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2.王太子と王太子妃

2.後ろ向きな覚悟(ハロルド)△

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 見るともなしに寝台の天蓋をぼんやりと眺めるうち、右横から聞こえていた大きな呼吸も徐々に小さくなる。室内を支配するのがいつも通りの静けさになったところで遠慮がちな声がした。

「……ねえ、ハロルド」

 マリッサが身を起こす気配を感じ、ハロルドは咄嗟に彼女へ背を向ける。

「疲れたよね。もう休もう、マリッサ」
「え?」

 背中越しでも彼女の戸惑いは如実に伝わってきた。それも当然だろう。話を遮っただけでなく、まるで拒絶するかのように背を向けられれば。

「……ええ。そうね」

 それでも悄然とした声のマリッサは、ハロルドの真意を問い質すことなく続きの言葉を飲み込んで黙った。
 足元にまとめられていた毛布をハロルドにかけると、そのまま横になったらしい。彼女の小さな寝息が耳に届く頃にほっと息を吐き、同時にハロルドは罪悪感に苛まれる。

(今回も、マリッサだけじゃ駄目だった……)

 妻を抱いた後だけでなく、抱いている最中でさえ必要とするのはいつもあの1夜のことだ。あれがなければ達することはおろか勃つことすらできない。だというのに、逆にあの夜の記憶さえあればハロルドのものは見る間に熱を帯びる。

 ――例えば、妻に対して申し訳なく思っているこんな時でさえも。

 吐精したばかりだというのに肉の棒はもう大きくなっている。思い出に浸りながら手で包むと快感で体中が震えた。マリッサの小さな呼吸はもう聞こえない。耳の奥で響くのは、誰憚ることなくクレアがあげた嬌声だけだ。なるべく静かに呼吸を繰り返しながらハロルドの心は6年前へ戻る。

(クレア……!)

 思い出の中の女性が高い声をあげて果てると同時にハロルドも果てる。そっと起き上がって近くの台から取った布で拭き、ふと振り返ると、月明かりに照らされる妻の肩は規則的に上下していた。彼女は夫の行為に気付くことなく、深い眠りの中にいるようだ。その眠りは果たして幸福なものだろうか。

(……マリッサ……)

 マリッサはハロルドとも親しくしようといろいろな心配りをしてくれる。それらすべてを煩わしく感じてしまうのはハロルドのせいだ。彼女は何ひとつとして悪くない。

 確かに濃い色の肌も、月の輝きのような銀の髪もこの地では珍しい。初めて彼女を見る人々は好奇の目を向けたが、ハロルドにとってそれらの特徴はむしろ歓迎するべき事だった。何しろ肌は抜けるような白でも、髪は晴れた日のような金でもない。誰かとは似ても似つかない。
 ただ、最後のひとつがどうしても受け入れられなかった。

 マリッサの瞳の色は青かった。
 憧れの女性と同じ、青い青い空の色をしていたのだ。

 この国ではよくある色だが、マリッサの生まれた国で青の瞳というのは特別なものらしい。そのおかげで小さなこの国に大国の王女が嫁いでくれたとは事前に知らされていたし、絵姿を見て覚悟もしていた。しかしいざ会ってみるとどうしても駄目だった。

 クレアではない者がクレアと同じ色の瞳を持ち、クレアと同じようにハロルドを映す。そんな日々が続いてしまえばハロルドはいつか、仄かな明かりの下で輝いていたあの瞳のことを忘れるかもしれない。

 あれはハロルドにとってかけがえのないものだ。ふたりきりの部屋の中、互いの瞳に互いだけを映した、一生にたった一度だけ巡ってきた至福の時間。最初で最後の、最高の思い出。――それが、失われてしまう。

(嫌だ!)

 恐怖にかられたハロルドは、思わず顔を横に向けてしまった。
 頬を染めて笑顔を浮かべる花嫁が、会ったばかりの花婿に顔を背けられてどんな気持ちになるのか。隣国の王女に対して王太子が取ったこの行動を周囲がどうとらえるのか。何ひとつ考えずに。

 失態にはすぐ気付き、慌てて「あまりに美しい花嫁を見て恥ずかしくなりました」との取り繕いを述べて誤魔化したものの、以降もハロルドは一度としてマリッサの顔を見られていない。

 夜の営みものときもそうだ。愛撫はするが、顔を見ないようにするため挿れるのは必ず後背位。しかも顔をみないよう、口付けはまだ一度もしていない。

 マリッサはそのことをどう考えているのだろうか。ハロルドが時々口にする「女性に慣れていないから恥ずかしくて」という下手な言い訳を今も信じてくれているのだろうか。

(……本当にごめん、マリッサ……)

 もちろん、いつまでも誤魔化し続けられるものではない。公式の場以外では理由をつけて妻と会わないハロルドに対し、周囲も少しずつ不審感を募らせてきているようだ。先日はついに母である王妃から探りを入れられてしまった。何とかしなくてはいけないとは分かっている。分かってはいるのだ。

 深く息を吐き、ハロルドは窓の外に広がる夜空へ顔を向ける。クレアの髪のような昼の日差しも、瞳のような青い空も、今は見えない。
 代わって輝くマリッサの髪のような冴え冴えとした月を眺めながら、ハロルドはもう一度ため息を吐く。

 ハロルドが自身に複雑な感情を抱いていると分かっているのだろうか、マリッサは一度としてハロルドの部屋へ訪ねてこない。
 だからといって無視をするでもなく、ハロルドの身を気遣う手紙や細々とした品を送るなどして気を使ってくれている。
 5日ごとの逢瀬でもいつも優しく接してくれ、マリッサに仕える者たちもハロルドが過ごしやすいよう配慮をしてくれる。これは主人であるマリッサが侍女たちの前で負の感情を吐露しておらず、ハロルドをきちんと持て成すよう言い含めている証拠だろう。

 こんな良い女性をいつまでも受け入れられないのは、さすがに申し訳がない。

 ――今更ではあるけれど、明日から少しずつマリッサの気持ちに報いてみようか。

 あの日伝えられなかったクレアへの思いは今でもハロルドの胸の奥で燻り続けているが、どんなに焦がれても手に入らない女性をいつまでも想っていても仕方がないのだから。
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