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12 【胡桃】パンが作れちゃう!? 万能な家政夫
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『やっと生物が住める家になった』とラウリの口から聞くようになった頃、森は春の名残を消し、初夏の森へと姿を変えた。
初夏の森は緑が濃い――深緑の森はしっとりと露に覆われ、様々な鳥達の鳴く声が響いている。森のそこらに青や白などの野の花が控えめに咲き、小川に泳ぐ魚の鱗が光を反射させ、目の端に銀色の光を捉えた。
そんな平和な森の中。
「なんだっ! この虫はっー!」
ラウリの絶叫が平穏と静寂を打ち破る。
木の枝が揺れ、カラス達が数羽、畑から飛び去って行くのが見えた。
平和を乱す彼は伝説の竜、竜人族、オブシディアンドラゴン。
声だけで畑からカラスを追い払うなんて、さすがだなぁと逃げたカラス達の背中を見送った。
カラスを追い払った強いはずのラウリ。それなのに畑に大量発生している虫を指差し、石のように固まっていた。
「竜なのに虫が怖いんですか?」
「いやいやいや! そうじゃない! 大量の虫の中、お前が嬉しそうに微笑んでいる姿が怖いんだが」
「あ、虫ですか? この虫は決まった葉っぱに生息する虫なんです。布が綺麗な赤に染まるんですよ」
「虫で布を染めるのか?」
「そうですよ。あ、断っておきますけど、虫の血の色で赤くなっているわけではないです」
気のせいじゃなかったら、ラウリに軽く引かれたような気がしたけど……気のせいだよね?
「それから、私が虫好きというわけではないですよ? ムカデとか苦手だし」
飼うなら、私から逃げずにお腹をなでさせてくれる猫か、近寄っても吠えずにもふもふさせてくれる犬を飼いたいと思っている乙女な私。
「意外とワイルドな奴だな……」
「竜なのに虫が怖いんですか?」
「いや。とうとう家が汚すぎて虫がわいたのかと思っただけだ」
真顔で言われてしまった。
でも、虫がいるのは外だし、家の中はラウリが掃除を続けてくれているおかげでだいぶ片付いた。
「あのー……。もしかして、外にまで片付けの魔の手を伸ばしているんですか?」
外は私にとって宝物庫同然。畑や周辺の森には染物に使う大事な草や花がある。雑草と勘違いして、竜の聖なる炎とかなんとか必殺技名を口にしながら燃やし尽くされないか不安になった。
「なにが魔の手だ。清浄化しているの間違いだろう。敷地内全体が清掃対象だ」
「ぜ、ぜ、ぜんぶっ? 困りますっ!」
「困る? 今のところ不都合はあったか?」
そう言われて、私はラウリと過ごした日々を振り返ってみた。
清潔なシーツ、お日様の匂いがする枕、きちんと分類された本、温かいご飯。クモの巣やホコリが取り除かれたロク先生からもらったお土産の鳩時計。
心なしか、クルッポーと鳴いて時間を知らせる鳩の声も明るいものに感じる。
「ないですけど……」
「ならいいな」
よくないのに居心地がいいため、反論できなかった。
けれど、どんどん私の領土が失われつつあるのもまた事実。
コレクションしてあった瓶の蓋も捨てられたし、形のいい石ころ達を集め、空き箱に入れてあった石ころ達も問答無用で庭の砂利の中に混ぜられてしまった。
もしかしたら、その中に宝石の原石があったかもしれないのに……
「虫を愛でるのはそれくらいにして昼食にするぞ」
「染物師の仕事をしてるだけです!」
遊んでいるわけじゃないのになんだか、私への尊敬がいまいち足りてない気がする。
草だらけの畑から出ると帽子と手袋、エプロンをはずして家の入り口前にかけた。泥だらけのエプロンをしたまま、家の中まで入れることをラウリは絶対に許してくれない。
「わぁ、パンのいい匂いします」
この間、ラウリと一緒に町へ行った時、小麦やバターを購入したおかげで食事内容はかなり向上した。
焼きたてのパンがこんなにおいしいものだとは今までずっと知らなかった。
こんがりキツネ色に焼きあがったパンは手で半分に割ると、白くふんわりとした中身が顔を出し、湯気が立ち昇る。冷えないようにオーブンの隅に置いてあったパンは熱々だった。
「昼食のパンはなんのパンですか?」
「クルミのキャラメリゼを入れた蜂蜜クルミパンだ」
「絶対、おいしいやつじゃないですか」
クルミは私がクルミの殻で布を染めるため、大量のクルミを集め、乾燥させて外の作業場に吊るしてあったものだ。
それを発見したラウリはクルミを割り、殻を綺麗に取り除き、クルミの実を取り出すと炒って蜂蜜にからめてくれた。だから、最近は甘く香ばしいクルミのキャラメリゼをつまみながらのミルクティーやコーヒーでティータイムをするのが私のお気に入り。
まだまだたくさんあったから、パンに入れたらしい。
そして、ラウリが割ってくれたクルミの殻で布と毛糸を染めた。秋色のものをと、ルチアさんから依頼されていたのを思い出して、さっそくひとつ仕事が終わった。
町でクルミ色の服や帽子を見る度にきっと私はクルミのキャラメリゼを思い出すだろう。
「ヨダレを垂らすなよ」
「まだ垂れてないので大丈夫です!」
「この先も大丈夫でいろよ……」
綺麗に片付けられた食堂にはテーブルクロスとランチョンマット、私が集めていた空き瓶のひとつに川辺に咲いていた花が飾られている。
空き瓶だけは捨てられず、花瓶になったり、乾燥キノコやハーブが入っていたり、おしゃれな瓶は手作りランタンとなって夕暮れから夜の部屋を明るく照らしていた。明るくといえば、曇っていた窓は磨かれて、窓の前に立つ人の顔や服を鏡のように映し出し、透明度が増したおかげで昼の白く明るい光が部屋に差し込むようになった。
「ラウリはどこまで完璧なんですか……?」
「おい。入り口で立ち止まるな。前を塞ぐな。早く席に着けよ」
私の背後に立っていたラウリは両手に昼食を抱えていた。
台所から焼きたての蜂蜜クルミパンが詰まったバスケットと野菜たっぷりのスープが入った大鍋を軽々と持っている。
スープの鍋を食堂の薪ストーブの上に置くと、蓋を開けた。
白い湯気と同時に肉と野菜が炒められ、煮込まれた香りが食堂に広がる。スープにはラウリが作った薫製肉が入っていた。脂身が多い肉は干して薄くスライスすることで肉の旨味と野菜のダシが合わさり、栄養満点のおいしいスープに仕上がっている。
「クルミと蜂蜜の組み合わせは最強ですね」
「なあ、パンを焼いていて気づいたんだが、オーブンを使った様子がなかった。まさかとは思うが、今まで料理をしていなかったのか?」
ラウリの指摘にドキッとした。
『家事ができない彼氏募集中アリーチェちゃん』なんていう私の自己紹介プロフィールが頭に浮かぶ。
そのうち、『ものぐさ彼氏募集中アリーチェちゃん』みたいに変化していくかもしれない。そうなれば、彼氏いない歴年齢まっしぐら。
これはよくない、よくない傾向ですよ!
私にはコットンキャンディを食べながらデートをするいう野望がある。早めにこのマイナスイメージを払拭しなければと、キリッとした顔で私は答えた。
「染物の仕事が忙しくて食べるのを忘れてしまうんですよね。一人だと作るのも面倒だし……」
「忙しい? その割に雑誌やら恋愛小説が山積みになってるな」
「捨てないでくださいね。大事なことがたくさん書いてあるんです。熟読するつもりなんですからっ!」
「あれを? 『これであなたもモテモテに! 今シーズンの必勝ドレス!』、『目指せ、美ボディ。ダイエット成功の秘訣』……。これを熟読するのか?」
「読まないでください!」
「読まないとゴミかどうか、判別できないだろうが」
先日、私の愛読書達が紐でくくられているのを目にしたから、ラウリの中ではゴミとして判別されたようだった。
燃やされる前に発見し、家の中へと戻して死守したからよかったものの、あのままだったら灰になっていただろう。
形あるものは灰塵に帰すべしと、かっこいいことを言って私を説得してくるから困る。
お気に入りのものが土に還っていいなんて心境にはまだ至れない未熟な私、アリーチェ十六歳。
「まあ、料理できない人間だということはわかった」
仕事を理由にして頑張ったけど、ラウリの鋭い黒の瞳の前では嘘をつくことはできず、これ以上のうまい言い訳も見つからなかった。
張りたい見栄すら張れずにあっさり撃沈。
「染物の師匠から料理を教わらなかったのか」
「はい。でも、お湯を沸かしたり、野菜を切ったりすることはできますよ」
染物の工程で必要な作業はできる。
ただ料理をするとなると、その手順がよくわからない。
私が物心ついてから、そばで料理を作る人というものが存在しなかった。
ロク先生と近くの食堂で食べたり、パン屋や屋台で買ったものを日々口にしていたから、実践的な料理は未知の世界。
最近はラウリが家事をする様子を眺めているから、前よりは色々できるようになったと思う。
「本当に一人で暮らしていたんだな」
「ロク先生の不在をしっかり守っていました」
「しっかりね……」
ラウリはなにか言いたそうな顔をしただけで、それ以上なにも言わなかった。
私が毎食スープをおかわりするからか、黙って二杯目のスープを皿に入れ、大盛りにしてくれた。ラウリが作るスープは具だくさんでおいしい。
「食後のお茶だぞ」
「ありがとうございます」
ティーカップに注がれた琥珀色の紅茶にレモンの輪切りを一枚入れ、角砂糖をひとつポトンと落としてくれた。溶け出した角砂糖から、しゅわしゅわと細かい泡が出るのが楽しくて溶け終わるまで眺める。
レモンが入った紅茶を飲むのは始めてで、どんな味がするのかワクワクしていた。
ラウリは料理だけじゃなく、お茶にも凝っていて、ジャムやシナモンを加えたり、リンゴの皮でアップルティーを作ってくれたりと一工夫加えてくれるのだ。
角砂糖が完全に溶けるのを待ち、スプーンでレモンを潰して果肉を紅茶の中に混ぜ、輪切りレモンを入れたまま、こくっと飲んだ。
その瞬間、目がカッと見開かれ、ぶるぶるとカップを持つ自分の手が震えているのがわかった。
「おい、どうした?」
「す、酸っぱいっ!」
「そんな言うほど酸味は強くない……って、レモンをスプーンで潰したのか」
レモンは潰さずにサッとレモンをすくい出すだけでよかったらしく、紅茶に混じった果肉をラウリが眺め、困った顔をしていた。
「あ、あのっ……角砂糖をたくさん入れたら飲めます」
「新しくお茶をいれてやるよ。やっぱりミルクのほうがいいか。なあ、アリーチェ……」
「乳牛は飼わないですよ」
早朝、近くの農場まで牛乳を買いに行っているラウリ。料理に牛乳を使うことが多く、ラウリが乳牛を欲しがっていることに気づいていた。
どこまで完璧主義なのか知らないけど、さすがに生き物は飼えない(虫は除く)。
だって、いつまでラウリが私と一緒に暮らすのかわからない。
ラウリは術の借金分、働こうと思っているみたいだけど、こんなに優秀な家政夫なら、すぐに借金を返し終わってしまうだろう。
「ほら、ミルクティー」
ラウリが新しく紅茶を入れ直してくれた。
私の口直しにと、カップのソーサーに雪のような砂糖衣を纏わせたドライフルーツが添えられていた。
アプリコットやオレンジなどを乾燥して作ったおやつは保存がきく。もしかしたら、ラウリは自分がいなくなった後のことを考えて保存できそうな物を作っているのかもしれない。
そう思うと、甘くて優しい味がするドライフルーツのはずが、だんだんと味がしなくなり、ちょびちょび齧ってお茶と一緒に飲み込んだ。
「次は早めにレモンを紅茶から取り出せよ。オレンジは果肉を食べるが、レモンは果肉を食べない。スプーンでレモンを潰す必要はない」
人生初のレモンティーは酸味と苦味の複雑な味がした。
口の中にドライフルーツの砂糖衣の甘さを残したまま、新しいカップに注がれたミルクティーを飲み、そのまろやかな甘さで酸味と苦味を中和させる。
「次からはそうします……。なにも知らなくてごめんなさい」
「どうした。珍しくしおらしいな。俺はお前がなにも知らないとは思っていないぞ。染物の腕は悪くないしな」
空色に染めたカーテン、若草色のソファーカバー。私のベッドカバーは薄桃色でラウリが使っている居間の簡易のソファーベッドには葡萄色の濃い紫のカバーを。
どれも森で暮らしている私が目にした色で、森の色を再現したいと考え、試作品として染めたものばかりだった。
「同じ色でも種類が多い。これほど豊富な色を識る者は竜人族でもいない」
「色の種類が多いのはロク先生の教えなんです。自然の色を大事にするように言われているので、自然にある色を表現できるよう日々研究しているんです」
「そのロクという奴は今、どこに?」
「わかりません。ロク先生は私にも居場所を教えてくれないんです」
「拾われた時は赤ん坊だったんだろう?」
「はい。ロク先生に拾われなかったら、どうなっていたか。でも、一人で留守番をするようになったのはロク先生の弟子になってからですよ」
それでも十歳より下だったけど、あえて年齢は言わなかった。ラウリがちょっと怒っているように見えたから。
「ロク先生は私が待っていれば、絶対に帰ってきてくれます。帰ってこないんじゃないかなんて、心配したことはないですよ」
私が待っているとロク先生が知っているから、いつも帰って来てくれた。そして、帰って来るたび、たくさんのお土産と面白い話、新しい知識と技術を私に与えてくれる。
この森の家だって、ロク先生がいつ来てもいいように二人分の食器を用意した。王都から森に移り住むのを記念して、植物の葉や蔓、花の柄の食器を買い、ソファーは簡易ベッドになるようなものを選んだ。
でも、まさかロク先生が使う前に同居人ができて、食器を二つ並べて食事をするなんて、あの頃の私には少しも想像できなかった。
「そいつに会いたいな」
「え? ロク先生にですか?」
「ああ。そうだ」
「ロク先生に会ってどうするんですか?」
「大事なことを言うつもりだ」
大事なことがなんなのか、私には想像できなかった。
でも、ラウリは真剣な顔をしていたし、口調も真面目だった。彼がロク先生に会ってなにを言うつもりなのかと、胸がドキドキした。
男性が女性の親に言いたい大事なことって、もしかして――
「弟子に染物を教えるより先にパンを焼くことと掃除を教えろと言うに決まっている」
「なっ……! ロク先生に告げ口はやめてくださいっ!」
私がちゃんと一人でやれているところを見せたいのに『ああ、アリーチェ。まだまだですね』なんて言われて失望されてしまう!
「ラウリ。先生が帰ってきた時、絶対に私を褒めてください!」
「いいぞ。お前に褒められるような部分があったらな」
「ぐっ……! さっきは染物の腕がいい。アリーチェ、なんて素晴らしいんだ。俺の完敗だよって言ってたじゃないですか」
「勝手にセリフを足すな。誰が完敗だ。お前にだけはなにひとつ負ける気がしない」
「ひ、ひどっ……げほっ、げほっ!」
反論しようとして慌てて飲み込んだドライフルーツが喉に突き刺さり、むせて咳き込んでしまった。
慌てた私はそばにあったカップを手に取り、一口飲む。ドライフルーツを流し込もうとしたから、一口とはいえ大量に口に含んだ。
「おい、アリーチェ。それは……」
初夏の森は緑が濃い――深緑の森はしっとりと露に覆われ、様々な鳥達の鳴く声が響いている。森のそこらに青や白などの野の花が控えめに咲き、小川に泳ぐ魚の鱗が光を反射させ、目の端に銀色の光を捉えた。
そんな平和な森の中。
「なんだっ! この虫はっー!」
ラウリの絶叫が平穏と静寂を打ち破る。
木の枝が揺れ、カラス達が数羽、畑から飛び去って行くのが見えた。
平和を乱す彼は伝説の竜、竜人族、オブシディアンドラゴン。
声だけで畑からカラスを追い払うなんて、さすがだなぁと逃げたカラス達の背中を見送った。
カラスを追い払った強いはずのラウリ。それなのに畑に大量発生している虫を指差し、石のように固まっていた。
「竜なのに虫が怖いんですか?」
「いやいやいや! そうじゃない! 大量の虫の中、お前が嬉しそうに微笑んでいる姿が怖いんだが」
「あ、虫ですか? この虫は決まった葉っぱに生息する虫なんです。布が綺麗な赤に染まるんですよ」
「虫で布を染めるのか?」
「そうですよ。あ、断っておきますけど、虫の血の色で赤くなっているわけではないです」
気のせいじゃなかったら、ラウリに軽く引かれたような気がしたけど……気のせいだよね?
「それから、私が虫好きというわけではないですよ? ムカデとか苦手だし」
飼うなら、私から逃げずにお腹をなでさせてくれる猫か、近寄っても吠えずにもふもふさせてくれる犬を飼いたいと思っている乙女な私。
「意外とワイルドな奴だな……」
「竜なのに虫が怖いんですか?」
「いや。とうとう家が汚すぎて虫がわいたのかと思っただけだ」
真顔で言われてしまった。
でも、虫がいるのは外だし、家の中はラウリが掃除を続けてくれているおかげでだいぶ片付いた。
「あのー……。もしかして、外にまで片付けの魔の手を伸ばしているんですか?」
外は私にとって宝物庫同然。畑や周辺の森には染物に使う大事な草や花がある。雑草と勘違いして、竜の聖なる炎とかなんとか必殺技名を口にしながら燃やし尽くされないか不安になった。
「なにが魔の手だ。清浄化しているの間違いだろう。敷地内全体が清掃対象だ」
「ぜ、ぜ、ぜんぶっ? 困りますっ!」
「困る? 今のところ不都合はあったか?」
そう言われて、私はラウリと過ごした日々を振り返ってみた。
清潔なシーツ、お日様の匂いがする枕、きちんと分類された本、温かいご飯。クモの巣やホコリが取り除かれたロク先生からもらったお土産の鳩時計。
心なしか、クルッポーと鳴いて時間を知らせる鳩の声も明るいものに感じる。
「ないですけど……」
「ならいいな」
よくないのに居心地がいいため、反論できなかった。
けれど、どんどん私の領土が失われつつあるのもまた事実。
コレクションしてあった瓶の蓋も捨てられたし、形のいい石ころ達を集め、空き箱に入れてあった石ころ達も問答無用で庭の砂利の中に混ぜられてしまった。
もしかしたら、その中に宝石の原石があったかもしれないのに……
「虫を愛でるのはそれくらいにして昼食にするぞ」
「染物師の仕事をしてるだけです!」
遊んでいるわけじゃないのになんだか、私への尊敬がいまいち足りてない気がする。
草だらけの畑から出ると帽子と手袋、エプロンをはずして家の入り口前にかけた。泥だらけのエプロンをしたまま、家の中まで入れることをラウリは絶対に許してくれない。
「わぁ、パンのいい匂いします」
この間、ラウリと一緒に町へ行った時、小麦やバターを購入したおかげで食事内容はかなり向上した。
焼きたてのパンがこんなにおいしいものだとは今までずっと知らなかった。
こんがりキツネ色に焼きあがったパンは手で半分に割ると、白くふんわりとした中身が顔を出し、湯気が立ち昇る。冷えないようにオーブンの隅に置いてあったパンは熱々だった。
「昼食のパンはなんのパンですか?」
「クルミのキャラメリゼを入れた蜂蜜クルミパンだ」
「絶対、おいしいやつじゃないですか」
クルミは私がクルミの殻で布を染めるため、大量のクルミを集め、乾燥させて外の作業場に吊るしてあったものだ。
それを発見したラウリはクルミを割り、殻を綺麗に取り除き、クルミの実を取り出すと炒って蜂蜜にからめてくれた。だから、最近は甘く香ばしいクルミのキャラメリゼをつまみながらのミルクティーやコーヒーでティータイムをするのが私のお気に入り。
まだまだたくさんあったから、パンに入れたらしい。
そして、ラウリが割ってくれたクルミの殻で布と毛糸を染めた。秋色のものをと、ルチアさんから依頼されていたのを思い出して、さっそくひとつ仕事が終わった。
町でクルミ色の服や帽子を見る度にきっと私はクルミのキャラメリゼを思い出すだろう。
「ヨダレを垂らすなよ」
「まだ垂れてないので大丈夫です!」
「この先も大丈夫でいろよ……」
綺麗に片付けられた食堂にはテーブルクロスとランチョンマット、私が集めていた空き瓶のひとつに川辺に咲いていた花が飾られている。
空き瓶だけは捨てられず、花瓶になったり、乾燥キノコやハーブが入っていたり、おしゃれな瓶は手作りランタンとなって夕暮れから夜の部屋を明るく照らしていた。明るくといえば、曇っていた窓は磨かれて、窓の前に立つ人の顔や服を鏡のように映し出し、透明度が増したおかげで昼の白く明るい光が部屋に差し込むようになった。
「ラウリはどこまで完璧なんですか……?」
「おい。入り口で立ち止まるな。前を塞ぐな。早く席に着けよ」
私の背後に立っていたラウリは両手に昼食を抱えていた。
台所から焼きたての蜂蜜クルミパンが詰まったバスケットと野菜たっぷりのスープが入った大鍋を軽々と持っている。
スープの鍋を食堂の薪ストーブの上に置くと、蓋を開けた。
白い湯気と同時に肉と野菜が炒められ、煮込まれた香りが食堂に広がる。スープにはラウリが作った薫製肉が入っていた。脂身が多い肉は干して薄くスライスすることで肉の旨味と野菜のダシが合わさり、栄養満点のおいしいスープに仕上がっている。
「クルミと蜂蜜の組み合わせは最強ですね」
「なあ、パンを焼いていて気づいたんだが、オーブンを使った様子がなかった。まさかとは思うが、今まで料理をしていなかったのか?」
ラウリの指摘にドキッとした。
『家事ができない彼氏募集中アリーチェちゃん』なんていう私の自己紹介プロフィールが頭に浮かぶ。
そのうち、『ものぐさ彼氏募集中アリーチェちゃん』みたいに変化していくかもしれない。そうなれば、彼氏いない歴年齢まっしぐら。
これはよくない、よくない傾向ですよ!
私にはコットンキャンディを食べながらデートをするいう野望がある。早めにこのマイナスイメージを払拭しなければと、キリッとした顔で私は答えた。
「染物の仕事が忙しくて食べるのを忘れてしまうんですよね。一人だと作るのも面倒だし……」
「忙しい? その割に雑誌やら恋愛小説が山積みになってるな」
「捨てないでくださいね。大事なことがたくさん書いてあるんです。熟読するつもりなんですからっ!」
「あれを? 『これであなたもモテモテに! 今シーズンの必勝ドレス!』、『目指せ、美ボディ。ダイエット成功の秘訣』……。これを熟読するのか?」
「読まないでください!」
「読まないとゴミかどうか、判別できないだろうが」
先日、私の愛読書達が紐でくくられているのを目にしたから、ラウリの中ではゴミとして判別されたようだった。
燃やされる前に発見し、家の中へと戻して死守したからよかったものの、あのままだったら灰になっていただろう。
形あるものは灰塵に帰すべしと、かっこいいことを言って私を説得してくるから困る。
お気に入りのものが土に還っていいなんて心境にはまだ至れない未熟な私、アリーチェ十六歳。
「まあ、料理できない人間だということはわかった」
仕事を理由にして頑張ったけど、ラウリの鋭い黒の瞳の前では嘘をつくことはできず、これ以上のうまい言い訳も見つからなかった。
張りたい見栄すら張れずにあっさり撃沈。
「染物の師匠から料理を教わらなかったのか」
「はい。でも、お湯を沸かしたり、野菜を切ったりすることはできますよ」
染物の工程で必要な作業はできる。
ただ料理をするとなると、その手順がよくわからない。
私が物心ついてから、そばで料理を作る人というものが存在しなかった。
ロク先生と近くの食堂で食べたり、パン屋や屋台で買ったものを日々口にしていたから、実践的な料理は未知の世界。
最近はラウリが家事をする様子を眺めているから、前よりは色々できるようになったと思う。
「本当に一人で暮らしていたんだな」
「ロク先生の不在をしっかり守っていました」
「しっかりね……」
ラウリはなにか言いたそうな顔をしただけで、それ以上なにも言わなかった。
私が毎食スープをおかわりするからか、黙って二杯目のスープを皿に入れ、大盛りにしてくれた。ラウリが作るスープは具だくさんでおいしい。
「食後のお茶だぞ」
「ありがとうございます」
ティーカップに注がれた琥珀色の紅茶にレモンの輪切りを一枚入れ、角砂糖をひとつポトンと落としてくれた。溶け出した角砂糖から、しゅわしゅわと細かい泡が出るのが楽しくて溶け終わるまで眺める。
レモンが入った紅茶を飲むのは始めてで、どんな味がするのかワクワクしていた。
ラウリは料理だけじゃなく、お茶にも凝っていて、ジャムやシナモンを加えたり、リンゴの皮でアップルティーを作ってくれたりと一工夫加えてくれるのだ。
角砂糖が完全に溶けるのを待ち、スプーンでレモンを潰して果肉を紅茶の中に混ぜ、輪切りレモンを入れたまま、こくっと飲んだ。
その瞬間、目がカッと見開かれ、ぶるぶるとカップを持つ自分の手が震えているのがわかった。
「おい、どうした?」
「す、酸っぱいっ!」
「そんな言うほど酸味は強くない……って、レモンをスプーンで潰したのか」
レモンは潰さずにサッとレモンをすくい出すだけでよかったらしく、紅茶に混じった果肉をラウリが眺め、困った顔をしていた。
「あ、あのっ……角砂糖をたくさん入れたら飲めます」
「新しくお茶をいれてやるよ。やっぱりミルクのほうがいいか。なあ、アリーチェ……」
「乳牛は飼わないですよ」
早朝、近くの農場まで牛乳を買いに行っているラウリ。料理に牛乳を使うことが多く、ラウリが乳牛を欲しがっていることに気づいていた。
どこまで完璧主義なのか知らないけど、さすがに生き物は飼えない(虫は除く)。
だって、いつまでラウリが私と一緒に暮らすのかわからない。
ラウリは術の借金分、働こうと思っているみたいだけど、こんなに優秀な家政夫なら、すぐに借金を返し終わってしまうだろう。
「ほら、ミルクティー」
ラウリが新しく紅茶を入れ直してくれた。
私の口直しにと、カップのソーサーに雪のような砂糖衣を纏わせたドライフルーツが添えられていた。
アプリコットやオレンジなどを乾燥して作ったおやつは保存がきく。もしかしたら、ラウリは自分がいなくなった後のことを考えて保存できそうな物を作っているのかもしれない。
そう思うと、甘くて優しい味がするドライフルーツのはずが、だんだんと味がしなくなり、ちょびちょび齧ってお茶と一緒に飲み込んだ。
「次は早めにレモンを紅茶から取り出せよ。オレンジは果肉を食べるが、レモンは果肉を食べない。スプーンでレモンを潰す必要はない」
人生初のレモンティーは酸味と苦味の複雑な味がした。
口の中にドライフルーツの砂糖衣の甘さを残したまま、新しいカップに注がれたミルクティーを飲み、そのまろやかな甘さで酸味と苦味を中和させる。
「次からはそうします……。なにも知らなくてごめんなさい」
「どうした。珍しくしおらしいな。俺はお前がなにも知らないとは思っていないぞ。染物の腕は悪くないしな」
空色に染めたカーテン、若草色のソファーカバー。私のベッドカバーは薄桃色でラウリが使っている居間の簡易のソファーベッドには葡萄色の濃い紫のカバーを。
どれも森で暮らしている私が目にした色で、森の色を再現したいと考え、試作品として染めたものばかりだった。
「同じ色でも種類が多い。これほど豊富な色を識る者は竜人族でもいない」
「色の種類が多いのはロク先生の教えなんです。自然の色を大事にするように言われているので、自然にある色を表現できるよう日々研究しているんです」
「そのロクという奴は今、どこに?」
「わかりません。ロク先生は私にも居場所を教えてくれないんです」
「拾われた時は赤ん坊だったんだろう?」
「はい。ロク先生に拾われなかったら、どうなっていたか。でも、一人で留守番をするようになったのはロク先生の弟子になってからですよ」
それでも十歳より下だったけど、あえて年齢は言わなかった。ラウリがちょっと怒っているように見えたから。
「ロク先生は私が待っていれば、絶対に帰ってきてくれます。帰ってこないんじゃないかなんて、心配したことはないですよ」
私が待っているとロク先生が知っているから、いつも帰って来てくれた。そして、帰って来るたび、たくさんのお土産と面白い話、新しい知識と技術を私に与えてくれる。
この森の家だって、ロク先生がいつ来てもいいように二人分の食器を用意した。王都から森に移り住むのを記念して、植物の葉や蔓、花の柄の食器を買い、ソファーは簡易ベッドになるようなものを選んだ。
でも、まさかロク先生が使う前に同居人ができて、食器を二つ並べて食事をするなんて、あの頃の私には少しも想像できなかった。
「そいつに会いたいな」
「え? ロク先生にですか?」
「ああ。そうだ」
「ロク先生に会ってどうするんですか?」
「大事なことを言うつもりだ」
大事なことがなんなのか、私には想像できなかった。
でも、ラウリは真剣な顔をしていたし、口調も真面目だった。彼がロク先生に会ってなにを言うつもりなのかと、胸がドキドキした。
男性が女性の親に言いたい大事なことって、もしかして――
「弟子に染物を教えるより先にパンを焼くことと掃除を教えろと言うに決まっている」
「なっ……! ロク先生に告げ口はやめてくださいっ!」
私がちゃんと一人でやれているところを見せたいのに『ああ、アリーチェ。まだまだですね』なんて言われて失望されてしまう!
「ラウリ。先生が帰ってきた時、絶対に私を褒めてください!」
「いいぞ。お前に褒められるような部分があったらな」
「ぐっ……! さっきは染物の腕がいい。アリーチェ、なんて素晴らしいんだ。俺の完敗だよって言ってたじゃないですか」
「勝手にセリフを足すな。誰が完敗だ。お前にだけはなにひとつ負ける気がしない」
「ひ、ひどっ……げほっ、げほっ!」
反論しようとして慌てて飲み込んだドライフルーツが喉に突き刺さり、むせて咳き込んでしまった。
慌てた私はそばにあったカップを手に取り、一口飲む。ドライフルーツを流し込もうとしたから、一口とはいえ大量に口に含んだ。
「おい、アリーチェ。それは……」
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