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20XX/07/01(金)
p.m.5:18「霊能者」
しおりを挟む観伏寺を離れたふたりは、一風の案内で月島家に向かった。周りを木々に囲まれており、道から庭までは少しだけ坂になっている。坂を上ると砂利が敷かれた庭と古い小屋と蔵、平屋の母屋が見えた。
玄関の前で足が止まる。五年振りの実家だ。
「一風ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
彼が何を差して大丈夫か問うてきたのか、真意は不明である。久し振りの実家に緊張しているのかと言いたいのだろうか。それとも、観伏寺で住職の夏目大寿に誘惑されたことを気にしているのだろうか。既婚者の誘惑など、どんなに言葉を尽くしたとしても、愛人関係の提案に他ならない。
一風は玄関の引き戸に手をかけて、横に滑らせた。インターホンなんてついていない。島のほとんど全ての家に、呼び鈴などはついていないのだ。もっといえば外出時に鍵をかける習慣すらなかった。
玄関に足を踏み入れる。
扉を引くガラガラという音が聞こえたのか、中からひとりの青年――弟の八雲が顔を出した。背が高くがっしりとした体躯は子供の頃から変わらない。びっくりするくらいの猫背で、長い前髪の間から覗く目は、一風たちを見つめて見開かれる。
「ただいま」
なんと言うべきか迷ったが、結局、帰還を告げる言葉を口にした。
「お、おかえり。姉ちゃん、と……誰?」
「こんにちは、八雲くん。僕は神々廻慈郎。気軽にお義兄さんって呼んで」
「は……?」
「ほら、一風ちゃん、ちゃんと紹介してくれないと。弟くん、混乱しちゃってるじゃない」
「……八雲、この人は――」
渋々と、本当に、渋々と。一風は弟に神々廻慈郎を紹介する。内容自体は寺で大寿に話したものと変わらない。ただ、話を聞いていた八雲の顔は分かりやすく驚愕の色を濃くし、きょろきょろと目が泳いでいた。
ぼそぼそと、弟が小声で呟く。
「………ん……………だ……」
「八雲?」
「姉ちゃん……お、おじ専、だったと……!?」
閉鎖的な島で生きているとはいえ、十八歳の青年だ。実姉は年上の男性がタイプなのだと勘違いし、それがいわゆる、おじ専という言葉で言い表すのだと理解しているらしい。
「べつにおじ専ってわけじゃないよ」
「それはウソて。姉ちゃん、昔から同年代にはまったく興味なさそうだったし、よくカッコいいって言いよったとは、大寿さん……住職さんとか、漁師の兄ちゃんたちとか、年上の人ばっかりだったじゃんね」
「だからって、おじ専ってことにはらないと思うけど」
「そういうもん……?」
一風は頷いてみせる。
それと同時に、隣にいた神々廻が彼女の左手を取った。本物の恋人のように指を絡めて繋がれ、薬指の婚約指輪が弟の眼前に晒される。思わず隣の彼を見上げると、一風が自分のほうを向くことを予想していたかのように、彼もこちらを柔らかい表情で見つめていた。
「一風ちゃんは僕がおじさんだから好きなんじゃなくて、僕が僕という人間であるから、好きになってくれたんだよね?」
「ええ、そうです。でも……弟の前でこういうことは、少し照れくさいので控えてくれますか?」
「ああ、ごめんね。いつもみたいにしちゃって。君がそう言うなら、名残惜しいけど離すよ」
神々廻の垂れがちの目は、まるで今口にしたのは本心だとでも言わんばかりに、熱を帯びていた。彼は繋がったままの手を上に持ち上げると、流れるような動作で一風の指先に唇を落とす。視線は絡んだままだ。雰囲気に飲まれそうになるくらい、サマになっている。それに彼の目は、甘くとろけるような目だった。
寺でも実家でも、婚約者役をまっとうしようとしていた一風だが、さすがにギョッとしてしまう。八雲もギョッとして「これが都会のバカップル……!」と、謎の感動を覚えているらしかった。
「姉ちゃん。姉ちゃんが、その人ば連れて、一緒に帰って来たとは……つまりその、そういうことつたい……? 結婚の、とか……挨拶とか……?」
「鋭いねえ、八雲くん。そうだよ。結婚を前提にしたお付き合いだから、ご家族に挨拶をしにきたんだ。君とお義母さんにね。会わせてもらえる?」
「……あ、はい、どうぞ……」
靴を脱いで玄関の上がり框に立つ。山道を歩いて来たにも関わらず、神々廻の革靴は輝いている。その横に自分の靴を並べると、大きさの違いを目に見えて感じた。
キャリーケースはひとまず玄関の傍の和室に寝かせて置く。お土産が入った紙袋を持つ神々廻と共に、弟の丸まった背中を追いかけて、母親――彩乃がいる部屋へと向かった。
古い家のため、身体の大きな八雲や神々廻が歩くと、床が軋む。神々廻は興味深そうに家の様子を見ていた。隣を歩く一風に「立派な家だね」「柱の横線は身長測定のあと?」「なんのにおいだろ?」などと話しかけてくる。それに当たり障りのない返答をしながら進むと、縁側の突き当たりにある部屋の前で、弟が足を止めた。
そこは南向きの日当たりのいい和室だ。和室へ続く障子も、縁側の引き戸も開け放たれており、吹き抜けた風に吊るされた風鈴が揺れて軽やかな音を響かせていた。
前に進んだ一風は部屋の中の様子に、眉間に皺を寄せる。
畳の上に介護用のベッドが置かれ、母の彩乃が横たわっていた。記憶の中の母の姿より痩せている。けれど目を閉じていてもなお、凛とした雰囲気を纏っているのは変わらない。相変わらず美しい人だ。
では何故、眉間に皺を刻んだのか。
ベッドの傍らにひとりの男がいた。着物姿の男性で、歳はおそらく四十代といったところだ。目の前に低い台を置き、香炉を焚いている。甘い香りだ。和室の窓も、障子も、縁側の引き戸だって開いているのに、部屋の中に匂いがこもっているような気がした。
「……八雲。こちらは?」
「あ……この人は……」
男から視線を外さないまま尋ねる。弟はおどおどしていた。
すると男がふと立ち上がって、一風たちの前に立つ。座っている時もそうではないかと思っていたが、かなり体格がいい。真っ直ぐ立った弟と同じくらいあるかもしれない。男からは、噎せ返りそうになるほど甘い香りが、漂っていた。
「話は八雲に聞いている。あんたが長女か」
「一風です。わたしはあなたのことを聞いていないもので。お名前を伺っても?」
「十二代目、鬼石堂安(きせきどうあん)。霊能者だ」
「偽名ですか」
「偽名には懐疑的か? 詐欺師を見るような目をしているが、立派な屋号だ。歌舞伎役者、噺家、芸術家……本名以外で働く奴はごまんといるぞ」
「霊能者を自称する人はそういないでしょうが」
警戒しながら言葉を交わす。眉間に皺を刻んだまま見据えるのは失礼に当たるかもしれないが、堂安は気にしていないようだ。むしろ楽しげに、片側の口の端を持ち上げて笑っている。
「ははっ、そりゃそうだ……だが、この島じゃ珍しい職業でもないだろ? 霊能者が詐欺師だっていうなら、ここは詐欺師の島か?」
「ある一方の側面から見れば否定はできませんね」
「姉ちゃん!」
八雲が声を上げて一風の腕を取った。驚きはしたが、痛みはまったくない。もしも弟が本気で掴んでいたら、相当痛かっただろう。咄嗟に掴みはしたが、力を入れないように気をつけなければという考えは、頭にあったらしい。
姉と弟の視線が絡む。
わずかな沈黙が流れた。本当にわずかな沈黙だ。けれどその場にいる誰もも、そのまま放っておいたら長いこと沈黙が続くのだという予感があった。その空気を破ったのは、堂安の軽い笑い声だ。
「姉弟喧嘩なんて俺のいないところでやってくれ。別に久し振りの家族の再会を邪魔するつもりはない。俺は帰る。八雲、あとはお前がしっかりやっておけ」
「……っ、はい……」
堂安は低い机の上に広げていた、香炉や数珠、木簡などを片付けると、足音を立てて和室――月島家から出て行った。
誰もが口を閉ざす中、玄関の引き戸が開き、閉まる音が聞こえる。そしてようやく八雲が咎めるように「姉ちゃん」と、一風を呼んだ。
「……ここは、詐欺師の島じゃないけん……それに、堂安さんにあんな失礼なことば言って……」
「この島では違うかもしれないけど、霊能者を自称する人間への対応としては、あれが普通だよ。ううん、もっと冷たくて厳しいのかも」
「外のこととか知らんし……それに、自称じゃない。見たけん分かる。堂安さんの能力は本物やもん」
「本物? 本物ね……じゃあ、彼の力で母さんが良くなった? 寝たきりで、意識もなくて……何も効果がないから、八雲は電話してきたんじゃないの?」
一風は母を病院へ行かせるための説得しようと思い帰省した。けれど部屋の中の様子を見て、察してしまったのだ。彩乃の枕元の手芸の月刊雑誌は先々月のものだ。和室の棚にはバックナンバーがに並んでいる。母がこの雑誌を長いこと購読していたのは知っている。枕元の雑誌が先々月のものだとすると、少なくとも二か月は、本を読むこともままならない、この……寝たきりの状態なのだろう。
図星で気まずいのか、嘘をついたことへの罪悪感か、八雲が一風から視線を逸らした。
「……母ちゃんは、呪われとる……強い呪いだけん、堂安さんでも解けんとたい。だけど、堂安さんの力と香炉があれば、母ちゃんは苦しまんで済む。身体を覆う黒い靄(もや)だって、抑えられとるよ」
弟の言葉に、彼女は溜め息を漏らす。
「呪いに靄ね……そんなことを言う前に、まず病院でしょう。怪しい霊能者に頼る前に、現代医学を信じれば、助かるかもしれないのに」
「っ、怪しくなんかないて! 堂安さんは、寺の……住職さんのお嫁さんが、紹介してくれた人で……おれの師匠だけん」
「師匠?」
「力の使い方ば、教えてもらいよる。うちは父ちゃんもおらんし、母ちゃんも、ずっと身体を悪くしとったけん……親戚もおらんし……中学校ば卒業してから、力の使い方を教えてくれる人を探しとったと……」
八雲の目が、足元へ落ちた。
「去年、紹介してもらってから、堂安さんには、いろいろと、お世話になっとる」
「見返りは? ただの親切で世話を焼くようなタイプには見えなかったけど?」
「厄除けの、札を書く、手伝い……でも、それだけ。お金を払ったりはしとらん。でも……してても、姉ちゃんには、関係ない……っ」
最後のほうは小声になっていたが、弟が吐き出した本音は、しっかりと姉の耳に届いている。それは拒絶であり、恨み言であり……羨望だ。ひとりで島から逃げた一風のことを恨めしく思うのと同時、心のどこかで羨ましくも思っていたのだろう。一風は何も言い返せない。五年前、まだ十三歳だった弟と、伴侶を亡くした母を捨て、島を出たのは事実だ。
弟の長い前髪の隙間から見える目は、濡れている。
「……いつだって、姉ちゃんは、おってくれんかったじゃん……」
「八雲……」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。関係が希薄だから、連絡も年に一度するかしないかの姉弟。そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。彼は連絡を待ち続けていたのだろうか。相談したり、愚痴をこぼしたり、近況を話したり……もしかすると、ふたつ下の弟は、そういうことをしたかったのかもしれない。
戸惑う一風の目から逃れるように、八雲は目元を手の甲で乱暴に拭った。
「夕飯、作ってくる」
そう言って、弟は和室を出て行く。
残されたのは寝たきりの彩乃と、立ち尽くす一風、そして、黙ったまま両手で口と鼻を覆う神々廻だった。普段は鬱陶しいくらいに喋り倒す男が、ずっと無言のままでいる。彼は縁側に出ると引き戸の手前にまで進み、大きく深呼吸を繰り返していた。
「はあああぁぁ……ひっどいにおいだねえ。鼻がもげるかと思った」
パタパタと、顔の前で手を振る神々廻に、一風は問いかける。
「卑怯な姉だと思いますか? ひとりだけ……自分だけ、島から逃げました。この島で生まれて、何十年も住んでいる母と、まだ中学生で、親元を離れられるはずのない弟を置いて……」
「一風ちゃん」
「……酷い姉ですね」
自嘲混じりに呟けば、思いの外、強い声音で再び「一風ちゃん」と呼ばれた。
「君はまだ十五歳だった。子供だ。子供が、自分の力ではどうしようもないと思うことから逃げるのも、現状のままではいけないと思って逃げるのも、責められるようなことじゃないよ。それは間違いなく、よくやったと称賛されるべき行為だ」
「称賛って……」
「よく逃げたね。よく決断した」
月島一風は、唇を噛む。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。逃げたことを肯定される。これまでずっと、胸の奥底に罪悪感や後悔が沈んでいた。前に進んでいる時は気付かない、その負の感情は、足を止めた瞬間や眠りに落ちる寸前、不意に顔を覗かせては心を掻き混ぜる。
よくやった。
よく逃げた。
よく決断した。
たったそれだけの言葉なのに、ほんの少しだけ、胸の奥底に沈んでいた気持ちが軽くなった。そして、ほんの少しだけ……顔だけしかいいところがないと思っていた、神々廻慈郎という人間を、嫌いじゃなくなった。
応援ありがとうございます!
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