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第3部 - 第3章 勤労令嬢と……

第25話 不完全な人間

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「目を閉じるな、ジリアン」

 ジリアンが振り返ると、そこにはオニール氏が立っていた。眉をしかめて、ジリアンと同じ景色を見つめているらしい。

 オニール氏がジリアンの方に一歩を踏み出すと、ジリアンの肩がビクリと震えた。
 恐れからだ。
 幼少期に彼から受けた暴力、投げつけられた暴言……。数々の残酷な仕打ちは、彼女の本能に刻まれている。

「ごめんなさい」

 思わず謝ったジリアンに、オニール氏が苦笑いを浮かべた。彼女の当たり前の反応に胸を痛めた、自分に向けられた嘲笑でもあったかもしれない。
 だがそれも一瞬のことで、彼の表情はすぐにしかめ面に戻された。

「目を逸らすな。あれが、お前の欲望だ」

 ジリアンは目を開いて、もう一度オニール氏が指差した方を見た。そこには、笑顔を浮かべる大好きな人々。

「……お前は、不完全な人間だ」

 オニール氏が言った。

「心の中の本当の深いところでは、自分ではない誰かの幸せを願うことしかできない。自分の幸せを願うことができない。それは、人間としてあまりにも不完全だ」

 ジリアンは思わず唇を噛んだ。

「誰のせいで……!」

 そうだ。彼が言ったのだ。『自分のためではなく、人のために働け。でなければ、お前に存在価値はない』と。
 働いて、人の役に立つ。それだけが、ジリアンにとっての人間の価値だったのだ。

「あなたが、言ったんじゃない!」

 叫ぶジリアンの声が震える。

「それなのに不完全だと言うの? あなたが、そうなれと言ったのに!」

 オニール氏は応えなかった。ジリアンと揃いの藍色の瞳が、ただただじっと彼女を見つめている。

「どうして、今更になって私を助けたの!」

 ジリアンの瞳に涙が滲む。彼のことが、彼の気持ちが、分からないのだ。

「どうして私を愛してくれなかったの……!」

 とうとう、ジリアンの瞳から涙がこぼれ落ちた。

「私は、あなたに愛されたかったのに!」

 ジリアンの見ていた景色が消えて、今度は2人にとって懐かしい場所が映し出された。オニール男爵家の屋敷だ。暖かい暖炉の前で、ジリアンと異母姉のモニカが笑っている。その様子を、オニール氏とその夫人が優しい瞳で見つめていて。

 ジリアンにはわかった。

(これは、の欲望だ……!)

 次いで湧き上がってきた感情は、怒りなのか悲しみなのか。もはや本人にすら分からなかった。

「……私だって、あなたに愛されたかった!」

 幻影の中で、オニール氏が幼いジリアンの頭を優しく撫でる。幼い少女が嬉しそうに微笑むのを見て、また涙が溢れた。

「仕事を頑張って偉いねって、褒めて欲しかったのに!」

 なぜ、そうしてくれなかったのか。彼女の心の叫びに、幻影が震えてそしてかき消えた。

「……すまなかった」

 全てが消えてしまった暗闇の中で、ポツリとこぼれた声。
 ジリアンが顔を向けると、そこには今にも消えてしまいそうなほど儚い影を背負ったオニール氏がいて。

「許さなくていい。私は、本当に酷いことを……」
「そうじゃない!」

 今度は無意識の内に駆け出していた。震える両手で、同じように震える彼の両手をすくい取った。しばらくそうしていると、震えが消えた。次いで伝わってきたのは、温もりだった。

(ああ。もっと早く、こうしていれば)

 2人の人生は、また違ったのかもしれない。

(でも、今が全てよ)

 今、2人はこうして暗闇の中に立っている。それが全てで、それに向き合わなければならないのだ。

「……私が向き合わなければならないのは、あんな幻影なんかじゃない」

 オニール氏が目を見開いて、そして泣き笑いを浮かべる。ジリアンも同じように、涙をこらえて微笑んだ。

「教えて。本当のことを」

 わずかな沈黙の後、オニール氏が小さく頷いた。唇が震えて、そしてようやく口が開く。その様子を、ジリアンはつぶさに見つめた。何一つ取りこぼさないように。

「お前に辛い運命を背負わせたくなかった」

 オニール氏の喉が震えて、声が絞り出される。

「家のために尽くすことが全てだと教えれば、ずっと側にいられると思った」

 続きを促すように、ジリアンはその手をぎゅっと握りしめた。

「だが、本当は恐かっただけだ。お前と一緒に運命に立ち向かう勇気を持てなかった。だから、マクリーン侯爵がお前を迎えに来た時、……ホッとしたんだ」

 ポタリとこぼれた涙と一緒に彼が吐き出したもの。それは弱さだ。ジリアン自分の娘に曝け出すのには、勇気が必要だっただろう。

「……ありがとう」

 ジリアンの声に、オニール氏が顔を上げる。藍色の瞳が揺れている。まるで迷子の子供が母親に縋るように。

「私を守ってくれて、ありがとう」

 おためごかしではない、心からの気持ちだった。方法は間違っていた。彼がジリアンを家に縛り付けようとしてしたことは、彼女の心に深い傷を残したから。

 それでも。

「私は幸せよ。あなたの教えのおかげだわ」

 彼の教えが、今のジリアンを作ったのだ。

「誰かのために働くこと。それが私の価値。……私は今でもそう思ってるし、そんな私を皆が愛してくれてるの」

 自分のことを上手く愛せないジリアンのことを、それでも愛していると言ってくれる人がいる。

「だから、ありがとう」

 辛かった過去は消せない。これからも、心の中に深く刻まれた傷を抱えて生きていかなければならない。だが、それすらも愛しいと思える日が来るだろう。

「……そうか」

 オニール氏の肩から力が抜けた。まるで憑き物が落ちたかのような穏やかな表情を浮かべて、ジリアンを見つめる。

「うん。私は、不完全なままでいい」

 ジリアンの心も軽くなった。誰もが可哀想だと言ったあの頃の自分を、どうしても嫌いになれなかった。それでもいいと思えた。ようやく、自分が自分になれたような気さえした。

 2人の視線がパチリと合った。

 微笑むジリアンに、オニール氏が不器用な笑みを浮かべた。



 ──ィィィィン。

 そんな2人を遮ったのは、わずかに聞こえてきた残響音だった。

「なに?」
「……時間がないな」

 オニール氏が小さく舌を打ってから、ジリアンの手を引いた。

「『欲望』の最後の抵抗だ。大きく膨らんで、お前たちを飲み込もうとしている」
「それじゃあ、どうして私は無事なの?」
「それのおかげだろうな」
「え?」

 オニール氏が指差したのは、ジリアンのポケットだ。布地の上からも、わずかに光っていることがわかる。そのポケットに入っているのは……。

「涙の宝石……!?」

 ハワード・キーツの最期に流したジリアンの涙が姿を変えた宝石だ。ポケットから取り出すと、ほのかな熱とともに温かな光を放っていた。

「私の魂は『欲望』に飲み込まれて消えかけていた。その宝石が、それを癒したのだろう」

 話している内に、宝石の光が小さくなっていく。

「……お別れだ、ジリアン」

 オニール氏の姿が、じわりと闇に溶け始めた。

「そんな!」

 思わず握った手が、すり抜ける。

「私は許されないことをした。お前にだけではない。モニカにも、妻にも。そして、多くの人にも」
「でも……!」
「私はお前のおかげで救われた。……だから、頼んだぞ」

 闇に消える瞬間、オニール氏が優しく微笑んだのがわかった。

「どうか、を救い出してくれ」




 * * *




「ジリアン!」

 次に目を開くと、そこには愛しい人の金の瞳があった。

「アレン」

 轟々と音を立てて渦巻く暗闇の中、今度こそ2人は強く手を握りあった。

「あの人に……お父様に会えたわ」

 とっさに誰のことなのか分かったのだろう。アレンは、ぎゅっと眉を寄せた。

「そうか。ちゃんと話せたのか?」
「うん」
「よかった」
「うん……!」

 真っ黒な渦がどんどん大きくなっていく。オニール氏が言った通り、『欲望』が最後の抵抗を見せているのだ。

「アレン、鍵を」
「ああ」

 アレンが左手に『ソロモンの鍵』を持った。その手にジリアンが右手を重ねる。その薬指には『ソロモンの指輪』が光る。

「海の底に沈んだ『欲望』を……、全ての魂を救う」

 2人は、心からそれを願った。
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