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御殿編
これから
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「……」
「今日もまた、ナジュは」
「ええ…鏡をじっと見て、何も口になさいません」
股右衛門から稲葉へ、稲葉から主様へ、毎日のナジュの様子が伝えられる。ナジュは目的であった呪殺が完了した後もぼーっと鏡を見て、主様から賜った菓子や使用人達が用意する食事にも手を付けないという報告が連日となっていた。
「ここは天界にございますから、腹が減って死ぬ事はございませぬが、食事と菓子が勿体のうございます…稲葉でしたらぺろりと皿まで舐めとりおかわり致しますのに…」
使用人であるならば、まず主人の心中の心配をすべきであるのに、稲葉の心配は食に偏っているようで、その意地汚い程の食欲に御蔭は呆れた。そんな視線をものともせず、ウサギ耳の少年は色取り取りの干菓子や鯛の乗った御膳を想像して口元を舌で何度も舐める。
ー……御蔭…一度、顔を見たい。
「……畏まりました。ただいま床入りの準備を」
御蔭の中の闇が、再びとぐろを巻き始める。じりじりと焼ける様な嫉妬が身を焦がす。
ーいや…会って、それからどうするかは…わからぬが……兎に角、会いたい
主様は神であるが、ナジュの心の中まで覗く類の神通力は持っていない。ナジュが今何を思って鏡を見ているのか、それを知る術は下界も天界も同じ。話をするしかない。
ー御蔭、私の拙い言葉がナジュに届く様に…頼む…
主様は御蔭に頭を下げた。御蔭はお止め下さいと、駆け寄って身体を起こす。
「…私は主様に多大な恩のある身でございます。手足の様に、決して離れることなき影の如く貴方様に付き従う事こそ我が幸福。私めに重要な役を任じて頂き光栄にございます」
ー御蔭、有難う…
柔らかく笑みを向ける御蔭と、信頼を寄せる主様。その光景を見てうんうんと頷く稲葉は、主様の為に用意した茶菓子を摘まみ食いしながら、美しい主従愛と菓子の美味に感動するのであった。
「……」
ナジュは主様に与えられた部屋で、狩人を呪殺した不思議な鏡を覗き込んでいた。
誰を呪うと問われ、狩人を呪うと鏡に願った途端、鏡には狩人の姿が映し出された。黒い靄のような呪いが狩人の身体に纏わりつき、呼吸の度に体内に吸い込まれる。その靄は徐々に狩人の正気を奪い、狩人は錯乱の後火を点けて自死した。主様一行が去った後も鏡を手放さず、狩人が死ぬまでを何度も何度も再生し、憑りつかれた様に目に焼き付けた。その心中は、ナジュにしか解らない。
「主様がお渡になる…用意を」
「……」
「ナジュ」
「なあ…股右衛門…」
股右衛門に背を向けたまま、問いかける。狩人を呪殺してから初めて言葉を発した。
「…何だ」
「俺の目的は…一つ達した」
「…そうか」
「この鏡で、もう一人殺すとなると…もう俺ではなくなってしまうらしい。鏡に映るこいつの様に、正気を失い元には戻れないんだと」
ナジュは鏡を自分の身体の正面から右にずらして股右衛門に見せた。股右衛門は自分の姿を見るばかりで、他の誰も鏡には映っていない。股右衛門は確実にナジュの中の何かが変わったのを感じていた。
「……主様がおっしゃるなら、そうなんだろう」
「…全員殺せないなら、一人だけ…そう考えていた時もあった」
「……おう」
「恋人も甥子も集落の奴らも何もかもが憎い、それは今も変わらない……だが」
ナジュは鏡を正面に構えて、映像を再生する。
どんな表情をして鏡を見ているのか、股右衛門にはわからない。
「もう……終わってもいいのかもしれないな……」
「お前……」
大きな力に飲みこまれ儚く消えてしまいそうな、寂しい声だった。
「今日もまた、ナジュは」
「ええ…鏡をじっと見て、何も口になさいません」
股右衛門から稲葉へ、稲葉から主様へ、毎日のナジュの様子が伝えられる。ナジュは目的であった呪殺が完了した後もぼーっと鏡を見て、主様から賜った菓子や使用人達が用意する食事にも手を付けないという報告が連日となっていた。
「ここは天界にございますから、腹が減って死ぬ事はございませぬが、食事と菓子が勿体のうございます…稲葉でしたらぺろりと皿まで舐めとりおかわり致しますのに…」
使用人であるならば、まず主人の心中の心配をすべきであるのに、稲葉の心配は食に偏っているようで、その意地汚い程の食欲に御蔭は呆れた。そんな視線をものともせず、ウサギ耳の少年は色取り取りの干菓子や鯛の乗った御膳を想像して口元を舌で何度も舐める。
ー……御蔭…一度、顔を見たい。
「……畏まりました。ただいま床入りの準備を」
御蔭の中の闇が、再びとぐろを巻き始める。じりじりと焼ける様な嫉妬が身を焦がす。
ーいや…会って、それからどうするかは…わからぬが……兎に角、会いたい
主様は神であるが、ナジュの心の中まで覗く類の神通力は持っていない。ナジュが今何を思って鏡を見ているのか、それを知る術は下界も天界も同じ。話をするしかない。
ー御蔭、私の拙い言葉がナジュに届く様に…頼む…
主様は御蔭に頭を下げた。御蔭はお止め下さいと、駆け寄って身体を起こす。
「…私は主様に多大な恩のある身でございます。手足の様に、決して離れることなき影の如く貴方様に付き従う事こそ我が幸福。私めに重要な役を任じて頂き光栄にございます」
ー御蔭、有難う…
柔らかく笑みを向ける御蔭と、信頼を寄せる主様。その光景を見てうんうんと頷く稲葉は、主様の為に用意した茶菓子を摘まみ食いしながら、美しい主従愛と菓子の美味に感動するのであった。
「……」
ナジュは主様に与えられた部屋で、狩人を呪殺した不思議な鏡を覗き込んでいた。
誰を呪うと問われ、狩人を呪うと鏡に願った途端、鏡には狩人の姿が映し出された。黒い靄のような呪いが狩人の身体に纏わりつき、呼吸の度に体内に吸い込まれる。その靄は徐々に狩人の正気を奪い、狩人は錯乱の後火を点けて自死した。主様一行が去った後も鏡を手放さず、狩人が死ぬまでを何度も何度も再生し、憑りつかれた様に目に焼き付けた。その心中は、ナジュにしか解らない。
「主様がお渡になる…用意を」
「……」
「ナジュ」
「なあ…股右衛門…」
股右衛門に背を向けたまま、問いかける。狩人を呪殺してから初めて言葉を発した。
「…何だ」
「俺の目的は…一つ達した」
「…そうか」
「この鏡で、もう一人殺すとなると…もう俺ではなくなってしまうらしい。鏡に映るこいつの様に、正気を失い元には戻れないんだと」
ナジュは鏡を自分の身体の正面から右にずらして股右衛門に見せた。股右衛門は自分の姿を見るばかりで、他の誰も鏡には映っていない。股右衛門は確実にナジュの中の何かが変わったのを感じていた。
「……主様がおっしゃるなら、そうなんだろう」
「…全員殺せないなら、一人だけ…そう考えていた時もあった」
「……おう」
「恋人も甥子も集落の奴らも何もかもが憎い、それは今も変わらない……だが」
ナジュは鏡を正面に構えて、映像を再生する。
どんな表情をして鏡を見ているのか、股右衛門にはわからない。
「もう……終わってもいいのかもしれないな……」
「お前……」
大きな力に飲みこまれ儚く消えてしまいそうな、寂しい声だった。
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