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昭和二十年
第58話・病院
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広島電鉄本社から、冬先生が駆け出した。電車通りを北上し大学前停留所から脇に入って、飛び込んだのは広島赤十字病院だった。
「うちの社員が……女学生がおらんか!?」
叫びを上げた冬先生は、肩で息をして返事を待った。が、看護婦は要領を得ず呆然とするのみである。呼吸と思考を整えて、冬先生はゆっくりと尋ねた。
「安田夏子は、どこじゃ」
「患者ですか? 今、調べますけぇ」
「そうじゃないわ、今日入った看護婦じゃ。わしは電話を貰うて来たんじゃ!」
異常事態に集まった看護婦たちが目を合わせ、そのうちひとりが冬先生を導いた。
新米看護婦が集められた一室に、真新しい看護服を纏った夏子を見つけた。まっしぐらに迫る鬼の形相に捉えられ、震える脚は一歩たりとも動いてくれない。
「安田! 乗務をすっぽかして何しよる!!」
部屋に廊下に響き渡った冬先生の怒号、夏子はもちろん他の看護婦や患者も身体をすくめ、診察室の医者までも扉を開けて、その様子を覗った。
冬先生が夏子を連れて廊下に出ると、突き出された首が引っ込んで人垣が割れた。その真ん中を冬先生は脇目も振らず、必死になって抗う夏子を引きずり歩く。
「うちは看護婦になるんです、決めたんです」
「その前に、貴様は女学生で電車車掌じゃ」
「女学校も電鉄も辞めます、そやから……」
「女学生の一存で決められることか」
夏子が冬先生の手を引いた。微かに伝わる衝動が冬先生の足を止めた。
冬先生は向き直り、夏子の強い眼差しを見下ろした。吊り上がった瞼の下で潤んだ瞳は、触れてはならない泉のようだ。
「安田君。何故、看護婦になろう思うたんじゃ」
「……戦局が厳しいからです。うちは、お国に身を捧げたいんです」
ぼそぼそとした眼下の呟きに、冬先生は片眉を上げた。耐えきれなくなったのか、夏子はふいっと視線を逸らす。
「車掌では、不足か?」
夏子は、答えようとしなかった。冬先生は見つめる空虚を辿っていって、夏子の真意を推測していた。
「赤井先生は、女学校と電鉄に挨拶してから東京に帰ったんぞ」
夏子は、ハッと顔を上げた。見透かされた真実に、知らされた事実に驚きを隠せない。
「東京に……? 赤井先生が……?」
「知らんのか。三月に東京がやられたらしい」
「八時間で鎮火して十五機を撃墜したって……」
歪んでいく夏子の視界には、重く暗く色もなく辺りを覗う冬先生だけが映った。そして、鎮めた声が夏子の胸を容赦なくえぐる。
「大本営発表なんぞ、まだ信じとるんか。東京は空襲に遭って壊滅じゃ」
「……どこがやられたんですか」
「市中全部じゃ。赤井先生のご実家も、やられたらしいわ」
言葉も思考も自らも失った夏子の肩に、冬先生はそっと触れた。
「脚を失うた赤井先生の看護をしたかった、そうと違うか?」
目尻が、ほんのり赤く染まっていった。だが、夏子の頬は炎を秘めて固く冷たいままだった。冬先生は、時計が止まってしまわぬようにと言葉をつないだ。
「今、看護婦になったら戦地に送り込まれるぞ。そしたら赤井先生が帰ってきても、そばにおれんわい」
「……東京に行ってしもうたんなら、同じです」
「帰ってくる。安田君が広島におるなら、のう」
冬先生は肩に触れた手を返し、背中を押した。夏子はそれに従って、婦長室に足を向けた。
* * *
冬先生と一緒に頭を下げて、看護服を返納して日赤病院をあとにした。背中を丸めて伏せた目を地面に落とし、電鉄本社にトボトボ戻る。そんな夏子に冬先生は、不器用に声を掛けてきた。
「安田君には、師匠をやってもらわなぁ困る」
夏子は覇気なく、はぁ……とだけ返事をした。すると冬先生は、罰でも与えるように言葉をつないだ。
「明日には第三期生が下りてくる、覚悟せいよ」
「明日!? 昨日、入学したばかりやないですか」
冬先生に向けられた夏子の視線は打ち上げられた魚のように、のたうち回って激しく揺れた。冬先生は一切動じず、淡々と語るのみである。
「乗務員が足らんのじゃ。途中で抜けて代わりを頼んでしまったが、今日一日で机上講習を終わらせる。明日一日が技能教習、明後日から第三期生は独立乗務じゃ」
夏子の視界が、真っ暗になった。冬先生が陽炎のように揺らめいている。
「机上一日て、何を教えとるんですか」
「声出しじゃ、そんくらいしか出来んわい」
「技能一日て、何を教えたらええんですか」
「全部に決まっておろうが。ひとりになっても、困らんようにのう」
夏子の膝から力が抜けた。今にも倒れてしまいそうなのを、残り少ない力を振り絞り、踏ん張るのがやっとだった。
「そんな……いくら何でも無茶やがな。第二期生かて一週間はあったのに」
「無茶は承知じゃ。しかし、そうせな広島の足が確保出来ん。授業の続きをせないかん、女学校に帰るぞ」
第三期生が入ってきたから授業時間が増える、そんな幻想はほろほろと崩れていった。
「戦局が厳しい言うたのは、安田君じゃろうが」
「内地がこんな厳しいなんて、思うておりませんでした……。ほんで、うちは乗務せんと女学校に帰ってええんですか?」
「乗務は、ええ。廊下に立っとれ」
何もかもが厳しいと夏子はガックリ肩を落として、深い深い溜め息をついた。
「うちの社員が……女学生がおらんか!?」
叫びを上げた冬先生は、肩で息をして返事を待った。が、看護婦は要領を得ず呆然とするのみである。呼吸と思考を整えて、冬先生はゆっくりと尋ねた。
「安田夏子は、どこじゃ」
「患者ですか? 今、調べますけぇ」
「そうじゃないわ、今日入った看護婦じゃ。わしは電話を貰うて来たんじゃ!」
異常事態に集まった看護婦たちが目を合わせ、そのうちひとりが冬先生を導いた。
新米看護婦が集められた一室に、真新しい看護服を纏った夏子を見つけた。まっしぐらに迫る鬼の形相に捉えられ、震える脚は一歩たりとも動いてくれない。
「安田! 乗務をすっぽかして何しよる!!」
部屋に廊下に響き渡った冬先生の怒号、夏子はもちろん他の看護婦や患者も身体をすくめ、診察室の医者までも扉を開けて、その様子を覗った。
冬先生が夏子を連れて廊下に出ると、突き出された首が引っ込んで人垣が割れた。その真ん中を冬先生は脇目も振らず、必死になって抗う夏子を引きずり歩く。
「うちは看護婦になるんです、決めたんです」
「その前に、貴様は女学生で電車車掌じゃ」
「女学校も電鉄も辞めます、そやから……」
「女学生の一存で決められることか」
夏子が冬先生の手を引いた。微かに伝わる衝動が冬先生の足を止めた。
冬先生は向き直り、夏子の強い眼差しを見下ろした。吊り上がった瞼の下で潤んだ瞳は、触れてはならない泉のようだ。
「安田君。何故、看護婦になろう思うたんじゃ」
「……戦局が厳しいからです。うちは、お国に身を捧げたいんです」
ぼそぼそとした眼下の呟きに、冬先生は片眉を上げた。耐えきれなくなったのか、夏子はふいっと視線を逸らす。
「車掌では、不足か?」
夏子は、答えようとしなかった。冬先生は見つめる空虚を辿っていって、夏子の真意を推測していた。
「赤井先生は、女学校と電鉄に挨拶してから東京に帰ったんぞ」
夏子は、ハッと顔を上げた。見透かされた真実に、知らされた事実に驚きを隠せない。
「東京に……? 赤井先生が……?」
「知らんのか。三月に東京がやられたらしい」
「八時間で鎮火して十五機を撃墜したって……」
歪んでいく夏子の視界には、重く暗く色もなく辺りを覗う冬先生だけが映った。そして、鎮めた声が夏子の胸を容赦なくえぐる。
「大本営発表なんぞ、まだ信じとるんか。東京は空襲に遭って壊滅じゃ」
「……どこがやられたんですか」
「市中全部じゃ。赤井先生のご実家も、やられたらしいわ」
言葉も思考も自らも失った夏子の肩に、冬先生はそっと触れた。
「脚を失うた赤井先生の看護をしたかった、そうと違うか?」
目尻が、ほんのり赤く染まっていった。だが、夏子の頬は炎を秘めて固く冷たいままだった。冬先生は、時計が止まってしまわぬようにと言葉をつないだ。
「今、看護婦になったら戦地に送り込まれるぞ。そしたら赤井先生が帰ってきても、そばにおれんわい」
「……東京に行ってしもうたんなら、同じです」
「帰ってくる。安田君が広島におるなら、のう」
冬先生は肩に触れた手を返し、背中を押した。夏子はそれに従って、婦長室に足を向けた。
* * *
冬先生と一緒に頭を下げて、看護服を返納して日赤病院をあとにした。背中を丸めて伏せた目を地面に落とし、電鉄本社にトボトボ戻る。そんな夏子に冬先生は、不器用に声を掛けてきた。
「安田君には、師匠をやってもらわなぁ困る」
夏子は覇気なく、はぁ……とだけ返事をした。すると冬先生は、罰でも与えるように言葉をつないだ。
「明日には第三期生が下りてくる、覚悟せいよ」
「明日!? 昨日、入学したばかりやないですか」
冬先生に向けられた夏子の視線は打ち上げられた魚のように、のたうち回って激しく揺れた。冬先生は一切動じず、淡々と語るのみである。
「乗務員が足らんのじゃ。途中で抜けて代わりを頼んでしまったが、今日一日で机上講習を終わらせる。明日一日が技能教習、明後日から第三期生は独立乗務じゃ」
夏子の視界が、真っ暗になった。冬先生が陽炎のように揺らめいている。
「机上一日て、何を教えとるんですか」
「声出しじゃ、そんくらいしか出来んわい」
「技能一日て、何を教えたらええんですか」
「全部に決まっておろうが。ひとりになっても、困らんようにのう」
夏子の膝から力が抜けた。今にも倒れてしまいそうなのを、残り少ない力を振り絞り、踏ん張るのがやっとだった。
「そんな……いくら何でも無茶やがな。第二期生かて一週間はあったのに」
「無茶は承知じゃ。しかし、そうせな広島の足が確保出来ん。授業の続きをせないかん、女学校に帰るぞ」
第三期生が入ってきたから授業時間が増える、そんな幻想はほろほろと崩れていった。
「戦局が厳しい言うたのは、安田君じゃろうが」
「内地がこんな厳しいなんて、思うておりませんでした……。ほんで、うちは乗務せんと女学校に帰ってええんですか?」
「乗務は、ええ。廊下に立っとれ」
何もかもが厳しいと夏子はガックリ肩を落として、深い深い溜め息をついた。
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