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——とある山の中に、人が訪れることを拒むように木々に覆われた、小さな家があった。
その家に通ずるのは、獣道にしては整えられた人が一人通れる程度の細い道のみ。
家の周囲には門扉もなく、あるのは地面に打ちつけられた手斧が一つ。
その斧には魔獣避けのまじないがかけられていて、昼間でもぼんやりと光っていた。
「お前たち、迷惑だからもう出ていってくれ」
その小さな家から、低い男の声と共に二人の男が追い出された。
男らはどちらもかなりの巨体で、がっしりとし、並の男で押し出せるような体躯ではない。にもかかわらず、彼らはいともたやすく家から叩き出された。
もちろん彼らも抵抗は試みた。押し出されながらもドアの木枠にしがみつき、必死で男を説得をしていたが、それは無駄な抵抗で終わった。
「もう来るなと言ってあっただろう」
「し、しかし! 団としては、あなたに戻ってきていただきたいのです! 戦わずとも、いてくださるだけで……」
「ハクラシス殿!! 戻れという陛下からの命令を無視するのですか!?」
ハクラシスは彼らの言い分に耳を傾けることなく「俺は戻らない。もう二度と来るな」とだけ吐き捨て、ドアを閉めた。
しばらくして男たちが去る音がし、ハクラシスは彼らが去ったのを確認すると、はーっと深いため息を吐いた。
ここに来てから何度目だろうか。国から使者が来るのは。
ハクラシスは自身の小隊で起こった不祥事の責任を負い、騎士団を辞め、この家とも呼べぬほど狭く小さな小屋に引きこもっていた。
もう何もかもが嫌になったハクラシスは、一人ひっそりと暮らすつもりで王都を出たのに、国はハクラシスが騎士団から離れることを良しとしなかった。
最初は国王陛下直下の使者。その次はかつての同僚で、そして今日は騎士団の仕切る国のお偉方。何度断っても諦めない。
そのうち忙しい騎士団長まで引っ張り出しそうな勢いだ。
表向きでは、国の英雄に戻ってきて貰たいという人聞きのよいことを言っているが、実のところは内部のことを知り尽くした軍人に、他国に行かれたら困るというだけの話で、いわば反逆を阻止するための監視行為だ。
確かにハクラシスくらいの実力があれば、国をひっくり返すきっかけくらいは作れるかもしれない。それくらい慕う者もかつては多かった。
——そう、かつては。
名誉と引き換えに家族を失い、熱意などとうに消え去った。挙げ句、お情けで座らされた小隊の長の椅子では、部下すらまともに指揮することができなかったのだ。
こんな男に今更誰がついてくるものか。
ハクラシスは、吐いても吐いても溢れ出るため息を、注いだ酒とともに飲み込んだ。
苛立ちが酒を求め、ここでは貴重となってしまった酒を惜しげもなく次々とカップについでは、喉に流し込む。
男たちが去った後もそんなふうに酒を手に取り、再びこの小さな小屋に誰かが訪れたことに気がついたのは、すでに一瓶が喉の奥に消え、次の酒をと棚に手を伸ばした時だった。
(……なんだ、まさか奴らが戻ってきたのか)
木のドアをコンコンとノックする音がする。
ここは隣近所すらない山の中。滅多に人が踏み入れない場所だからこそ、ここに居を構えたのだ。
だからここに来るのは、ここを知る者だけ。
だとしたらあの男らが、諦めきれず戻ってきたとしか考えられない。放っておけばそのうちどこかへ行くだろう。
そう無視を決め込み、ハクラシスは棚から新しい瓶を取り出すとカップに注いだ。
だが諦め悪くノックの音は止むどころか、大きくなるばかり。
時折「すみません」「いらっしゃいませんか」という声も聞こえる。
(さっきの者らとは何となく声が違うような気もするが……。だがあいつら以外来る者もいない)
無視しても止まないノックに苛立ちが募り、ハクラシスはドン飲み切ったカップを机に置くと、「しつこいぞ!」と怒声とともにドアを開けた。
しかし、そこにいたのは先ほどの男たちではなかった。
マントを羽織り目深にフードを被った男。
いきなり開いたドアから怒声が聞こえ、驚きその場に固まっていた。
一瞬しまったなと思ったが、それが一体誰なのか。ハクラシスは眉間に皺を寄せ、じっと探るように相手を眺めた。
——どこかで見た顔だ。
ハクラシスはそう思った。
だがすぐには分からない。ハクラシスの怒声に驚く見開いた目。
昔このような驚き方をよくされた。これは上の者に対する緊張と怯えの混ざった目だ。
そう、小隊を持っていたときはよくこういう目を向けられた——
「レ、レイズンか……?」
「ハクラシス小隊長殿!」
そこにいたのはあのレイズンだった。
ハクラシスに名を呼ばれ、ホッとした表情を見せる。
「……痩せたのか? フードでかくれているせいか顔つきが変わったように見えるが……」
「ああ、そうかもしれません。ちょっとここまで一人で旅をしてきたので。野営ばかりだったので、痩せたかもしれません」
フードを取り去りレイズンは痩せた顔をさらけ出すと、にっこりと笑い、手を胸に当てお辞儀した。
「ご無沙汰しております! ハクラシス小隊長殿!」
レイズンは明るく、やつれて髪が伸びた以外は小隊にいた頃と変わりないように感じた。
だが痩せた顔が物語るとおり、マントを脱ぐとかつて鍛えた体は見る影もなく、元騎士とは思えないほど細い体が現れた。
魔獣やら獣も多いこのあたりの山を一人で巡り、よくこの小さな小屋まで無事に辿り着いたなとはクラシスは感心した。
「細く見えますが、これでも筋肉はしっかりついているんですよ。お金がなくて贅沢できなかったせいで痩せてしまいましたが、逆に無駄な肉がなくなって身軽になりました」
レイズンは袖を捲って腕を見せた。確かに細いが筋肉はついている。レイズンが持っていた短刀にも魔獣よけの守りがついていて、何とかこれでしのいできたのだろうと、ハクラシスは思った。
「小隊長殿も随分変わられましたね。髪も伸びて、髭も生えてて……白髪増えましたね。最初人違いかと思って焦りました。でもあの怒鳴り声はあの頃のままで安心しました」
そう嬉しそうに笑うレイズンからは、あのひどい事件の影など微塵も感じられない。ハクラシスは安堵した。
「しかしよくここが分かったな。誰にも言ってはいなかったんだが」
「探しましたよ! 急にいなくなってしまわれて。もう半年ほどですか? いろいろ情報を辿って、やっとここまで来ました。下の街で山奥に変な爺さんが住みついてるって噂になってましたよ」
「爺さん……」
はははっとレイズンが楽しそうに笑った。
「小隊長に会えて良かったです。顔を見れて安心しました。……きっとご迷惑だろうから、これで」
今来たばかりなのに、レイズンが立ち上がり椅子にかけたマントを掴んだのを見て、ハクラシスは思わず声をかけた。
「もう行くのか。じき夜になるぞ。山は危ない。今日はここに泊まれ」
「でも、……お邪魔じゃないですか」
「いや、問題ない。ゆっくりしていけ」
「いいんですか? ……それではお言葉に甘えて!」
なぜ引き止めたのかハクラシスも分からなかった。
ただ何となく、懐かしくなったからなのか。それともわざわざ二心なく訪ねてくれたのが嬉しかったのか。今日くらいはいいだろう、そう思った。
酒とちょっとしたつまみを用意すると、レイズンの腹がグーっと鳴った。はははと照れたように笑うが、本当は腹が空いていたのだろう。つまみ程度で溜まるような腹ではなく、ハクラシスは残っていた肉と野菜を焼き、パンを添えて出すとレイズンはガツガツと食べ始めた。
「もう干し肉も底をつきかけていて、今日まで残りをちょっとずつちぎって食べていたんですよ。ここで小隊長殿に会えなかったら、この山で俺は飢え死にでした」
パンを残った肉汁に浸しながら、レイズンはへへへと戯けて言った。
だがその痩せようは冗談では済まないと、ハクラシスはさらに追加で備蓄として置いていた塩気の強いハムを切った。もう少し野菜があれば良かったが、男の一人住まいだ。普段使う野菜の量もたかが知れている。
「これ美味いですね! どこで買ったんですか? ああ、あの下の街です? 俺もここを発つときに買っておこうかな」
ハムを頬張りながら嬉しそうにしているレイズンを、ハクラシスは不思議な気持ちで眺めていた。
ハクラシスがレイズンを見たのはあの憔悴しきった姿が最後で、あれから半年ほどでよくここまで立ち直ったものだ。
レイズンはハクラシスが注ぐたび、美味そうにカップの酒を飲み干した。
ほろ酔い気分のレイズンは小隊にいたころよりも饒舌で、よく食べよく飲んで、そしてよく喋った。
子供の頃の話や親のこと。——この時はじめてハクラシスは、レイズンの親はもうおらず一人きりだということを知った。そしてこの旅の間に起こったことなど、相槌をうつだけのハクラシスに終始楽しそうに話しをした。
グテングテンになったレイズンが眠りこけてしまうと、ハクラシスは床に敷物を敷き、綿の入った分厚いマットとシーツで簡易的なベッドをこしらえるとそこに寝かせた。
テーブルの上を片づけ、レイズンの持ってきた荷物を端に寄せ片づけると、ハクラシスは椅子に座り一息ついたところで、目を閉じた。
実はこの家にはベッドがなく、寝床はさっきレイズンに与えたものが一揃えのみだった。
長い軍人生活のお陰でゆっくり寝るという習慣がなく、もう随分長いこと足を伸ばして寝ていない。狭いこの家の空いている床に敷物を敷き、毛布にくるまり丸まって眠る。それがいつものスタイルだった。
組んだ足を机の上に投げ出し、目を閉じてしばらく経った頃。
それまでカーカーと軽やかに聞こえていたレイズンの寝息が、次第に呻き声に変わっていたことに気がついた。
最初こそ無視していたハクラシスだったが、それが多少うなされる程度ならまだしも、悲鳴のような声に変わったところで飛び起きた。
全身汗びっしょりで歯を食いしばり、涙でびしょびしょになった顔を何度も振り、「嫌だ」「やめてくれ」「ラック」「助けて」と繰り返すレイズンに、ハクラシスはハッとなった。
——彼はまだ立ち直ってなどいない。まだあの悪夢の中にいるのだ。仲間や恋人に裏切られ、見せしめとして強姦された事実をそう簡単に忘れるわけがない
あの日、犯人らの精液でドロドロにされたまま横たわっていたレイズンの姿を思い出した。
そういえば今日レイズンは小隊での思い出は何一つ語らなかった。
今日ここに立ち寄ったのも、もしかすると何か思うところがあってのことかもしれない。そう思うと、さっき引き止めていて正解だったのだろう。
「レイズン!? レイズン! 起きろ! 俺だ。分かるか?」
あの日のように、ハクラシスはレイズンの頬をパチパチと叩き、声をかける。
何かを掴もうとするかのように足掻くレイズンの手を握り、ハクラシスは諦めず何度も繰り返し呼びかけた。
するとレイズンはいきなり「ひっ」という悲鳴とともにハッと目を見開き、まだ夢から覚め切れていないのか状況を把握できない様子でハクラシスを見た。喉からぐうという妙な音がしたかと思うと、レイズンが慌てて体を捻り、床にぐえっという声とともに嘔吐した。
——あれだけ食べたのだ。床には結構な量の吐瀉物が広がるまで、レイズンは嘔吐し続けた。そして涙と吐瀉物でグチャグチャになった顔を両手で覆い、すみませんすみませんと嗚咽した。
レイズンはもう長いことそうやってきたのだろう。あの日からまともに寝られたことなどないのかもしれない。だからこんなに痩せてしまったのだ。そう思うとハクラシスの胸は痛んだ。
「……いい、気にするなレイズン。顔を洗ってやるから待っていろ」
「すみません、すみません……小隊長……」
「いいと言っている。……ほら、手をどけろ。顔が拭けないだろうが」
洗い場の端に掛けていたタオルを取り、水に濡らして固く絞ると、いまだ謝り続けるレイズンの顔を拭いた。
「……う……っぷ……」
口回りだけではなく顔全体を拭いてやると、擦りすぎたのかちょっと赤くなったレイズンの顔が現れた。
じっと自分を見ているレイズンに「辛くないか」と聞いた。「大丈夫です」と小さな声で頷くのを見て、今度は彼の手のひらを拭き清めた。次に床の掃除を始めると、慌てたレイズンが「自分がやります!」と起きあがろうとするのを制止し、手際よく処理をして事を終えた。
最後に水を手渡して、たらいにうがいをさせると、ハクラシスは気が済んだかのように椅子に座った。
「……ハクラシス小隊長殿」
「……なんだ?」
「ありがとうございます」
「いいと言ってるだろう」
「明日俺、出ていきますから、もう迷惑かけませんから」
「…………」
マットに顔を伏せてレイズンがそう告げるのを、ハクラシスは目を瞑ったまま黙って聞いていた。
翌朝、まだ空も白む時間、レイズンの起きる気配がした。ハクラシスに黙って出ていく気だろう。——このままやり過ごすこともできる。面倒ごとなどもう引き受けることはないのだ。そう思った。だが——
「レイズン、黙って出ていくとはずいぶん恩知らずだな」
手早く身支度を終え、ドアに手をかけようとしたレイズンの背中に、ハクラシスが声をかけた。
「……起きていらっしゃったんですか。申し訳ありません。起こしたくなくて……。昨日はご迷惑をおかけしました。小隊長殿とゆっくり話ができて、俺本当に嬉しかったです。もうここには来ません。小隊長殿もお元気で」
振りむきもせず、そう言ってドアに手をかけたレイズンの細い肩をハクラシスは掴んだ。
「行くんじゃない。お前、死ぬ気だろう。……ここにいろ。気がすむまでここに居ればいい。ここなら誰も来ない。お前を害する者もいない。ここにいろ」
レイズンは何も言わず俯いた。
「いいからここにいるんだ」
「……だって小隊長殿、ここ寝るところないじゃないですか。小隊長殿椅子で寝てるし。食べ物も肉ばっかりで、野菜もないし……」
「…………仕方ないだろう。ここは俺一人で使う予定だったんだから」
「だったら俺なんてほっておけばいいじゃないですか。俺痩せてるけど図体はでかいし、ここじゃ小隊長殿の生活の邪魔でしょう?」
ゴニョゴニョと背をむけ俯いたまま、何故か不平不満を言いだすレイズンに、ハクラシスが思わず苛立ち声を荒らげた。
「文句があるならお前が住みやすいようにどうにかすればいい! それでいいだろう!?」
バタッと荷物を床に落とす音がした。そしてわずかにレイズンの肩が揺れた。
一度手で顔を拭う仕草をすると、レイズンは思ったより元気な声を出した。
「言質とりましたよ! 小隊長殿! ではこれからよろしくお願いします!」
振り向き敬礼をしたレイズンの顔は満面の笑みで、ハクラシスは拍子抜けした。だがその目尻に溜まった涙を見逃してはいなかった。
その家に通ずるのは、獣道にしては整えられた人が一人通れる程度の細い道のみ。
家の周囲には門扉もなく、あるのは地面に打ちつけられた手斧が一つ。
その斧には魔獣避けのまじないがかけられていて、昼間でもぼんやりと光っていた。
「お前たち、迷惑だからもう出ていってくれ」
その小さな家から、低い男の声と共に二人の男が追い出された。
男らはどちらもかなりの巨体で、がっしりとし、並の男で押し出せるような体躯ではない。にもかかわらず、彼らはいともたやすく家から叩き出された。
もちろん彼らも抵抗は試みた。押し出されながらもドアの木枠にしがみつき、必死で男を説得をしていたが、それは無駄な抵抗で終わった。
「もう来るなと言ってあっただろう」
「し、しかし! 団としては、あなたに戻ってきていただきたいのです! 戦わずとも、いてくださるだけで……」
「ハクラシス殿!! 戻れという陛下からの命令を無視するのですか!?」
ハクラシスは彼らの言い分に耳を傾けることなく「俺は戻らない。もう二度と来るな」とだけ吐き捨て、ドアを閉めた。
しばらくして男たちが去る音がし、ハクラシスは彼らが去ったのを確認すると、はーっと深いため息を吐いた。
ここに来てから何度目だろうか。国から使者が来るのは。
ハクラシスは自身の小隊で起こった不祥事の責任を負い、騎士団を辞め、この家とも呼べぬほど狭く小さな小屋に引きこもっていた。
もう何もかもが嫌になったハクラシスは、一人ひっそりと暮らすつもりで王都を出たのに、国はハクラシスが騎士団から離れることを良しとしなかった。
最初は国王陛下直下の使者。その次はかつての同僚で、そして今日は騎士団の仕切る国のお偉方。何度断っても諦めない。
そのうち忙しい騎士団長まで引っ張り出しそうな勢いだ。
表向きでは、国の英雄に戻ってきて貰たいという人聞きのよいことを言っているが、実のところは内部のことを知り尽くした軍人に、他国に行かれたら困るというだけの話で、いわば反逆を阻止するための監視行為だ。
確かにハクラシスくらいの実力があれば、国をひっくり返すきっかけくらいは作れるかもしれない。それくらい慕う者もかつては多かった。
——そう、かつては。
名誉と引き換えに家族を失い、熱意などとうに消え去った。挙げ句、お情けで座らされた小隊の長の椅子では、部下すらまともに指揮することができなかったのだ。
こんな男に今更誰がついてくるものか。
ハクラシスは、吐いても吐いても溢れ出るため息を、注いだ酒とともに飲み込んだ。
苛立ちが酒を求め、ここでは貴重となってしまった酒を惜しげもなく次々とカップについでは、喉に流し込む。
男たちが去った後もそんなふうに酒を手に取り、再びこの小さな小屋に誰かが訪れたことに気がついたのは、すでに一瓶が喉の奥に消え、次の酒をと棚に手を伸ばした時だった。
(……なんだ、まさか奴らが戻ってきたのか)
木のドアをコンコンとノックする音がする。
ここは隣近所すらない山の中。滅多に人が踏み入れない場所だからこそ、ここに居を構えたのだ。
だからここに来るのは、ここを知る者だけ。
だとしたらあの男らが、諦めきれず戻ってきたとしか考えられない。放っておけばそのうちどこかへ行くだろう。
そう無視を決め込み、ハクラシスは棚から新しい瓶を取り出すとカップに注いだ。
だが諦め悪くノックの音は止むどころか、大きくなるばかり。
時折「すみません」「いらっしゃいませんか」という声も聞こえる。
(さっきの者らとは何となく声が違うような気もするが……。だがあいつら以外来る者もいない)
無視しても止まないノックに苛立ちが募り、ハクラシスはドン飲み切ったカップを机に置くと、「しつこいぞ!」と怒声とともにドアを開けた。
しかし、そこにいたのは先ほどの男たちではなかった。
マントを羽織り目深にフードを被った男。
いきなり開いたドアから怒声が聞こえ、驚きその場に固まっていた。
一瞬しまったなと思ったが、それが一体誰なのか。ハクラシスは眉間に皺を寄せ、じっと探るように相手を眺めた。
——どこかで見た顔だ。
ハクラシスはそう思った。
だがすぐには分からない。ハクラシスの怒声に驚く見開いた目。
昔このような驚き方をよくされた。これは上の者に対する緊張と怯えの混ざった目だ。
そう、小隊を持っていたときはよくこういう目を向けられた——
「レ、レイズンか……?」
「ハクラシス小隊長殿!」
そこにいたのはあのレイズンだった。
ハクラシスに名を呼ばれ、ホッとした表情を見せる。
「……痩せたのか? フードでかくれているせいか顔つきが変わったように見えるが……」
「ああ、そうかもしれません。ちょっとここまで一人で旅をしてきたので。野営ばかりだったので、痩せたかもしれません」
フードを取り去りレイズンは痩せた顔をさらけ出すと、にっこりと笑い、手を胸に当てお辞儀した。
「ご無沙汰しております! ハクラシス小隊長殿!」
レイズンは明るく、やつれて髪が伸びた以外は小隊にいた頃と変わりないように感じた。
だが痩せた顔が物語るとおり、マントを脱ぐとかつて鍛えた体は見る影もなく、元騎士とは思えないほど細い体が現れた。
魔獣やら獣も多いこのあたりの山を一人で巡り、よくこの小さな小屋まで無事に辿り着いたなとはクラシスは感心した。
「細く見えますが、これでも筋肉はしっかりついているんですよ。お金がなくて贅沢できなかったせいで痩せてしまいましたが、逆に無駄な肉がなくなって身軽になりました」
レイズンは袖を捲って腕を見せた。確かに細いが筋肉はついている。レイズンが持っていた短刀にも魔獣よけの守りがついていて、何とかこれでしのいできたのだろうと、ハクラシスは思った。
「小隊長殿も随分変わられましたね。髪も伸びて、髭も生えてて……白髪増えましたね。最初人違いかと思って焦りました。でもあの怒鳴り声はあの頃のままで安心しました」
そう嬉しそうに笑うレイズンからは、あのひどい事件の影など微塵も感じられない。ハクラシスは安堵した。
「しかしよくここが分かったな。誰にも言ってはいなかったんだが」
「探しましたよ! 急にいなくなってしまわれて。もう半年ほどですか? いろいろ情報を辿って、やっとここまで来ました。下の街で山奥に変な爺さんが住みついてるって噂になってましたよ」
「爺さん……」
はははっとレイズンが楽しそうに笑った。
「小隊長に会えて良かったです。顔を見れて安心しました。……きっとご迷惑だろうから、これで」
今来たばかりなのに、レイズンが立ち上がり椅子にかけたマントを掴んだのを見て、ハクラシスは思わず声をかけた。
「もう行くのか。じき夜になるぞ。山は危ない。今日はここに泊まれ」
「でも、……お邪魔じゃないですか」
「いや、問題ない。ゆっくりしていけ」
「いいんですか? ……それではお言葉に甘えて!」
なぜ引き止めたのかハクラシスも分からなかった。
ただ何となく、懐かしくなったからなのか。それともわざわざ二心なく訪ねてくれたのが嬉しかったのか。今日くらいはいいだろう、そう思った。
酒とちょっとしたつまみを用意すると、レイズンの腹がグーっと鳴った。はははと照れたように笑うが、本当は腹が空いていたのだろう。つまみ程度で溜まるような腹ではなく、ハクラシスは残っていた肉と野菜を焼き、パンを添えて出すとレイズンはガツガツと食べ始めた。
「もう干し肉も底をつきかけていて、今日まで残りをちょっとずつちぎって食べていたんですよ。ここで小隊長殿に会えなかったら、この山で俺は飢え死にでした」
パンを残った肉汁に浸しながら、レイズンはへへへと戯けて言った。
だがその痩せようは冗談では済まないと、ハクラシスはさらに追加で備蓄として置いていた塩気の強いハムを切った。もう少し野菜があれば良かったが、男の一人住まいだ。普段使う野菜の量もたかが知れている。
「これ美味いですね! どこで買ったんですか? ああ、あの下の街です? 俺もここを発つときに買っておこうかな」
ハムを頬張りながら嬉しそうにしているレイズンを、ハクラシスは不思議な気持ちで眺めていた。
ハクラシスがレイズンを見たのはあの憔悴しきった姿が最後で、あれから半年ほどでよくここまで立ち直ったものだ。
レイズンはハクラシスが注ぐたび、美味そうにカップの酒を飲み干した。
ほろ酔い気分のレイズンは小隊にいたころよりも饒舌で、よく食べよく飲んで、そしてよく喋った。
子供の頃の話や親のこと。——この時はじめてハクラシスは、レイズンの親はもうおらず一人きりだということを知った。そしてこの旅の間に起こったことなど、相槌をうつだけのハクラシスに終始楽しそうに話しをした。
グテングテンになったレイズンが眠りこけてしまうと、ハクラシスは床に敷物を敷き、綿の入った分厚いマットとシーツで簡易的なベッドをこしらえるとそこに寝かせた。
テーブルの上を片づけ、レイズンの持ってきた荷物を端に寄せ片づけると、ハクラシスは椅子に座り一息ついたところで、目を閉じた。
実はこの家にはベッドがなく、寝床はさっきレイズンに与えたものが一揃えのみだった。
長い軍人生活のお陰でゆっくり寝るという習慣がなく、もう随分長いこと足を伸ばして寝ていない。狭いこの家の空いている床に敷物を敷き、毛布にくるまり丸まって眠る。それがいつものスタイルだった。
組んだ足を机の上に投げ出し、目を閉じてしばらく経った頃。
それまでカーカーと軽やかに聞こえていたレイズンの寝息が、次第に呻き声に変わっていたことに気がついた。
最初こそ無視していたハクラシスだったが、それが多少うなされる程度ならまだしも、悲鳴のような声に変わったところで飛び起きた。
全身汗びっしょりで歯を食いしばり、涙でびしょびしょになった顔を何度も振り、「嫌だ」「やめてくれ」「ラック」「助けて」と繰り返すレイズンに、ハクラシスはハッとなった。
——彼はまだ立ち直ってなどいない。まだあの悪夢の中にいるのだ。仲間や恋人に裏切られ、見せしめとして強姦された事実をそう簡単に忘れるわけがない
あの日、犯人らの精液でドロドロにされたまま横たわっていたレイズンの姿を思い出した。
そういえば今日レイズンは小隊での思い出は何一つ語らなかった。
今日ここに立ち寄ったのも、もしかすると何か思うところがあってのことかもしれない。そう思うと、さっき引き止めていて正解だったのだろう。
「レイズン!? レイズン! 起きろ! 俺だ。分かるか?」
あの日のように、ハクラシスはレイズンの頬をパチパチと叩き、声をかける。
何かを掴もうとするかのように足掻くレイズンの手を握り、ハクラシスは諦めず何度も繰り返し呼びかけた。
するとレイズンはいきなり「ひっ」という悲鳴とともにハッと目を見開き、まだ夢から覚め切れていないのか状況を把握できない様子でハクラシスを見た。喉からぐうという妙な音がしたかと思うと、レイズンが慌てて体を捻り、床にぐえっという声とともに嘔吐した。
——あれだけ食べたのだ。床には結構な量の吐瀉物が広がるまで、レイズンは嘔吐し続けた。そして涙と吐瀉物でグチャグチャになった顔を両手で覆い、すみませんすみませんと嗚咽した。
レイズンはもう長いことそうやってきたのだろう。あの日からまともに寝られたことなどないのかもしれない。だからこんなに痩せてしまったのだ。そう思うとハクラシスの胸は痛んだ。
「……いい、気にするなレイズン。顔を洗ってやるから待っていろ」
「すみません、すみません……小隊長……」
「いいと言っている。……ほら、手をどけろ。顔が拭けないだろうが」
洗い場の端に掛けていたタオルを取り、水に濡らして固く絞ると、いまだ謝り続けるレイズンの顔を拭いた。
「……う……っぷ……」
口回りだけではなく顔全体を拭いてやると、擦りすぎたのかちょっと赤くなったレイズンの顔が現れた。
じっと自分を見ているレイズンに「辛くないか」と聞いた。「大丈夫です」と小さな声で頷くのを見て、今度は彼の手のひらを拭き清めた。次に床の掃除を始めると、慌てたレイズンが「自分がやります!」と起きあがろうとするのを制止し、手際よく処理をして事を終えた。
最後に水を手渡して、たらいにうがいをさせると、ハクラシスは気が済んだかのように椅子に座った。
「……ハクラシス小隊長殿」
「……なんだ?」
「ありがとうございます」
「いいと言ってるだろう」
「明日俺、出ていきますから、もう迷惑かけませんから」
「…………」
マットに顔を伏せてレイズンがそう告げるのを、ハクラシスは目を瞑ったまま黙って聞いていた。
翌朝、まだ空も白む時間、レイズンの起きる気配がした。ハクラシスに黙って出ていく気だろう。——このままやり過ごすこともできる。面倒ごとなどもう引き受けることはないのだ。そう思った。だが——
「レイズン、黙って出ていくとはずいぶん恩知らずだな」
手早く身支度を終え、ドアに手をかけようとしたレイズンの背中に、ハクラシスが声をかけた。
「……起きていらっしゃったんですか。申し訳ありません。起こしたくなくて……。昨日はご迷惑をおかけしました。小隊長殿とゆっくり話ができて、俺本当に嬉しかったです。もうここには来ません。小隊長殿もお元気で」
振りむきもせず、そう言ってドアに手をかけたレイズンの細い肩をハクラシスは掴んだ。
「行くんじゃない。お前、死ぬ気だろう。……ここにいろ。気がすむまでここに居ればいい。ここなら誰も来ない。お前を害する者もいない。ここにいろ」
レイズンは何も言わず俯いた。
「いいからここにいるんだ」
「……だって小隊長殿、ここ寝るところないじゃないですか。小隊長殿椅子で寝てるし。食べ物も肉ばっかりで、野菜もないし……」
「…………仕方ないだろう。ここは俺一人で使う予定だったんだから」
「だったら俺なんてほっておけばいいじゃないですか。俺痩せてるけど図体はでかいし、ここじゃ小隊長殿の生活の邪魔でしょう?」
ゴニョゴニョと背をむけ俯いたまま、何故か不平不満を言いだすレイズンに、ハクラシスが思わず苛立ち声を荒らげた。
「文句があるならお前が住みやすいようにどうにかすればいい! それでいいだろう!?」
バタッと荷物を床に落とす音がした。そしてわずかにレイズンの肩が揺れた。
一度手で顔を拭う仕草をすると、レイズンは思ったより元気な声を出した。
「言質とりましたよ! 小隊長殿! ではこれからよろしくお願いします!」
振り向き敬礼をしたレイズンの顔は満面の笑みで、ハクラシスは拍子抜けした。だがその目尻に溜まった涙を見逃してはいなかった。
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