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3.思い出す痛み
3-⑤
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美奈子はものわかりがよかった。部活のことを一度も訊いてはこなかったし、俺が恋人らしく振る舞わないことにも、不満を漏らしたりはしなかった。そんな美奈子のことをほんとうはどう思っているか、自分でもよくわからなかった。
雪が降って、まるで花が咲いているときのように桜並木に積もっていった。その桜が並ぶ公園を見ながら、いつものように手をつないで歩いていた。やわらかくて、あったかくて、すべすべしていた美奈子の手のひらが、冷たくかさついているように感じる。きっと冬のせいだろう。女子の肌は男とは比べ物にならないくらい繊細なのだ。
――いつものように、というのは間違いかもしれない。なにかが普段とはちがうと、感覚が訴えている。でもどうしてそう思うのか、俺にはわからない。
雪が積もって、街のなかを走ることは難しくなっていた。雪を消すために道路から流される水が雪のなかに溜まって、飛び越えることもできないくらいの水たまりを作り出している。そんな場所を走ると、靴が濡れて、足先が氷みたいに冷たくなった。走ることができなくなると、俺は傍目から見てわかるくらいに機嫌が悪くなる。
陸上部の連中はいまごろ、ほとんど走れないまま屋内で筋肉をつけるために強化練習を行っているはずだ。強化練習は苦手だった。身体のなかから湧き出る衝動を、走ること以外で克服することはできない。思うように走れない毎日に、俺はいらだっていた。
「明くん」
帰り道で美奈子が口を開くのはめずらしかった。なにも話さないでいることが俺たちのあたりまえで、それを不快に思ったことはなかったし、ましてや変えようと思ったことなんて一度もなかったのに。
街灯に照らされて光る桜の木の影が、美奈子の顔に落ちる。暗がりのなかで見ているからだろうか。その横顔は、どこか元気がないように見えた。
明くん、ともう一度美奈子が俺の名前を呼んだ。その声が震えていることには、鈍い俺でも気がついた。暗い表情とその声に、嫌な胸騒ぎがする。
ふわふわと落ちてきた雪のかけらが、俺のまつげについた。ぼんやりとする視界を払うために手をあげようとして、今日感じていた違和感の理由に気づく。美奈子に触れている手が左腕なのだ。いつも右側にいた彼女が、いま、俺の左側にいる。
自然と足が止まって、美奈子がつないだ手をぎゅっと握った。力強い手のひらに怯む。ひゅっと息を吸った音が鳴って、反動で吐いた息が白いもやになって宙を漂った。無言の空間が、ふたりの呼吸と、遠くから聞こえる車のエンジン音だけで埋められる。
「……ううん、なんでもない」
うつむいていた美奈子が、首を振ったあといつも見せているような笑顔で言った。間違った、と直感でわかる。俺はいま、とるべき態度を間違った。
「ここでだいじょうぶだよ」
ありがとう、またね、そう言って細い手が離れていく。水っぽい雪をブーツで踏みしめながら、小走りで去っていく背中は、これまで見たどのときよりちいさかった。
今日は年内最後の登校日だった。午前中には始業式をして、リュックには二学期の通知表が入っている。年が明けて新学期になれば美奈子に会える。そのときに話を聞いてやろうと自分で自分を納得させた。
でも新学期、美奈子は学校にこなかった。
雪が降って、まるで花が咲いているときのように桜並木に積もっていった。その桜が並ぶ公園を見ながら、いつものように手をつないで歩いていた。やわらかくて、あったかくて、すべすべしていた美奈子の手のひらが、冷たくかさついているように感じる。きっと冬のせいだろう。女子の肌は男とは比べ物にならないくらい繊細なのだ。
――いつものように、というのは間違いかもしれない。なにかが普段とはちがうと、感覚が訴えている。でもどうしてそう思うのか、俺にはわからない。
雪が積もって、街のなかを走ることは難しくなっていた。雪を消すために道路から流される水が雪のなかに溜まって、飛び越えることもできないくらいの水たまりを作り出している。そんな場所を走ると、靴が濡れて、足先が氷みたいに冷たくなった。走ることができなくなると、俺は傍目から見てわかるくらいに機嫌が悪くなる。
陸上部の連中はいまごろ、ほとんど走れないまま屋内で筋肉をつけるために強化練習を行っているはずだ。強化練習は苦手だった。身体のなかから湧き出る衝動を、走ること以外で克服することはできない。思うように走れない毎日に、俺はいらだっていた。
「明くん」
帰り道で美奈子が口を開くのはめずらしかった。なにも話さないでいることが俺たちのあたりまえで、それを不快に思ったことはなかったし、ましてや変えようと思ったことなんて一度もなかったのに。
街灯に照らされて光る桜の木の影が、美奈子の顔に落ちる。暗がりのなかで見ているからだろうか。その横顔は、どこか元気がないように見えた。
明くん、ともう一度美奈子が俺の名前を呼んだ。その声が震えていることには、鈍い俺でも気がついた。暗い表情とその声に、嫌な胸騒ぎがする。
ふわふわと落ちてきた雪のかけらが、俺のまつげについた。ぼんやりとする視界を払うために手をあげようとして、今日感じていた違和感の理由に気づく。美奈子に触れている手が左腕なのだ。いつも右側にいた彼女が、いま、俺の左側にいる。
自然と足が止まって、美奈子がつないだ手をぎゅっと握った。力強い手のひらに怯む。ひゅっと息を吸った音が鳴って、反動で吐いた息が白いもやになって宙を漂った。無言の空間が、ふたりの呼吸と、遠くから聞こえる車のエンジン音だけで埋められる。
「……ううん、なんでもない」
うつむいていた美奈子が、首を振ったあといつも見せているような笑顔で言った。間違った、と直感でわかる。俺はいま、とるべき態度を間違った。
「ここでだいじょうぶだよ」
ありがとう、またね、そう言って細い手が離れていく。水っぽい雪をブーツで踏みしめながら、小走りで去っていく背中は、これまで見たどのときよりちいさかった。
今日は年内最後の登校日だった。午前中には始業式をして、リュックには二学期の通知表が入っている。年が明けて新学期になれば美奈子に会える。そのときに話を聞いてやろうと自分で自分を納得させた。
でも新学期、美奈子は学校にこなかった。
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