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第一章

9 結婚の決定

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「いやぁ、めでたい。まさか、上の娘を気に入ってくださるとは、思いもしなかった」

 父は紫水様から私と結婚したいという話を聞き、二つ返事で承諾した。
 私は初めて郷戸ごうどの家族と食事を共にし、朝食の席では、分厚い卵焼きを食べた。
 その朝食の席で、母は作り笑いを浮かべ、苦しい言い訳をする。

「女中扱いしていたわけじゃないんですよ。下の子と違って、一般家庭に嫁ぐだろうと思って、親心で家事をさせていただけですの」

 などと、言ったが、邪険に扱われていたのを目の当たりにしていた紫水様たちは苦笑し、母に対して、なにも答えなかった。
 急に私を娘扱いし始めたのは、紫水様か陽文ひふみさんのどちらかに、郷戸の血を引く娘を嫁がせたいという父の思惑があったからだ。
 女中たちと同等の娘が、気に入られると思っていなかった父は、慌てふためき、私を布団部屋ではない空き部屋に移した。
 さらに父は、紫水様の気が変わらぬようにと、必死に私を売り込む。

「確かに下の子より、地味な姿ですがね。ひと通りの家事はこなせますし、嫁にやるにはちょうどいい娘です。いいご縁がないか探していたところですよ」

 今まで父の眼中にもなかった私が、中心になって面白くなかったのは、玲花れいかだ。
 玲花は箸をきつく握りしめ、私をずっと睨んでいた。 
 機嫌が悪くなるのを見越してか、朝食のお膳に牛肉の大和煮があった。
 牛肉の大和煮の缶詰は、父が東京の百貨店で購入したもので、とっておきの品だった。
 それを朝食に出したのは、父の指示に違いない。
 父の目論見どおり、玲花が癇癪を起し、お膳をひっくり返すことはなく、黙って朝食を食べていた。
 
「お父様。世梨せりは女学校も出てないのよ? 立派な家柄のお家へ嫁がせるなんて、郷戸の恥になるわ!」
「玲花。お前が言いたいことはわかる。だが、これは郷戸にとって、いい機会なんだ。政財界に顔が利く千後瀧家ちごたきけだぞ」

 玲花がなにを言っても父は相手にせず、頭の中にあるのは、千後瀧の名前だけ。
 父は張り切って、朝食の後、和室の客間に場所を移した。
 昨日の客間とは、また違う部屋で、ここの客間には樹齢の長いけやきの木から作られた立派な一枚板の大きなテーブルがある。
 木目の中にある丸い玉杢たまもくが美しく、父自慢の欅のテーブルに、紅茶とカステラが置かれた。
  
「コーヒーはどうも苦くて飲み慣れないのですが、紅茶だと飲みやすい。自分はこちらが好きでしてね」
「郷戸さんが紅茶を嗜む方とは、知りませんでした。泊めていただいたお礼に、のちほど紅茶の葉を届けさせましょう」
「それはありがたいことです。国産紅茶もなかなかのものでしてな」
「わかります」

 陽文ひふみさんは父と上手に会話を交わしながら、ソーサーに手を添え、ティーカップを持ち上げる。
 そして、私に向かって、にっこり微笑んだ。
 私が洋食器に慣れてないことに、陽文さんは気づいたようで、どう扱えばいいのか、さりげなく教えてくれた。
 私が恥をかかないよう気遣ってくれたおかげで、玲花に馬鹿にされずに済んだ。
 ここで、失敗しようものなら、紫水様との結婚を反対されてしまっていただろう。
 一方の紫水様は手をつけておらず、なにか考え込んでいた。

「郷戸の主人。ひとつ聞きたいのだが、ご長男はどちらに?」

 紫水様は清睦きよちかさんのことを知っているのか、父に尋ねた。
 清睦さんは帝大に通っていて、今年は正月も帰郷せず、東京で過ごすと言って、下宿先で年を越した。
 郷戸ごうどへ帰ってきたのは、私が来る前のことで、私はまだ清睦さんと顔を合わせていない。

「息子は帝大に通ってまして。いやぁ、自分に似ず、優秀な子でしてね。郷戸の跡取りとして、立派に育ってくれています」

 なんだ、美術学校ではないのかと、小さな声で紫水様が呟いた。
 その声は私以外、聞こえていなかったようで、父は構わず話を続けた。

「カステラを召し上がってください。郷戸は昔からの家ですが、洋食も口にするんですよ。西洋かぶれだと、馬鹿にする者もいますがね」

 玄関から入ってすぐの座敷の片隅には囲炉裏がまだ残っている。
 肌寒い日だからか、今日は囲炉裏が珍しく使われていて、この客間にも火鉢がひとつ運ばれてきた。

「東京の家には暖炉があったのですが、先の震災で焼失してしまいましてね」
「わかります。大変な出来事でしたから。三葉みわ財閥の建物も多く焼失しました。奥様のご実家である本宮もとみやの本家もですよね?」
「ええ……」

 気まずそうに母は頷いた。
 本宮の本家は事業に失敗し、家を売りに出していた最中で、すでに郊外の借家に移っていた叔父夫婦は無事だった。
 借家暮らしが嫌だったのか、祖父が亡くなるのと同時に訪ねてきて、私を追い出し、祖父の家に住みだした。

「弟夫婦は父が遺した財産で、なんとか生活していますの」
「なるほど。生活が苦しくて、千秋せんしゅうの着物を売り払ったのか」
「ええ。お恥ずかしい限りでございます。それに弟は、父の形見分けと言って、着物を何着か持ってきたのですけど、どれも失敗作ばかり。千後瀧様に、とてもお見せできるようなものではありません」

 困惑している母に、紫水様が言った。
 父は着物には興味がなく、どうでもいいだろうという顔をしていた。

「もし、いらないのであれば、売っていただきたい」
「でも、父の失敗作ですのよ?」
「構わない。千秋の作品はすべて手に入れたい」

 祖父の失敗作だとばかり思っていた母は、渡された着物をすべて着物箪笥に片付け、一度も袖を通したことがなかった。
 それを買ってくれるとあって、母は嬉々として女中に言いつけ、着物を持ってこさせた。
 玲花は祖父の着物に興味がないようで、ずっと退屈そうにしていた。

「お母様がもらった着物って、ほとんど無地か地味な柄よね。流行りの柄じゃないし」

 そんな着物はいらないわと、玲花は言って紅茶を飲んだ。

「間違いなく、千秋の着物だ。千秋の落款らっかんがある」

 着物の内側に記された祖父の落款。
 それを本物の証として、紫水様は全員に見せた。
 雅号である千秋の文字が刻まれている。

「千秋は必ず、自分の作品に落款を入れていた。それは本人のみならず、弟子にもそうするよう伝えていた。違うか?」

 紫水様は私に尋ねた。
 きっとこの中で唯一答えられるのは私だけと、判断したせいだろう。
 そして、柄の欠けた部分の文様を持っているのは私だ。

「……そうです」

 私が返事をすると、紫水様は全員の前で、はっきり言った。

「これをすべて、売っていただきたい」
「すべて!? こんな失敗作をですか」

 驚く母に紫水様は頷き返した。

「失敗作ではない。千秋は自分の失敗作を世に出すような男じゃなかった」
「凡人の目には失敗作にしか見えませんが、さすが千後瀧先生。芸術家でいらっしゃる」

 父は西洋の美術品には興味があるけれど、着物には詳しくなく、母が持ってこさせた祖父の着物をちらっと見ただけだった。

「こちらで全部になりますわ」

 母のほうは祖父の着物の価値がわかっているけれど、失敗作はいらないと思っていた。
 だから、気にしていなかった。
 でも、これではまるで、詐欺だと思い、隣に座る紫水様をさりげなく見ると目が合い、にやりと悪い顔で笑った。
 
「千秋様の落款は本物ですが、よろしいのですか?」
「もちろんです。私は千秋の娘。落款が本物かどうか判別できますわ。これは、父の失敗作です」
「そうですか」

 陽文さんからも確認されたけれど、母はいい機会だと思ったらしく、すべて売ることに決めたようだった。

「買っていただき、助かりましたわ」

 母は上機嫌で、着物を売ったお金でなにを買おうか算段している。

「あー、その。それでですな。娘の結婚についてなんですが」

 内心、父は着物どころではなかった。
 早く私の嫁入りの話をまとめたくて仕方がないようで、落ち着かない。
 着物の話をしていても上の空。
 ずっとソワソワしていた。

「世梨を嫁にもらう」
「そうですか! いやいや、それで、いつ頃に? 早い方がよろしいですかな? こっちとしては明日にでも嫁にやりたいくらいなのですが」
「さすがにそれは、早すぎませんか?」

 前のめりになる父を陽文さんが苦笑し、止めた。
 けれど、それを否定したのは、紫水様だった。

「俺は明日でも構わない」
「本当ですか! で、では、はやく支度を!」

 父は興奮気味で立ち上がり、明日と聞いた母が慌てだした。
 
「ま、まあ! 早く招待客を決めて、連絡しなくてはなりませんわ。千後瀧の方にご連絡はどうしましょう?」
「千後瀧家には連絡不要だ」
「いや、千後瀧先生。さすがにそれは……。ご当主に相談せず、結婚されると後々面倒が起きるとも限りません」

 父の言葉を聞いて、陽文さんが声を立てて笑った。

「見えないでしょうが、千後瀧先生がご当主です」
「なんと!?」
「表向きのことは、先代当主の奥様が取り仕切っていますが、千後瀧の一族は別です。一族は当主の決定に従う」

 両親は驚き、玲花が息を呑む。
 言ってほしくなかったのか、紫水様は陽文さんを睨んだ。

「当主と思わず、ただの水墨画家だと思っていただきたい」

 紫水様の一言に、父がほっと息を吐き出した。

「ああ、そうですか! いやぁ、千後瀧家のご当主に娘を貰っていただけるのであれば、郷戸の将来……いや、娘の将来は安泰ですな」
「あなた、玲花は……」

 ひそひそと母が耳打ちすると、父は首を横に振った。

「世梨でも構わないだろう。欲しいと言うなら、どちらでもいい。向こうが乗り気なんだ。玲花の相手は後で探す」

 父の目的は、自分が議員になるため、政界での繋がりを持つことだった。
 厄介者の娘が高く売れて、よかったと思っているに違いない。
 さっきから、頬が緩みっぱなしで、父は満足そうだ。

蒐集家しゅうしゅうかとは別に、水墨画の仕事もある。なるべく、早く東京へ戻りたい」
「わかりました。すぐに祝言をあげましょう!」

 ――今すぐにということ?

 いくらなんでも早すぎると思ったけど、父は乗り気で、止まる様子はない。
 それを聞いた玲花が声を張り上げた。

「お父様っ! 私のお相手はどうなるの?」
「お前の相手は後から、ちゃんと探してやるから待っていなさい」
「そんなの嫌よ! 世梨より下の相手は絶対に嫌っ!」
「今は世梨の結婚準備で忙しい。お前の話は後で聞く」

 父はそれどころではないとばかりに、玲花を押しやった。
 今まで、父からそんな扱いを受けたことがなかった玲花は、癇癪を起こしかけ、慌てて母が止めた。

「私たちはこれで失礼させていただきます。後は主人がやるでしょうから」

 玲花を連れ、母は部屋から出て行った。

「お嬢さんに期待させてしまったようで、すみません」
「いやいや。さすがに高望みすぎました。世梨だけでも、千後瀧先生の目に留まり、御の字ですよ。まぁ、父の私が言うのもなんですが、家事仕事はきちんとできますからね」

 昨日まで私を邪険に扱い、女中だとしか思っていなかった父は、突然、私を娘扱いした。

「それでは、失礼。お二人はごゆっくりなさっていてください。世梨。話し相手になって、退屈させないようにするんだぞ」

 父は私に命じると、部屋から早足で出ていった。
 客間には、私と紫水様たちだけが残された。

「よし。郷戸にある千秋の着物を手に入れたぞ」
「向こうが失敗作と勘違いしてくれて、助かりました」
「あの……これって、詐欺では……」

 私が言うと、紫水様たちはとてもいい笑顔で答えてくれた。

「俺は本物の落款だと伝えたぞ」
「そうですよ。こっちは嘘をついていません」
「千秋の着物は、文様と文様を繋ぐと物語になる。ひとつでも欠けていれば、完成しない」

 ――知っている。

 ひとつでも欠けていたなら、意味のない駄作になる。
 だから、私は着物から文様を奪ったのだ。

「世梨。お前には俺の龍文がある」

 手のひらに淡く浮かぶ龍文は契約の証だ。

「お前は俺が守る。もう必要ないだろう」
「はい」

 紫水様の龍文のおかげか、鉛みたいに重かった体は軽くなり、疲労感もなくなった。

「私も祖父の着物を不完全なままにしておきたくありません」

 私の言葉に、紫水様は微笑んだ。その微笑みを目にし、急に胸が苦しくなった気がした。

「紫水様。本当に私と結婚するおつもりですか?」
 
 私が持つのは、文様を奪い身に宿すという変わった力だけ。
 なにかの役に立つような力ではない。

「世梨。お前が必要だ」

 その言葉が本心でなくても、私は泣きたくなるほど嬉しかった。
 嘘の結婚でもいいと思えるくらいに。
 紫水様と出会って二日目――私の嫁入りが正式に決まった。  
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