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9 足りないもの

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会場を出て唯冬ゆいとが私を連れてきたのは自分のマンションだった。
最上階のペントハウスはルーフバルコニー付きで当然ながら眺めがいい。
今はまだ日が沈んでいないから、夜景とまではいかないけれど、ビルの灯りが点々と灯り始めて、夕暮れ時特有の不思議な気持ちを味わった。

「どうかした?」

「すごいマンションに住んでいるんだなって思って」

「親からもらったマンションだよ」

「もらった!?こんな部屋を?気前のいい両親ね……」

私の親は学費のみだけで、生活費はもらえなかった。
親からは大学の学費を支払ってやるだけでもありがたいと思えと言われ、その後は私の存在は完全に無視。
だから、大学時代はアルバイトをいくつかやって生活していた。
どれも音楽とは無縁のコンビニやファミレスの店員のバイト。
いろいろやってみたけど、自分に接客は向かないことはしっかりと理解できたと思う……

「俺の親は会社経営をしていて、本当は俺にもピアノは続けてほしくないって思ってる。大学を出るまでにピアノで食べることができないなら、やめるように言われてた」

私と逆。
そう思っているのが顔に出ていたのか、唯冬は笑いながら言った。

「つまり、ここをくれたのはこの部屋を維持できるくらい稼げたなら続けていいっていう親からのプレッシャーだよ」

「まだ学生だったのに!?」

「遊ばせるのは学生の間までってことだったんだろうな」

そう言って唯冬は窓からビルを見ろした。
彼は勝者だ。
この風景を眺めることが許される存在。
小さなアパートで暮らしていた私とは大違い。
なにもできずに縮こまって生きていた自分が恥ずかしく感じた。
失ってしまえば、もうそれで全部終わりだと思っていた。
終わりではなかったのに。

「親の考えはともかく、俺は千愛を連れ戻すまでは絶対にやめる気はなかった」

そう言って防音設備が整った部屋のドアを開けた。
グランドピアノが二台―――一緒に弾くことを考えて置いてあるのだと気づいた。
どうして、ここまで私にできるの?
それが不思議でならない。

「私を連れ戻してどうするの?私になにを望むの?」

唯冬はふっと目を細めた。
まるで愚問だと言わんばかりの態度で。

「君の音を俺に聴かせてくれたら、それでいい」

「雨の庭を聴いたでしょ。もう無理なの」

重たい指、水の中に沈んだまま、浮かべない音。
止めてくれなかったから、溺死していたかもしれない。
二度と弾きたいなんて思わなかっただろう。
でも今は―――

「今は指が動かないだけだ。弾きたいからってすぐに弾けるわけないだろ?何年もブランクがあるんだから」

「指だけじゃない……」

気持ちにもブランクがある。
同じ曲を弾いてもあの頃の私とは同じ曲にはならないだろう。

「そんな千愛にこれをプレゼントしよう」

ぽんっと頭の上に紙袋をのせた。

「なに?」

「弾いていいよ。ただし、無茶苦茶に弾くのはナシで」

「……ハノン」

紙袋から出てきたのは練習教本ハノンだった。
六十番まである練習曲。
指の練習用に使うもので実はあんまり好きじゃない。

「不満そうだな」

「そんなことない……」

唯冬には嘘がつけない。
というか、私の心がわかるの?というくらいすぐに考えていることがバレてしまう。
そして、悔しいくらい私の先を読む。

「指のケアをきちんとすること。それから、ちゃんと食事をすることと睡眠時間はとること」

「そんなの気にしたことないわ」

「奏者にとって体は音を出すための楽器の一部だろ?」

「そうだけど。誰も私にそんなふうに言ったことなかったから。そう言われてもわからない」

「じゃあ。これからは意識するんだな」

思えば、今までは両親は私のことは好きにさせていた。
弾きたいだけ弾かせて、食べたくなったら食べる。
冷えた食事をそのまま食べることもあった。
口に入るものなら、なんでもいいなんて思っていた。

「千愛に足りないのは熱だよ」

「熱……」

「音楽への熱があれば、弾きたいっていう気持ちが自然に持にてるようにになる」

「唯冬は先生みたいね」

それも口うるさいタイプの。
唯冬はにこっと嬉しそうな顔をした。
今のは嫌みなのになぜ?と思っているとハノンを私の手からとり、台に置いた。

「名前、呼んでくれて嬉しい」

手をとり、手のひらに口づける。
柔らかな感触と熱が伝わり、自分の顔が赤くなるのがわかった。

「ちょっ、ちょっと!いちいち手にキスをしないで!」

「じゃあ、口に」

「なおさら、ダメっっっ!」

身構えると唯冬は渋々手を離した。

「魔法のキスかもしれないのに」

「もうだまされないわよ」

油断大敵。
ちょっと気を抜くとなにをするかわからない。
とんでもないわ……本当に。

「魔法は効いてるみたいだけど?」

人の悪い笑みを浮かべる。
どこまでお見通しなのだろう。
今、私は弾きたい。
なにも考えずに無心で。
そこになんの理由もなく、弾きたいという気持ちだけがあった。
だから、奏でることはできないけれど、弾くことはできる。
その確認のために。

「千愛の邪魔になりたくないから、おとなしくするかな。夕飯は食べていけばいい。ゆっくり弾けるだろ?」

「あ、ありがとう」

唯冬が部屋から出ていくとホッとして、椅子に座った。
整えられた設備に二台のピアノ。
そして、ハノン。
私がここに来ることがわかっていたかのようにすべてが整えられていた。
弾けるかどうかもわからない私のために。
私のことをからかわなければ、本当に親切でいい人だと思う。

「千愛」

「はっ、はい!」

悪いことはなにもしていないのにドキッとして声がうわずってしまった。
唯冬はそばに立つとキャンディの包みのような和紙で包まれた丸いお菓子を見せた。

「口を開けて」

「く、口!?」

唯冬は紙をくるくるとほどき、指でつまむと唇に添えた。
な、な、なんでっ!?自分で食べれるのに……

「ん?」

混乱している私ににっこり微笑んだ。
観念して口を開けると、唯冬は親鳥が雛鳥にエサを与えるように上を向かせて唇に指を触れさせた。
ドキドキしているのは私だけかもしれない。
唯冬は表情を崩さず、目を細めて白い砂糖菓子を口の中にいれた。
小さな丸い砂糖菓子は雪みたいにスッと溶けた。

「甘くておいしい……これはなに?」

優しい甘さのお菓子は私の心に染みて、緊張が解けていく。

「千愛がピアノを弾けるようになるお菓子。弾く前に食べるといい」

そう言うと唯冬は笑いながら、砂糖菓子が入った銀の缶を置いて部屋からでていってしまった。

「……弾けるように」

ポーンと音を鳴らす。
完璧に調律されたピアノ―――じっと鍵盤をみた。
また弾けるだろうか。
元の私みたいに?
なにか違和感を感じた。
私は元の自分の演奏に戻りたいわけじゃない。
前とは違う弾きたい理由が今はある。
そんな気がした。
まだその答えは出ていないけれど、与えられたハノンを一番からそっと壊れ物に触れるかのように恐々と弾き始めた。
ピアノに触れてなかった日々が頭をよぎる。
その苦しみを噛み締めながら、まだ楽しいにはほど遠い演奏を続けた。
優しい甘さの砂糖菓子がその苦しみを和らげてくれる。
魔法みたいに。
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