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コーヒーの味も分からない
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七時ちょうどに鳴った携帯のアラームを止め、毛布を被ったままゆっくりと上体を起こす。
髪だけ軽く手櫛で整えて部屋から出ると、リビングの大きな窓から入る光が眩しくて少しだけ目を細めた。
結人はまだ寝室で眠っているのだろうか。起きてくる前に身支度を整えようと洗面所に向かい、まだ眠たい頭を冷たい水で無理矢理起こす。
洗顔と歯磨きを済ませてさっぱりしたところで洗面所を後にすると、起きたばかりらしい結人が部屋から出てきて、廊下で鉢合わせになった。
「んー……和音? おはよ。ちゃんと眠れた?」
「うん、おはよう。お陰様でゆっくりできたよ。ありがとう」
「そ、よかった」
嬉しそうに柔らかく瞳を細めた結人が、私と入れ替わりで洗面所に入る。いかにも寝起きという感じで、纏う空気がいつもより緩い感じがした。
そういえば、学生時代も寝起きの結人はこんな感じだった気がする。
あの頃は当たり前のように一緒に寝ていたから、おはようを言うのはベッドの中だったけど。朝になったらいつもより少しふにゃふにゃしている結人に抱きつかれて、しばらく離してもらえないことが多かったことを思い出す。
いや、離してもらえないのは、別に寝起きの時だけじゃなかったか。
子供みたいな甘え方をするのは朝のベッドの中だけだったけど、テレビを見ている最中ずっと結人の脚の間に座って後ろから腕を回されていたりとか、外出中は基本的にずっと手を繋がれたままだったりとか、寝る時も結人の腕の中に閉じ込められるようにしてベッドに入っていた。
思い出してみると、適度な距離が空いている時間の方が短かったような気がする。
その時と比べると、今の結人は不自然なくらいに私に触らない。
再会してから何度か食事に行ったけど、タクシーで帰る時も距離を空けて座ってくれるし、結人の部屋に泊まらせてもらっている今も、学生の頃のようにどこかが触れてしまうような距離で座ったり話したりはしていない。
直接触れるような事があったのは、火事の件を知らせに迎えにきてくれた時くらいだろうか。
あの時は非常事態で無意識だったせいか、車に向かう際に軽く腕を引かれた気がする。
もちろん、全く触れることのない今のそれが、悪いことだとは思っていない。
付き合っているわけではないし、このくらいの距離の取り方が普通なのは分かっている。
変に距離を詰められることがないから安心していた部分だってあるはずなのに、私は今更何を気にしているんだろうか。
一度思い出してしまうと、色々と考えてしまう。
子供の時の話だと言ってしまえばそれで終わりだけど、婚約なんてする前からずっと、結人は私との距離が近かったように思う。
物心着いた時からそういう距離で結人と過ごしていた所為か、結人のパーソナルスペースは凄く狭いイメージだった。
今のこれが適度な距離感だと結人が考えているなら、別にそういうわけではなかったのだろうけど、ただ距離を置かれているだけなのだとしたらやっぱり迷惑になっているんじゃないかな、私。
あの頃と比べたら、今は完全に他人との距離感だ。
先に戻ってきたリビングでぐるぐると考えていると、軽く身支度を整えて結人もリビングに戻ってくる。
顔を洗ってしっかりと目が覚めたのか、キッチンに立ってパンの袋を手に持った結人に私から近付いた。
ただでさえ色々と迷惑をかけている状態なのに、結人にばっかりやらせてこれ以上不快に思われたくない。
「あの、私も何か手伝うよ?」
「パンと卵焼くぐらいだから別にいいけど……ああ、それならコーヒー淹れてくれる? カップそっちの棚にあるから好きなの使って」
「……分かった。結人はブラックでいい?」
「うん。ありがと、よろしくね」
今の短い会話に違和感はないのに、やっぱりまだあまり親しくない距離のように感じてしまう。
結人の外向けの顔で対応されている気がして、急に細かいことが気になりだしてしまった。
コーヒーを淹れて欲しいと言ったのも、私が手持ち無沙汰にならないように、ちょうどよく頼めることを振ってくれたのだろう。
私に対する話し方や雰囲気。大人になって少し変わったのかな程度に思っていたけど、寝起きのあれが結人の素のままなのだとしたら、今の私に向けられているのは恐らく会社用の外面だ。
社会を上手に渡っていくための、しっかりしていて優しく、親しみやすい結人の表の顔。
別に素の結人がしっかりしていないとか優しくないと思っているわけではないけれど、ここまで完璧な人じゃなかったように思う。
もし家の中が息を抜ける場所だったとしたら、私がそれを奪っていることになるんじゃないだろうか。
「和音。パン焼けたけど、バターとか自分で塗る?」
「あ、うん。こっちも出来たよ」
引っ越してくる時に揃えたのか、まだ新しいカップにコーヒーを淹れてテーブルに運ぶ。
同じくパンの乗ったお皿を運んでくれた結人と向かい合う形で座り、いただきますと手を合わせた。
家の中で軽く朝食を摂っているだけなのに、定期的に行っていた食事の時と空気は同じ。
世間話をする時のトーンで、お互いの今日の予定を確認する。
「和音は今日仕事休みにしたんだっけ?」
「うん。会社に事情話したら、今日と明日はお休みにしてくれた。とりあえず今日は買い物行って、必要なもの色々と買ってくるよ」
「俺は仕事行くけど六時には終わるし、迎えに行くからまた連絡してくれる?」
「え? あの、でも……」
「買い物するなら荷物多いだろうし、車出した方が楽でしょ。布団とかどうやって持って帰る気でいたの?」
「それはその……圧縮されて箱に入ってるなら持てると思うから、普通に手で運ぶつもりだった」
「コンパクトになってても重さは変わらないでしょ。そのくらい手伝うよ」
遠慮しようと言葉を発する前に「外食したい気分だし、そのまま何か食べて帰ろうか。付き合ってよ」と付け加えられ、私の買い物を手伝ってもらうという行動が、食事に行くついでに迎えにいくだけという体に変わる。
私が良い関係だと感じていたこの繋がりは、結人のこういう細かい気遣いの上に成り立っているのだ。
再会してからの結人の言動を、好きだなと感じてしまうことがそれなりにあった。過去の事を都合の良い部分だけ忘れかけて、絆されていたのは確かだと思う。
色々と優しくされて、何も返せない罪悪感のせいで苦しく感じているのだと思っていた。でもきっと、それだけじゃなかったのだろう。
この関係を心地良いと思っていたのは私だけで、結人は無理に繕っているだけなんじゃないのかな、と。
そう気付いた瞬間から、なんだかずっと息がしにくい。
髪だけ軽く手櫛で整えて部屋から出ると、リビングの大きな窓から入る光が眩しくて少しだけ目を細めた。
結人はまだ寝室で眠っているのだろうか。起きてくる前に身支度を整えようと洗面所に向かい、まだ眠たい頭を冷たい水で無理矢理起こす。
洗顔と歯磨きを済ませてさっぱりしたところで洗面所を後にすると、起きたばかりらしい結人が部屋から出てきて、廊下で鉢合わせになった。
「んー……和音? おはよ。ちゃんと眠れた?」
「うん、おはよう。お陰様でゆっくりできたよ。ありがとう」
「そ、よかった」
嬉しそうに柔らかく瞳を細めた結人が、私と入れ替わりで洗面所に入る。いかにも寝起きという感じで、纏う空気がいつもより緩い感じがした。
そういえば、学生時代も寝起きの結人はこんな感じだった気がする。
あの頃は当たり前のように一緒に寝ていたから、おはようを言うのはベッドの中だったけど。朝になったらいつもより少しふにゃふにゃしている結人に抱きつかれて、しばらく離してもらえないことが多かったことを思い出す。
いや、離してもらえないのは、別に寝起きの時だけじゃなかったか。
子供みたいな甘え方をするのは朝のベッドの中だけだったけど、テレビを見ている最中ずっと結人の脚の間に座って後ろから腕を回されていたりとか、外出中は基本的にずっと手を繋がれたままだったりとか、寝る時も結人の腕の中に閉じ込められるようにしてベッドに入っていた。
思い出してみると、適度な距離が空いている時間の方が短かったような気がする。
その時と比べると、今の結人は不自然なくらいに私に触らない。
再会してから何度か食事に行ったけど、タクシーで帰る時も距離を空けて座ってくれるし、結人の部屋に泊まらせてもらっている今も、学生の頃のようにどこかが触れてしまうような距離で座ったり話したりはしていない。
直接触れるような事があったのは、火事の件を知らせに迎えにきてくれた時くらいだろうか。
あの時は非常事態で無意識だったせいか、車に向かう際に軽く腕を引かれた気がする。
もちろん、全く触れることのない今のそれが、悪いことだとは思っていない。
付き合っているわけではないし、このくらいの距離の取り方が普通なのは分かっている。
変に距離を詰められることがないから安心していた部分だってあるはずなのに、私は今更何を気にしているんだろうか。
一度思い出してしまうと、色々と考えてしまう。
子供の時の話だと言ってしまえばそれで終わりだけど、婚約なんてする前からずっと、結人は私との距離が近かったように思う。
物心着いた時からそういう距離で結人と過ごしていた所為か、結人のパーソナルスペースは凄く狭いイメージだった。
今のこれが適度な距離感だと結人が考えているなら、別にそういうわけではなかったのだろうけど、ただ距離を置かれているだけなのだとしたらやっぱり迷惑になっているんじゃないかな、私。
あの頃と比べたら、今は完全に他人との距離感だ。
先に戻ってきたリビングでぐるぐると考えていると、軽く身支度を整えて結人もリビングに戻ってくる。
顔を洗ってしっかりと目が覚めたのか、キッチンに立ってパンの袋を手に持った結人に私から近付いた。
ただでさえ色々と迷惑をかけている状態なのに、結人にばっかりやらせてこれ以上不快に思われたくない。
「あの、私も何か手伝うよ?」
「パンと卵焼くぐらいだから別にいいけど……ああ、それならコーヒー淹れてくれる? カップそっちの棚にあるから好きなの使って」
「……分かった。結人はブラックでいい?」
「うん。ありがと、よろしくね」
今の短い会話に違和感はないのに、やっぱりまだあまり親しくない距離のように感じてしまう。
結人の外向けの顔で対応されている気がして、急に細かいことが気になりだしてしまった。
コーヒーを淹れて欲しいと言ったのも、私が手持ち無沙汰にならないように、ちょうどよく頼めることを振ってくれたのだろう。
私に対する話し方や雰囲気。大人になって少し変わったのかな程度に思っていたけど、寝起きのあれが結人の素のままなのだとしたら、今の私に向けられているのは恐らく会社用の外面だ。
社会を上手に渡っていくための、しっかりしていて優しく、親しみやすい結人の表の顔。
別に素の結人がしっかりしていないとか優しくないと思っているわけではないけれど、ここまで完璧な人じゃなかったように思う。
もし家の中が息を抜ける場所だったとしたら、私がそれを奪っていることになるんじゃないだろうか。
「和音。パン焼けたけど、バターとか自分で塗る?」
「あ、うん。こっちも出来たよ」
引っ越してくる時に揃えたのか、まだ新しいカップにコーヒーを淹れてテーブルに運ぶ。
同じくパンの乗ったお皿を運んでくれた結人と向かい合う形で座り、いただきますと手を合わせた。
家の中で軽く朝食を摂っているだけなのに、定期的に行っていた食事の時と空気は同じ。
世間話をする時のトーンで、お互いの今日の予定を確認する。
「和音は今日仕事休みにしたんだっけ?」
「うん。会社に事情話したら、今日と明日はお休みにしてくれた。とりあえず今日は買い物行って、必要なもの色々と買ってくるよ」
「俺は仕事行くけど六時には終わるし、迎えに行くからまた連絡してくれる?」
「え? あの、でも……」
「買い物するなら荷物多いだろうし、車出した方が楽でしょ。布団とかどうやって持って帰る気でいたの?」
「それはその……圧縮されて箱に入ってるなら持てると思うから、普通に手で運ぶつもりだった」
「コンパクトになってても重さは変わらないでしょ。そのくらい手伝うよ」
遠慮しようと言葉を発する前に「外食したい気分だし、そのまま何か食べて帰ろうか。付き合ってよ」と付け加えられ、私の買い物を手伝ってもらうという行動が、食事に行くついでに迎えにいくだけという体に変わる。
私が良い関係だと感じていたこの繋がりは、結人のこういう細かい気遣いの上に成り立っているのだ。
再会してからの結人の言動を、好きだなと感じてしまうことがそれなりにあった。過去の事を都合の良い部分だけ忘れかけて、絆されていたのは確かだと思う。
色々と優しくされて、何も返せない罪悪感のせいで苦しく感じているのだと思っていた。でもきっと、それだけじゃなかったのだろう。
この関係を心地良いと思っていたのは私だけで、結人は無理に繕っているだけなんじゃないのかな、と。
そう気付いた瞬間から、なんだかずっと息がしにくい。
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