとサンダルを履いた小肥満の女が、にじり寄るようにしてやってくる。四十代だった。
「こんにちは‥」若干の詫びを込めた同時礼で腰を折った村瀬の声は、高く上ずっていた。
「何も買わないよ」村瀬の前に立った女は、村瀬を何かの販売員と見なしたか、冷たい口調で言ったが、目の奥にはどこか興味染みた光があった。肉づきのいい頬とがっしりした顎、丸い目と丸い鼻をしており、沖縄のシーサーを思わせる。緩いパーマをかけた肩までの髪は軽い茶色にカラーリングし、薄くファンデーションとルージュを挽いている。左手首には、透明の玉を繋ぎ合わせたブレスレットを巻いていた。
「池内(いけうち)孝子(たかこ)さんで間違いないでしょうか」「そうだけど、あんた誰?」女の顔にますます不思議の色が浮いた。
「私は村瀬豊文と申します。習志野から来ました。ご不在でしたらメモを投函させていただこうと思ったのですが、こうしてお会い出来たので、どういう立場でこちらに覗ったのかを簡単に説明させていただきたいのですが‥」「立場って何なの?」女の目がより丸くなった。
「池内菜実さんは、そちら様の姪御さんで間違いありませんでしょうか」「そうだけど、あんた、あれの何なの?」女は口をちょぼりと尖らせて問うてきた。
「お付き合い、させていただいております」村瀬が恐々と言うと、菜実の叔母である池内孝子は視線を廊下の柵へ遣って、何かを考えるような顔つきになったが、すぐに目を村瀬に戻した。
「あれ、グループ何とかに入って生活してる精薄だよ。あんた、あれと話してて苛々しないの?」孝子は語尾に失笑を混ぜた。
今の世の中で一般に広まっている程度の知識もなく、障害に理解も示さない人であることは予想のうちだった。語気からも、菜実の話に聞いた通りの、男はだしの血の気の多さが伝わってくる。村瀬は汗が滴る緊張を覚えていた。だからこそ、しっかりはっきりと話すべきことを話さなくてはいけない。
「まあ、いいよ」孝子はポケットから出した鍵を差し込んで回し、ドアを開けた。「入んなよ。話だけだったら聞くからさ」言った孝子に、村瀬は頭を下げて、彼女のあとに続いて玄関を潜った。
部屋は六畳ほどの広さで、玄関脇にユニット式のトイレバスがある。住人の柄には合わず部屋は片づいており、モルタルの壁には男性アイドルユニットのポスターと、その中の推しらしいメンバーの生写真が貼られ、カーテンレールから四角い洗濯ハンガーが掛かって下がり、フリルつきのブラジャーとショッキングピンクのスキャンティが干してある。男物の上着も掛かっている。菜実は、男と住んでいる、というようなことを言っていた。
村瀬は孝子の促しで、炬燵の玄関側座布団に座った。向かいに座った孝子は、買ってきたばかりの煙草を開封し、一本を引き出して点火して煙を吹き上げた。
赤いカーテンが留められた、狭いベランダ側の壁際には、白装束に白鉢巻をまとった中年の女が、滝の前に立ち、手に印を作り、凄まじい形相で経文らしいものを叫び唱えているB5サイズの写真が銀の額縁に入って掛けられていた。その下には注連縄の巻かれた、檜の小さな祭壇のようなものが置かれ、端に二つの榊立て、その内側には御神酒の小瓶と小皿の塩、中央には真っ赤なフレームの鏡が立てられていた。
「要はくれって承諾だよね、あいつをさ」孝子は煙を部屋に撒きながら言ったが、その口調にも顔にも、一応、一時は菜実を見ていたという人間らしい気揉みが感じられない。
「あいつともう寝たんだろ? 好きにすりゃいいじゃんか。あいつだってもうガキじゃねえし、あんたがいることであいつがそこそこ幸せだったら、別にこっちが関与するこっちゃないよ」
孝子の口ぶりには、障害を抱える姪を微塵も心配する様子が見えない。だが、菜実が得た金は間違いなく、この叔母の元へ行っている。
「私が今日覗ったのは、まず、そのことです。菜実さんのお母様にも、なるべく早くに挨拶させていただくことが筋でしょうけれど‥」「ああ、私の姉貴だろ? あれは二十年近く前から栃木にぶち込まれてんだよ。強殺で無期。もう出て来れはしねえんだよ。迷惑そのものだったよ。そもそも無駄な弁護士費用の支払いなんかこっちに残しやがってさ」
語彙表現を欠く菜実の話に聞いたことが、今、確認が取れた。薄らと分かっていたことをはっきりと知ったことで、村瀬は納得を得た気持ちになった。
「強盗殺人‥でしょうか?」村瀬が息を呑み込んで問うと、孝子は煙草をルージュの口の端に緩く咥えながら、鷹揚に頷いた。
「あの姉貴、一応、高校卒業してんだよ。つっても、試験無しの家政科の高等専修とかの、時計が読めなかったり、自分の名前も漢字で書けないようなのが普通にいるような学校でさ、体のいい特殊だね。そこ出て、総菜作ってる小さい工場に就職して、安賃金で七年ぐらい働いてたんだ。その間に、その工場に出入りする業者の助手とかをやってるっていう男と付き合い出してね。私も知ってんだけど、何だかぼさっとした、馬鹿面下げた奴だったよ。けど、あれが普通の男なんかにまともに相手されるはずがねえからさ、似合ってたよ。馬鹿同士って感じで」
孝子がそこまで語った時、村瀬は自分の喉がなるのが分かった。
「そいつとの間に生まれたのが、あいつ、菜実だよ」孝子は目を天井に泳がせ、煙草を吸い込んだ。
「籍も何も入れねえで、実家だった豊四季の公団に一緒に住んでね、腹ぼての姉貴を見て、姉貴は十余二のほうにある小っちゃい産婦人科で菜実、産んだんだよね。それがさ、あいつが三つの時、どっかへ逃げちまったんだよ。女房子供、放り出してさ。ついで言うと、名前は大塚‥」
孝子の口調は、他人事を語るように淡々としている。村瀬には氏名も分からない菜実の父親への怒りらしいもの、捨てられた姉とその娘への憐憫も感じられない。
 やはり、利己。この女も、これまで菜実を囲んできた多くの人間達の一部に過ぎない。それが性格、で片づけるべきか別のもののせいかは、今の村瀬には分からない。
部屋の隅の写真が霊能者か教祖かも、まだ村瀬にも分からない。だが、おそらくこれには金がつぎ込まれている。今日まで菜実は、この叔母に「弁護士を雇うため」という言わんで金を送り、預けてきた。
本人にどう伝えるかも分かるべくもない、むごく、忌まわしい事実を、村瀬は肚の中に押し込んだ。胸の中に、憤りの思いが静かに立ち昇ってきた。それは嫌悪感も含んでいた。
「それから実家はじり貧になってさ、私はその頃、水の仕事やってたんだけど、借金とか未払いの市県民税や何かがいろいろあったし、元から母親が嫌いだったこともあって、実家を扶ける余裕もその気もなかったわけだよね。あっちも、菜実の保育園の利用料の支払いもあって大変だったみたいだけど。でも、しょうがねえんだよ。あの婆あと娘で、揃って精薄だったんだから」孝子は煙草を揉み消し、頬杖を着いて、小さな舌打ちをした。
「その二年ぐらいあとだよ。あの馬鹿が、中学ん頃から遊んでたお友達の、無職の精薄女と一緒に霊感師の婆さん、ハンマーで殺っちまったのは。テレビでも新聞でも報道されたよ。あんた、覚えてないかな」
村瀬は上体を引いた。自分の目の色に恐怖が出ていることが自分で分かった。その事件のものらしいテレビ報道の記憶が、おぼろげながら甦ってきたと思えた。「紐で首を締められた上、金槌を執拗に頭部に」「遺体の損傷は激しく」という現場リポーターの語気と、度の薄いサングラスをかけた被害者の生前のスナップと、化粧気のない顔に、それぞれ開き直りと憔悴の表情を浮かべた加害者二人の逮捕写真がテレビに大きく写っていたこと。だが、被害金額が妙に少ないということが少々関心を引いただけで、日本の社会ではありふれた報道のために瞬く間に忘れられた事件だったこともあって、すぐに村瀬の記憶からも薄れていった。
それが菜実の母親が起こした事件だったという事実の衝撃に、村瀬は打ち据えられていた。
「裁判は一般に公開されないで進められて、一審ですぐ実刑だよ。たかがあんなおもちゃのために、あんなことしでかしてさ」「おもちゃ?」「日曜の朝にやってた、あとからヘアヌードでけつの穴までさらした、落ち目のアイドル主演の、魔法少女かりぷそ、とかってやつ、知らない? あれの変身バトンだよ。婆さん殺して盗んだ金で、あれ買ったんだよ。動機はそれ。菜実のためだか、自分が遊ぶためだったかは知らねえけどさ」
「あの‥」正座を崩さず、肩を固く畳んでいた村瀬が、孝子の目を見て声を送ったのはその時だった。
「あの写真と、祭壇みたいなものは何でしょうか‥」村瀬はベランダ側の壁に掛けてある、経文か呪詛を叫び倒している白装束の女の写真と、その下の祭壇を手で差して、孝子に問うた。
 「ああ、これね」孝子は言って、這って祭壇まで体を伸ばし、祭壇の脇に置いてある一冊の冊子を手に取った。
「まあ、ちょっと目ぇ通してみなよ」孝子は冊子を村瀬の前に置いた。
正法啓発、というタイトルが描かれ、和服を着た壁の写真と同じ女とその夫らしい男が、子供二人を含む男女に囲まれている写真が表紙を飾っている。
村瀬が表紙をめくると、ファインダーを睨む目つきをした代表の女の写真が出てきて、丹羽(にわ)啓子(けいこ)というらしいその女の講話のページが三、四枚続いていた。「悪霊調伏」「神の浄め」などというという言葉が強調して語られる講話のページが終わると、女二人の一組が正座して向き合い、互いの額に人差し指を当てている写真を掲載したページになった。
「これは何ですか?」村瀬がそのページをかざして訊くと、浄神の業(わざ)、と孝子が答えた。
「これをやることで、何つうか、霊的な免疫がついて、人に不幸をもたらす悪霊とか悪神、寄せつけなくなんだよ」「これ、受けてるんですか?」「私? 受けてるよ」「受けて、何かいいことがありましたか?」「結構あったよ。あんたも受けてみりゃいいじゃん。あんた、習志野だっつったよね。隣の船橋にも支部あっから、よかったら私が紹介するよ。そら、これが神様の力、仲介すんだよ」孝子は左手首のブレスレットを村瀬に見せた。
 村瀬が冊子をめくり進めると、「邪霊がそそのかす払い惜しみを厳しく正してくれた素晴らしい教え」という見出しの下に、息子で間違いないと思われる男の肩を抱いた壮年の男の写真を載せたページに来た。壮年男は、引き攣った作りではなく心からの喜びの笑みを浮かべているが、息子は目つき、顔つきが、健常の人間のものではない。焦点の合わないどろりとした両目からは考えていることが窺い知れず、口はぽかんと開いている。
 村瀬は次項を親指でめくって開き、打たれている文を目で追った。それによると写真の男は、昔に大腸ガンで妻に先立たれ、立ち食い蕎麦屋の店員をしながら無職の息子二人を養ってきたが、長男の精神障害発症、非行に走った次男の暴力に悩まされていたところ、同僚が支部長に引き会わせてくれ、孝子がしているものと同じブレスレットを買って入会、浄めの業を受け、そのお陰で心の禅定を得ることが出来た。それに感謝し、要は未来の幸せへのかけがえのない保険である「神様へのお礼」を納め続けているという話だった。浄めの業を受けて、具体的に何がどうなった、変わったという話は語られていない、尻切れとんぼの内容だった。ただひとつはっきりと言えることは、長男の精神障害は治らず、次男の暴力も今だに続いている中、この男は精神保健や警察に助けを求めることもなく、この団体に一切の信を預けて一人で喜んでいるということだ。
 「あの‥」村瀬は冊子を炬燵に置き、問いかけを試みた。
「そのブレスレットの代金を含めて、いくらかかるものなんでしょうか。この機関紙の購読料、月に納める会費のようなものなどは」「ああ、これね」孝子はブレスレットを指で叩いた。
 「これ、六十万。二十万づつ分割の三回払い。あと一回払ったら、こっちは終わりだよ。月会費とそれの購読が兼ねてて、月に三万だよ」生活を脅かす経済的略取の話をあたかも普通のことのように話す孝子に、村瀬は身を乗り出していた。
 「大丈夫。今日も四時から善哉フーズの夕勤だけど、それの他にも当てはあるんだよ」「当て?」村瀬の問い返しに、孝子の唇がかすかににやっと歪んだように思えた。
 「それは、菜実さんがこちらに送ってるお金じゃないんですか」村瀬の問いかけに対し、孝子は目を据わらせた笑いを刻んでいるだけだった。
 「何? それ、あいつが言ったの?」「はい。叔母さんにお金を送って預かってもらっていると言っていました」「あの馬鹿‥」小声で呟いた孝子の顔に怒りが表れた。
 「どう思いますか?」問う村瀬に、孝子はただ、玄関のほうを見つめるだけの反応を返していた。
 「どう思ってるんですか?」同じ意味の言葉を、村瀬はもう一度投げかけた。孝子の顔色に怒りが膨張している。飲み屋で人をぶったとは、すなわちぶん殴ったと解釈するべきだろう。男顔負けに血の気が荒いことは菜実の話を聞き、また最初に会った時に物腰の感じですぐに分かったが、相当のものらしい。だが、村瀬は肚を据えようとしていた。吉富同様、自分にとり天敵のような相手だが、菜実を守る以上、引くわけにはいかない。
 「関係ねえだろ!」炬燵を叩き、怒号して立ち上がった孝子の目は血走り、口の端は吊り上がっていた。
 「てめえなんか他人じゃねえのかよ! これはうちのことなんだよ! 他人のくせしやがって、わざわざこんなこと言うために柏くんだりまで来たのかよ!」声高く張った啖呵を投げつけられた村瀬は、腸がどっと冷える思いになっていた。自分の怯えた顔が鏡で見るように思い浮かんだ。それは一見の訪問をして家に上がらせてもらった身で、この叔母とその姪の生活に踏み入ったことを言わなくてはならなかったことに、負い目も感じているせいでもあった。
 村瀬は立った。もう一度、頭を下げようと思ったからだった。
「てめえ、何とか言えよ!」どかどかと走り寄った孝子の拳が、空気を切って村瀬の鼻に伸びてきた。脚、腰から伝わった体重がよく乗っている。慣れている、と感じた。村瀬の体が屈んだ。その右パンチを左内受けで流すと同時に、気持ち下段気味の右の掌底が孝子の腹部にめり込んだ。孝子の口から空気が吐き出される音がした。
 孝子の体が折れた。村瀬が半身をよけると、孝子は体を丸めてカーペットの上にごろりと突っ伏した。
  一瞬の判断で急所は外した。反射の動きだった。胸の中に小さな驚きを覚えていた。相手は女だが、ちゃんと護身が出来たのだ。もっとも、その辺を歩いているようなただの女ではなく、昔の荒みが杵柄になっているような女だ。それでも、曲がりなりにも女である人間に、男の身で攻撃を当ててしまったことに罪の意識があった。
 「大丈夫ですか」我に返った村瀬は、しゃがんで孝子の耳元に声を送った。「すみません‥」詫びる村瀬を、孝子は怒りの勢いが衰えない目で睨んだ。
 「糞‥」痛みに顔をしかめて舌打ちした孝子の肩を持ち、体を起こした。孝子は座り直した恰好になった。
 「告発の意味も込めて教えます」深呼吸して言った村瀬を、孝子は睨み上げている。外では、複数羽の鴉が鳴き声と羽音を響かせ、排気量の軽いバイクが走り去る音も聞こえた。
 「菜実さんがここに送っていたお金が、彼女がどういう手段で得たものかはご存じですか?」「知らねえよ。あいつだって働いてんだろ? あれはあいつの好意だからこっちには、受け取る権利はあるはずだろ。それをどう使おうが私の自由じゃねえのかよ。これは法律的な保証もあることなんだよ」孝子は呻きの混じった呼吸に、悪びれのない言葉を乗せた。
 「菜実さんは、純法と書いて、すみののり、という名前の、ホームページも掲載していない無認可の宗教団体に入信して、そこで売春まがいのことをやらされていたんです。これまであなたに送っていた金は、それで得たものなんです」村瀬の説明に、孝子の顔がわずかにぽかんとした色を帯びた。
 「その宗教は、異性に縁のない男女に色仕掛けの罠を仕掛けて集金システムに組み入れて金蔓にしている悪辣な団体で、菜実さんに障害があると分かっていて、教団を回している連中に金を運ぶ道具として利用していました。その報酬や、教団の命で引いた男達が落とす金を受け取って、それをあなたに送って預けていた理由が、終身刑を打たれているお母さんの仮釈放のための弁護士費用のつもりだったことが、あなたの話で裏付けが取れました。その団体の教祖は、過去に刑事事件を起こして服役歴のある知的障害者です。何故そんな人間が、とお思いでしょうが、その男も利用されて、教祖をやらされているんですよ。私は自分の不覚で教団に個人情報を知らせることをしてしまって、主催するイベントに参加してしまいました。菜実さんとはそこで出会いましたが、彼女の他にも、障害をお持ちの女の子がいました。齢の行った独身者の中には、放置されてきた障害者の人がたくさんいます。つまり寂しい高齢者は勿論、障害者を食い物にしている連中なんです。これは本当のことなんです」村瀬の口調には熱が滲んでいた。彼はそれを少し反省した。
 「あいつ、やっぱり別のやつやってたんだ」孝子は言い、鼻から小さな笑いを吹いた。「お参りがどうとかって言ってっから、あれほどこっちにしろっつったのに、あの馬鹿‥」
 「孝子さん」村瀬は呼びかけた。
 「確かに信教の自由は保証されなくてはいけません。これは日本では勿論のことです。ただし、その根底には優しさと安らぎがなくてはいけないはずなんです。敬うべき神様、仏様や先祖、霊魂が強迫めいた観念にされて、ぴりぴり、かりかりしながら、または祟りや裁きに怯えながら行うような信仰は、宗教の本来あるべき姿ではないと、宗教に詳しくないなりに思うんです。お金は、この世だけで使える通貨です。それは、尊い世界のことを話す時、間に入ってはいけないもののはずなんですよ」
 孝子はカーペットに手を着いて、視線を左右に送りながら、村瀬の言葉を聞いていた。自分の言ったことがどこまで本心に則ったものかが、村瀬は疑わしかった。どうにもならないことを自分自身が見聞し、かつその身を潜らせてきた。今もその渦中にいると言っていい。この世に神仏がいるならば、それは人間を守るためにいるものではない。そうでなければ、毎日のようにメディアが報道する悲憤の事柄などがこの世にあるはずがない。善人を泣かせる悪人が富や権力、名声をほしいままにするはずもない。
 神が富と貧困、権勢、腕力などの強弱を二極分化して創ったのは、何を意図してのことか。仏が沈黙しているのは何故か。それを思う時、村瀬の中に行き着く答えは、人間の都合に合わせて考え出されたものなどは、その実体がないということだった。目に見え、聞こえ、触覚、味覚、嗅覚のあるこの世のことは、人間自身の手で解決しなくてはいけない。それこそ俺が第一としてきたことではなかったか。
 「それで、どうすんの? お前、その団体、告訴とかする気でいんの?」孝子が村瀬に横目の睨みを送りながら問うてきた。
 「そんなものはもう間尺に合わない所に片足を突っ込んでしまっています‥」村瀬の答えに、孝子の目が丸く見開かれた。
 「だけど、どんな手を使っても必ず縁を切らせます。そのあとで、菜実さんを下さい。障害は関係ありません。私はこれまでもそうですが、今後も彼女の心しか見ません」村瀬は手を着いて頭を下げた。
「構わねえよ。くれてやるよ。元々私の物でも何でもねえんだから」孝子は吐き捨てて、炬燵の縁に手を掛けて立ち上がった。
「私が言ったことの意味は、もうここに菜実さんからのお金は来ないということになります」村瀬が言うと、孝子はまた鼻で嗤った。
「‥あんたももう分かってっと思うけどさ」孝子の目は玄関に向いている。
「あいつはね、母親と同じなんだ。顔から中身から、全部何もかもさ」孝子の言いたいことはよく分かる。だが、その先に、これからも菜実と関わっていく上で最も重要なことが語られると予感した。
「誰にどんな目に遭わされても、自分がどんなに酷い状態に置かれても、それをただ受けるだけなんだ。概念的に持ってないんだよ。怒りとか憎しみとか、恨みっていう感情をさ」
 村瀬は絶句した。その絶句は、自分以上に菜実を知る人間から、的を得る表現を聞いたことによるものだった。傘の一撃であの喧嘩屋を倒して、彼女の腕を取って支部のマンションを脱出、船橋で自分達に悪質な絡み方をしてきた低能大学生達を締めて詫びを入れさせた、過去にはかなりえげつなく暴れていたと思われる壮年の男に、いじめるのは可哀想だと赦しを嘆願して、中心になって絡んできた若者の頭を優しく撫でた。そのあと、緊張を鎮めるために入ったラブホテルでその口から語られた、その光景を見でもすれば目を覆うような話を、過ぎ去った過去の一遍に過ぎないことと言う風に語り、表情、口ぶりに恨みや憎しみ、怒りのようなものは全く覗えなかった。
「だけどね」孝子は天井を見上げ、低く這う声を絞り出した。
「あいつら母娘が同じ人間だってことが、何を意味するか分かるだろ‥」村瀬は正座で座ったまま、唾を呑み込んだ。
 「姉貴も、他の人間に持ってる感情は菜実と同じだったよ。それが生きた人間の脳天に、何度も何度もハンマー叩きつけて、そいつの脳味噌ぶち撒いたんだかんな」村瀬は孝子を見上げた。
 「お前、これからもあいつと関わる気でいんなら、これだけはよく覚えとけよ。何かの場合によっちゃ、あれもあの母親と同じか、それ以上のことするかもしれないってことなんだよ。それでしまいに、お前があの霊感師みたいなことにならなきゃいいけどな」
 村瀬は思い出していた。菜実の体を抱いた時に、脂肪層の下に張る強靭な筋肉の息づきと、手を繋いだ時に感じる、あの握力を。あれは何を目的に、彼女の肉体に存在しているものなのか。だが、母親は母親、その子供は子供だと思う。孝子はそう言っても、菜実の心は人間離れしていると言っていいまでに、清廉で優しい。それは性格、ではなく、障害特性だろう。だが、それでもいい。それでも。それでも。それでも。
 「分かりました」村瀬は正座を解いて立ち上がった。
「このメモを置いていきます。今のところ、普通に連絡を取り合えるお身内の方は、孝子さんしかいませんので‥」村瀬は当初ドアポストに投函しかけた連絡先の記されたメモを、炬燵の上に置いた。孝子の目が、一瞬そのメモに置かれた。
 「突然の訪問、すみませんでした。失礼します」村瀬は分離礼で深く腰を折った。
「行けよ。特に見送らないから」孝子は呟いて、二本目の煙草を咥えた。
「一つ訊くけど、お前さ、あれのどこに惚れて一緒になりたいなんて思ってんの?」村瀬の項を孝子の声が打った。村瀬は革靴を履きながら、孝子を振り返った。
 「誰よりも、綺麗だからです」答えて、ドアを開けて外廊下に出た。手摺に一羽の鴉が止まり、唸る鳴き声を発している。市の要所に設置された無線のスピーカーから聞き慣れたチャイム、それから高齢者の行方不明を知らせるゆっくりとした調子の放送が流れた。
 外廊下を渡りながら振り向いたが、突き当たり部屋のドアは閉じたままだった。
~毒蛇~
 村瀬はダブルデッキのベンチに腰掛け、スマホから「無期懲役、仮釈放」と打ち込んで検索をかけた。出てきたページによると、刑の執行から三十年を経過した時、「仮釈放審理」なるプロセスが始まる、とあった。
 あの霊感師殺害事件のニュースを村瀬が見たのは、娘の恵梨香が乳児の頃だったと記憶する。平日の夕方、ベビーベッドに寝た恵梨香のおむつを、妻に代わって替えている時に流れたのだと思い出した。だとすれば、今から二十年弱前ということになる。孝子が言うには、一般公開なしの審理でスピード判決が下され、それからすぐに母親は刑務所に収監された。だとすれば、仮釈放に向けたプログラムが開始されるのは九年後ということになる。
 菜実の持つ時間の観念は、ゆっくりと、どこか呑気なものだろう。言うなれば同じ陸地のように、過去が未来に繋がっていくという認知は極めて薄いはずだった。仮に九年という時間で母親が仮釈放を得られる可能性を知ったとしても、「すぐ」という「今」を求めてやまないだろう。だから、無知で粗暴な女である叔母に、願いを込めて、純法に体を売り渡した報酬の金を預けていた。それが別の小規模カルト宗教に流れているとも知らずに。弁護士云々は、孝子が吹き込んだものだ。
それを菜実が納得するように話す術は見つかりそうもなかった。それでも一つ確かに言えることは、その叔母を菜実は怒りも憎みもしないということだ。ただ、母と暮らせる当てを永遠に失ったと思い、どれだけ悲しむか。いや、錯乱してしまうか。
もし錯乱したら何が起こるだろう。自分の命を、自分が思いついた方法で断ってしまうか。それとも、見境をなくし、行き場のない悲しみ、絶望が矛となって周囲に向くか。
どちらも、自分が断固として防がなくてはいけない。
十五時過ぎの柏ダブルデッキには、背面に店名のロゴが描かれた赤いダウンコートを着たコンタクトショップのサンプラー達が高く張る声でチラシを配布している。それを縫って、下校中の、洒落ていたり地味だったりする制服のセンスをした中高生や、冬物を着た男女が行っては去っていく。その風景に特に感慨を覚えることもなく、村瀬はベンチを立った。
警察へ行き、官法の手に一切を委ねようという決意のようなものが立ったのは、実籾駅を降りた時だった。あの支部での一件では、確かに過剰防衛に問われる可能性が大きい。だが、組織と比べてあまりに小さな立場の一般市民、一般国民であればこそ、遵法的に事を処理するべきだという考えに行き着いた。自分には刑法上の咎が生じ、何かしらのペナルティが課せられるだろうが、そのあとのことはその時に考えればいい。法律事務所もあることだ。菜実をあそこから救い出す手段として、それがベストだ。一人の月給生活者として。弁護士にも連絡し、法的にも自分を守ろう。
母親の仮釈放への希望については、あと九年待つことを根気強く説明しよう。その時も、そばに自分がいる、一緒にお義母さんを迎えよう、と真摯に伝えよう。思いを胸に満ちさせながら。家に続く路地に入った時、腕時計を見ると、時刻は十七時前だった。ふと仰いだ、焼けた空が村瀬の胸に予期させたものは、血の気配だった。それは角に停まっている、スモークシールドをウインドウに貼った黒のボルボが目に留まったからでもある。
角を曲がり、家の前に来た。ポストには町会の日帰り旅行参加者を募るチラシと、年金定期便が入っていた。それを持ってアコーディオン門に手を掛けた時、エンジン音を左後ろに聞いた。見ると、急発進したボルボが車体横部を見せて道を塞いでいる。ほぼ同時に、反対の、公園側の路地にボルボと同じ黒のリンカーンコンチネンタルが滑り込んできて、退路を断つように停車した。
全身の血が凝固したような恐怖を村瀬は覚えた。ボディバッグの中のスマホをまさぐりながら、二台の外車との距離をとっさに計ろうとした。アプリの防犯ブザーを鳴らすつもりだった。手がスマホに触れた時、ボルボのリアドアから二人の男がばらばらと降りてきた。
間に合わない、と村瀬が判断してボディバッグから手を抜いた時、リンカーンコンチネンタルのスモーク貼りのリアウインドウが下がり、男の顔の上半分を覗かせた。年齢程は分かりづらいが、短く刈った髪、眼白が異様な光り方をする奇妙なほどに細く吊り上がった目が、身構えかけている村瀬に粘着質な視線を送っている。人間ではない。爬虫の目だった。
ボルボから降りた二人の男の服装はカジュアルな軽装で、特段、職務質問の対象になりそうなものではなかった。髪色も黒で、顔立ちも凡庸だった。だが、表情のない顔の中に、血を追うような色を光らせた目が、重く鈍い狂気を放っている。だいたい三十代ほどの年齢と見える男は、一人が細長い瘦せ型、もう一人が中背よりも少し低めの身長ながら、四肢と頸が筋肉に包まれている。
痩せた男がレザーのスラッパーを頭上で振り、小柄な男の右拳には、表面の平たいメリケンサックが嵌められていた。
スラッパーが、村瀬の顔面に振り下ろされた。自然のうちに前屈の左前構えを取っていた村瀬は、上体を引き、こめかみを狙った第二撃は、体を屈めてかわした。その瞬時、その二撃が誘いのフェイントであることを察知した。察した通り、顔に廻し蹴り加減のキックが来た。村瀬はそれに合わせるようにして、半身を地面に這わせるように伏せ、男の水月に右の足刀を吸い込ませた。互いの脚が交差する形になった。男が顎を突き出し、前転気味に額から倒れていった。
手からスラッパーを取り落とした男が路面に前頭部を打ちつける音を後ろに聞きながら、その斜め後ろに、隙を伺うように構え、控えていたメリケンサックの男と対峙した。
男は体を前傾させながら、水平に構えた両拳をゆらゆらと揺らし、顎を引いて、村瀬を睨み据えている。目つけ、姿勢に、先に倒した男以上の慣れが感じられる。一応の空手初段ながら今だによくは知らない格闘技のうちでは、総合、という言葉が思い浮かんだ。
試されているのか。村瀬の胸に疑念が涌いた。それは後ろで呻いている痩せた男と、目の前のメリケンサックの男の二人が、村瀬を二人がかりで一気呵成に叩き潰そうとしなかったことから浮かんだ疑念だった。
村瀬は左前構え、男は片手に凶器を嵌めた両拳を揺らし、じりじりと円形に動いて機先を図った。
村瀬が先に、摺り足でレンジを詰めた。構えは、相手からの攻撃を受ける面積を減らす半身で、右拳を肋、左をこめかみ付近に浮かせたものになっていた。
男が村瀬から見て彼の右側に移動し、体重の乗った左拳のフックを村瀬の頬に打ち込んできた。メリケンサックの右の準備がある。右がレバーを狙い定めていることも、ほぼ本能的に察した。
村瀬の体が右傾した。フックが彼の左肩上の空間に載った時、すでに村瀬の右が男の顎を突き上げていた。刹那、反って伸びた男の脚を村瀬は払った。後頭部と背面から落ちていく男の腕を、村瀬は取った。男が後頭部を打って致命傷を負わないようにするための配慮だった。左肩から落ちた男の水月に革靴の踵を叩き込んだ。男は目を剥いて、鼻と口から透明の胃液を溢れさせた。
男を放した村瀬は、半身構えのまま残心を取った。路上に伸びた男の手から、メリケンサックが落ちた。
髪の生え際から汗が滴り落ち、拳の中にも汗が握られている。頭蓋の中に、小刻みな鼓動の音が響いていた。
自宅前の路上に身を崩して這っている二人の男に残心を配っていると、3メーター横に、ぴしりと地に足を吸わせて立っている人間に気がついた。
その人間の見た目は、子供だった。村瀬よりも頭二つ低い身の丈と、顔の外見は、少年としか表現のしようがない。だが、まとっているウエアは、黒い襟無しの、薄手の革ジャンパーにグレーのツータックのコットンスラックスに革靴と、子供のものではなかった。サイズはいずれもSのようだが、生地が余ってだぶっとしているように見える。大人の服を着た少年といったところか。平仮名の「の」の字を思わせる形の目が愛らしく、すっと墨を引いたような濃い眉が、幼い印象を一層強調しているが、対象物を静かに射る眼の光と、修羅の経験値を呑んだように凛と締まった口許の顔は児童のものではない。コンマ0・5秒の時間で、村瀬はそれを認識した。
 この男はショートのインファイターだ。判断した村瀬は構えを中段ガードに直し、自分の間合に誘い込む考えを下した。
幼い男はそれに呼応したように、両拳を頬の高さに構え、上体を軽く前傾させたセミクラウチの体勢を取って、水面を滑る水すましを思わせる足取りで、するすると村瀬の前に進み出た。
村瀬はフットステップで後ろと左に移動しながら、自分のパンチとキックを送るための照準を絞ろうとした。膨らんだ鼻孔と「う」の音を発声する形に開いた唇から、何とか整えた腹式呼吸が漏れている。
レンジが詰まった頃合いに、村瀬は男の鼻に正拳を放った。男は軽く半身を捌くだけの動作でそれをかわした。準備していた顎への左の二撃目も、流れるようなスウェーで外された。男の顔に戦闘のさなかの力みはなく、あたかも何でもないことをこなすように落ち着き払っている。焦るな。村瀬は心の中で自分に言い聞かせた。その時、不可視なまでに速いショートレンジのストレートが左一発、右二発の三連打で村瀬の顔面中央に叩きつけられた。村瀬の頭部が、彼が昔にテレビで観たヘヴィ・メタルのコンサートで乗る聴衆のように、前後に激しく弾んだ。村瀬は自分のキーゼルバッハが切れる音を聞いた。それから両鼻孔から生温かいものがどろどろと流れ出すのが分かった。その痛みに、根性を振り絞って耐え、体勢を整えた。
村瀬の腕が半円を描き、腰を落とし、中指を突き出した「一本拳」を、男の肋に向けて唸らせた。自分の鼻血が上着のダウンジャケットの袖に散っているのが捉えられた。体重はよく移動していた。男が瞬くようなステップで半歩サイドへ移動したことを村瀬の動体視力が捉えた時、右脇腹から爆発的な衝撃が突き上がり、腰が浮いた。
村瀬のレバーに男の強烈なショベルフックが抉り込まれていた。次は体が傾いだ村瀬の腹腔を、一瞬のうちに腕を弓の弦のように絞ったボディブローが貫通した。村瀬は堪らず膝から落ちた。横隔膜を打たれて呼吸がままならなくなり、苦悶を面一杯に浮かび上がらせた村瀬の両頬に、雨あられと左右交互のフックが降り注いだ。村瀬はその連打に頭を揺らされながら、自分の頬の肉と骨が立てる音を、頭の中で十七回聴いた。この細く小さな体のどこに、このパワーとエネルギーがあるのか。
跪いた自分の体が斜めの軌道を描いて路面に落ちていくのを感じながら、村瀬は見上げた赤い空にその不可思議を問おうとしていた。かつ、これから身柄をさらわれ、囚われる恐怖と絶望も胸に噛んでいた。
飛ばされた意識が戻った時、開けた目の下に、ゴムバンドで結束された手首があった。顔を上げると、運転席と助手席、二つのシート、ルーフが目に入った。走行する車のリアシートに自分の身柄がある。顔面にひりひりした痛みと、腹部に吐き気の疼きがあった。
「お目覚めですか‥」左脇から声がかけられた。村瀬は顔を上げ、声のほうを向いた。針のように細い目をした、鼻頭の平らな、全体的に扁平な顔があった。リアウィンドウから顔半分を覗かせ、先の一部始終を監査していた男だった。
どれだけ眠っていたのか、おそらくリンカーンコンチネンタルであろうその車がどこを走っているのか、見当がつかない。ウインドウの外は暗く、道路標識や、落葉樹らしい木々のシルエットが通り過ぎる。
「まず、手荒なやり方であなたに接触を計ってしまったことは率直にお詫び申し上げます。私はこういう者です」針の目をした男は言い、茶のレザーのハーフコートの懐から名刺ケースを出し、一枚抜いて、村瀬の目の前に提示した。
宗教社団 尊教純法 人例研究企画部イーストエリア総括マネージャー 李(り)弘(ひろし) とある。
「どうぞ、お見知り置きを」李は名刺を、村瀬のボディバッグのチャックをじっと開け、勝手に入れた。陰惨な圧が籠った声だった。たとえれば、臓腑を割る、薄く鋭利な刃物の切れ口を思わせる。
何分前かは分からなくなっているが、自分の体が覚えていた技術で、武装した人間二人を倒したことは、夢や、記憶の間違いではない。健康づくりを謳い、ほのぼのとした雰囲気の中でスローな練習を行う、殺気というものが全くない空手教室で初段を取得したところで、生きた人間を倒す自信などは到底得てはいなかったが、これは動かざる現実の記憶だ。村瀬が倒した男達は、担がれてボルボに乗せられ、どこかへ運ばれたのだろう。
勝利の酔い、悲願的なことを達成した喜びは、ない。やむを得ざる力の護身に対し、暴力の報復を行う人間達との関わりを持たなくてはいけなくなったことを、この世の因果律に抗議しながら、これから永遠に目の覚めない世界へ送られるかもしれないという思いに心が震撼していた。
それでも、その抗議の対象に、菜実の存在は入っていなかった。
右を見ると、村瀬を超絶的なボクシングテクニックであっという間に昏睡に追い込んだ幼い男が、愛くるしい「の」の字の目で、村瀬を睨み留めていた。
逃げることは不可能だ。村瀬は恐怖の中で悟った。
「俺をどうする気だ‥」肩と唇を震わせた村瀬が、車内の誰にともなく訊くと、左隣の李が笑った。
「今、この車が走ってるのは、隣の県の南部です。もうじき目的地に着きますので、そちらでちょっとお話が出来ればと思います。あなたのご都合はちゃんと弁えていますから、大丈夫ですよ。明日はお仕事でしょうし、遅くなりすぎない時間に、ちゃんとお家へ送り届けさせていただきますから‥」李は優しく嬲るような口調で囁いた。
「鎌ヶ谷の支部での一件は大いに驚きましたが、今回はそれがひとしおですね。さっきあなたが秒のうちに畳んでしまった二人は、うちの中ではかなり腕の立つ人間なんですよ。特に手に嵌め物をしたほうは横山ってんですけど、あれは総合の日本ランカーに近づいた、地下格闘技でも活躍した人間なんです。それがあなたに掛かって、赤子の手、でしたね。けど、上には上がいくらでもいるもんなんです」李は述べて、村瀬の右に座る「の」の字の目の男を返した掌で指した。
「別格ですからね。こちらの行(なめ)川(かわ)は‥」李の口ぶりは、心底誇らしげだった。
 村瀬が行川という氏名を紹介された男を見ると、彼は変わらず口を結び、ブレードのような光が籠った目で村瀬を見据えているだけだった。村瀬はうなだれた。おそらくは、拉致先で何かの交換条件を突きつけられるのだろう。それは金だろうか。それとも再度入信を強いられるか。それに対し、自分がどう答えるかは、皆目思い浮かばなかった。思考の中にも闇が立ち込めていた。
 運転者と助手席の人間は、黙と口をつぐんでいた。走行のエンジン音以外は、これからの村瀬の運命を暗示するかのように静かなリンカーンコンチネンタルの車内に、冷気を含んだ、声を落とした李の笑いが響いた。窓外の夜空は、すっかり日が落ちて暗くなっていた。
 車が未舗装の道に入ったと見え、車体が揺れた。車が停まり、エンジンが切られると、助手席の男がリアドアを開け、村瀬は襟首を行川に掴まれて降ろされた。続いてその男が反対側に回り、男が開けたリアドアから李が降りた。男は李の降りたリアドアを丁寧に閉めた。運転者は車の中に残った。
 右手には雑木林が茂り、左の崖下には、痩せた土の廃田畑と思われる数百㎡に及ぶ空間が広がっていることが分かる。その向こうにも、原始林の丘が小高くそびえている。遠くを走るエンジンの音が聞こえる以外、人気はない。
 行川に襟を掴まれ、李が先頭に立つ輪に囲まれるようにして、左右に枝の垂れる細い獣道に引きずり入れられた。頬の傷に冷たい山風が染みた。
 獣道を十数メーター引かれたところで後ろの男に膝裏を蹴られ、生い茂った草の上に座らされた。目の上に李と行川の影が、雲をフィルターにして下界に挿した月明りに浮かび、正座の恰好で座らされた村瀬の後ろには助手席の男が立ち、村瀬の髪を軽く引いて握った。村瀬の荒い呼吸の音が、静かな雑木林の空間に小さく響いていた。
 「食欲の秋もたけなわですが、もうじき、白子とつみれと鮭、季節の野菜がふんだんに入った、石狩鍋が恋しい季節が来ますね」李が腿に手を置いて、村瀬の顔の高さに腰を屈めながら囁いた。
 「仕事をこなしたあとで美味いものを食うことは、私にとって最高の楽しみなんですよ。私の場合、冬の鍋のお供はやっぱりきんきんに冷えたビールですね。村瀬さんは現在お一人暮らしということですが、料理などはされますか?」薄い唇から歯を覗かせた李は、目と同じ角度に吊った口端に笑いを刻んで、雑談調の会話を親しげに村瀬に振った。
 「だけど、クックの基本は、やっぱり素材の調和ですよ。使う素材によって、味付けは分けなくちゃいけない。自由な発想をもって、料理の世界にルールはいらないなんて意見もあって、それはそれでいいと思わないこともありませんが、格調ってものが損なわれてはいけません。それがもたらす調律があるから、どんなものでも美味しくて、それでいて美しいはずなんですよ。ちなみにステーキは、私は血が煮立つレアのガーリックソースで、お供の酒はオールドパーのオンザロックがいい‥」李の雑話を聞きながら、村瀬は自分の手首を拘束しているゴムバンドに目を落とし、李の目を睨んだ。
 「そんな凄い顔をすることはありませんよ。支部で峰山が言ったことはともかく、これから私が話させていただくことに、強要なんてもんの要素はどこにもありません。あなたに利益が発生して、こちらも非常に助かるって話の相談です。ギブアンドテイクってやつですよ」鳥の飛び立つ音と鳴き声が遠くから聞こえた。恐怖の中、村瀬は心身がぎゅっと固まる思いを覚えていた。
 李は立ち上がると、ハーフコートの胸ポケットからシガレットケースを出し、一本を引き出して咥え、闇の中でも高級感が伝わるライターで火を点けた。愛煙の心得確かな手つきで、心底旨そうに吸い込んだ煙を吐いて撒いた。口許が笑っているのが、闇の中でも分かった。
 「私どもの布教理念については支部でもご説明を受けたことと存じます。この辺はあなたもお聞きになってご存じでしょうからここでは省略しますが、私どもは、環境、生育歴、生まれのもののハンディキャップの問題などから、恋愛、結婚という人生で当たり前に用意されなくてはいけないステージに望んでもたどり着けずにいる人達に、福祉の言葉でいう人生の質というやつを普くサプライすることを一本筋の信念に据えて活動させてもらってます。勿論、頭脳や身体の機能に何の問題もないのに縁に恵まれない人達も、お救いの対象です。その中で生じる、尊教導きと呼ぶ入会金、月串という月会費、布施は、たとえれば恵みの配当を受け取るために必要なデポジットのようなものです。ところが逃げ口上をこねくり回して、それを支払わず、布施返しの報酬だけを持って逃げようとする連中が大勢いるんですよ。これは宗教者以前に、人間としての問題じゃないですか。常日頃、大法裁様がどんな思いを持たれて、本会の代表者として執務を行われているかを無にして、後ろ足で砂を引っかける行いと言われてもしかたありません」李は携帯灰皿に灰を落としながら、抑揚の中に嘆きを織り交ぜた話調で述べた。
 「それの取り立てをやれっていう話か」李を見上げながら質した村瀬に、李は紫煙を闇の中に吐きながらまた笑った。行川の体勢に変化はなく、李よりも丈の低い体をその隣に並べ、村瀬を目で射定めている。
 「傍からみた場合、確かに取り立てって表現も充てようがある話です。あなたに嘘を言っても埒が明きませんからね。でも、権柄づくな未納税金の督促とか、恋愛感情をそそるCM流して巻き舌使う消費者金融なんかに比べたら、はるかに穏やかな話し合いですよ。小泉八雲の怪談よろしく、凍えてる子供の布団を引っ剝ぐとかじゃないんです。払える範囲で払いませんか、という相談をしに行くだけのことですよ。穏やかさってものを成立させるのも、お話した、料理の素材と同じです。そこで私どもは、穏やかさと毅然を併せ持ったあなたに、是非、そいつを手伝ってもらいたい。今週末までの何曜日でもいい。たったの一日で、回るお宅は四件ほどです。勿論、ただでって話じゃありませんのでご安心下さい。それ相応の代価をあなたに現金払いさせていただきますから」李の声調子には上機嫌な弾みがついている。
 「断る‥」村瀬は恐怖に乱れた呼吸を正して、精一杯の言葉を出した。
 闇の中に沈黙が落ち、李が何かを思案する風に上体を横に向けた。橙色をした煙草の火が、吸われて長く伸びた。
 「池内さん、いい女ですよね」李が煙草を燻らせながら、ぬめりと言った時、村瀬の体がびくりと震えた。
 「顔も体もアイドル並みで、気立てもいいと来てる。料理というかデザートにたとえれば、チョコレートとホイップクリーム、ストロベリーがボリューム豊かにセンスよく盛りつけされていて、舌の上に乗せた瞬間に頬一杯に幸福が広がるアートフルな創作ケーキのような女性じゃないですか。頷けますよ。あなたが夢中になるのは‥」李のにやりとした顔が、木影の闇にも分かる思いがする。
 「菜実には手を出すな!」村瀬は髪を後ろから掴まれ、手を拘束された体を乗り出して、叫んだ。
 「手を出す? それはどういう旨のことをおっしゃっているんでしょうか」李が体の向きを村瀬のほうへ直した。李が目を丸くしていることが、闇目にも分かった。
 「あなたが穿って考えるようなことは、こちらは何一つ意図していませんよ。私のお願いは、むしろ池内さんは勿論のこと、村瀬さんご自身にとっても益になることの提案です。先程も申し上げたように、報酬もきちんとお支払いします。それはもらって困るものではないはずでしょう?」「弱い立場の人間を、脅して騙して巻き上げたものが財源の、汚い金だろう。 そんな金をもらうために、脅迫の取り立てなんかをやる気はない。俺は自分が働いて稼ぐ金だけで充分だ。そんなものはお断りだ!」村瀬が言い放った時、李の顔色が変わるのが分かった。
 「社会人経験の豊富なあなたなりの立派な矜持ですね。当たり前ですが、こちらも社会に出てから年数を踏んでる人間なので、ねんごろな理解の上で敬意を払いたいと思います。ただし、言葉には気をつけなさったほうがいい」李は最後のセンテンスに肚から低く唸る調子を込めた。
 「あなたに無理強いはしませんよ、入会などは。あなたが嫌と言っている以上はね」李の持つ短くなった煙草が、携帯灰皿になすられて消された。
 「尊教の素晴らしさとか、あなたにとって退屈な話などはこれ以上はしません。でも、弱い立場の者をどうしてこうして、特に巻き上げたとかっていう言い方には、とんでもない誤解が入ってますよ。我々の活動理念には、どんな立場の方にも平等に人並みのものをってのが根底に据えられてるんです。性別、地位、立場ってものを超越した社会愛っていう論理で動いているんですよ。それをそこまで味噌糞一緒の言われ方をすると、あなたの首根を引っ掴んで、本部にご案内したくなっちまいますよ。実情をちゃんと分かっていただくという意味でね」「断ると言ってるんだ!」恐怖を振り払うように叫んだ村瀬の声は怒りを帯びていた。
 「今のご自分の状況はどれだけ分かっておられますか、村瀬さん‥」李は声を低く圧して、村瀬に歩を詰めた。
 「この辺りは関東では珍しく、狩り込みが行き届いていなくて、野犬が多いんですよ。もしも我々がここで人の手のみならず足まで縛って、ここに置き去りにしたら、どれだけ泣き叫んで助けを求めても誰も来はしません。その人が流してる血の匂いを嗅ぎつけて、数頭以上来ると思います。そうなれば、明日の朝には、食い散らかされた骨や胃袋、大腸などの内臓や眼球がここいらに散乱して、人相が分からなくなるまでに顔の肉を食いちぎられた人の首を咥えた犬が、この近くの道をとことこ歩いているんじゃないでしょうかね」
 李が言うと、後ろの男が村瀬の背中に膝を押し当て、握っていた髪を強く引いた。村瀬の体の震えはより激しいものになった。村瀬は言葉を失った。自分の心が、自分を前後に囲んでいる三人のマフィアに必死の命乞いをしていることが自分で分かった。
 「やってみて、自分に合わないなと感じるものは、無理に続けなきゃいけないなんて法律はありません。あなたが池内さんを脱会させたいって思いには、本会を見て、あなたなりの思うところがあってのことだったと思います。だけど、うちの法徒の片目を失明までさせといて、ただ逃げるだけって了見は良くない。そこでこれは、私どもが懸命に考えた提案ですよ。穏やかな話し合いの上で未納金を回収。たったの一日きりで、時間はせいぜい三、四時間。それに参加して力を貸していただけたら、支部での一件はクロブタ、ひいては池内さんの、無料の即日退会を認めて、彼女にもあなたにも、我々は今後一切関わりはしない。その上、報酬つき。この条件のどこに不服がありますか、村瀬さん」
 村瀬の喉からは笛の音のような呼吸が漏れている。鼻は、流した鼻血で塞がり、息が出来ない。髪を引かれて曇った夜空を向いた顔を、李が覗き込んだ。
 「いいですか。今後、あなたが愛する池内さんの幸福と、あなたご自身の身の安全、平和な前途が保証されるか否やかは、あなたの態度次第なんですよ」李は針の目を据わらせて口許に薄笑いを刻んだ顔を月明りにほんのりと浮かび上がらせ、囁きを落とした。
 「菜実に手を出さないでくれ‥」村瀬の声は懇願のものになっていた。
 「ですから、そんなことはこちらはする気はないと、さっきから何度も言ってます。あなたも明日は仕事があって、私もさっさと帰って、今日は寄せ鍋で一杯やりたいんですよ。さ、こんな水掛けはとっととやめにしましょう。たった一日の、ほんの何時間か程度で終わる話なんですよ。我々は良識ある社会人の団体です。それが終われば、池内さんは勿論、あなたのことも今後一切追うことはしません。私を男にしてはもらえないんですか?」
 廃田畑のほうから、種名の分からない鳥群の合唱が聞こえてくる。北から下ろされる風が木々の葉と草をそよがせる音も、禍々しさをもって村瀬の耳を打った。闇は、四人のいる獣道の空間に、先より深く落ちていた。
 「今回きりだ‥」村瀬の口から泣くような声の答えがこぼれた。
「そうですか、請けていただけますか。これは有り難い」李の声が弾んだ。
「今回、私があなたに白羽の矢を立ててお願いしたのは、効かせるべき押しを効かせることの出来る人が欲しかったからです。これは確かに回収ということになりますが、人としてのけじめつけの促しという要素のあるものです。それを村瀬さんにご理解いただけたことを、今、私は大変嬉しく思います。お礼のお金は、是非期待して下さい。早速ですが、明日でお願い出来ますでしょうか。十八時半から十九時の間に覗いますから、お家でお待ち下さい。おい‥」李が撫でる声で言って、村瀬の後ろの男に顎をしゃくった。男は髪から手を離して、村瀬の襟首を持って立たせた。
それから四十分ほどリンカーンコンチネンタルのリアシートで、左右を李と行川に囲まれて揺られ、家の前で解放される時、李は「もしあれば、黒の革手袋をご用意いただけますでしょうか」と言ったが、村瀬はそれには答えず、行川の視線に射られるままになっていた。
「では、急で申し訳ありませんが、明日‥」という李の声とリアドアの閉まる音、去っていくエンジン音を背中に聞きながら玄関に向かう脚には全く力が入らず、アコーディオン門を開ける動作は、まるでロボットのようだった。
洗面台の鏡で自分の顔を見ると、頬、唇にいくつもの小さな裂傷が出来、目尻が切れて血が滲み、瞼と両頬が青く腫れて、右目の眼白にも毛細血管が切れたことによる充血があった。鼻孔下の鼻血は乾き、かさぶたになって張りついている。
村瀬は創痍の顔を洗うこともなく、項をすくめて、両親の遺影に見下ろされる居間へ行った。円卓の横で、力を失った膝が畳に着いた。畳に肘を落として四つ這いになると、体が痙攣を始めた。
これまでの人生で深くは関わったことのなかった、的を見る目で人を見る組織集団の人間に侵され、その掌中に落ちた。自分の生活、人生、個人情報の一切が。
 菜実もろともに。
  しばたかせた目の瞼に押されて、涙が溢れて畳に落ちた。腸が萎縮する感じを覚えた。
 遺影と仏壇のある八畳に、底知れない恐怖と絶望の中に沈んだ人間の嗚咽が響いた。李達が掌を返して自分を始末するかもしれないという思いもさることながら、もしもあの魔の手から菜実を守れなかったら、自分の存在理由自体が、自分の窺い知れない所へさらわれてしまう。たとえ命があっても、自分は在って亡いものとなる。
 秒針の音以外は無音の部屋で一人で哭きながら、改めて気がついた。高齢者も勿論だが、障害者の支援職も、人の命を預かる業務だ。
 自分は、菜実をある意味で不本意に預かったことを理解した。あの喫茶レストランの一件がなければ、彼女のような人に対して、自分の心や体が、あそこまで、ここまで傷を負う沙汰に身を挺する行動を取ることが出来たか。
 それをメリットのない無意味な情だと言う者がいるなら、言いたいだけ言わせておけばいい。自分は、その無意味の先にある意味、を、歯噛みに伴う涙の中に視ている。
 連日のように報道されている、障害者支援施設での各種虐待事件は、人間の命への否定に端を発して起こることだ。
 村瀬は福祉の専門家ではない。だが、解る。聞こえる。彼らが、幼年の頃から、見えない手が描いた「誰にも助けてはもらえない弱者」の枠に組まれてきたことにより、自分が暗中で人知れず叫んできた言葉と、確実に聞いてきた、昏い底からの、声をつぐんだ泣哭が。
 村瀬は畳を拳で二回殴ったあと、冷蔵庫まで歩き、麦茶のポットを出して、円卓の上に置かれたままのガラスのコップに注いだ。それを飲み干すと、コップを右拳に握り、力を込めた。顔は、まだ恐怖の涙で濡れていた。コップは掌の中で割れ、指の間から血が流れ出した。痛みはまるで感じなかった。恐怖と絶望を押しのけて涌いた、李と行川への怒りのためだった。
 警察も司法も、民事裁判も、もう間尺を外れている。それでも、菜実を守り抜こうと思った。その上で、生き残ろうと肚を決した。菜実のために。
 たとえ、凍死寸前の子供の布団を剥いでも。老人を半殺しにしても。女を凌辱しても。障害者を嬲りものにしても。女子供を殺してでも。それらに代表される、どれだけ残虐なことをやってのけても。その決意が胸に留まった時、また涙が溢れてきた。壁掛け時計に目を遣ると、時刻は二十一時を回っていた。
~代償~
 早番出勤した村瀬の顔を見た店長の増本は、苦々しく、しばらく裏方中心の勤務に入ってくれないか、と言い、村瀬はそれを承諾した。
 開店すると、時折陳列に出て、多くは裏で伝票整理や業者の積み込みの手伝い、野菜のカットや袋詰めの業務をこなしていた。香川を始めとする同僚の何人かと、顔見知りの出入り業者は、瞼が腫れて唇が切れ、左頬にガーゼ、右半分には四角い絆創膏の貼られた村瀬の顔に驚いたが、増本に言ったのと同様に「側溝に足を取られて転倒し、顔面を強打した」と答えた。
 八時から十七時までの勤務は、抱えている感情を表に出すことなく、いつもと同じようにこなした。香川は、村瀬が怪我の理由を偽っていることを察したようで、深くは言及してこなかった。吉富が来店したかは分からないが、勤務中、別段大きなことはなかった。増本は部下である村瀬を心配する様子などなく、休憩時間には「今日はツンデレ口説くか」などど呟きながら、いつもと同じくギャルゲームに興じていた。
 退勤し、家に帰ると、また「eternal badwoman」名義の娘からの手紙がポストに入っていた。馬鹿馬鹿しいことが書かれていることは、読まずとも分かる。
 食卓椅子に腰かけ、無駄にデザインの可愛い封筒を開封した。
  こっちが金振り込めって言った期限すぎてるんですけど。自分の子供がどうにかなるかもしれないからどうにかしてくれっていう頼み、シカトする親って、いますか? 借りるのが嫌だったら、自分が貯め込んだお金を振り込んで下さい。こっちは追い込みがかかる一歩手前で、やばい状況です。そっちは自分の体が傷つかなければそれでいいんだろうけど、私は死にたくないから、早くして下さい。こっちもあと一週間期限を伸ばしてもらえるように向こうと交渉するけど、それ過ぎて振り込みが確認できなかったら、私は自殺するしかなくなります。だから、お願いします。
 馬鹿を言うな。今の俺の体は、心もろともに傷ついている。身内ではなく、他人の出自を持つ人のために。先日の一通目にあった、居食屋で他の客の骨を折ったなどという話が嘘であることは、とうに分かっている。恵梨香がこの手紙で露呈している、母親から引き継いださもしくも愚かな者の血は、もしも同じ類いの男との間に未入籍で子供を孕んだ場合、生まれた子供、そのまた子供に確実に継がれていくだろう。何代にも渡って。
 すでに終わった関係の人間のはずだが、向こうの中ではまだその関係性を終わらせてはいない。それが美咲ともども、何故、自分にこういう形でまとわりつくのか。それを考える時、今の村瀬には、狡さ、というものが第一に思い浮かぶ。だが、同時に何かの切迫も感じる。それでも、今の自分には、それを相手にする余裕はない。その切迫が身に着けた狡さ、という感じがするが、それこそ、現在の村瀬にはどうでもいい。何故ならそれは、今、差し迫ったものを背負った村瀬自身の姿であり、誰に視られても偽りようのない姿だからだ。
 村瀬は恵梨香の手紙を箪笥の引き出しにしまうと、茶碗半分ほどの飯の茶漬けで、ごく軽い夕食を済ませた。それから、ストレッチと、相手をいたぶるために急所を打つ練習を行った。それは今日の自分が、感情を奥にしまって、純法に雇われた人間として冷酷な仕事を行うための用意の一環だったが、その中で、自分の心身が着実にその用途に特化していくのを感じつつあった。
シャワーを浴び、黒寄りの色センスの服を着た。李から要請されたことに従い、黒の革手袋を嵌めた。
十八時頃にチャイムとゆっくりとしたノックが鳴り、出ると、昨日の助手席の男が立っていた。村瀬は家の灯りと空調を消し、男がドアを開け、行川が一度降りたリンカーンコンチネンタルのリアシートに乗った。リアシートでは、昨日は助手席に座っていた男が村瀬の隣になり、行川とその男に挟まれることになった。李は助手席だった。
「こんばんは、村瀬さん。今日はよろしくお願いします。あなたには感謝しておりますよ」李は助手席から振り返り、その人相を持つ人間にはわりとよくある人懐こい笑顔で、村瀬に挨拶をしてきた。村瀬は挨拶を返さなかった。
五人を乗せたリンカーンコンチネンタルは実籾駅の踏切を渡り、十字路を左折して、市境を越えた。村瀬の隣に座る行川は、無言で助手席の背もたれを睨んでいる。右隣の男も言葉を発さなかった。車は粛々と千葉市の街道を進んだ。対向車のライトと店、家の灯りがウインドウの外を通り過ぎた。李と運転者の男はひそひそとした小声で何かを話しているが、「ドラフト三位程度じゃ太刀打ち出来ない」という会話から、野球関連と分かった。
点在する飲食店、小学校、建設会社の社屋や大きな物流センターの倉庫に野立看板を過ぎると、花見川の支流に掛かる橋を越えた。片方に斜傾、向かいに杉林のある緩やかな坂を下った右手に、赤い文字で「ラーメン うどん そば 定食」と書かれた看板を残してすでにあばら屋となっている食堂がぽつんと建つ、雑木に囲まれた道が伸びている。
車はその道に折れた。道に貧弱な光を落とすフィラメントの弱った外灯が何本と横切り、やがて車は、百坪ほどの広さを持つ舗装されていない庭に入った。その庭の突き当たった所に、家がある。ハイビームに照らされたその家は、赤く塗装された太い鉄骨の柱に支えられた、二階建てだった。
先に村瀬の隣の男が降りて、李の乗る助手席のドアを開けた。李が降りると、次に行川、村瀬の順に降りた。中に運転者を残した車は庭の隅にバックし、エンジンが切られた。
駐車スペースとなっている一階の空間には紺のセドリックが停まり、犬小屋があって、繋がれた鎖を鳴らして犬が出てきて、低く太い声で唸り、激しく吠え立てた。長い脚に菱形の耳を持つボクサー犬だった。
吠えたくる犬を無視するようにして、李を先頭、村瀬を最後尾にする四人は、赤い鉄骨の階段を上がった。村瀬の隣に座っていた男は、手に中くらいのトランクを提げている。
覗き窓のある鉄製ドアの脇には「有限会社 田屋マニュファクチャリングリース」と墨で書かれた木看板が下がり、壁には鉄板が貼ってあり、小さな窓も鉄板で覆われている。
李がチャイムを鳴らし、四回、ゆっくりとしたノックをした。それから十数秒して、覗き窓の蓋が上がり、淀んだ男の目が現れた。相手の素性を探る目が、ドアの前に立つ、村瀬を含む四人を見回した。
「このお時間に約束をしている者ですが」李がインターホンの通話口に囁くように言うと、開けろ、という声が聞こえた。
ドアが開くと、安物のジャージ上下を着崩した、坊主頭の男が立って出迎えた。年齢的に村瀬と同年代と見えるその男は身を乗り出し、肩をいからせて腕を垂らした体勢で、何かの偏執狂のように眉間に皺を寄せ、目を動かさずに頭だけを動かす仕草で、李、氏名のまだ分からない男、行川、最後に村瀬、の順に、顔を覗き込んだ。
「通せ、おら」奥から曲の効いた声がした。李にも通じる、高く張った、掠れた声だった。その声に応じて、坊主頭の男がスペースをよけた。
「お邪魔いたします」李が言って先に玄関を潜った。三人に倣って、村瀬も靴を脱いで上がった。
玄関正面に立っている男は、龍の刺繍されたトレーナーに紫のツータックパンツという姿で、銀色の髪をオールバック風に撫でつけた髪型をしている。齢は七十前後で老齢の域だが、立ち姿が矍鑠(かくしゃく)としていた。
天井の高い部屋には、大きな神棚、太刀と脇差の二振りの日本刀、壁には、いくらか若い時分の頃のものと思われるその男が、紋付袴で堂々と立っている写真が飾られている。壁の上部には、「田屋組」と書かれた提灯がずらりと並び、その隣には天井高々と代紋が掲げられている。
頭がついた虎の毛皮が敷かれたソファには、男よりもだいぶ年代的には若いが、気障なスーツを着た、面差しが男に似た青年が、精彩を失った顔をして座っている。李達が用があるのはこの青年らしいことが、村瀬にも分かった。
「悪かったな、こんな辺鄙な事務所まで呼び出しちまって」「いえ、いいんですよ」李が言うと、男はニスの光る木目のテーブルに積まれた、百万円が三つの札束を指した。
「あちこち回って掻き集めたんだ。耳が揃ってるかどうか確かめてから持ってってくれ。それもこれも、全部この馬鹿がやらかしたことのためなんだよ」男はだんまりのまま座っている青年を見て、顎をしゃくった。
「俺達はよ、内閣総理大臣から死ねって言われてんだよ。あの十把一絡げの新法と条例で、最低限の文化的な生活ってやつまで取り上げられてんだ。それでクリスマスのチキンはおろか、正月に餅も食えやしねえ。兄弟の子供にやれるお年玉だって駄菓子銭くれえの相場知らずだ。こんだけ集めんのにどんだけ辛どかったか、お宅らにも分かんだろ」男は李と村瀬の顔を順番に見ながらぼやくと、虎の毛皮の上に座る息子を指差した。
「遅くに出来た一粒種だってことで、甘やかしちまったことが俺の失敗だ。その上、生まれつきのダボで、自衛隊へやったまではいいけど、一週間かそこいらでけつ割っちまって、そのあと、口聞きで就職させても何もものになりゃしねえ。教習所の教官に酒渡して免許取らして、車買ってやりゃ婆さん轢いちまうし、何度こいつのけつ拭いたか分かりやしねえ。その挙句に、今回のこれだ。分かんだろ、この情けねえ気持ちがよ」男は舌打ちし、嘆いた。
李はテーブルに寄り、札束を手に取って眺めて、氏名不明の男に手渡すと、その男がテーブルにトランクを載せて開き、無表情に金を詰めた。
「息子さんが溜めていた月串の支払いはこれで終わりになります。息子さんの退会のご意思は、田屋さんのほうからお聞きになって、後日に連絡を下さい。今回これだけ積んでいただけたので、場合によってはこれと相殺させていただくかもしれません」李が言った時、坊主頭の男が斜に構えた姿勢を取り、足をにじって村瀬に寄った。
「おい、みあげはどこにあんだよ」声を低く潰して言い、村瀬に額をつけるようにして睨み下す男は、よく見ると、両目の大きさが不揃いだった。
やくざの因縁つけは、行員という元の職業柄、いくらかは分かる。自分の非というものは認めず、相手の小さな非は鬼の首。下部の人間はそれを大声に物騒な言葉を織り交ぜて恫喝し、そういう人間達を形に嵌めて仕切る上部は、物事の要点を踏まえた理論武装で、筋を転換して静かに相手を揺さぶり、追い詰める。千の言葉よりも一つの暴力という言葉があるが、威力を携えた力さえ、言葉だけで覆してしまうことも出来る。無論、それもいつでも行使可能な暴力の裏付けがあってこそだが。
「関東に住んでりゃ、うちの組の名前ぐれえ聞いたことあるはずだろうが。そこに来んのに酒折、菓子折の一つもねえってのは、うちの代紋舐めてるってことか、この野郎」村瀬は、壁に掲げられた大きな代紋を指して、ゆっくりと唸って凄む男の目を直視して目を反らすことなく、それをただ黙って聞いた。
「馬鹿野郎!」田屋というらしい組の長が怒号し、野球のピッチングを思わせる動きで拳を振り上げた。
田屋のパンチを受けた男の頬骨と頬肉が鈍く鳴った。田屋よりも頭一つ高い身の丈をした男が、見えない圧力を食らったかのように吹っ飛んだ。
老いて筋肉が落ちた体から繰り出されたとは思えない、軌道の描き方、インパクトともに、芸術的格調さえあるパンチだった。男の体が倒れた床が軋んで揺れた。
「こっちが作った恥ずかしい理由で来た人間だがな、俺の客人には変わらねえぞ!」田屋は体を折って倒れた男の腹と胸に、抉り込むようなキックを立て続けに入れた。爪先が男の肋骨を打つ音が重く響くごとに、男の口から苦痛の悲鳴に混じった息が吐き出された。
その制裁を村瀬、行川、氏名の分からない男とともにしばし見ていた李が、静かに歩み寄った。
「すみません。余計なお世話でしょうが、もういいじゃないですか。今回のことは、田屋さんにとってもいきなりのことで、こちらも非礼な訪問をしなくてはいけなかったわけで、多少のことはしかたがないですよ。もう、勘弁してあげて下さいませんか。こちらの組員の方のことも、息子さんのことも」李は、坊主頭の男の顔を踏みつけている田屋の脇に立ち、要請の言葉をかけた。田屋は男の顔を踵で押すと、李に向き直った。男の口の端からは泡立った血が流れている。男の歯も血に染まっていた。
「これは私自身もしょちゅう腐心してる問題なんですけれど、本当の血縁にせよたとえ義理にせよ、子を持つということは、その子供の分別の成長ってものを見届ける役割が伴うもののはずですよ。これはその子、によって、身につきが早かったり遅かったりするものなんです。これは田屋さんもご自分の子供を養育されて、他人様の子をお預かりして稼業を仕込んでこられたことからよくお分かりだと思いますがね。今回は、息子さんにとっても良い勉強になったことと思いますよ。物事の羽目を外せば、自分だけじゃ賄えないまでに高くつくということを学ぶいい機会が設けられたはずです。私は田屋さんの息子さんとは全くの一見の関係ですが、物事から何かを学ぶ力はちゃんとお持ちの方と見受けますので、生まれつきのダボだとかと決めつけて、馬鹿呼ばわりするのはあまりに可哀想ですよ。自衛隊とかはともかくとして、本人に合った道というものが必ずあるはずですからね」李の正論に、田屋は表情と体勢を改めた。
「何だ、あんたはガキいるのか」田屋の問いに、李は小さな頷きを返した。「事情あって認知はしてないんですが、産ませたのはいます。時たま遊びに連れてってやって、小遣いやったりはしてますがね」「へえ‥」田屋は気のない気のない返事をし、肩を落とした体をテーブルに向けた。組員の男はカーペットの上で体を折って呻き、田屋の息子は俯いて座っているだけだった。
「世知辛えもんだよな‥」テーブルに置かれた缶の煙草を抜いて、スタンド型のライターで火を点けた田屋は、溜息とともに煙を吐きながら呟いた。
「俺が盃もらって稼業に入ったのは中学出たばっかの十五の時だったんだがな、難しい言葉を遣いや、何つうか均一的ってやつだったよ、あの頃は」田屋は煙草を手に、どこへともなく遠い目を馳せると、その視線を村瀬の目に合わせた。
「高度経済成長期ってやつで、日本の社会が伸びに伸びてた。金の卵、若い人間に託されてたんだ、会社の発展から景気の上昇までがね。あの頃は、包み込みってもんが、どこの誰が言うまでもなしに、自然に出来てたんだ。それは俺達の世界でも例外じゃなかった。だから、ダボや薄らが人並みの夢を見られる余地があったし、そういう奴らにもチャンスがあったんだよ。そいつらは泣きながら仕事を必死に覚えてこなして、その奴によっちゃ役職者になったり、経営者になったり、所帯を持ってガキを作って育てたりしてた。そういう中で、自信を獲得していったんだ。俺が知ってる野郎で、見習いの頃にはおどおどしてたけど、あとから若衆頭張ったって奴もいるよ」田屋は村瀬の顔から目線を離さず、歪めた唇に煙草のフィルターを咥えた。
「それが今は何だ‥」田屋の目が床に落ちた。「そりゃ、人里外れの施設にやらなくちゃいけねえような奴もいるさ。それが悪いことだとは俺は言わねえよ。けどな、今は過保護な考えで、頑張りのいかんで昇れるような奴にまで要支援とかいうレッテル貼って、障害者っていう呼ばわりの棚に押し込んで、そいつらの見る夢や、そいつらの感情まで、物みてえに管理してやがるんだ。要は、そいつの出来ることってのを見ねえで、そいつの出来ねえことってもんをつついて、何にも出来ねえ木偶の棒と決めつけるわけだ。それで適当な職場とか施設を口入れして、あとはてめえらのアフターファイブだよ。その挙句、その管理に従わねえ奴は虐待されて殺されるんだぜ。何食わぬ顔でそんなことが出来る奴らが、俺達みてえな人間を後ろ指差せるのかって話だよ。なあ、あんた、どう思うよ。分かんだろ? 俺がこいつをこれまでそういうとこに預けねえで、親父の身一つで見てきた理由がよ」田屋はフィルターを噛みながら、また村瀬の目を見た。
「奥様は‥」李が田屋に問うた。
「籍は入れてねえ二号だったんだがな、高齢で無理があって、こいつを産んだ時にクモ膜下出血を起こして死んだんだ。それから俺がずっと看てきた。こいつは今、三十二なんだがな」「そうなんですね。大変な苦労をされてきたこととお察しいたします」
制裁を受けた組員は苦痛に顔をしかめ、床にカーペットに手を着いて半身を起こしかけている。李は、眼差しの鋭さの中に、悲しみと先行きへの憂いが挿した目を遠くへ遣りながら煙草を燻らせる田屋を、感情のない爬虫の目で見据え、行川はそれとなく組員の男にも目を配りながら、即応可能な腕の垂らし方、足つきで立っている。氏名不詳の男は、それを補佐するかのように足を踏みしばって、半径3メートルの空間を見つめていた。
村瀬は田屋の言うことに一理の意を感じながらも、支援のない世界で生き残り、今も名ばかりの支援の中で生き残りを計っているはずの菜実のことを想った。
李の口が「行くぞ」と言った形に動いたことを村瀬が読んだ時、氏名不詳男の踵が玄関に向かって返り、行川の体が李と並んだ。
「それでは、私どもはこれで失礼いたします。退会料については、今回のお支払いと相殺とさせていただきましょう」李が礼をすると、田屋が頷いた。田屋の息子は、座ってうなだれたままだった。
李、氏名不詳、村瀬、行川の順番で一列になり、鉄の階段を降りた。後ろから距離を取って、田屋が降りてくる。
五人が舗装面に降りて立つと、田屋が犬小屋に歩き、ボクサー犬の背と胸を撫でた。ボクサー犬は打って変わって大人しくなっていた。
「体ぁ張って看るってことは覚悟の一重だ。そいつが背負ってくる迷惑事も何もかも、てめえが買い切るんだ。周りの助けを借りるにしたって、最後はてめえなんだよ、最後はな。それが嫌なら、出来なきゃ、どこまでも逃げるしかねえんだ。どこまでもな」田屋は村瀬達に見下ろされながら誰にともなく言ったが、それが村瀬の立場を察しているかいないかはともかく、その言葉は自分に向いたものだと村瀬は思った。
だが、自分にはない。自分が納得して、自分から背負ったものから逃げる場所などは、もう。自分から断ったのも同じだ。自分の意思で。だからこそ、今、身と体、魂までも暗黒の深淵へ堕とす道へ踏み出している。
「予定変更だ。蘇我へ回せ。柳場(やなば)の野郎んとこだ」李が運転手の男に命じた。
その苗字に、村瀬は聞き覚えがあった。昔に遠方の住み込みアルバイトで関わった、同県から来ていた人間に同じ苗字の者がいたのだ。それは断じていい思い出のある人間のものではなかったが、今は、その男がどうなっていようと何の関心もない。自分の中に流れる血を、いかに冷たく、通常の赤と異なる色のものに変えることが出来るか、ということの他を考える余裕はなかった。
それは菜実を守るためだが、彼女のためにそれの出来る心技体を裏付けるものを、自分が持っていることはすでに知っている。
六感のようなものが胸を騒がせていた。喫茶レストランの一件、江中のことの他、自分が封印していた過去と対峙することになるという、色鮮やかな夢に似た予感を覚えている。だが、それすらもどうでもいい。
変わらなくてはいけない。菜実の頬、唇、掌と乳房、陰部の温もりを知っている自分の手を、他人の血と悲涙で汚すことに躊躇のないものにするために。
「概要を説明しましょう。これから行くのは、窃盗犯の所です」リアシートの村瀬を振り返って言った李の声は、怒りを含んでいた。
「私どもの尊教活動の一環で、本会に集まった尊財を管理、会計するお役をこちらが与えていた男なんです。ところがその男が、それをどこかへ流した疑いがあるんですよ。警察に突き出して社会的な損失を被らせるよりも、我々で諭して、名誉を維持させたまま事の処理を行いたいものでしてね。まあ、示談ですね。こちらも協力をお願いいたしますよ」怒りの籠った李の言葉語りを、村瀬は無視した。
「家、いますかね‥」氏名不詳の男がリアシートから李に問いかけた。「だいたいの確率でいるぞ。最初の追い込みから経ってる時間的に言って、灯台下で間違いねえ。派遣の仕事もだいぶ休んでる」李はリアシートを振り返らずに答えた。
先までシートの背もたれに目を射っていた行川が自分を見ていることに気がついた村瀬は、小首を返してその視線に応えた。「の」の字の目に酷薄な光が宿っていることは変わらないが、昨日、村瀬を叩きのめした時とは微妙に違う表情向きをしている。それはこれから大変な仕事を前にし、一緒にスクラムを組んでそれに臨む同僚を見る目の感じがしたが、村瀬はこの男に仲間意識のようなものは覚えなかった。
「始めるぞ」という言わんの目でしばらく村瀬を見ていた行川は、手の甲を村瀬に向けて、人差し指、中指を伸ばしたチョキを作り、それを自分の股間へ持っていき、二本の指を閉じて、「切る」というジェスチャーをした。村瀬がそれに何かの答えを返すこともなく顔を見ていると、その口許にかすかな笑いが浮くのを見たような気がした。
三十分超の時間のうちに、車は何度かの右左折を繰り返し、何本もの工業用煙突が空に向かって立つコンビナート、東京湾に面した地区に入った。駅前大通りの二つ目の信号を左折して直進、そこからさらに一つ目の信号角を折れ、小学校近くの一角にその家はあった。敷地の広さは五十坪ほど、白いモルタル壁の木造二階建てだった。リンカーンコンチネンタルは、斜め向かいの、閉店して久しいと思われるシャッターの降りた商店のスペースに停まった。
「柳場」の表札が掛かった門を潜り、引戸の前に立った。李がブザーを押し、ゆっくりとしたノックを三回した。インターホンはついていない。灯りは点いているが、人は出ない。李はもう一度ブザーを押し、柳場さん、と呼びかけてまたノックをした。蹴破りますか、と氏名不詳の男が小さく李に耳打ちした時、引戸の曇りガラスの向こうに女が立った。
引戸が開き、やつれにやつれた老いた女が顔を出した。
「夜分にすみません」李は言って、手に持って提げていた名刺をかざした。「私どもは、すみののり、という法人の者ですが、柳場(やなば)直樹(なおき)様のお母様でお間違いないでしょうか」
その名前を聞いた村瀬は、自分の目が一瞬丸くなったことが分かった。同姓同名の可能性もある。だが、今しがた李が口にした名前は、村瀬にとり、兼田や江中と並ぶ屈辱の記憶を思い覚ます人間のものと同一だった。
「そうですが、何か‥」女は遠慮を乞うような目を下から李に送った。「ご存じないようなので、手短に説明させていただきます。実は直樹さんは、半年ほど前に本会に入会いたしまして、代表から認められてお役を任されて、活動に邁進されていたのですが‥」「すみません、息子はそちらでどういったことをやっていたんですか? あなた様方は、どういうことをされている法人なんですか?」女の声が上ずりを帯びた。
「宗教社団、尊教純法、と申します。私はその関東エリアで総括マネージャーをさせていただいております。今回覗ったのはですね、こちらが息子さんの直樹さんに一時的に管理していただいておりましたお金の行方が、現在こちらで掴めていないことで、直樹さんと直接お会いしてお話がしたいと思ったからなのですが」「息子はいません。多分お友達のお宅だと思うんですけど、ここのところ帰ってないんです」女が顔一杯に恐れを刻んで言うと、李がずんと体を前に勧めた。
「恐れ入ります。今、息子さんがいらっしゃることはもう分かっております。もういいお年なんじゃありませんか? 会うのが都合悪いからといって、そんなお年で、親御さんに居留守を使わせるっていうのは、社会経験もおありの大人としてどうかとどうかと思うのですがね」と李。
引戸が閉まりかけた。閉まりかけの引戸に氏名不詳の男が足を差し込み、内側から手を掛けた。弱い悲鳴とともに引戸が全開になり、体勢を崩した女が引戸にすがったまま倒れた。
四人で三和土に入ると、村瀬が引戸を閉めた。氏名不詳の男が柳場の母親の手首を後ろに回して体を固めた。母親の口からは泣くような声が漏れている。
「この家は土足で上がれ」李が表情と口調をがらりと変えて三人に命じると、まず、氏名不詳の男が動きを封じた母親を押しながら、革靴のままどかどかと木目床を踏み、上がった。それに肩と背中を丸めた李、小さな体の胸を反らした行川、村瀬が続いた。
氏名不詳の男が母親を居間に引きずり込むと、村瀬は二階を指差した李と二人で二階へ上がった。土足で他人の家に上がり込んだことへの呵責は全く感じていなかった。それはどんな手段を使っても菜実を守り抜くという思いがあってのことだった。優しさと冷酷な心。完全な矛盾を、まだ胸の中に呑み込めてはいなかった。
二階には、部屋が二つあった。村瀬の住む持ち家に造りが似ていた。今は亡いらしい柳場の父親と、一階居間で身柄を拘束されている母親がかつて夫婦の寝室として使っていた八畳間、格闘家のポスターが貼られ、プッシュアップバーとトレーニングチューブ、ベッドが置かれた自室の押し入れを開けて中を検めたが、村瀬の知る人間と同姓同名らしい男の姿はなかった。
自室の窓際には、A4サイズの大きさをした男の写真が掛かって飾られていた。その写真に寄り、その中で顎を引いた上目遣いの顔をし、握った拳を顔の前に掲げている男は、その名前ともども知らない人間ではなかった。それは今から二十数年前の夏、当時、長野の白馬村にあった大手ゼネコン会社保養所の山荘に二週間の住み込みアルバイトに入った村瀬をいびり倒した、「柳場直樹」その男だった。
何かの専門学校に在学しており、一ヶ月の契約で来ていると聞いていた。見た目は文系だが、使う言葉の端々に他人を馬鹿にした傲慢さが滲み、要領が掴めずに苦労している村瀬を、ぺらぺらと早口の理屈をこねて嫌味を言い、侮辱した。その果てに、暴力も振るった。
緑に覆われた夏の山脈の風光は村瀬の心を楽しませたが、山荘バイトは簡単ではなかった。洗い場ではかなりの枚数の食器を時間内に洗わなくてはいけない。客室の整備は、朝はたらたらやっていては客が戻ってきてしまうし、夕食時の寝具セットも綺麗に素早く行わなくてはいけない。客の物品の扱いにも気を遣わなくてはいけない。
“君、大学だって言ってたよね。就職とか、大丈夫なの?” 夕の客室整備の時、数歳上の先輩が村瀬に訊いてきた。“三日前に入ってきたあの柳場君とそのお友達の子達、君の先を越してるよ。このままじゃ、周りの人達の君を見る目がどんどん冷たくなるよ。もっと頑張らないと”
柳場は仕事の覚えが早いだけでなく、経営者や先輩への取り入りが上手く、宿泊客にも好印象を持たせる要領のよさを持っていた。だが、一緒に入ってきた友達ともども、人となりの陰険さが、眼鏡の奥の目に出ていた。
柳場の村瀬への侮辱は、嘲弄の調子から徐々に嚇しの抑揚、言葉になるものだった。村瀬はそれに圧され、すみません、と謝っていたが、謝るだけの村瀬をなおも陰湿に畳みかけて放さなかった。柳場は仕事中だけでなく、休憩時間にまで村瀬に言いがかりをつけてきた。
最終日の前々晩、小さな従業員用食堂で上司、先輩、同僚の学生やフリーター達と夕食を採っている時、もうじき仕事の回りが良くなるからせいせいする、白馬まで飯食いに来てる穢多非人がいなくなるから、と、柳場が一緒に来ていた友達に話しているのが聞こえた。
 食事が終わり、大浴場へ行く途中の柳場達三人を村瀬が呼び止めたのは、自分は飯を食うためにここに来たわけではない、と説明するためだった。また、穢多非人という呼ばわりにも、その歴史を学んでいる以上、聞き捨てするわけにもいかないと、勇気をもって教えようと思ったからでもあった。
 ここにご飯を食べに来てる穢多非人って、僕のことですか? と、村瀬は語気こそ弱めながら勇気を振り絞って訊いた。
 “決まってんだろ。てめえの他にいねえだろうがよ”柳場が言い、二人の仲間が哄笑を廊下に響かせた。
 “穢多非人のことを間違って覚えてる人が多いので、説明させて下さい。いわゆる浮浪者みたいな暮らしをしてた人達だと思っている方達が多いんですけど、平安時代から幕末にかけて、畜産業の最も重要な仕事を担って、大名や庶民の生活を支えていた人達なんですよ。確かにインドで言うカーストの一番下に位置していて、住処を川辺に追われていたり、裸足で暮らさなければいけなかったりという具合に差別的な扱いを受けていた身分ではあるんですけれど、戦国時代には刀の柄や、鎧などの生産に使う革の鞣しも行っていて、軍需産業にとってもいなくてはならない階層の人達だったんです。つまり、非人と呼ばれていても、誇りを持って仕事をしていた人達だったんです。分かってもらえますか?”
 柳場ら三人は、へらついた顔で村瀬の話を流していた。
 “そんなもん知るかよ。穢多非人が嫌だったら、乞食にしてやろうか。てめえが使えねえから、俺らは迷惑してたんだからよ。それとも飯食い屋がいいか?”
“僕は確かに要領が悪くて、みんなの足を引っ張ってたところはあったかもしれません。そのことは謝ります。だけど、僕の家は裕福なほうじゃないから、大学に入る際も親には負担をかけたし、これ以上お金の面で親の世話になるわけにはいかないから、アルバイトをしてるんです。ご飯を食べるために白馬に来てるわけじゃないんですよ。だから、仕事も鈍臭いなりに頑張ってついていこうとしたんだ。分かってくれたら嬉しいんだけど‥”
 そこまで言った時、おら! という声とともに柳場のパンチが二回、村瀬の頬を打ち、薙がれた体の腹部にキックが入った。体勢の崩れた村瀬の胸倉を、柳場の手が掴んだ。村瀬はその頃、健康空手を始めたばかりで、いくつかの受け技は教わっていたが、防御出来ずにもらってしまった。
 “俺らにため口聞くなよ。てめえ、使えねえんだからよ”柳場は凄んで、掴んだ村瀬の体を押した。痛みと恐怖でそれきり口が聞けなくなった村瀬に、空手を使ってそれをどうするか、というものは思い浮かばなかった。
 “てめえのそんな穢多非人の蘊蓄なんて、俺らに対する口答えなんだよ。てめえみてえな野郎の立場は生まれつき決まってんだよ。たとえりゃな、俺は神でおめえは貧民なんだからよ、神の俺がおら、ちんぽ出せっつったら出さなきゃいけねえんだよ。てめえの女とやらせろっつったら、黙って差し出すことが掟なんだよ。俺がおめえみてえな奴とか、駅のプラットホームで耳塞いで、電車が来ます、電車が来ます、締まる扉にお気をつけ下さいとかって言ってる奴らを創造して、支配してるのも同じなんだよ。分かったか、この乞食。分かったら、ここで俺らに口答えしたこと、土下座して謝れよ、この乞食! こののろま虫が”
 柳場は声高々とした早口で言いざまに村瀬の上体を引き倒すと、何発ものジャブ、フックのようなパンチを村瀬の顔面に入れた。村瀬はされるがままになった。そら、金的だ! 笑って叫んだ柳場のキックが股間に決まり、村瀬は股を押さえてうずくまった。うずくまったところ、仲間の一人に尻を蹴られた。うずくまった村瀬に、心底愉快そうな笑いが降った。
 “こいつ、超弱え。いつだったか新検見川駅の便所で直樹君がぶちのめして一万円取った高校生も笑えたけど、こいつ、もっと傑作だよな”
 “直樹君、トレーニングの成果、今日も発揮したね”
 仲間達が口々に言い、柳場が丸まった村瀬の体に足を引っかけて仰向けにした。閉じた瞼から涙が流れ出ていた。股間を蹴られた苦痛と悔しさのためだった。
 “いいか、分相応に生きろよ。まず、穢多の分際で俺らに口答えしたこと謝れよ”
 しゃがんで囁いた柳場の白々とした歯と、顔にかかった吐息のぬるさを、村瀬は昨日のことのように覚えている。顔の上に「非常口」の掲示板が緑色に光っていたことも。歪んで震える自分の口から吐き出された、すみませんでした、という言葉も。
 “そうだよ、それでいいんだよ。分かりゃいいんだ、分かりゃ。まあ、この二週間、君も頑張ったね。同じ千葉だったら、いつかどっかで会うかもね。もしその時、君が彼女でも連れてたら、その彼女、俺らで一人一発づつ姦らせてもらうから、よろしくね”
 柳場は馬鹿優しい囁きを落とすと立ち上がり、仲間二人と大浴場へと去った。笑いが廊下に響いた。
 その弄笑の響きを記憶の中に蘇らせた時、氏名不詳の男が母親を固めて封じ、行川が検めている一階から、泣き声になりかけた悲鳴のような声が聞こえた。高く裏返った男の声だった。
 「いましたね。読み通りです」部屋のドア前に立った李が言い、その口許がサディズムを込めて吊った。
 李に続いて階段を降りると、扉が開け放しになったトイレの前で、見まごいなしの柳場が行川に襟首を掴まれて立たされていた。どこかの中年の経理部員という顔恰好になった柳場は、上が白のフード付きトレーナー、下はジーンズとパンツが足首まで下がり、陰毛に覆われた縮こまった陰茎が晒されている姿だった。トイレで用便中に、行川に引きずり出されたらしい。
 泣く恰好に目が見開かれ、あんぐりと口を開けたその顔からは、あの山荘バイトの時に見せていた驕り高ぶった表情、態度は跡形もなく消え失せていた。
 「久しぶりだな、柳場。こんなぼこぼこの傷だらけで、ガーゼに絆創膏で分かりづらいだろうが、よく見てくれよ。この顔に見覚えがあるだろう?」村瀬は柳場の前に立ち、言葉遣いを当時のものから改めて語りかけた。怯えて言葉も出ない柳場の目に、知っている人間を見た光が瞬くのが覗えた。「二十八年前の白馬村じゃお世話になったな。俺はあの時の穢多非人、飯食い乞食の村瀬だ。嬉しく思うよ。こうして奇遇にもまた会えてね。けど、今日、お前に用があるのは俺じゃないんだ。こいつらなんだよ、お前に用があってここに来たのはね」村瀬の低い囁きに、柳場は唇を震わせて、熱病患者の呻きに似た声を発した。
 「お知り合いですか。おっしゃったように、これは確かに奇遇ですね。忙しいので、ゆっくりと旧交を温める間はありませんが、ちょっとだけ昔話をされるのもよろしいんじゃ‥」李が細い目を丸くした。
 行川が襟を引いて、陰部と尻を剥き出しにした柳場を、母親のいる居間へ引きずった。トイレからは便臭がした。柳場の肛門から、茶褐色をした軟便気味の大便が何切れかひり出されて床に落ちた。李はそれに目もくれず、行川のあとに続いた。村瀬はこれから自分の手が執り行うであろうことを、至って静かに胸の中に畳んでいた。
 母親はテレビの前で、氏名不詳の男に襟と首を掴まれて前のめりの体勢にされて座らされている。母親の前に引きずり出された柳場の裸の尻を、行川が蹴った。膝から転げた柳場の足から、村瀬がズボンとパンツを抜いて後方へ投げ捨てた。
 「お願い! 直君に乱暴しないで!」母親が叫んだ。「落ち着いて下さいよ、お母さん」李の言葉に、母親はより取り乱した様子を見せた。
「我々は彼と、これから大人同士のお話をするだけです。彼が本会のお金を猫糞したと、こちらもまだ決めつけたわけじゃないんです。ただ、不明金という扱いになっている以上、問い質さないことには埒が明かない。はっきりとは分かっていないことを明るみにするだけのために来たまでのことですから。ただし、直樹さんが正直さ、誠実さを欠いた態度をされる場は、こちらもびしりとしなくてはならなくなります。その辺りをご了承していただけると幸です。よろしいでしょうか」「やめて下さい! この子は優しい子なんです! 人様のお金をどうするとか、その、人を殴ったりとか、私も主人もそんなことは教えて育ててはいないんです!」「それはお母さんの主観に過ぎないでしょう? 家の中で高等な教育を受けたって、外で悪いことを教わって、それに病みつきになる場合だってあるじゃないですか」李が静かに言うと、母親は抑えた悲鳴を喉から絞り出し、体をがくつかせた。
 柳場は行川に髪を掴まれて引かれ、半身を立たされ、泣き声混じりの悲鳴を上げ続けている。
 「俺はお前がどういう経緯で純法に入信したかも、そこで何をやらされてたとか、詳しいことは知らないし、興味もない。この奴らとの関係も、つい先日に出来たばかりで、好きでここに来たわけでもない。今からお前に出来ることは、お前がこの宗教団体に追われるようになった理由を正直にここで話すことだ。分かるか、柳場」屈んで顔の高さを合わせた村瀬の呼びかけに、柳場の反応は変わらなかった。そのまま一分ほどの時間が経つ中、村瀬の胸に再生した憎悪が、怒涛の質量をもって、心の蓋を圧し開ける感覚を覚えた。
赦せなくなった。この世に自分の上はないという顔をして、「神」とまで称して村瀬を言葉、物理両方の暴力でいたぶり尽くし、そういった示威の手段を失った今、泣いて難を逃れようとしている、この狡く、歪な人間的性質を持つ男が。
伝心したかのように、行川が柳場の髪を持って、その体を立たせた。「これと同じ痛みを、あの時、俺はお前から受けたんだ」村瀬は言うと、ぷらぷらと揺れる陰茎の下がる柳場の股間を、足首のスナップを効かせて蹴った。睾丸を潰さないようにするために加減した、比較的浅い金的蹴りだった。柳場は鼻水と唾液をほとばしらせて体を折り、膝を着いた。体が行川の手からぶら下がった形になった。
悲鳴が泣き声に変わった。行川に髪を掴まれて天井を向いた柳場の頬と口許に、村瀬は黒の革手袋の拳を、圧縮した気合の声とともに、時間を置いて三発叩きつけた。血にまみれた歯列と舌が露わになった。より高い泣き叫びの声を上げる柳場の前髪を村瀬が掴むと、行川が手を離し、村瀬の脇に回った。
「柳場、お前、神様なんだよな。俺はこれからも変わらないだろう今の身分で満足だ。むしろ、神様なんていう無責任で勝手な存在の椅子に座ろうなんてことは、これまで思ったことがないんだ。穢多非人も乞食も、飯食い屋の呼ばわりも上等だよ。あの時説明した穢多非人ほど社会に貢献してる気は自分じゃしないよ。でもな、ちゃんと働いて納税もしてるってところで、別にお前に負けてる気もしていないんだよ。たとえお前が本当に神様だったとしてもだ」
村瀬は柳場の髪を逆さ毛根に掴んで、円を描いてゆっくりと部屋の中を引き回した。啜り泣く柳場の裸の尻を、行川が一定のリズム感覚で蹴り続けた。目の合った李が、満足げな笑みを浮かべて二回、頷いた。
「やめて! 払えるだけのお金を、私のお財布と預金から支払います! だから、直君に乱暴するのはやめて!」母親が唄うような声と言葉を上げたのは、村瀬が柳場を四周させた時だった。
「そうですか。そのことはのちほど、別途話し合いましょう。今は、責任をと念押しして管理のお役を任せていたお金の行方を話していただくことが優先ですのでね」李が身柄を固められた母親に言い、氏名不詳の男は母親の背中を押して、畳に額を着けさせた。
「この恰好で蘇我の駅前を引きずり回してやるよ、全知全能の神様。そうすりゃ、けつと金玉丸出しで、けつに糞まで引っつけた、ふるちんの明神様のご利益を求めて、みんなスマホを向けるぜ。正月にはちょっと早いけど、お守りのお札代わりと洒落込んでな。柳場、答えろよ。一時には同じ釜の飯を食った、飯食い屋で穢多非人の俺が聞いてることだぞ。なあ、神様。これは願かけなんだよ。今ここで、しがない店員の俺がこれ以上の酷いことをしなくて済むようにするためのな」村瀬が腹から押し出す声を落とすと、柳場の足から力が抜けた。
行川が台所まで歩き、引き出しを開けてキッチン鋏を取り出し、しゃきしゃきと刃身を開閉させた。行川は広がった柳場の脚の間に片膝を着いてしゃがみ込み、革手の指で彼の性器をつまんで、鋏の刃をあてがった。
「やめてぇ!」柳場は、先に母親が言ったものと同じ言葉を叫んだ。
「お願い、助けて! お願い、村瀬さん、あの時いじめたこと、赦して! 土下座でも何でもするから、やめてぇ!」「そんなことをしてもらったところで、何だ。それがお前の助命の条件にでもなるのか」村瀬は柳場の髪から手を離さず声を落とした。「だから、話すから、やめて‥お願い‥」柳場は口許に血を溢れさせ、濡れて歪んだ顔を村瀬に向けた。その時、行川の向かいに立つ李の口が開いた。
 「そうですか。それでは、これまでお母様に内緒でこそこそやってたことも話すしかなくなりますね。でも、疚しいことっていうものは、最後までは隠し通すことは出来ないものじゃないですか。何を隠そうが、大本尊様も大法裁様もお見通しなんですから。だいぶ妥協した案ではありますけれど、大法裁様もご納得されて、お赦しになる条件も持ってきております。だから、どうぞ、尊財をどこの誰にどうしたか、あるいは実は一時的に魔が差して、このお宅の床下にでも隠しているとかをお話になって下さい。後者の場合は、返していただけるだけで結構ですから。さ‥」
 「脅されたんだ‥」柳場は垂れた目をせわしなく瞬きさせ、消え入りそうな弱い声を出した。
 「とう、盗撮のグループに入ってました。その、温泉とか、学校とかデパートの女子便所とかに、女を使ってカメラ仕掛けて撮るやつ‥。八年ぐらい前、女トイレの盗撮で個人情報押さえて脅迫して、何度も呼び出して、仲間と一緒に犯して、スカトロの動画とかも撮ってた、結婚前の女が自殺したんです。それで俺は免れたんだけど、グループの奴らが何人か捕まって、それで怖くなって、そのグループは抜けたんだけど、半年前、尊教で尊財の管理役やってた俺ん所に、盗撮の仲間の知り合いとかっていう人が来て、その人、仲間しか持ってないはずの、動画撮影の写真を何枚も持ってたんですよ。みんなマスクとかで顔隠してたんだけど、うっかりマスク取っちゃった俺の、俺の、顔が写ってる‥」柳場が濡れた顔で声を上ずらせてしゃべる内容に、母親が息を呑み込んだ。
 李はそういった事柄自体には何の関心もないという風に、行川の手で股間に鋏を当てられている柳場を見下ろしているだけだった。行川は、返答次第ですぐに柳場の男根を切除出来るとばかりに不動だった。母親を拘束している氏名不詳の顔色にも、何の感情も見えない。
 村瀬は嘲っていた。その嘲りは、今、自分の目の下で無様な姿を呈している男にだけ向いているものではなかった。
 見たところで、聞いたところで、地獄を見るような経験の数もない、または箱の中で育ったような人間による高みの目線からの諭し。理解を受ける資格を有さない者を理解しなさい。生の時間の功で村瀬は知っている。それは、哲学のありようとしては認められないこともない。だが、無節操に優しさばかりを注ぐこと、抱きしめ、などがもたらすとされる効果を盲いたように信じることが、何に繋がるのか。
 この男の中に、自分達が欲望のままに寄ってたかって蹂躙し、愛する相手と両親、兄弟、友達を置いての死へ追いやられた何の罪も落ち度もない女の子に詫びる気持ちもなければ、自分が仲間の者達と働いていた行為を悪びれているわけでもない。あるのは、我が身の安全だけを図ろうとする心だけだ。
 異性、同性とも、他者に向けるべき優しい心など、これまでの人生で持ったことがないに違いない。だから、抗えない相手を袋の鼠のように目の仇にする弱い者いじめも出来る。大粒の涙を流して、母親や恋人の名前を呼んで泣き叫ぶ女の子を多勢の男の力で押さえ込み、下卑た笑い声とスマホのシャッター音が響く中、浣腸器や電動玩具で膣や肛門を玩弄することにも良心の呵責もない。その相手が命を絶ったことも、昔の風でしかないばかりか、格好いいことだと思っている。
 荒んだ心を仏様の心に。どんな人にも仏性が。右の頬をぶたれたら。さほど強い印象が残らない程度に、人生のどこかで聞いたことのある言葉が、白々と思い出された。
 石を投げられ、棒で打たれても、その迫害を加える人間達を礼拝する覚悟が本当にあるなら、その人は「素晴らしい人」ということに落着させても構わない。
 それでも、一度犯した罪は、絶対に消えない。だから、生ある時間を費やして償うしかない。歪んだ心持ちの者は、その歪みを見つめ直さなければ、それに相応しい結末の引導が用意されなくてはいけない。
 だが、今の俺は何だろう。性格は優しく、振るわない物事にも一心に取り組む所が、履歴書を書く上でのアピールポイントと言ってよかった。高校生の時分、アルバイトのために書いた履歴書の「自己の性格」という欄には、「長所は気が長いこと、短所は人がよすぎること」と書いたものだった。それが今の俺は何だろう。抵抗を封じられた相手に対して、かつての村瀬への行い、純法での不義理の沙汰、女の子を辱めて死へ追いやったこと、みんな、その人間の身の錆びにせよ、陰惨な暴力を働き、屈辱を与えている自分の姿は、夢の中に在るわけではない。現実の中にいる。
 自分で自分の取柄だと長年思っていたものが今、鍋のようにひっくり返り、完全に否定された。
 行員になって間もない社会人一年生の頃、のちに出向になった課長から「お前はふわふわと人ばかりはいいけど、たいした人間じゃない」と言い放たれたことがあったが、優しさという主観的な長所で「たいした」人間の座にすがり続ける道は、今日のこの日に無残に断たれた。
 心中の嘲りは、鼻から小さな息になって漏れた。その課長が言うところの立派な人間になることへの向上心など、俺は今日、自分の手で屠った。鶏の頸を締める、あるいは豚の額に電極装置を当てるよりも造作なく。
 自分の中に悪鬼がいた。その気になれば、あらゆる非道なこともこの手でこなし上げ、李や行川の双璧となることも出来る。いくらでも。
 「‥その人から、写真、六百万で買えって言われたんだけど、俺、消費者金融とか街金の借金が焦げついてて、もう借りられないから‥」「それで法人の口座から尊財を抜いて、その人間にそっくり渡したというわけですね」「赦して‥何でもするから‥」「認めますね。尊財を窃盗したこと‥」「‥」李の問いに、性器に鋏を当てられたままの柳場は体を震わせるばかりだった。
 「あなたが尊教の尊財を渡した相手は、どんな人間でしたか」「荒川って名乗ってる、俺よりも一回りぐらい年下の奴です。非通知で俺の携帯にかけてきて言ったことには、このままにしとくと、あなたも警察に任意同行求められるとかで、千葉中央のレンタルオフィスに呼び出されて、写真見せられたんだ。それで、これじゃどんなに優秀な弁護士立てても執行猶予はつかない、警察との間に立ってやることが出来るかもしれないから、保証金を自分に預けてくれるか、って言われて‥」柳場は歌を唄うような抑揚で吐いた。
「分かりました。その人間とその背後の勢力などは、ゆくゆくこちらで追跡することになると思います。で、柳場さん。あなたはどうしますか?」李に問われて、柳場はただ唄うように泣いている。鋏はまだ性器に当てられている。行川の「の」の字の目は、「命次第でいつでも切れる」という気魄が籠って底光りしている。「どうされるんですか?」李は同じ意味の言葉を強調して、柳場に投げかけて訊いた。
「是非、お母様も一緒にお聞き下さい。大切ですよ、けじめっていうものは。相手が私達だからって話じゃない。どこの誰に対してだって、損失や損害を与えたら、与えた分だけのそれを償わなきゃいけない。それがきちんと通らない社会は、法治国家とは言えないはずじゃないですか。さっき聞いたお話によると、悪質な凌辱の行為をやって、一旦、確かに刑法の裁きからは逃げることには成功したかもしれない。だけど、調書や判決文には載らない罪状ってものも、あとから何かの形を取って、必ず追ってくるものなんですよ。分かりますか?」有無を言わせない圧を帯びた李の声が居間に撒かれた。
「いくら‥いくら、お支払いすればいいんでしょうか‥」母親が慄く声で訊いた。
「こちらの被害金額は、ざっと七百万円になります」さらりとした李の答えに、母親の眦が決まった。
「主人の死亡保険金の残してきた分と、私の年金を貯めてきた分の蓄えがあります。それに定期預金を解約すれば、五百万円くらいは用立てることが出来ます。それでは足りない分は、この家を売って、母子でどこかのアパートに移って、私がパートでも何でもしてでも工面します。だから、息子を助けて下さい! お願いです!」母親は声を裏返して懇願した。
「おい」李が行川を顎で指した。行川は柳場の股間から鋏を外して立ち上がり、氏名不詳の男が母親の拘束を解いた。村瀬はその様子を見て、柳場の髪から手を離した。
母親が掌と膝でいざって寄り、息子の頭を両腕で巻いて抱いた。歌の調子を持つ、柳場のか細い噎び泣きの声が部屋に満ちた。
「無駄なことをお考えにならないで下さいよ」咽ぶ八十前の母親と、村瀬と生年を同じくする四十後半の息子に目を遣りながら、李は諭す声を降らせ、それが泣き声と交わった。
「私どもははなから、そちら様の生活を奪うようなことをするためにここに来たわけじゃありませんから。先に申し上げました、けじめつけっていうものについて、直樹さんがどう考えておられるのかを聞きたかっただけです。このお宅は、築年度は昭和の何年ですか? こんな耐火、耐震性ともに脆弱な家は、不動産屋だって査定の対象にもしないと思いますよ。定期預金などの蓄えも生活のための備えじゃないですか。それにお母様がお体に鞭を打たれてパートなどに出たところで、得られる収入は微々ですよ。そこで、ここは一つ、実に合理的な中身の提案をあらかじめ持ってきているんですが‥」李がそこまで言った時、母親が涙の伝う顔を上げた。
「柳場さん。アルバイト生活を脱して、正規就職をする気はありませんか?」柳場の隣にしゃがんだ李が、その耳元に囁きを送った。
「倉庫の会社にアルバイト派遣されて働いておられるとはお聞きしていますが、現在、株式相場の世界的な乱高下は、下、に向かっていると投資関係のジャーナルが噂しております。そうとなると、派遣やアウトソーシング事業はかなり危ういですよ。昔懐かしいリストラの嵐が再来する可能性も言及されていますよね。そうなると、そのお年で就職するまでの道のりは、相当厳しいものになるはずです」柳場が人形のようなぎこちない動作で、隣の李に顔を向けた。
「尊教純法の教団職員として、この先、日本から世界へ拡大していく尊教を支えていただきたい。いろいろなことによく気がつくあなたなら出来ますよ。これが今回の一件を白紙に戻す条件といたしましょうか」
 四人の男から視線を刺される下半身裸の柳場は、母親に背中をさすられながらしゃくり上げるだけだった。そのまま、一分ほどの時間が流れた。
 「何でもする、とおっしゃいましたよね。一度口に出したことは覆さない、それは男ならなおさら、子供の頃から教育づけなくちゃいけないことだと思います。そのお年でそれが出来ないというのはどうかと、私は思いますよ。尊教帰依の誓い、この時に読み上げた文面は覚えておいでのはずですよね。尊魂大本尊、大法裁様の心命には服して従い、破法の場合、いかなる罰の下しも受け入れることを約します、とね」柳場は力なく頭を垂れた。
 「証文はなくても、口約束だって重いものですよ。法徒であるなら。それより前に、男なら」頭上から注ぐ李の言葉に、柳場は屈したように頷き、はい、と返した。
 「では、仮内定といたしましょう。詳しくは、後日また話し合うということで。安定しますよ。これからの世の中を尻目に、勝ち組に上がれます。この節は、どうぞよろしくお願いいたしますよ。それじゃ、また後日に連絡いたしますが、親子でどこへ逃げようが、こちらはすぐに探し出せるものと思っていて下さいね。たとえ山で乞食をしていても、ですよ。河原乞食に混じって暮らしていても、見つけ出しますから‥」無表情の中に爬虫の眼を輝かせた李が、ゆっくりと肺腑に割り込む剃刀の声を降らせて踵を玄関方向へ向けると、鋏を畳に投げた行川、氏名不詳の男が続いた。村瀬だけが畳に革靴の底を着けたまま立っていた。
 李が若干の疑問を込め、行川が変わらない射遣る目で村瀬を見、氏名不詳は振り返ることなく、広背筋の載った大きな背中を向けている。
 村瀬の「もう一言」の要請を無言のうちに呑んだと見えた。
 「直君に乱暴するのは、もうやめて」母親は先と同じことを村瀬に言ったが、村瀬は応えず、窓側の小さな箪笥の上に、書類ケースと並んで無造作に置かれたシェーバーに似たハンディな機器に目を留めていた。箪笥に寄り、手に取って見たそれはバリカンだったが、柳場の家が理髪店を生業としていたかまでは分からない。
 村瀬はバリカンを片手に、母親の前にしゃがんだ。母親は涙に頬を光らせた顔で村瀬を見た。これから村瀬の行おうとしていることが分かりながら、抵抗の気配がない。
 スイッチをオンにすると、飛行機のプロペラ回転によく似た音を立てて刃が振動を始めた。村瀬は片手に、胡麻塩色をした母親の髪を握った。
 「可愛い、可愛いって頬ずりして飯だけ食わして、金と物を与えて、図体と自意識だけ大きく養育した息子に一度でも教えたことがあるのか。倫理っていうものを」村瀬の囁きかけに、母親は答え返さなかった。
 村瀬は母親の頭の中央にバリカンの刃を、力任せに押すようにして滑らせた。削がれた前髪と後ろ髪が厚い束になって、ばらばらと落ちた。次に左側頭部、それが終わると右を刈った。畳の上と手の甲、ズボンの上に落ちていく白い髪を見ていると、禊、という言葉が思い浮かんだ。
 瞬く間に、年老いた尼僧のような白い五分刈りの頭になった母親は、落とされた自分の髪が散らばる畳に両掌を着いて、畳に額を当てるようにうなだれた。その姿には、どうにもしようのないことに打ちひしがれる人間の哀悲が沈殿している。
 母親の髪を落とし、立って柳場に向き直った村瀬は、「へ」の字に開いた口からチアノーゼのような声を流している柳場の耳を掴み、右額上からバリカンの刃を突っ込んだ。こちらは縦、横とラフに刃を落とした。たちまち、濃い部分と薄い箇所が混在する、いわゆる「斑禿げ」の坊主刈りが出来上がった。
 「立てよ」バリカンを置いた村瀬は言い、咽び続ける柳場の耳を上に引いて立たせた。
 「俺がお前から受けた痛みは、もう充分に返したよ。これはお前と、お前の仲間が組み敷いて心身を嬲り回して、悔しさと悲しさを胸にしまい込んで自殺した、俺の知らない女の子の痛みだ!」黒革手の村瀬の拳が、アーチを描くように振り上げられた。
 流星のような軌道を描いた拳は、柳場の鼻頭、上唇の位置に打ち下ろされた。前歯が二本、内側へ折れる感触を、村瀬は革手袋越しに覚えた。村瀬は、折れた歯と血を振り撒いた柳場が後頭部から畳に落ちるのを見ると、母親に体を向けた。母親は上体を立たせ、自失呆然となった顔を村瀬に向けている。
 「これは、こういう馬鹿を無駄に産んで、責任をもって育てなかったことのつけだ。この馬鹿がしでかしたこともろとも、思い知れ!」村瀬は母親の薄い胸を踵で蹴った。母親はぎゃっと叫んで背中から倒れた。
 柳場は下半身裸の体を海老反りにし、目を剥いて、鼻と口からこんこんと血を噴いている。村瀬は革靴の踵を柳場の胸に載せた。
 「これからお前が行く世界は、お前の命が消えるまで終わらない地獄だ。甘やかしを受けた自覚もないお前はその地獄で、毎日毎晩、じわじわと炎に焼かれながら裸踊りを披露して、そこの獄卒達の嬲りものになるんだ。お前がどれだけ泣き叫んで助けを乞うても、その叫びは誰にも、どこへも届きはしないんだ。これはお前が自分の想念から自分の身を導いた世界だ。その世界の底の、そのまた底に堕ちて、償い続けろ。命があるうちにその償いが終わるかどうかは、お前の心次第だ。お前のな」これまでの人生で誰にも言ったことのない、そればかりか思ったことさえない言葉を、村瀬は自分の踵に体を留められている柳場に落とした。その言葉は、他人が発したもののように、村瀬の頭の中に響いた。
 村瀬が柳場の胸から踵を離すと、頭を五分刈りに刈られた母親が、斑の坊主頭にされた息子の君づけ名前を呼んで、呻く息子に取りすがった。刈り落とされた髪がそうめんのように撒かれた居間で、息子の頬を両掌に持ち、名前を呼び続ける母親と、血濡れの顔で天井を仰いでいる柳場を睥睨してから前に視線を戻すと、李と氏名不詳者が、成績優秀な児童の通信簿を書き終えたあとの教諭を思わせる顔で村瀬を見ており、行川は、村瀬を昏睡させた昨夜から変わらない目で、彼を射り続けていた。その行川の目には、村瀬の行いなどを感慨する色はなかった。あるものは、村瀬には窺い知れない何かへと向いた、強靭な意志のようなものだけだった。
 閉店して久しい商店前に来た時、ベートーヴェンの「喜びの歌」の着信音が鳴った。それは氏名不詳男の懐から響いていた。
 「はい、平」男がスマホを耳にあてがい、名乗ったことで、小山のような体を持つこの男の名前が分かった。
 通話口からは、低いぼそぼそ口調の男の声がかすかに漏れて聞こえるが、「横戸だ」という言葉が聞き取れた。
 「分かった‥」平という氏名が判明した男は、スマホの画面を見ながら通話終了ボタンを押し、李に寄った。
 「海老原(えびはら)の親父と息子、飛ぼうとしてたらしいです。千葉駅にいるところを波島(なみしま)と中尾(なかお)が柄押さえて、横戸のコンテナにさらってます」「そうか。そいつは太え了見だ。これはいっちょきついのぶっ込む必要あんな。八千代からまた予定変更だ。すぐ行くぞ」平の報告を受けた李は、運転者の男が開けたドアから助手席に乗り込んだ。
「村瀬さん。急ですみませんが、一件増えましてね。こちらもご同行いただいてもよろしいでしょうか。こちらは基本、見学のようなものになります。勿論、お付き合いいただいた分は上乗せいたしますので、お願いしますよ」動き出した車の中で、李は村瀬を振り返って言ったが、村瀬は無言を貫いた。
菜実を形に取られたことで、認めなくてはいけなくなった、自分の多面の中にいた羅刹。だが、自分の中に溢れ出したそれを、もう自分で止める術がなくなっていることを、村瀬は感じていた。次に自分は、どんな相手に向かって何を行うのだろう。それを考えた時、自分ではっきりと愉悦のものだと分かる感情が涌き出していることも、村瀬の思考は認めていた。それを別の心が嫌悪し、必死に否定しようとするが、もがけばもがくほど、それが存在を主張する。
 「連絡を無視して逃げるっていう行いが、私は一番赦せないんですよ」車は、来た道を戻る方向を走っていた。李の顔はフロントガラスのほうを向いているが、言葉つきで、村瀬に語りかけていることが分かる。
 「確かに向こうの態度にはよりますけれど、こちらは話し合って、場合ってものを弁えた上で、好意、気持ちでもって、支払額を軽減したり、事情のいかんでは0円にしたりするほうへ話を進める準備をして出向くわけです。それをこちらがちゃんと話した上で分かっていて、とんずらかますなんてことは、相手が私達であろうがなかろうが、大人としてあるまじきことじゃないですか。そんなわけで、今から控えてる用件は、そういうけじめのない人間に対して、びしっとお灸を据えることですので、村瀬さんからも愛のある雷でも一発落としてくれることを期待していますよ。さっきの柳場の野郎も、村瀬さんのあれがかなり効いたと思いますから‥」言った李の語尾には、撫でるような冷笑が含まれた。
 横戸という地区は、時々民家の灯りが遠くに見え、月明りを鈍重にはね返す淀んだ花見川の支流に沿って、花の落ちた桜の木が密集する小高い丘林がどこまでとなく続いている。何を祀っているのか、草むらの中に三つの赤い鳥居が立ち、支流沿いには、だいぶ以前の年代のものと分かる車が焼けて棄てられている。
 雑草群に左右を挟まれた細い道を進むと、丘状になっている盛り上がりの上に、大きさ的に4tトラックのものらしいコンテナが不法廃棄されて載っており、リンカーンコンチネンタルはその下の芝の上に乗り上げて停まった。
 村瀬とともに降りた他三人の足取りには急ぎが見られた。土の盛り上がりを登ると、平が留めのレバーを外し、扉を開けた。平を先頭に、李、行川、最後尾に村瀬の順でコンテナに踏み入った。
 ソケットサイズの大きな業務用電灯に煌々と照らされたコンテナの中には、四人の男がいた。うち二人は、靴下だけを着けた全裸に剥かれ、一人が後ろに手を回されて立たされ、もう一人が床面に転がされて、腹を踏みつけられている。その二人の傍には、二つのリュックサック他、何点かの袋に入った荷物が置かれ、割れた黒縁の眼鏡が落ち、脱がされた服が散らばっている。
 親父と息子、と平が言っていたが、立たされているほうが息子で、床面に転がり、体を留められているのが父親であることが、見た目の年齢感で分かる。頭髪がだいぶ落ちた頭をし、小太りの体をした六十代の父親の顔にはすでに殴打を受けた跡が見え、息子は目尻が下がり、唇のぽっかりと開いた怯えた顔で、床の父親を見ていた。
 息子はだいたい三十半ばから四十前後のようだが、髪は白いものが目立ち、水分に乏しく乾いた質感のある皺ばんだ灰色の肌には染みが浮いていた。身長は小柄で、体つきから筋力的な非力さが分かる。
 それを見た村瀬は、冷えた鉄分が全身の血管に浸透していく感覚を覚えた。
 この父子を憐れむ気持ちはない。俺は天に宣誓した。いかなる拷問や凌辱に関わることも辞さないと。全ては菜実のためだ。
 父子を捕らえている二人の男が頭を下げると、李は「ご苦労‥」と言って、立たされている息子と、床で腹を踏まれている父親を順番に見た。
 「あなた達のことを、こちらは手弁当で張ってました。もっと上手なとんずらのやり方がありそうなものだと思いますが、親子揃って仕事に就くたびに職場を追われて、保険税は滞納で役所の未納者リストに名前が張り出されて、そんな暮らしをしながら店屋物ばっかり食ってるあなた達じゃ無理もないですね」李の落とす言葉に、髪の量が寂しい父親は、目立った反応を返さなかった。李を見上げる目と顔つきを見ると、今、自分が息子と一緒に置かれている状況さえも分かっているかも疑わしい。
 「ずっと世の中が甘いと思ってきたあなた達に、今から行う問い質しは甘くないですよ。話し合いにちゃんと応じていただけたなら、あなた達の現状に合った支払いのプランをこちらも考えてやることが出来たんです。それを生返事でかわして、しまいに逃げるなんて、一番怒りを買う方法を取ったわけですよ。相手が私達であろうがなかろうがね。さあ、息子さんが払い渋って、溜まりに溜まった、未払いの月串が五百万、布施が三百万で合計八百万、どうされますか?」
 息子が村瀬のほうへ顔を向けた。ガーゼと絆創膏で傷を手当てした顔だが、確かに、李や行川その他比較すると人相は優しく写るようで、村瀬に助けを求める目をしていた。
 村瀬は、その目を冷酷に見つめ返した。自分はお前の味方では断じてない、という諭しの念を送ったつもりだったが、それでも優しく見えるだろう。李や行川の放つものは、一夜二夜のうちに身に着けることは、望んだところで叶うものではない。少なくとも、半世紀近くの時間を要して作ってきた、小心でお人好しな自己の本質と、体に流れる血の筋では。
 「おい、この馬鹿禿げ眼鏡」悪罵を床の父親に投げたのは、息子の体を固めている上背のある男だった。
「お前がだんまり決め込めば決め込むほど、親子でどんどん惨たらしい目に遭う時間が伸びんだよ。金策はどうする気なんだ」男の問いに、父親は答えなかった。
父親の腹を踏んでいた男は、踵をその顔に移し、頭部を踏みしだき始めた。父親は小さな傷をいくつも作った顔を罰悪げに歪めただけだった。
どちらの男も、価格的に値の張らないスーツを着、髪も地味だが、顔つきは町中の風景にはそぐわない曲者のそれで、目の放つ光、目の配り方、常に有事に構えた体恰好が、一般と呼ばれる世界から浮いていると感じられる。
「海老原さん。こんな薄暗くて寒くて、時間も分からない所に、息子さんともどもいつまでもいたくはないはずですよね。我々も出来ればこんな怖い所には長時間いたくはないし、こんな七面倒なことはやりたくはなかったんですよ。思いつく限りのことでいいので、金策をどうお考えになっているのかをお話し下さいよ。でないと、私達も帰ろうにも帰れなくて困ってしまうんですよ。あなた達のために、すでにかなりの時間と労力を持っていかれていますので。どうするかをここでお答えするだけでいいんですよ。どうされるおつもりですか?」
李の問いは、父親が理解するには抽象度が高すぎるのだろうと村瀬には思えた。父親は男の一人に顔に頭に踵を載せられながら、体裁の悪い顔をしているだけだった。李は息子にちらりと目を馳せた。
「頭洗えよ、歯ぁ磨けよ、宿題やったか、また来週、じゃねえ。駄目だ、こりゃあ、だ。おい、この辺できついの一本ぶっ込め」李が茶化しと嘆きを入り交ぜて命じ、「ここらで一興でもいい‥」と付け加えた。
「じゃあ、一興にしますよ、マネージャー」父親の頭を踏んでいた男が薄笑いを浮かべて言い、頭から足をどけた。その意味がもう一人の男に伝わったらしく、その男は息子の膝裏を自分の膝で押して座らせた。一興という言葉の意味を、その息子が知っているかは分からない。だが、これから自分達父子が暴力づくで強いられることが分かったらしい息子が、醜鼻の拷問を前にした悲鳴を上げた。その目は村瀬を見ていた。冷たい目を作ったはずだが、その目はまだ村瀬に「助けて!」と叫んでいた。
向かいの男が、おら、という小声の言葉を発して、父親の耳を持って立たせた。反対側の男が息子の髪を掴んだ。父親の萎えた陰茎が息子の顔の前に来た。
「しゃぶってやれよ。お前の母ちゃんが男んとこに逃げてから、この親父、やってねえんだよ。お前が母ちゃんの代わりになって、気持ちよくしてやれよ。今回はこんな風に親を巻き込んで親不孝したんだからな、お前に出来る孝行するんだよ」男は陶酔した声で言って、息子の髪を上に強く引いた。
「やだよ‥」息子は声を詰まらせて、涙を頬に伝わせた。「おめえが嫌だってんなら、親父にやってもらうぞ」向かいの男が言い、父親の耳から手を離した。
「馬鹿禿げ眼鏡、逃げたかあちゃんに毎晩やってたことを、今から息子に存分やれよ。手ぇ抜かねえでしっかりやりゃ、支払いの減額と猶予が出来っかもしんねえぞ。もっともこれも、マネージャーが何と言うかによるけどな」男が父親の背中を押した。
父親が表情に乏しい顔のまま、息子の肩を抱いて、胸筋のない胸に舌を這わせ、陰茎を掌に包んだ。息子はコンテナの天井を見上げ、大きく口を開け、涙と唾液を噴き出させて号泣した。
「嫌だ! やだよ! やめて!」息子の振り絞る泣き声がコンテナの四面にくぐもって反響した。息子の細く小さな体が、父親の体に押されて床に倒された。父親の唇に、息子の泣き声が塞がれた。父親の手が、息子の陰茎を掴んで上下に擦り上げていた。
「けつにぶっ込め」男の一人が言うと、もう一人が低く潰した笑いを撒いた。「おら、舐めが足りねえよ。もっと気ぃ入れてやれよ」男が父親の背中を踏んだ。折り重なった父子に、二人の男の笑いが降った。
床の上に重なった、二つの男の体。片方は命じられるがままに、実の子供である同性の体を手と口で愛撫し、もう片方は、それを体に受けることを余儀なくされている。
父親は、強迫に対して反射的な反応しか返せない。論理的な抗弁も、肉体的な実力で守りを作動させることも出来ないため、敵わない相手には言いなりという手段で身を守る。だから、相手が同性か異性か、肉親か他人かを問わない畜生道の沼にも身を沈める。
圧し重なり蠢く、二つの男の肉体。自分達が抗いようのない力を持った者達から強いられた地獄。この父親は、抗えないのではなく、抗うという意識を知らない。ちょうど、菜実が怒りを知らないように。息子は、その親からの自立を阻まれてきた。おそらく、親子で福祉支援に繋がることもなく。父親は、自分達のような人間を助けるそういったものがあることすら知らないのかもしれない。
ひび割れた鏡に映るようなその狂景を身じろぎもせずに見ていた村瀬が感じたものは、この父子への同情ではなかった。この父子を、全身の産毛さえ総毛立ちさせる行為へ追い立てた、生育、その背後の環境、囲むものの全てに向いた怒りを、胃腸の内容物を逆流させるようなえずきとともに覚えていた。その怒りは、行為が進むごとにより、ぎゃあ! という聞こえで激しくなる息子の泣き声を聞き、勃起した父親の性器を見た時、村瀬の中で天を突いた。その怒りは、「菜実のためにどこまでも冷酷に、人例研究部の一員として機能する」と村瀬が自分に契ったことを、村瀬の中で音を立てて瓦解させた。
「やめろ!」村瀬は叫んでいた。
その言葉は、我が身を慮るばかりに人間としての見境を喪失した父親と、その父子を慰みにする二人の「人例研究」構成員の両方へ向いたものだったが、父親へのものとしての比重が大きかったように自分には思えた。
李が村瀬に向き直り、針の目を丸めた。行川と平も同時に反応し、村瀬を見た。行川は村瀬を目で射り立てた。平の顔には村瀬への重い威圧の気がある。李の面持ちには、疑問を問う色があった。
波島と中尾という氏名を聞く二人は、ちらりと村瀬を見たが、息子を犯す父親と、父親に体を貪られる息子の軽度知的障害の父子にすぐに視線を戻し、嚇しと囃しの言葉を浴びせ、踏みと蹴りで父子をいたぶり続けている。
「やめろ、とは何でしょうか」李が訊いた。「これが人間のすることか! お前ら、それでも人間か!」村瀬は李と、波島と中尾の両方を見て怒りの声を発した。
「おい! こんなことはやめろ!」村瀬は父親に呼びかけた。父親はその声が聞こえているかも分からない様相で、嫌だ! という言葉だけを連呼して泣き叫ぶ息子にのしかかり、行為を続けている。
「うるせえ。余計こいてっとてめえも承知しねえぞ。黙ってろ、この外様野郎」父親の背中を踏んでいる、波島か中尾か分からない男の一人が村瀬を見て言い、父親の尻を蹴った。
「そんなことが、よくあなたに言えたものですよね。今からたったの四十分ほど前に、ご自分がやってのけたことの非人道さ加減をもうお忘れですか。逆に訊きますよ。八十近いお婆さんの頭をバリカンで丸坊主にして、蹴りを入れるという行いも、人間のすることでしょうか。それは私が指示したことではなく、あなたがご自分の意思で行ったことじゃないんですか」言葉に詰まった村瀬の目が行った先では、父親が上で息子が床に敷かれ、互いの性器を口で愛撫する体位を取らされている。父親は息子の陰茎を口に含み、息子は涙と唾液に歪んで開いた口に、男の一人に頭を押さえつけられて父親の性器を咥えさせられ、塞がれた喉から泣き声を上げていた。それが村瀬の中に、生理的な嫌悪を越えて、抜け殻の目と顔をした父親以上に、息子への憐憫を覚えさせていた。立場というところで、菜実と同然の親子だった。
村瀬は、その地獄の光景に足を進めた。自分が目の前の父子をどうにか出来るか否やかは考えになかったが、力づくでやめさせるつもりだった。
そこへ行川が瞬間のうちにするりと移動し、波島、中尾と海老原親子と村瀬の間を遮蔽して立ち塞がった。程よい角度の斜め構えで、上体を軽く屈め、軽く拳を握った腕を垂らしたノーガードだった。
村瀬も中段に拳を構えた左前の猫足を取った。村瀬には分からない目的を「の」の字の目に光らせた視線と、心の恐怖を意志の力で封じた憤怒の目が、正面からかち合った。昨日と同じように立てなくされることは分かっているが、そんな結果などは念頭外だった。
「痛いよ! やめて! お父さん、痛いよぉ!」腹這いに姿勢を組み換えられた後ろの息子が阿鼻の叫びを上げた。行川の背後で、頭と背中を押さえつけられ、頬を床に押し当てられたた息子の肛門を父親が貫いていることが分かった。二人の男が音程を沈めた笑いを落とした。
「どけよ、この糞外道野郎‥」村瀬がこれまで誰にも用いたことのない潰れた声で唸ると、行川が紺のB―1ジャンパーの裾を鳴らしてアップライトの構えを取って、タップを踏み始めた。村瀬もフルコンタクト寄りの、顔の前に両拳を掲げた構えを作り、行川がレンジを詰めてくるタイミングを計った。余裕では、昨日と同じく行川が村瀬を一方的に圧倒している。行川のタップと、断頭される子羊を思わせる海老原の息子の悲鳴が重なった。村瀬は、放出口を求めるマグマのように煮えたぎる怒りの中、自分がこの愛らしい「の」の字の目をした男に若干、興味に近い感情を抱き始めていることにも気がつきかけていた。言うまでもなく、立場は敵だ。その興味のようなものが何を根源に涌きつつあるか、強いて言えば、相手はプロあるいはプロ級のセミプロ、自分はペーパー初段を長らくやりながら、今回、窮鼠となってビギナーズラックの火事場力を発揮した身という違いこそはあるにせよ、あくまで格闘家としてのリスペクトかもしれない。行川の眼は、李のような粘って絡む爬虫のものでもなく、感情、衝動が赴くままに場当たりの犯罪行為を繰り返すチンピラやストリート・ギャングの類いが持つそれでもない。そればかりか、ある種、真摯と呼んでもいい眼差しをしている。人生を真剣に生きる、真面目な青年のものだ。
射精した父親が息子の背中に伏してもたれた。息子は床に顔を着け、歯の浮くような呻きを這わせ、それを凍えた鳥のような細い泣き声に変えた。睨み合う村瀬と行川の後ろに、父親の脂ぎった吐息と、息子が言葉を失って哭く声が這った。それを波島と中尾の高い笑いが押し包んだ。
この老人のような肌をした、繰り上がりの計算が出来ず、握力が左右ともに二十にも満たないはずの男が純法の女に手を出した動機が、村瀬の胸に痛みをともなって届いていた。これまでの人生の道筋で、どれだけ切に人並みに金を稼ぎ出すこと、理想に合った恋愛、婚姻の相手という普通を自分に望んだのだろう。学校、職場などあらゆる行き先で歪な心を持つ者達から悪意の対象にされてきた彼は、普通の恋愛を求めることで、自分を普通に近づけようとした。それに慎ましやかな希望を繋ごうとしたのだ。
だが、どこのどの神も仏も、罪などないはずの彼が念じていた切な願いに応えることはなく、そればかりか、終わりの見えない奈落へ身と心を引いて落とした。それは村瀬が愛する菜実も同じだ。その思いを新たにした時、村瀬は自分の憤りが、可視出来ない八方界有縁無縁の果てにまで広がる感覚を覚えた。その憤りと怒りは、自分がそれを投げかけた世界の縁に、弱い曳航のように虚しく消されていった。
息子の肛門から陰茎を抜いた父親は、村瀬に尻を向け、自分の股間に手をやっている。右肩の動作で、自分の陰茎をまだ擦っていることが分かった。
「次はてめえだ。うちの鳳凰法徒にやってもらってたこと、この禿げ眼鏡にやるんだよ。挿れっとこは違えけどな、しっかりこの変態禿げ親父を、女みてえによがらせろよ。そんで、俺らをもっと愉しませろよ」男の一人が息子の脇を抱えて引っ立たせた。息子の体が父親の体に投げ出された。父親は先から変わらず、感情の有無が見えない。村瀬は行川と戦意の目線を交換しながら、この父親が、遠い高校生の日にバイト先を同じくした少年、手繋ぎ式で三番目に組んだ、ゆき、と名乗った卵のような女の子に極めて近いらしいという察しを持った。
「おい、この辺で終わりにしろ」平とともに、村瀬と行川の睨み合いを監督する目で見ていた李が、波島と中尾に声を投げた。同時に、村瀬と行川は、どちらからともなく、ゆっくりと腕を降ろし、構えを解いたが、互いの瞳孔にばちつく火花は消えなかった。
「家まで送り届けて、今夜から三日ぐらい、弁当とか麺買って、不寝番立てて泊り込め。頭数はもう一人送り込む。こいつらにはこれ以上物を訊いたとこで無駄だ。金はあのカードでなんちゃらとかの、クレジットカードを作らせて、ショッピング枠の現金化が出来るとことか、質とか、生ポも焦げもOKの貸金屋に連れてって、足しになる分を三日以内に作らせろ。不足額は、あとから考えてお前らに指示する」李は二人を見回し、命を浴びせた。
二人の男からは返事らしいものはないが、逆らう術もない相手への絶対的な従属がはっきりと態度に見えている。
「鳳凰以上の特級法徒の自覚を持って、人例の綱領、肚に叩き込み直して、食ってる飯の元取るだけの仕事をしろ。人例にゃただ飯はねえんだ。見てっからな。お前らがぬるい仕事してたり、どこかに裏から手ぇ回すような妙な動きしてることが分かったら、眠るように死ねることはねえってことを、肝に銘じとけ。これは難しいことじゃねえ。食ってる飯の分だけ、きっちり仕事すりゃいいだけの話だ」李の言葉には逆らい難い魄が籠っているが、村瀬はその言葉に、李が何かに焦っているらしいことも窺い知った思いもした。
「行くぞ。時間が押してっからな」呟くように言って、コンテナ扉に体を向けた李の隣に行川が小さな体を並べ、その後ろに平が続いた。
村瀬がコンテナの中を見ると、波島か、中尾か分からない、村瀬を「外様野郎」と罵った男が、不満と、腹の一物を含んだ顔で、遠くを見る視線をどこへともなく馳せていた。もう一人は、場違いな人間を見る目で村瀬を見ている。父親は、たとえるところ「白紙」のような目をあらぬ空間に投げて、何事もなかったように座り込み、息子は突っ伏して、背中を震わせて、消え入るような声を絞って泣いていた。
彼の精神は、これから壊れていく。もう、元に戻ることはない。その中で、恐ろしい内容を持つ債務を親子で背負い、犯罪の手業を持つ人間達に囲われて生きることになる。回収不能の分は、命で支払うことになる。福祉の目が届かない闇に生まれ、育ち、その闇から抜け出す術を取り上げられた軽度知的障害者の現実、その一環。
許してくれ。お前がどんな地獄にいても、俺はお前と一緒に泣いてやることは出来ない。お前を助けてやることも出来ない。俺が助けてやれるのは、この世で唯の一人の人だけなんだ。同じハンデを持つ人でも。
 村瀬は可能な限りの誠実さを通した念を、真の孤独、孤立の人生の中で、おぞましい凌辱で受けた痛みに泣く息子に送り、李達三人のあとに続いた。
車は国道から市境を越え、千葉から成田街道に入り、薬園台方向へ進んだ。車内では、李も他の人間もみんな無言だった。大手乳製品メーカーの工場、その他の小さな店舗が窓外を通り過ぎ、新聞販売店の角を曲った。両脇に五階建の公団が見えてきた。リンカーンコンチネンタルは緩くカーブした車道を道なりに曲がって進み、小学校と公団に挟まれる道に入り、停車した。
最後に降り立った村瀬は、この公団が手紙による美咲の住所であることと、先日およそ二十年ぶりに見かけた美咲が、酒缶のぎっしり詰まった袋を提げてこの道に消え入ったことを思い出した。手前の棟前に立った時、李が棟の窓を見上げた。灯りが点いているかを確認するためだろう。
運転手の男を残し、手前の棟の二つ目の階段を、李、トランクを持った平、行川に続いて上がった。村瀬は階段を踏みながら、まさか、という予感を覚えながら、まさか、に過ぎないと打ち消そうとした。だが、今日は、昔の時分に自分をいじめた人間と邂逅と呼んでもいい再会をした。こういうことがこの世にはあるものであるという奇を、村瀬は今日の日に経験している。導かれた。約一ヶ月前の電話で、美咲は「学んでいる」と言ったが、それが何かは村瀬は訊かなかった。予感は、ひたと足音を立てて村瀬の胸に忍び寄っていた。
五階まで上がり、ネームプレートに住人名が記されていない部屋のチャイムを李が押した。ドアの隅には、米粒と海老の尻尾がへばりついた黒い漆塗りの重箱と、うどんか蕎麦の丼が置いてある。インターホンからの返答はない。時間を置いて、もう一度鳴らし、ノックを三回した。
「作山(さくやま)さん‥」李が住人の名前を呼んだ時、予感が的中したことが分かった。それでも自分がぶれることはない。今日、自分は宗教社団・尊教純法の人例研究企画部の人間としてここに来たまでであり、行うことは未納金の回収だけだ。
「作山さん。退会金のことで相談に上がりました。電話にもお出にならないのでね。開けて下さいよ。長居はしませんし、お茶も出さなくて結構ですから。居留守などを使うと、かえって不安が増すと思いますよ」李が重いドアの向こうへ声を送った。
それから一分ほど経って、内鍵を外す音がした。その音にはためらいが出ていた。
人の頭一つ分にドアが開き、女が顔を出した。女の髪は狂女のように乱れ、その前髪には白髪が浮き、左目の周りには青々とした痣が出来、ぽっかりと半開きになった唇は所々が切れ、そこからは歯の欠損した歯列が覗く。
「こんばんは、作山さん。出ていただいてよかったです。お話に応じてくれるということですね。以前にもお話させていただいたように、未払いなどが続くと、違約金が発生して支払いに上乗せされる制度の造りをしているものでね」李の話を流すように、元妻の美咲が村瀬の顔を見ていた。その表情は、ぽかんとしたものから、徐々に驚きの顔に変わった。
「豊文さん‥」窮状と、暮らしの荒みがありありと出ている美咲が元の夫の名を呼んだ時、李の顔にも驚きが浮かんだ。
「お知り合いで。それとも‥」李が問うた。「私の夫だった人です」「ほう、そうなんですか」美咲の答えに、李が声に一層の驚きを滲ませた。
「驚くべき偶然が重なるものですね。まあ、いいでしょう。ご夫婦の関係というものは、互いの親兄弟筋との関わりなどもあって、一筋縄ではいかないものです。ご事情はおありだったことと思いますが、時間の経過のいかんで冷静なお話が出来るようになることもあります。ここは一つ、今日は元の旦那さんと奥さんで、お話が円滑に進んで解決に持ってけるよう協力し合うのもいいでしょうね」李が述べると、美咲は重い手つきでドアを全開にした。服装は、薄手のクリーム色をしたウールのセーターに、黒のロングスカートという他所から帰ってきたばかりのような服装で、時間のわりにまだ入浴をしていないらしいことが分った。奥からは、テレビゲームの音声が聞こえてくる。
入った2DKの部屋には、住んでいる人間の荒みが露骨に出ていた。壁には土竜の巣のような穴が至る所に開き、襖は切り裂かれ、破れたカーテンがレールから柳のように下がり、割れた窓ガラスが修繕されることなく放置されている。シンクには調味料類をべったりと着けた食器が山積みになり、三角コーナーには何日分もの生ゴミが溜まって饐えた臭いを放ち、何匹もの肥えた蠅が羽音を立てて飛び交っていた。床には食べ糟や丸まったティッシュなどの紙辺が散乱し、女の住む部屋とはとても思えない。
テーブルには数本の発泡酒の500mℓ缶が並び、食い散らかしたチーズ、ピスタチオ、サラミなどのつまみが皿から、灰皿からは吸い殻がこぼれている。ゲームの音楽、効果音は、ドア脇の部屋から流れている。テレビは消えていた。床を見ると、「所轄の裁判所に」「法的措置を」と赤い文字で書かれた何かの警告状が何枚も落ちていた。
村瀬は、あらかじめ分かってはいたことながら、今の美咲を囲んでいる惨状の一切を改めて理解した。
美咲は四つある椅子の一つに座ると、憔悴しきった顔で、テーブルの発泡酒を呷り始めた。行川、平が玄関側に立ち、李が美咲の正面に立っていた。やがて李は、ジャケットの懐から一枚の請求書を出し、発泡酒の缶とつまみが乱れるテーブルに載せ、美咲の前に進めた。
「残りは、あと、ざっとこれだけです」李が進めた請求書には、十万円の金額が走り書きされている。
「五十万円のうち、四十万はもういただきましたので、きちんとお支払いになるご意思があるのであれば、この半額に減額することも考えてもいいですが、いかがいたしますか?」「もう、ないんです‥」「もう少し倹約をされれば、五万なんてすぐに残せますよ」「でも‥」暴力の痕跡を顔に残す美咲は口ごもった。村瀬も、同じく行川によって負った傷が刻まれた顔で美咲を見つめた。
「いいですか、作山さん。私は今、四十二で、もうじき三になりますが、あなたは私の四つ上でしょう。課税世帯の個人が何かを利用する際には、基本的にチャリティはないんですよ。これはある程度の年齢を重ねた個人の、責任の問題なんですよ。それを、こんな量のお酒を毎日朝から飲まれて、店屋物なんか食べて、これだけエンゲル係数を消費して、ない、なんて言い草は、それこそないんです。エンゲルの贅沢だけでなく、パチンコ、パチスロもおやりだそうじゃないですか。村瀬さん、元のご主人として、何か言って差し上げることはないんですか?」李は村瀬に苦笑の顔を向けた。
美咲が子供を放置して、酒と煙草、ギャンブルに溺れていることなどに、村瀬には何も言うことなどはない。すでに戸籍上でも心の面でも他人となっている以上、こんなものはこの女の権利に基づいた勝手でしかない。その勝手で障害者を蔑み、あの喫茶レストランであの母娘を公然と罵り嚇した。綺麗な花を指差して糞だと言い、糞を見て花だと言い張って一歩も退かない精神。これもこの女の勝手だ。今さら、誰かがこの女をどうにかしようとしてもどうなるものでもない。
暴力傷の顔をした元夫が、自分が手を出した反社会宗教団体であり、宗教を隠れ蓑にした凶悪な犯罪組織の取り立て屋に加わって、今日の日に自分の許へやってきたことに、美咲はどんな思いをもっているのか。何百分の一という確率をかいくぐった偶然に過ぎないと思うのか。それとも、何か人智の知れないものが書き込んだシンクロニシティに導かれたと、美咲なりに思っているのか。それは美咲の心の中にしかない。
力無い目を左右にさまよわせて発泡酒を口に運ぶ美咲を無言で見据える村瀬の耳に、襖の開く音が入り、リビングの入口に人が立った。
立っているのは、肩口まで伸びたぼさぼさの髪に、小太りの体をしたジャージ姿の若者だった。それが別れた時には五歳だった長男の博人(ひろと)であることは、顔をよく見ずとも村瀬には分かった。
村瀬と視線を交えた博人の目に、ごく小さな驚きの色が浮いた。李達はこれまで何度もこの家に来ているはずだが、十年以上連絡が断たれ、会っていなかった父親が、何故この男達と一緒に来ているのかは、彼には純粋に分からないことだろう。
博人はしばらく父を慕う情と、少しの抗議の色を込めた目で村瀬を見ていたが、やがて顔を伏せて部屋へ引っ込んだ。丸めた背中に、諦めが見えた。それが逆に、父親である村瀬への何かの訴えが見て取れた。
離婚届に捺印して八木ケ谷の家を出た時には自ら封じた、我が子への愛しさが胸に涌き出してきた村瀬は、部屋まで博人を追おうと思った。だが、その思いを殺し、それを思い留まったわけは、今日、この夜の自分が、基本、情などを介在させない取り立て屋に過ぎないことを自覚したからに他ならなかったからだった。
「あまりのみすぼらしい様子に、元の旦那さんは言葉がないようです」李は言って、次の句を次いだ。
「娘さん、息子さんが働いていないという現状を慮れば、確かにこちらもあまりの無理は言えないと言えますが、合ったやり口はあるはずです。そこでそれなら一万円を五回払いというのはいかがでしょうか。それなら、さほどの無理はないと思うのですが、いかがいたしますか。これが私どもの可能な限りの妥協ですよ」「無理です。もう払えないんです。家賃も、もう何ヶ月分も溜めてるんです。光熱費も‥」「ですから、先程も言ったように、倹約の心がけで払えるようになりますよ」「無理なんです」「‥無理、無理って言ってさえいりゃ、それが通るようには世の中は出来ちゃいないんですよ、作山さん」李が冷たい迫力を声に込めた時、玄関ドアの開閉音が聞こえた。
どかどかと踏み鳴らす足音がし、テーブル前に体つきで女と分かる人間が立った。女は剃り上げた頭に黒のニット、耳と小鼻に玉状のピアスを光らせ、旧い自衛隊を思い出させるカーキ色の戦闘服めいた上下に、その下に着たアウターのフードを出して背中に垂らした着こなしの姿をしている。戦闘服染みた上着の盛り上がった胸には、血で染め抜いたような大きな鉤十字のブローチ、その上には「osean patriot union tokyobase」という金の文字が刺繍されていた。
女は、娘の恵梨香だった。目鼻立ちには幼い頃の面影確かで、女としての発育のいい体つきをしている。その眼は、常に消えることのない炎のような憎しみを瞳孔の底から光らせていた。
恵梨香は、李、行川、平をさっと掃いて見てから、村瀬と視線を合わせた。かすかな驚きをその目に浮かべてから、その色を軽蔑のものに変え、目を背けた。
「お帰りなさい‥」恵梨香は李の言葉を無視するように、酒缶を手に項を垂れる美咲に寄って、掌を上にした手を差し出した。
「おい、婆あ」用件は仕草で分かる。
「お金は、こないだあげた五千円で最後よ」美咲がうなだれたまま言うと、恵梨香は顔に怒りを満ちさせた。鬼面の形相だった。
「何で私にくれる金がなくて、お前が酒飲んで、出前の天丼だの寿司だの食う金はあんだよ」「だから、それは‥」「あるとこ知ってんだよ」
恵梨香はキッチンの、調理器具を収納する棚の扉を開け、大小のフライパンや鍋を出して並べ、奥に手を突っ込んで、二枚のテープが貼られた茶封筒を取り出した。
「やめて! そのお金は債務返済のお金なの!」美咲は尻で椅子を倒して立ち、恵梨香にすがりついた。
「ふざけんじゃねえよ!」振り上げられた恵梨香の拳が、美咲の頬を直撃した。美咲の体が薙がれるようにして倒れ、キッチン床に打ちつけられた背中と後頭部が鈍い音を立てて弾んだ。
「これまで散々、自分のことばっかり可愛がりやがってよ! 親じゃねえんだよ、てめえなんかよ! 自業自得なんだよ!」ふんだんに殺気の籠った怒号とともに、美咲の子宮の辺りを狙った蹴りが、擦過音と肉を打つ音を入り交ぜて、二発入った。美咲は呻いて、床の上で体を丸めた。
李と平は、それに介する様子もなく、自分達にとり日常以下のものを見る目で、その光景を据えて見ていた。その中で、行川が蔑視のもののような目を向けていると感じているのは、村瀬には気のせいではないように思えた。
行川が村瀬を見た。眦の据わった「の」の字の目が、村瀬に何かを促していると思えた。自業自得、で括られた恵梨香の言うことが「言い捨て妙」の具合に腑に落ち、肚を決しつつあった村瀬に。
床に倒れた美咲の前に立つ恵梨香に、村瀬は歩み寄った。
「何だよ」恵梨香は反り返って凄み、十五年ぶりに対面した実父を睨み上げた。その時、恵梨香の頬が、湿った鋭い破裂音を立てた。充分に体重を乗せた村瀬の右の掌底が打ち込まれたのだった。
恵梨香は「ぐっ」と啼いて吹き飛んだ。ベランダドアの曇りガラスに背中が打ちつけられ、けたたましい音が鳴った。テープの貼られた茶封筒は、その瞬間、恵梨香の手を離れて、はらりと床に落ちた。
博人のプレイするゲームのリズミカルな音楽と、敵のモンスターが勇者の剣で斬り立てられる効果音は、このリビングで行われていることなど他所事のように流れ続けている。それが村瀬の胸に贖罪の念と悲しみを起こしていた。その時、村瀬の耳は、ほう、と感嘆する李の小さな声を拾っていた。
村瀬は恵梨香の手から落ちた封筒を床から拾い、指で中の紙幣の端を引き出し、枚数を勘定した。請求額ぴったりの十万円が揃っているのを確認し、平に差し出した。平は無表情にそれをもう一度数え直すと、「ちょうどです」と李に報告し、李が頷いてから、床に置いたトランクをぱちりと開き、金を収納した。
「大丈夫ですか?」数秒ののち、李は声をかけて、美咲の上体を抱え起こした。李に介助されて体を起こした美咲は、床に手を着いて、投げやりな目を床に這わせた。
恵梨香はドアガラスに背中を預けたまま、頬を押さえて、苦い顔をしている。
「覚えてろよ。このあとがぜってえあっかんな、てめえ‥」恵梨香は呻きを交えて、大人の人間なら通常、親などにはよほどのことがない限り浴びせることはない低い啖呵を、村瀬の背中に投げかけた。村瀬がそれに振り返ると、肚からの憎しみが煮える眼が村瀬に向いていた。
「これで支払いは完了となります」李の落とす声に、美咲は顔を上げなかった。その顔には、一件の債務を支払い終えたという安心感は見えず、これからも毎日毎夜、自分の身を揉み、斬るだろう不幸へのなす術のない怯えだけが漂っている。
「後日、退会届の用紙を送付いたしますので、ご記名の上、本部宛てにお送り下さい。まあ、先程も元旦那さんともお話していたことですが、合う合わないは人それぞれです。今回の件も、作山さんご自身が、やってみた上で結論を出したことだということで、やめることについてはこちらがどうのと言えるものではありませんから。月串や布施の捻出ではだいぶ金融に頼られたようですが、法的処置というものもありますので、自己破産をされて身軽になる、などもご検討されてはいかがでしょうか」
李の声は、村瀬の右耳から左へ流れた。世の中、社会のなるように、なるべきの答えがあった。離婚後のこの世帯のことは、美咲からの手紙を受け取るまで時折想像するしかなかった。それが元妻の手紙と自分からかけた電話、娘の手紙により、呈している状態が薄々どころかはっきりと分かり、それを今日、確認することになった。
「以上です。これでもう我々が来ることも、電話をすることもありません」李は言い、抜けた腰を立たせようと跪いている恵梨香に、それとなく目をやった。行川が堅く口を閉じ、言葉を発さないことも変わらない。美咲は座り込んだきりだった。
「頑張って下さいね。再婚などのつてを見つける場所は、何もうちだけとは限りませんのでね」李は皮肉の混じった励ましを美咲にかけ、玄関に向かった。村瀬は平、行川とは距離を取って、最後尾に続いた。
肩越しに見た恵梨香は、ガスレンジに手を着いて体勢を直そうとしていたが、その目には、存在確かな悲しみが見えた。
植木に沿った小道に停車したリンカーンコンチネンタルの助手席の扉を、李を乗せるべく平が開けた時、村瀬を追った美咲が暗がりに湧くように現れた。
「豊文さん、お願い‥」行川に続いてリアシートに乗り込もうとした村瀬に、美咲が語勢の弱い声の言葉を発した。
「電話で言ったはずだ。俺は君に金の援助をする気もなければ、変な男が足しげく出入りすることになるような復縁もする気は一切ない」村瀬は一ヶ月前と同じように、毅を込めた答えを返した。
「そもそも俺とよりを戻したい気持ちがあったなら、何故こんなものに手を出したんだ。それが君に答えられるか」村瀬の核心を突いた問いを受けた美咲は、棒立ちに立ったまましゃくり上げ始めた。
「復縁も、お金もいいの‥」涙と鼻水で、美咲の顔が光り出した。
「私の家と子供がどうなってるか、さっき見たでしょう! もうずっと何年も、私、毎日が地獄なの! 逃げたくても逃げられないの! 何回も死のうと思ったけど、死ねなかったの! こんな毎日がこの先一生続くなんて耐えられない! だから、恵梨香と博人を何とかして! お願いよ! 私を助けてよ!」美咲は口から唾液を振り撒いて叫んだ。
運転席の男、すでに助手席に乗った李、村瀬の後ろに立つ平、リアシートの行川が、このやり取りをどう聞き、何を思っているかは、数日前からの関わりでおおかた分かるように思える。どういう結びをするかはともかくとして、強いてこの話を比較的真面目に聞く人間がいるとすれば、それは行川だけだろう。
「今の君が地獄にいるなら、何が君をそこへ導いたのか、君は考えることが出来るか」村瀬は声のトーンをより低く絞った。
「俺は忘れもしない。どんなに忘れたくても忘れることが出来ない。お互い大学の頃に二人で入った、今は多分もうないだろう、本千葉のレストランで、お母さんと一緒に客として来ていた知的障害者の女の人に浴びせた言葉だ。覚えてる限りでいいから、それを再現して言ってみろ。見ると目が腐るって言ったことを覚えてるか。それとももう忘れたか」
美咲は泣き続けているが、自分が恐怖と悲しみを与えたあのカレーの女の子と、障害を持つ娘を庇おうにも、派手な見た目と立つ口上を持つ若い女怖さに俯くことしか出来なかった母親に詫びる語句は出ない。
これがそもそもの、この女の程度であり、棲む次元だ。村瀬は今になり、また改めて判定した。
「消えない傷と苦痛を負わせた人に、謝る心もないのか。それを反省する気持ちもないのか。そんなことじゃ当たり前だ。子供がまともに育たないのは」
エンジンが始動した。美咲は村瀬の腕にすがり、「お願い!」と言って、泣き声を激しくした。
 「恵梨香が今やってることは強盗と同じだ。君はどうしようもなく愚かだけど、本来、こういう場合は警察や法律家に相談するぐらいの知恵はあるはずだ。前から言ってるように、俺は君を助けない。今の俺が助けようとしてるのは、IQは君よりも低いけど、人間性じゃまず君なんかに負けてない、たった一人の人なんだ。今の君の状況は、君自身の心が呼び込んだものなんだ。今の君が棲んでる地獄は、君が自分で切符を買って、引導を渡して流れ着いた地獄なんだよ。ここに来る前も、同じような奴と会ってきたよ」村瀬は自分の腕から美咲の手を振り払った。それを美咲がまた掴み、村瀬がまた振り払うということを何度か繰り返した。
 「君が自分で何とかするんだ。もしも君が、弱い立場の人達を蔑むような見方をやめて、それを反省して、あのお母さんと娘さんみたいな人達の身になる考え方が出来るようになった時、やっと初めて救いの手が来るか来ないかのはずなんだ。これをよく覚えておけ」村瀬が残してルーフを潜ると、美咲は車の中に腕を伸ばして、上着の裾を掴んだ。泣き方は、親と引き離される幼女のようなものになっていた。その手を平が掴み、離し、美咲を押しのけた。押しのけられた美咲は膝を着いた。
 平が乗り、リアドアが閉められた。車が走り出し、ごくわずかな憐みを持ってバックドアガラスから美咲を見ると、彼女は石畳の上に突っ伏し、路面を搔いていた。辛く、痛ましい姿だったが、村瀬は非情さをもう一度胸に留め、フロントガラスに目を戻した。
「これで終わりです。ありがとうございました。ご苦労様でした‥」習志野方面へ進む車の中で、李が礼と労いを述べた。「ピンチヒッターの立場ではありましたが、人例企画部の一員としていかんなく機能していました。最後は元の奥様の所でしたが、私も舌を巻く鮮やかさでしたね。あの十万の回収は、人例にとって貴重で大きいものでした。本当によくやってくれました」李の口ぶりは上機嫌のものだった。村瀬は三時間半前に迎えが来た時から一貫して、李の言葉かけには無言を決め込んでいる。
 東習志野には二十分ほどで着いた。つい昨日の夕方、李が差し向けた凶器の男二人を村瀬が倒し、行川が彼を叩きのめして昏倒させた家前の小道にリンカーンコンチネンタルが入った時、李が平を振り返り、「渡せ」という声を投げた。
 平が懐から、薄くない封筒を出し、村瀬に差し出した。
「これが今日の報酬です。栄ちゃんが五十人いますので、お確かめ下さい」李が助手席から村瀬を見て言ったが、村瀬は、平が差し出した封筒を、手首で跳ね除けた。平の顎に孤拳を打ち上げる勢いだった。
李が発し、行川がそれを補強する、不穏と呼べる空気が、リンカーンコンチネンタルの車内に立ち籠り、数十秒が経過した。その沈黙を苦笑で破ったのは、李だった。
 「しまえ、平。拒んでるもんを無理強いすることもねえ‥」李が語尾をフェイドさせるように言うと、平はゆっくりと封筒を引っ込めた。 
「これで、うちと池内さんは今日から関係ありません。あなたが、こちらの要請に協力してくれた以上はね。彼女の退会金は、あなたの働きと相殺になります」李の言葉は、吐息とともに押し出された。
「よく協力して下さいました。報酬をお受け取りにならないのは何というか不思議ですが、本当に感謝に堪えませんよ。どうぞ、お家の前です。足許にお気をつけてお帰り下さい」李が言うと、平がリアドアの鍵を開けて降りた。村瀬は李の語りかけを無視して車を降りた。
その際、行川を見ると、彼は伸ばした片方の脚に手を添え、フロントガラスの向こうに広がる夜の実籾の街の一角を、何かを考え詰める顔で射っていた。
リンカーンコンチネンタルに背を向けて、家の玄関に歩きかけた時、助手席のウインドウが降りる音を聞き、村瀬さん、と呼ぶ声が背中を打った。
「とんでもない間違いだよ」肩から横目を送る村瀬に、ウインドウから鼻までの顔を出した李が、聞いただけでは言わんの分からない言葉を述べた。
その意味を怪しむ村瀬の顔を見、李は爬虫の眼を底からぎらつかせて、丹田から押し出すような声で笑った。
「あんたは、長い間、自分で自分に、自分は優しい人間だと言い聞かせて、時に無理やり自分を納得させてきたはずだ。だけど、そのあんたは、夜叉にも羅刹にも劣らない恐ろしい極悪人なんだよ。柳場の家であれをやった時、あんたの眉は動いてはいなかったよ。それも初々しいぎこちなさがなくて、なかなか年季が入ってた。これがあんたって人間の本質なんだよ。受け入れろよ、村瀬さん」これまでの敬語を外し、研ぎ澄まされた剃刀の刃を腸に落とす声で李が言い、スモークシールドのウインドウが上がり、閉まった。
走り去るリンカーンコンチネンタルを横目で見送りながら、柳場の前歯を折った時、その母親の頭にバリカンの刃を当てて押した時の感覚、落ちて撒かれる白い髪を思い出した。靴下だけの全裸に剥かれ、力で押され、崩れ重なる父子の体のめくるめく色合、その吐息と唾液の光、高空で唸る低気圧のような息子の泣き声。娘の拳が、母親である元妻の肉を打ち、蹴りが腹を抉る音、全てを諦めきって、投げて、娘の恫喝と暴力、経済搾取を受け入れている元妻の、何かへの気力の一切を喪くした顔。
今日の日、この夜に村瀬が身を潜らせた世界。平和を望む人の誰もが存在から目を背ける、六道の底の辺。その底で、自分は、本性に立ち返ったのか、それとも自分をその空の赤黒い彩に染めたか。
自分一人では正解を導き出しようのないことを心に問うた時、黒い革手の拳が無意識のうちに握り締められた。李から突きつけられ、自分の心に目を馳せる時には認めなくてはいけなくなる、現実的事実の握り潰しを試みるように。
バリカンの音、スイッチの入ったそれが振動し、あの母親の頭に滑った感覚が手に、その薄い胸を蹴った時の音が足に蘇った時、これを為した体に菜実を抱けるのか、という自分への思い質しが浮かんだ。空には、血の色をした満月がぬめって輝いていた。それは昨夜に自分が流した血であり、今日に見た柳場の血であり、海老原の息子が心と、実の父親の陰茎を捻じ込まれた肛門から溢れさせた血だった。
だが、菜実はその村瀬を受け入れるだろう。それは彼女が、自分を罵倒し、石を投げつけ、汚物を投げ、唾を吐きかけ、棒で打つ人間達に「あなた達も仏になる資格を持っています」と、救われの道を優しく解き、礼拝する人だからだ。村瀬だけではなく、李のような、金を生み出す悪の算盤を脳に常備した人間や、行川のような、それこそ「目的を遂行するためにはガキも殺す」と思える男や、吉富のような屑、柳場のような蛆虫にさえも。
体とともに疲労した頭にそれが挿した時、昨日と今日に自分の身が、毎日毎分、社会の一角から呻きと悲哭を撒く現世の地獄に沈んだ意味を、村瀬は見出した。
自分が提示した条件を村瀬がクリアした以上、李らは確かに一度、菜実の脱会を認めて手を引き、彼らの気配が村瀬と菜実に寄ることは、あくまでしばらくはないだろう。だが、その撤収は形だけで、いくらか時間が経過する頃、別の話を持ってやってくることはおおいに考えられる。
箍(たが)を外すことなく、菜実のいる生活に帰ろうと思った。時刻は十時前だった。血の満月を、薄紫の平たい雲群が掠め、流れていた。
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