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第七話 吉祥天女軽業演舞
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そうこうしているうち、三味線の音が変わった。入り口で軽い口調の呼び込みを見事にやって客を引いてきた大年増の女が、ここで芝居の流れを作り始める。
「さあさあ、こっちこっち! 芝居が始まるで! 西の山から降りてきた天女は、港で柄の悪い兄ちゃんに絡まれた! そこからや!」
ちきちんちんちん、ちゃんちきちきちき、ちりとてちん、べべん!
袖から吉祥が白い衣を纏って颯爽と登場。派手な扇を仰いだ後、台詞を言い始める。
「ええい、まだ追ってくるか」
もう一人、体格の良い三十半ば程度の男がざんばら頭を振り乱してやってくると、勢いよく刀を抜いた。その瞬間、客がぐっと芝居に引き寄せられ、寿三郎と長次は口に咥えた練り物を噛むのも忘れた。
「その扇を渡しぃ! 一振り二振り、錬金術で金が湧き出すっちゅう天女の扇!」
「天女の扇は俗世の薬。貧しき者たちを癒やし、生かす長寿の風を生み出す。お前のような者に渡せるはずがないでしょう」
「ほな奪い取らせてもらおうか! それにわれは器量良しや、わいのねんごろにしたろか! 毎晩可愛がってやるからありがたく思え!」
「なんと愚かな男、どんな神風でもお前のおつむは救えません」
べん、べんべんべんべんべんべん……。
三味線の拍子が早まり、役者の演技も荒々しくなる。吉祥は掛け小屋の四方に渡らせられた板の上に飛び乗ると、男の刀を避けてその上を軽やかに飛び回った。客が歓声を上げると外までその声が響き渡り、近くを歩いていた通行人たちが板の隙間から中を覗いてくる。そこへすかさずてんとうが滑り込み、入口から顔を出す。
「兄ちゃん、今から入るならまけとくで」
なるほど、そのための隙間らしい。覗きたい、覗きたい、そんな人の心理に付け込むあたり、商売上手すぎる。
この一座、江戸歌舞伎と違うところは、笑いが多く入るところだろうか。真面目な題材を扱っているのに、要所要所で笑わせにくる。吉祥天女の手にした扇が軽業と共に一振り二振りすれば、風に弄ばれた男が、あちらへ転び、こちらで滑り、挙句に客席に入ってきたりもする。客は大笑い、いい頃合いで手頃な者を舞台に上がらせ、それをいじって笑わせもする。汗をかくほど笑いきったあたりで大立ち回りが入り、今まで道化となって憎めなくなった男の剣技に拍手喝采。最後は天女の華麗な軽業が男を仕留めて綺麗に終わる、分かりやすくも気持ちの良い題材であった。
座長であろう、やられて床に寝ていた男が起き上がり、頭を下げる。
「これにて本日の天道旅一座、御開きとさせていただきます。しばらくお江戸にいさせてもらい、皆様に笑っていただきますので、今後ともよろしゅうお願いいたします」
ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか、景気の良い三味線が拍手を促す。
「天道笑えばー、朝日が昇るー、沈む笑顔は朝日で昇る、あ元気あ元気あ元気元気元気元気、笑えば元気ー、天道一座は輝きまっせー! 毎度おおきに! またきてなー!」
妙な歌だが、やたらと耳に残る。
演目が終わって拍手をしていた人々が帰り始めると、赤いてんとうが入口で器を回収しているのが見えた。それにしてもよく働く子だ。演目中も、視線を動かせば、そこかしこでこの赤い着物が目に入っていた。
長次は頬を真っ赤にさせて興奮しており、器を両手で抱えて武者震いまでしている有様。寿三郎が顔を覗き込み、手で目の前を遮ってみる。
「長次、帰るぞ、長次」
「はっ!」
目を合わせると、ここが現実だと思い出したのか、ひどく衝撃を受けている。
「寿三郎様!」
「おっ……おう?」
「なんと……なんっと、楽しいものなのでしょう! 芝居というものは、こんなにも人を夢中にさせるものなのですか! お、お、おいら……おいらは今、江戸にいたはずが、西の山にいたり、堺の港にいたり……あまつさえ天竺にまで行きました! なんという……! ああっ」
感極まり、長次は湯気を出してその場に蹲る。見れば鼻から一筋の赤い線が。
「お、落ち着け! 皿を落とす!」
客が引き終わると、外からてんとうが戻ってきた。
「どやった? あれ……どないしたん?」
「いや……興奮しすぎただけだ」
「鼻血出しとるやん!」
てんとうは急いで掛け小屋の壁に張り付いた張り紙を引き剥がし、乱雑に揉んでから長次の鼻の穴にそれを差し込んだ。
「はがっ」
「痛くないやろ? 半紙やからやらかいはず」
「半紙だからよく吸うな……」
「ひひっ、赤の墨汁や」
外ではまだ客がざわついている。
「大盛況のようだな。大したこともしていないのに、色々と世話になってしまった」
「嫌やわー、うちほんまに感謝しとんのよ」
「ああ。それはもう、分かった」
そう言いながら、寿三郎は皿を差し出す。
「馳走になった。なんと言ったか……うまかった」
「かんとだきや! ええ出汁やったやろ、お福さんがこしらえたんやで。あの、口上やってたお姉さん」
お姉さん? とは思ったが、寿三郎は野暮なことを口にしないでおく。
「長居しても悪い。俺たちはそろそろ引き上げる」
「えーっ! そんな、待って、みんなに紹介したい。あんたのこと、みんなに話してもたし。まだ吉祥にも挨拶してへんよね?」
「うっ……」
「吉祥はうちの看板やから、お客さん相手で忙しくてな」
「いや、俺は別に……」
てんとうは長次の鼻の半紙をじっと眺め、徐々に顔を近づけていく。長次は同じ年頃のおなごに近寄られ、身体が固まってしまった様子。
「もう止まったんちゃう?」
「で、でも、思い出したらまた出てきそうだし……」
「ははっ! ほなこの半紙あげるから、持っていきなよ」
そう強引に握らされ、長次は顔を赤らめる。
「あんた名前は?」
「ちょ……長次……」
「お侍さんは?」
「む。ううむ……馬場」
「は?」
「馬場」
「ばば……?」
てんとうの顔が歪んだ後、その場で大爆笑が始まった。突然笑い出す娘を前に、寿三郎と長次は何事かと目を丸くしている。
「さあさあ、こっちこっち! 芝居が始まるで! 西の山から降りてきた天女は、港で柄の悪い兄ちゃんに絡まれた! そこからや!」
ちきちんちんちん、ちゃんちきちきちき、ちりとてちん、べべん!
袖から吉祥が白い衣を纏って颯爽と登場。派手な扇を仰いだ後、台詞を言い始める。
「ええい、まだ追ってくるか」
もう一人、体格の良い三十半ば程度の男がざんばら頭を振り乱してやってくると、勢いよく刀を抜いた。その瞬間、客がぐっと芝居に引き寄せられ、寿三郎と長次は口に咥えた練り物を噛むのも忘れた。
「その扇を渡しぃ! 一振り二振り、錬金術で金が湧き出すっちゅう天女の扇!」
「天女の扇は俗世の薬。貧しき者たちを癒やし、生かす長寿の風を生み出す。お前のような者に渡せるはずがないでしょう」
「ほな奪い取らせてもらおうか! それにわれは器量良しや、わいのねんごろにしたろか! 毎晩可愛がってやるからありがたく思え!」
「なんと愚かな男、どんな神風でもお前のおつむは救えません」
べん、べんべんべんべんべんべん……。
三味線の拍子が早まり、役者の演技も荒々しくなる。吉祥は掛け小屋の四方に渡らせられた板の上に飛び乗ると、男の刀を避けてその上を軽やかに飛び回った。客が歓声を上げると外までその声が響き渡り、近くを歩いていた通行人たちが板の隙間から中を覗いてくる。そこへすかさずてんとうが滑り込み、入口から顔を出す。
「兄ちゃん、今から入るならまけとくで」
なるほど、そのための隙間らしい。覗きたい、覗きたい、そんな人の心理に付け込むあたり、商売上手すぎる。
この一座、江戸歌舞伎と違うところは、笑いが多く入るところだろうか。真面目な題材を扱っているのに、要所要所で笑わせにくる。吉祥天女の手にした扇が軽業と共に一振り二振りすれば、風に弄ばれた男が、あちらへ転び、こちらで滑り、挙句に客席に入ってきたりもする。客は大笑い、いい頃合いで手頃な者を舞台に上がらせ、それをいじって笑わせもする。汗をかくほど笑いきったあたりで大立ち回りが入り、今まで道化となって憎めなくなった男の剣技に拍手喝采。最後は天女の華麗な軽業が男を仕留めて綺麗に終わる、分かりやすくも気持ちの良い題材であった。
座長であろう、やられて床に寝ていた男が起き上がり、頭を下げる。
「これにて本日の天道旅一座、御開きとさせていただきます。しばらくお江戸にいさせてもらい、皆様に笑っていただきますので、今後ともよろしゅうお願いいたします」
ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか、景気の良い三味線が拍手を促す。
「天道笑えばー、朝日が昇るー、沈む笑顔は朝日で昇る、あ元気あ元気あ元気元気元気元気、笑えば元気ー、天道一座は輝きまっせー! 毎度おおきに! またきてなー!」
妙な歌だが、やたらと耳に残る。
演目が終わって拍手をしていた人々が帰り始めると、赤いてんとうが入口で器を回収しているのが見えた。それにしてもよく働く子だ。演目中も、視線を動かせば、そこかしこでこの赤い着物が目に入っていた。
長次は頬を真っ赤にさせて興奮しており、器を両手で抱えて武者震いまでしている有様。寿三郎が顔を覗き込み、手で目の前を遮ってみる。
「長次、帰るぞ、長次」
「はっ!」
目を合わせると、ここが現実だと思い出したのか、ひどく衝撃を受けている。
「寿三郎様!」
「おっ……おう?」
「なんと……なんっと、楽しいものなのでしょう! 芝居というものは、こんなにも人を夢中にさせるものなのですか! お、お、おいら……おいらは今、江戸にいたはずが、西の山にいたり、堺の港にいたり……あまつさえ天竺にまで行きました! なんという……! ああっ」
感極まり、長次は湯気を出してその場に蹲る。見れば鼻から一筋の赤い線が。
「お、落ち着け! 皿を落とす!」
客が引き終わると、外からてんとうが戻ってきた。
「どやった? あれ……どないしたん?」
「いや……興奮しすぎただけだ」
「鼻血出しとるやん!」
てんとうは急いで掛け小屋の壁に張り付いた張り紙を引き剥がし、乱雑に揉んでから長次の鼻の穴にそれを差し込んだ。
「はがっ」
「痛くないやろ? 半紙やからやらかいはず」
「半紙だからよく吸うな……」
「ひひっ、赤の墨汁や」
外ではまだ客がざわついている。
「大盛況のようだな。大したこともしていないのに、色々と世話になってしまった」
「嫌やわー、うちほんまに感謝しとんのよ」
「ああ。それはもう、分かった」
そう言いながら、寿三郎は皿を差し出す。
「馳走になった。なんと言ったか……うまかった」
「かんとだきや! ええ出汁やったやろ、お福さんがこしらえたんやで。あの、口上やってたお姉さん」
お姉さん? とは思ったが、寿三郎は野暮なことを口にしないでおく。
「長居しても悪い。俺たちはそろそろ引き上げる」
「えーっ! そんな、待って、みんなに紹介したい。あんたのこと、みんなに話してもたし。まだ吉祥にも挨拶してへんよね?」
「うっ……」
「吉祥はうちの看板やから、お客さん相手で忙しくてな」
「いや、俺は別に……」
てんとうは長次の鼻の半紙をじっと眺め、徐々に顔を近づけていく。長次は同じ年頃のおなごに近寄られ、身体が固まってしまった様子。
「もう止まったんちゃう?」
「で、でも、思い出したらまた出てきそうだし……」
「ははっ! ほなこの半紙あげるから、持っていきなよ」
そう強引に握らされ、長次は顔を赤らめる。
「あんた名前は?」
「ちょ……長次……」
「お侍さんは?」
「む。ううむ……馬場」
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