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―― 序章 ――
【七】セーフワード
しおりを挟むだけど、甘やかされるって、何だろう。
概念としては、聞いた事がある。
本来Subとは、支配されるだけでなくて、甘やかされたりするらしい、と。
だけど僕には、過去にそんな体験はないし、ヘルナンドに繰り返し言われた。
『お前は支配されるのが好きな、本当に恥ずべきSubなんだよ』
今も嘲笑交じりの、そんな声が甦る。
「ルイスは、ヘルナンド卿の事が好きかもしれないが、どうか少しでいいから俺を見てくれ」
クライヴ殿下の声で、僕は我に返った。僕は、ヘルナンドの事を好きだと思った事は一度も無い。
「ヘルナンド卿の前でしか、笑う事は無かったものな」
それは……《笑え》と、そう命令されていたからだ。きっと同じ《命令》を与えられたら、僕は笑う事だろう。
「でもいつか、俺に笑いかけてくれるように、努力しよう。約束する」
「……」
「ルイス。『セーフワード』を教えてくれないか?」
その言葉に、僕は声が喉でつかえたようになってしまった。過去に、決めた事が無いからだ。困ってしまい、僕が瞳を揺らしていると、クライヴ殿下が微苦笑した。
「ダメか?」
「いえ……その……どうぞ、殿下がお決め下さい」
僕がなんとか言葉をひねり出すと、クライヴ殿下が虚を突かれたような顔をした。
「俺が決めて構わないのか?」
「はい……」
「何か嫌いなものはあるか?」
「……嫌いなもの……」
「怖いものでもいい」
「……怖いもの……」
僕が怖いのはヘルナンドだ。嫌いなものも同じだ。
だが、その名前を出すのも嫌だ。
他に、何か。
そこで僕は、Sub dropをしている最中の、いつも飲み込まれるような感覚を思い出した。暗い闇の中にいるようになる。そして影のような黒い複数の手に、全身を絡めとられたようになる。それが、とても怖い。
「影が……」
「影?」
「はい……影が怖いです」
「それでは――『影』と」
「オンブル……」
「ルイスがそのセーフワードを口にしたら、必ず俺は、それに従う」
クライヴ殿下の声は優しい。けれどまだ、僕は半信半疑だ。
「しかしルイスの事を知る事が出来るのは嬉しいな。好きなものも、沢山聞かせてくれ。たとえば、そうだな――……好きな食べ物は?」
その問いに、もう長らく食欲が無かった僕は、再び俯いた。
何を食べても味がしないように感じてばかりだった。僕は、僕自身の好みを知らない。きっと会話が途切れれば、クライヴ殿下はがっかりするだろう。じっくりと僕は、瞼を閉じてみる。すると、幼い頃に食べた、スモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチが思い浮かんだ。まだダイナミクスが判明する前に、兄と共に領地の丘に、ピクニックに行って食べた品だ。
「スモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチが……」
「そうか。今度用意させよう」
サーモンは、この国の名産品の一つだ。北部でよく獲れると聞いた事がある。逆に西部では牧畜が盛んだ。ただ一番の輸出品は、東部で産出される魔石だと学んだ事もある。
「好きな飲み物は?」
「……その……特に嫌いなものはありません」
「そうか。では、紅茶と珈琲はどちらが好きだ?」
「え……」
僕は思案した。生家では紅茶が出てくる方が多かった。珈琲はあまり飲んだ事が無い。
「紅茶しか、その……」
「そうか。俺は珈琲が好きなんだ。今度、よさを語らせてくれ。アルコールは嗜むか?」
「あまりお酒も飲んだ事がありません……」
「では共に葡萄酒でも味わうとしようか。趣味は?」
「……」
趣味らしい趣味も、僕にはない。こう考えていくと、僕は本当につまらない人間だ。
侯爵家の人間として、一通りの教養は身につけさせられたが、そのいずれかに熱を入れるという事も無かった。しいて言うならば、ピアノの腕前は褒められた事があるが、それも好んで弾くわけではない。
「特に無いのならば、これから見つけていくのも良いぞ」
僕が言葉に詰まっていると、クライヴ殿下が穏やかな声で言った。
このようにして、クライヴ殿下に沢山の質問をされ、僕は時々詰まりながらも、なんとか会話をこなしたのだった。
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