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テオさんからの提案

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このパン生地と同じものが発酵部屋に入っていてそろそろ焼く工程に入るらしい。

たしかに発酵には時間がかかる。
さっきのはテオさんと折原さんにパン生地を作る工程を見せるために同じものを用意していたんだ。

僕たちは作業場隣の部屋へと案内され、そこで帽子や白衣などを脱いだ。

工場内の温度はその作業レーンの内容にもよるけれど、概ね20℃前後で空調管理されていて暑いというほどではない。

ただ、マスクや帽子など完全防備スタイルだから、脱いだ時の爽快感は半端ない気がする。

僕もテオさんたちもみんな白衣を脱いだ時に、ふぅと声が出てしまったのは同じ気持ちだったんだろう。

「そろそろ焼き上がってきたパンをお持ちします」

そう言って長谷川さんは足早に工場へと戻っていった。

その間に、部下さんたちが僕たちにアイスティーを入れて渡してくれた。

パンに合う紅茶なんだろうけど、渇いた喉をスッキリさせてくれて本当に美味しい。

しばらく待つと、長谷川さんはトレイにいくつかのパンを乗せて戻ってきた。
長谷川さんの後ろにはあと2人ついてきている。

長谷川さんは緊張した面持ちで持っていたトレイをテオさんの前に置き、続けて折原さんと僕の前にも置いてくれた。

目の前のパンは食パン、デニッシュ、そしてライ麦パンの3種類。
そのどれからも湯気が立っている。

「わぁっ、美味しそう!」

思わず出してしまった声を聞かれて、テオさんと折原さん、そして長谷川さんにもクスリと笑われてしまったけれど、さっきの緊張感溢れる場が少し和んだようだったから、それはそれで良かったのかな。

僕はライ麦パンは最後にしようと、まず食パンを試食した。

上から力を入れると食パンは綺麗にふたつに裂け、中はふわふわでもっちりとした生地が現れた。
思わずスンスンと匂いを嗅ぐと、香ばしい小麦粉本来の香りが漂ってきた。

うん、いい匂い。

柔らかいのにしっとりとしていてパクリと口に入れると、ほのかな甘みが感じられた。

何かをつけるために作られた食パンではなく、この食パン自身が主役で何も付けなくても十分美味しい。
このパンに問題があるとすれば、【Cheminée en chocolat】のチョコレートと合わさった時、どちらも引き立て合うことができるかということだろうなぁ。

僕は次にデニッシュに手を伸ばした。

バターが何層にも織り込まれ、サクサクに焼かれたデニッシュは元々ジャムやチョコレートなどを一緒に食べると相性がいいパンだよね。
さっきの食パンと比べるなら、断然こっちの方が【Cheminée en chocolat】のチョコレートとのコラボはぴったりだろうな。

フェリーチェのデニッシュは店頭で販売する状態、つまりこの焼き立ての状態でなくてもトースターで焼けば焼きたてのようなサクサクとした食感が戻るというのも売りのひとつだし、これなら【Cheminée en chocolat】のチョコレートとコラボしても素晴らしいものができると思うな。

最後にライ麦パンを手に取った。
ずっしりとした重さが当時を思い出す。
もちろんあの時はチョコレートも入っていたからもう少し重かったのだけど、今まで試食した柔らかなパンと比べると圧倒的にしっかりとした生地だ。

パンをちぎると、中からライ麦の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
はぁー、やっぱりライ麦パン好きだなぁ……。

パクリと口に入れるとライ麦の独特の酸味が口に広がる。
うん、やっぱりこれ最高だ!

これにあのチョコレートが合わさったら、もう最強のコラボパンだよね。

デニッシュとのコラボも面白そうだけど、ほかのパン屋との差別化をはかるなら絶対にライ麦パンとのコラボだよ、絶対。

うんうん。

僕はパンを試食することに夢中になりすぎて、頭の中で考えていたことが全て言葉として喋ってしまっていたことに全然気づいていなかった。

僕が3種類の試食を終え、目の前のアイスティーをゴクゴクと飲み干して、ふぅーと一息ついたその瞬間、周りからのただならぬ視線に気づいた時にはもう全てを聞かれてしまった後だった。

「あ、あの……、何か?」

僕はみんなから与えられる視線の意味がわからなくて問いかけたけれど、部屋はしんとしたままでただ僕をみつめてくる視線に耐えきれず、もう一度問いかけた。

「何かありましたか?」

すると、ようやく折原さんが答えてくれた。

「無意識だったのかも知れないけれど……君が試食しながら話していたことは全て的を射ているよ。私も同じように思ったのだから……。きっとテオもそうじゃないのかい?」

「ああ、驚いたよ。君は本当にただの大学生なのか?」

どうやらパンを食べながら思っていたことが全部漏れてしまっていたみたいだ。
なんか心の中をみんなに読まれてしまったようで、かなり恥ずかしい……。

「あ、あの……僕、フェリーチェさんのパンも【Cheminée en chocolat】のチョコレートも大好きなので、それでつい思いが昂ってしまって、口から感想が出ちゃっていたみたいです……。ごめんなさい、邪魔じゃなかったですか?」

慌てて取り繕おうとしたけれど、長谷川さんは

「全然邪魔なんかじゃないよ!」

と鼻息荒く返してくれた。

その勢いに押されて、

「あ、はい。それなら……いいんです」

と答えることしかできなかった。

「フェリーチェさん、おたくのパンには正直驚かされました。これなら、うちのクーベルチュールを入れても負けないパンができそうだ」

「なら……!」

折原さんの言葉に長谷川さんは目を輝かせて喜んだものの、続く言葉に声を失っていた。

「ただ、以前申し上げたように私ひとりで作るのには限界があります。納得のいくチョコレートができなかった場合には店を休むこともある、そんな私のチョコレートをこの機械で大量生産できるパン生地に見合う量で提供することは難しいんです、というか無理なんです」

はっきりと告げられたNOという意思表示に長谷川さんも周りにいる社員さんたちも落胆の色を隠せない。

「……私ひとりなら……ね」

「えっ?」

折原さんから出た言葉に、落ち込んでいた長谷川さんはバッと顔を上げ、折原さんから出てくる次の言葉を待ち続けている。

「【Cheminée en chocolat】のチョコレートを提供するのは無理だと言うのは変わらない。
ただ、テオのいる【Gezellig 】ならば、大量ではないがうちよりは安定的な量のクーベルチュールを用意できると言っている。テオ、そうだったな?」

「ああ、そうだ。ここで試食をしてからの話だと思って内緒にしていたが、もし、フェリーチェが望むなら、ベルギーの店から空輸で日本に運ぶことも可能だ。ただし、大量生産ではなく、あくまでも期間限定で流通量も限定的にしてもらう必要があるが……。それで納得できるかどうかはそちらの判断に任せるしかないな」

折原さんとテオさんの言葉に長谷川さんは喜びながらも慎重に考えているようだ。

「このお話をいただけたということは、弊社のパンは合格をいただいたということでよろしいのでしょうか?」

「ああ。むしろ美味しすぎて驚いてしまったくらいだ。ライ麦ショコラパンをテオのチョコレートで復刻できたら、私は買わずにはいられないだろうな」

折原さんはそう言って、試食のライ麦パンの最後の一切れをポイっと口に放り込んだ。

その言葉を聞いて、長谷川さんは意を決したような表情で2人を見つめた。

「わかりました。それでお話を進めさせてください」

「えっ?」

あまりにも早い決断に、折原さんからも驚きの声が上がる。

「ちゃんと聞いてましたか? フェリーチェさんの売りでもある大量生産は無理なんですよ? それに販売も限定的になるんですよ?」

「はい。重々承知の上です。責任は私が全て取ります! このままお話を進めさせていただきます」

そう断言されれば、折原さんやテオさんにはもう異議を唱える必要などなかった。

長谷川さんの後ろにいた部下さんたちは、オタオタと焦っているように見えたけれど、長谷川さんはどっしりと構えていて、なんだかすごくかっこよく見えた。

「この後、詳しいお話を伺いたいのですが、宜しいですか?」

「はい。私たちは構いません」

テオさんと折原さんはもうすっかり仕事モードだ。

僕はこれからの話し合いには邪魔になってしまうかもしれない。

「あの、僕……これで失礼します」

僕は席を立ち上がって、みんなに向かって頭を下げた。

「香月くん、どうして?」

「えっ?」

「そうだ、なぜ1人で帰ろうとするんだ?」

「ええっ?」

さっと走り寄ってきた長谷川さんとテオドールさんに行く手を阻まれ、僕は驚きの声をあげることしかできなかった。

「あの、僕はただ試食をするために呼ばれただけですし……お仕事のお話をされるなら、お邪魔かと思いまして……」

「何を言ってるんだ! 君の意見があってこそのこの契約だぞ! 君にもいてもらわないと」

「そうだよ、香月くん。君ほど、うちのパンを理解してくれている人はいないのだから」

「そ、そんな……」

僕の意見がそんなに重要だなんて……ちょっと怖いんだけど……。

「あの、部長……」

僕たちのそんな姿を見ていた部下さんの1人が長谷川さんに声をかけた。

「どうした?」

「契約内容の深い話は彼にはしないほうがいいのではないですか? あまり深く知りすぎるといろいろな考えが働いて、今のような忌憚のない意見が出にくくなる恐れがあります」

「うーん、それはあるな」

「彼には話の間は他のパンの試食をしてもらって、他のアイディアや意見をもらうというのはどうでしょうか?」

長谷川さんは顎に手を当て考え込んだが、

「それは良い考えだな。テオドールさんはそれで宜しいでしょうか?」

と尋ねると、テオさんもそれでいいと納得したようだった。

日下部くさかべ、頼むぞ」

「はい。承知しました」

一緒に帰るからくれぐれも1人で帰らないようにと念を押され、僕は部下の日下部さんに連れられて部屋を出た。

「ふぅ……」

部屋を出て思わず溜め息を漏らすと、ふふっと小さな笑い声が聞こえてきた。

パッと隣にいる日下部さんを見ると、

「ああ、ごめん。大変そうだったなと思って……つい」

とバツが悪そうな表情で謝ってきた。

「いいえ、大丈夫です。日下部さん、僕をあの場から遠ざけようとしてあんなことを言ってくれたんでしょう?」

「やっぱりお見通しか……。さすがだな。部長が傾倒しているだけあるな」

「そんな……」

「いや、本当だよ。何せ、うちが必死で口説いていた【Cheminée en chocolat】の折原さんを初対面でここまで連れてきてくれたんだろう?それだけでもううちにとっては君は神のような存在だよ。しかも、あの・・テオドール・ボックマンさんまで連れてきてくれるなんてさ」

日下部さんは満面の笑みで僕の肩をポンポンと叩いた。

「本当に偶然なんですよ、テオさんとはたまたま本社のロビーでお会いして……」

「いや、たとえ偶然であっても彼らの心を動かしたのは紛れもなく君だよ。君の素直な意見が、俺たちのプレゼンより数段彼らの心を打ったってことだな」

日下部さんの悔しそうなその表情に胸がいっぱいになる。

「あの……ごめんなさい」

「違うよ、君が謝ることじゃない。俺たちが力不足だっただけだ。あの試食の感想だけで、君がどれだけうちのパンを愛してくれてるかがひしひしと伝わってきたんだから」

「はい。僕、フェリーチェさんのパン大好きです。それだけは自信もっていえます」

ふふっと笑いながらそう言うと、日下部さんは

「君のそういうところに部長は惹きつけられたんだろうな……」

とボソリと小さな声で話していて、僕にはよく聞き取れなかった。
でも、聞き返すこともできなくてそのまま日下部さんに連れられるまま歩き続けた。

「さっ、どうぞ」

カチャリと扉を開けてくれた部屋へと入ると、そこはさっきよりは小さいけれど、豪華で座り心地の良さそうなソファーと高そうなテーブルがまるでモデルルームのように綺麗に置かれていた。

観葉植物や間接照明なんかもセンスよく飾られていて、なんとなく隆之さんの部屋のようなカッコ良い男の部屋という感じがする。

「あの、この部屋は……?」

「ふふっ。やっぱり気になった? ここはね、長谷川部長の特別な部屋だよ」

「特別な部屋?」

「うん。まぁ、なんて言うのかな……君みたいな人をもてなすための部屋かな」

それ以上、詳しいことは教えてくれなかったけれど、その名の通り僕はこの部屋で日下部さんに手厚いもてなしを受けながら過ごすことになったのだった。

「香月くん、こっちのパンはどうかな?」

あれからさらに5種類ほどのパンを試食させてくれて、一口食べるたびに日下部さんから怒涛の感想を求められる。
そして、ぼくが一言喋るたびに手帳に必死な様子で書き綴っている。

「あの……これ、参考になってますか?」

「ああ、全然気にしないで喋ってくれていいから。このまま、君の感想聞かせてくれたらいいんだ」

美味しいぐらいしか言ってない気がするけれど、本当に参考になってるんだろうか。
でも、ほんとどれも美味しすぎる。
自分で家で試行錯誤しながら作っていた時も思ったけれど、ほんの少し配合を変えるだけで味ってかなり変わるんだよね。

フェリーチェのパンはどれもがその素材にぴったりの配合で、これをこうしたらもっと美味しくなるのになんて思ったことは一度もない。
その点はさすが、老舗パンメーカーだなって思う。

さっき食べさせて貰ったライ麦パンは、きっとうちで食べた折原さんのクーベルチュールに合うように配合を変えた物だと思う。
記憶の中のライ麦パンより、ライ麦感が強い気がした。

折原さんのクーベルチュールはテオさんの元で修行して習得したものだろうから似ているとは思うけれど、
やはり本物を食べて、そのクーベルチュールに合うライ麦パンの配合を変えるべきだろう。
全部の試食を終えて、最後に日下部さんにそういうと今回で一番大きな頷きが見えた。

程よくお腹もいっぱいになって、ふぅと一息つくと、

「お疲れ様」

とリンゴジュースを出してくれた。

「わぁっ、ありがとうございます」

「あれ? やけに嬉しそうだね」

「はい。僕、林檎が大好きなんですよ」

「じゃあこのジュース、気に入ってくれるかも」

日下部さんの笑顔にかなりの期待をしながらゴクリと飲むと、爽やかな酸味と程よい甘みがクセになってしまうほどだ。

「本当に美味しいですね、これ」

「そうだろう、うちのパンに合わせて作って貰ってる特別な林檎ジュースなんだ」

なるほど、だからか。
これなら、パンが何個でも食べられそうだ。

「ねぇ、ちょっと話を聞いても良いかな?」

「はい。なんでしょう?」

日下部さんのすごく真剣な眼差しに緊張してしまうけれど、一体何を聞かれるんだろう……。

「君はうちに就職しないの?」

「えっ?」

「君くらい優秀であんなにうちのパンを愛してくれてるなら、うちを受ければすぐに採用されるだろう?
部長にもあんなに気に入られてるんだから、就活始めたらすぐにうちにエントリーしなよ。そしたら俺が教育係に立候補するよ。言っとくけど、俺こう見えても結構優秀な方だぜ。で、今、何年生なの?」

僕、そんなに年相応に見えないのかな?
大好きなパンの会社に誘われてることは嬉しいけれど、なんか複雑……。
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