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27 ハクラシスの夜 / レイズンの朝
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騎士団長専用邸の敷地内にある小さな屋敷で、ハクラシスは狭い書斎で一人机に向かい、手紙をしたためていた。
夜は遅く、住み込みの使用人らももう寝る時間に差し掛かり、屋敷内はしんと静まり返っている。ハクラシスは毎夜寝る時間を削っては、この部屋でレイズン宛の手紙を書いていた。
毎週のように送っている手紙も、これが書き上がれば六通目になる。
内容については、職務規定にふれない程度の近況と、レイズンへの心配ごとばかりだ。
ご飯はたべているのかとか、お菓子ばかり買っていないかとか、掃除はしているかとか、そんなお小言ばかりでラブレターというには程遠い。
だからなのか、これまで一度もレイズンから返信がくることはなく、一方的に送りつけている形ではあった。
あの子のことだから、呑気にしているか、それともうまく返事がかけなくて困っているのかのどちらかだろうとは思うが……本当のところは分からない。
読んでくれているのかそれすら分からない手紙を、それでもハクラシスは日課のように毎日書き続けている。
(一カ月で帰るなどと言って、嘘をついたことになってしまったな)
生活に必要なお金はまだ充分あるはずだ。だから生活には困っていないとは思うが、自分がいない間に狩りに出て怪我をしたり、病気にでもなっていないか、心の病が悪化して気鬱になっていないか、寂しくてメソメソ泣いてはいないか、考えれば考えるほど心配になる。
(もしかして帰らない俺を怒っているのだろうか。それで返事を出さないというならそれで良いが……せめて元気でいることが分かればよいのだが)
ハクラシスはペンを置き、ふうっと小さく息を吐いては、眉間を指で揉んだ。
様子を見に帰りたくて、外出申請を出してみたものの、上に一度帰すともう戻らないと思われたのか、申請はことごとく却下された。それならばとアーヴァルに直接申し出てみたが、『まだ来たばかりだろう』と一蹴されて終わりだ。
しかもいつも周囲に人がいて、外部との連絡すらままならない。ほとんど軟禁状態だ。
仮住まい先ですら、本当は他の者と同じく狭い寄宿で十分だと言ったのに、夫婦一緒が良いだろうと妻のルルーが静養しているこの屋敷に追いやられてしまった。
——ルルーについては、最初アーヴァルものらりくらりとかわすのみで詳細を語らず、ここに来てからようやく本人から詳しい話を聞くことができた。
そう、これまで周囲から死んだと教えられてきたルルーだったが、驚くべきことに生きていたのだ。
内乱で敵に火を放たれて大火傷を負ったが、アーヴァルに助けられ、この屋敷で療養していた、というのが本当のところらしい。
ルルーからの話では、ハクラシスが小隊長に任命されたときには、ルルーはもうこの屋敷にいたことになる。にもかかわらず、アーヴァルはずっとルルーのことを、夫であるハクラシスに黙っていた。
それがなぜ、アーヴァルはなぜ今になって二人を引き合わせようと考えたのだろうか。
大火傷を負ったルルーの治療には、かなりの金がかかったはずだ。それは貧乏伯爵家であるルルーの実家では賄えるはずはなく、おそらくアーヴァルの個人資産から捻出したはずだ。
騎士団長であり公爵でもあるアーヴァルだからこそ、国中から高名な医者や治癒者を掻き集めることができたといえる。伯爵家だけでは、大火傷を負い死にかけている者を生かすことなど、到底できなかっただろう。
——だからアーヴァルに頼るため、死んだと嘘をついてまでハクラシスと縁を切ったことは正しかったといえる。
ルルーのためにアーヴァルはどれほど人を雇い、金を積んだのだろうか。
(そこまでしてルルーを助け面倒を見ていたくせに、今になって俺と引き合わせるとは……。アーヴァルは何がしたいんだ?)
ルルーとアーヴァルは昔恋人同士だった。仲睦まじく、誰が見ても似合いの二人だった。しかし色々あって二人は別れ、結局ルルーはハクラシスと婚姻を結んだ。
それはアーヴァルとの間に軋轢を生むきっかけにもなったのだが……。
(ルルーへの未練がそうさせたのだと思ったが……違うのか?)
山小屋でのあの過剰ともいえる反応といい、伯爵家への救済が " ルルーへの未練 " からくるものと見るのは、あながち間違いではないだろう。
しかし単なる未練という話であれば、ハクラシスに会わせる必要などないはずだ。
ハクラシスには何も言わず、ルルーには今後も面倒を見ると恩を売り、逃げられないようにしてこの屋敷に閉じ込めておけばいい。
一度死にかけたせいで体がすっかり弱ってしまったルルー相手ならば、簡単なことだ。
ハクラシスは目をつむると、考え込むようにギシギシと音をたてる椅子に凭れた。そして口元に手をやり、癖になってしまったないはずの髭を擦ってみる。
(奴は表と裏を使い分ける男だ。表と裏で考えていることが違う。計算高く、それ故本心を誰にも晒すことがないから、実際何を考えているのか読めない。これが何かの企みでなければよいのだが)
そうしばらく考え込んでいると、コンコンとドアからノックする音が聞こえ、ハクラシスはハッと目を開けた。
「……ハクラシス? まだ起きているんですか?」
病み上がりの細い声。妻のルルーだ。
どうやらハクラシスがまだ寝ていないことに気がついてしまったようだ。
「ルルー……、まだ寝ていないのか。体に障るぞ」
ハクラシスは椅子から立ち上がり、ルルーを迎え入れるため、ドアを開けた。
ーーーー
『おい、レイズン、起きないのか。今日はうまい朝食を作ってくれるんじゃなかったのか? 早く起きて狩りに行くと、張り切っていたのは誰だ』
「うー……ん、小隊長殿ぉ……」
レイズンはうーんと伸びをして、声のほうに手を伸ばした。そして声の主の首に腕を絡めようとしたが、手は虚しく空を掴み、目が覚めた。
(あー……夢か……。久々に見たな……小隊長殿の夢)
レイズンはまだぼんやりとした眼で、いまだ見慣れぬ騎士団寮のくすんだ天井を見上げた。
外はまだ日が昇りきっておらず、部屋は薄暗い。起きるにはまだ早いなと、レイズンは布団にくるまり、寝返りを打つと目をつむった。
王都に来てから一カ月が過ぎようとしていた。
アーヴァルは約束通り、レイズンの復帰を認め、復帰の手続きをしてくれた。
さすが騎士団長自ら指示しただけあり、翌日には配属先が決まり、寮の手配までしてくれたのだが、その所属先というのがこれまでの雑用を兼ねた下位小隊ではなく、なんと上位部隊である弓兵部隊であり、しかもその中でも上位クラスの部隊への配属だったのだ。
そして手配された寮というのも、相部屋ではなく贅沢な個室ということで、さすが上位とレイズンも驚いた。
アーヴァル曰く、以前贈った弓が使えるなら昇級試験はクリアしたようなものだという。
あの弓がまさか騎士団の昇級に関わってくるとは……。こうなることを見越してのことなのか、なんだか少し怖くなる。
だがさすがにいくら騎士団長の推薦があったとはいえ、何もせずいきなり病気療養していた下級騎士が昇級するなどありえないことであり、とりあえず力量を見ようと一応形ばかりの試験が行われた。
試験の様子を見るために集まった隊員の中にはレイズンの過去を知っている者もいて、試験開始までヒソヒソと耳打ちする声が聞こえていた。
中には色仕掛けで騎士団長に取り入った恥知らずだという声まで聞こえたが、レイズンは気にしなかった。
平民の下位騎士が療養から復帰してすぐ上位の部隊に推薦されるなど、あり得ないことくらいレイズンでも分かっている。
しかもその推薦者が騎士団長となると、レイズンが過去にやらかしたあの事件も絡んでそんな不名誉な噂が流れるのも当然だ。
まあ、嘘ではなかったし、自分の実力がどれくらいなのかよく分かっていなかったこともあり、反論する気もなく言われても仕方がないかくらいの気持ちだった。
だがそのヒソヒソ声もレイズンが弓を引くと、ピタリとやんだ。
試験場には、試験者を中心に放射状に的が10枚立てられ、それぞれに番号が振られている。
試験者は試験官がランダムに読み上げる番号の的を順番に射っていくのだが、試験官の数字の読み上げは早く、次の矢を番えるのに精一杯で狙いを定める暇がない。次の読み上げまでに射らねばならず、的の中心どころか、矢を的に当てることすら難しいときた。
本来は本番前に予め練習してから臨むのだが、レイズンはなんとそれを練習なしのぶっつけ本番で行い、その上すべての的に当てたのだ。しかも殆どの矢は的の中心に近い位置を貫いていた。
これにはもう誰も文句は言えなかった。矢を番え射るまでの動作も澱みなく、力むことなく流れるように射る様を、みな啞然として眺めていた。
「よし、レイズン、もういいぞ。団長が推薦されただけある。文句なしの合格だ。長く病気療養と聞いていたが……体が細い割に矢の勢いもいい。一体これまでどんな訓練をしていたんだ?」
試験官をしていた部隊長が満足そうにレイズンに声をかける。
「訓練らしいことはしていませんが、山でよく狩りをしていました。小型から大型までの獣を弓とナイフだけで狩っていました」
レイズンの言葉に部隊長がなるほどと頷いた。
「そうか、では実践あり、といったところだな。山で足腰がよく鍛えられてるせいか、体幹が強く安定性があって、反応もよく俊敏だ。山に慣れているのもいい。良い戦力になりそうだ。馬には乗れるのか」
「いえ、馬は持っていなくて……。騎乗して射るなどはしたことがありません」
「そうか。それならばいずれ騎馬にも慣れてもらわないといけないな。また乗馬の練習時間も都合つけよう」
「……ありがとうございます」
「寮の部屋に部隊服を届けよう。武具はこちらにあるものでいいな? こだわりがあるなら自分で用意したものを使っても良いが……」
「武具にこだわりはありません。こちらのを使わせてください」
道行の邪魔だからと、結局ハクラシスから貰ったシースナイフ以外は全て置いてきてしまった。アーヴァルからも貰った立派な弓矢も。
アーヴァルだけではなくもしかしてハクラシスまでも、レイズンを騎士団に戻すため、弓やナイフの使い方を教えていたのだろうか。そんなくだらない疑念さえ心に浮かぶ。
ここに立っていると、なんだか山小屋での生活が夢の中の出来事のように思えた。長い夢を見ていて、今やっと現実に帰ってきた。そんな気分だ。
レイズンは部隊長からの問いかけに言葉少なに答えながら、すーっと頭が冷えてくるのを感じていた。
レイズンはその日、正式に弓兵として部隊への配属が決まると、忙しい日々を送るようになった。
さすが有能な騎士ばかりが所属するだけあり、小隊にいた頃のような呑気さは一切ない。ただ夢中で訓練に励んだ。
ハクラシスとはその後も会えてはいないが、それでも訓練場にいると、稀にハクラシスを見かけることがあった。
とはいえ遠くのほうで、複数の人間に囲まれながら早足で通り過ぎていくのを見るだけなのだが。
忙しいのかイライラしているのか、いつも眉間にシワを寄せたような厳しい顔つきで、周囲のことなど構うことはなく歩いていく。
(ああ、小隊長だった頃もあんな顔してたな……)
怖くて誰も寄せ付けないような、そんな雰囲気だ。ああ昔の自分なら恐ろしくて声などかけられなかっただろうと、そう思わず笑いが込み上げるのを、レイズンは袖で汗を拭くふりをしてごまかした。
ハクラシスを囲む輪の中にはいつもアーヴァルもいて、アーヴァルだけはたまにこちらへ目をやり、何も知らないハクラシスの横で、アーヴァルだけがレイズンを見て薄く笑う。
アーヴァルとはあの日それっきり……というわけはなく、あれからも何度か閨に呼ばれていた。
そうやってなすがままになっているのは、ことあるごとにハクラシスのことを持ち出し、抵抗すればするほど執拗に責めるアーヴァルに疲れてしまったから、というのが大きい。
抱かれるたびに泣きたくなるのを堪えながら、情事が終われば、あのハクラシスとその妻が住む屋敷があるあの庭を横切り、寮に戻る。
真っ暗な中歩いていると、あの明るい光が灯る二階の窓が目に入り込む。それをわざと無視して足早に通り過ぎる。そして二階に明かりのない夜は、屋敷に戻るハクラシスと偶然出くわすのではないかという不安とほんの少しの期待を滲ませながら歩くのだ。
だが幸いというべきか、残念なというべきか、今のところ偶然出会った試しはない。
いっそのことあの屋敷に突撃してしまおうかと思うこともある。しかしそんな勇気もなく、アーヴァルに抱かれる日々を過ごしていた。
(……今日あんな夢を見たのはきっとアーヴァル様の髭のせいだ)
忘れたくても忘れられないあの人の夢。
街で会った時とは違い、今のアーヴァルには顎髭がある。
形の良いアーヴァルの顎髭はハクラシスの髭とは毛質も感触も違う。だがそれでも目をつむり口元にその少しごわついた毛が当たると、いやでも彼を思い出す。
アーヴァルに抱かれていることを、ハクラシスには知られたくない。
彼の側にいるために、いつか会って彼の口からきちんと事情を聞くためにここに残ったのに。後悔ばかりが先に立つ。
……だが例えアーヴァルとのことがなくても、彼と彼の大事な妻の前にしゃしゃり出て、どちらが大切なのだと聞く勇気などレイズンにはない。
結婚までした妻のほうが大事に決まっている。彼は妻に会うために王都へ行き、山小屋に戻るどころか、レイズンに手紙すら寄越さなかったのだから。
レイズンは丸くなった布団の中で、ズビッと音を立てて鼻を啜った。
ジワッと滲み出た涙を枕に吸わせて、出なかったことにした。
今日も朝から部隊長による厳しい訓練が待っている。
朝日がカーテンの隙間から室内を照らし始めた頃、レイズンはのそりと起き上がり、一人きりの部屋でしばらくぼうっとくうを眺めていた。
夜は遅く、住み込みの使用人らももう寝る時間に差し掛かり、屋敷内はしんと静まり返っている。ハクラシスは毎夜寝る時間を削っては、この部屋でレイズン宛の手紙を書いていた。
毎週のように送っている手紙も、これが書き上がれば六通目になる。
内容については、職務規定にふれない程度の近況と、レイズンへの心配ごとばかりだ。
ご飯はたべているのかとか、お菓子ばかり買っていないかとか、掃除はしているかとか、そんなお小言ばかりでラブレターというには程遠い。
だからなのか、これまで一度もレイズンから返信がくることはなく、一方的に送りつけている形ではあった。
あの子のことだから、呑気にしているか、それともうまく返事がかけなくて困っているのかのどちらかだろうとは思うが……本当のところは分からない。
読んでくれているのかそれすら分からない手紙を、それでもハクラシスは日課のように毎日書き続けている。
(一カ月で帰るなどと言って、嘘をついたことになってしまったな)
生活に必要なお金はまだ充分あるはずだ。だから生活には困っていないとは思うが、自分がいない間に狩りに出て怪我をしたり、病気にでもなっていないか、心の病が悪化して気鬱になっていないか、寂しくてメソメソ泣いてはいないか、考えれば考えるほど心配になる。
(もしかして帰らない俺を怒っているのだろうか。それで返事を出さないというならそれで良いが……せめて元気でいることが分かればよいのだが)
ハクラシスはペンを置き、ふうっと小さく息を吐いては、眉間を指で揉んだ。
様子を見に帰りたくて、外出申請を出してみたものの、上に一度帰すともう戻らないと思われたのか、申請はことごとく却下された。それならばとアーヴァルに直接申し出てみたが、『まだ来たばかりだろう』と一蹴されて終わりだ。
しかもいつも周囲に人がいて、外部との連絡すらままならない。ほとんど軟禁状態だ。
仮住まい先ですら、本当は他の者と同じく狭い寄宿で十分だと言ったのに、夫婦一緒が良いだろうと妻のルルーが静養しているこの屋敷に追いやられてしまった。
——ルルーについては、最初アーヴァルものらりくらりとかわすのみで詳細を語らず、ここに来てからようやく本人から詳しい話を聞くことができた。
そう、これまで周囲から死んだと教えられてきたルルーだったが、驚くべきことに生きていたのだ。
内乱で敵に火を放たれて大火傷を負ったが、アーヴァルに助けられ、この屋敷で療養していた、というのが本当のところらしい。
ルルーからの話では、ハクラシスが小隊長に任命されたときには、ルルーはもうこの屋敷にいたことになる。にもかかわらず、アーヴァルはずっとルルーのことを、夫であるハクラシスに黙っていた。
それがなぜ、アーヴァルはなぜ今になって二人を引き合わせようと考えたのだろうか。
大火傷を負ったルルーの治療には、かなりの金がかかったはずだ。それは貧乏伯爵家であるルルーの実家では賄えるはずはなく、おそらくアーヴァルの個人資産から捻出したはずだ。
騎士団長であり公爵でもあるアーヴァルだからこそ、国中から高名な医者や治癒者を掻き集めることができたといえる。伯爵家だけでは、大火傷を負い死にかけている者を生かすことなど、到底できなかっただろう。
——だからアーヴァルに頼るため、死んだと嘘をついてまでハクラシスと縁を切ったことは正しかったといえる。
ルルーのためにアーヴァルはどれほど人を雇い、金を積んだのだろうか。
(そこまでしてルルーを助け面倒を見ていたくせに、今になって俺と引き合わせるとは……。アーヴァルは何がしたいんだ?)
ルルーとアーヴァルは昔恋人同士だった。仲睦まじく、誰が見ても似合いの二人だった。しかし色々あって二人は別れ、結局ルルーはハクラシスと婚姻を結んだ。
それはアーヴァルとの間に軋轢を生むきっかけにもなったのだが……。
(ルルーへの未練がそうさせたのだと思ったが……違うのか?)
山小屋でのあの過剰ともいえる反応といい、伯爵家への救済が " ルルーへの未練 " からくるものと見るのは、あながち間違いではないだろう。
しかし単なる未練という話であれば、ハクラシスに会わせる必要などないはずだ。
ハクラシスには何も言わず、ルルーには今後も面倒を見ると恩を売り、逃げられないようにしてこの屋敷に閉じ込めておけばいい。
一度死にかけたせいで体がすっかり弱ってしまったルルー相手ならば、簡単なことだ。
ハクラシスは目をつむると、考え込むようにギシギシと音をたてる椅子に凭れた。そして口元に手をやり、癖になってしまったないはずの髭を擦ってみる。
(奴は表と裏を使い分ける男だ。表と裏で考えていることが違う。計算高く、それ故本心を誰にも晒すことがないから、実際何を考えているのか読めない。これが何かの企みでなければよいのだが)
そうしばらく考え込んでいると、コンコンとドアからノックする音が聞こえ、ハクラシスはハッと目を開けた。
「……ハクラシス? まだ起きているんですか?」
病み上がりの細い声。妻のルルーだ。
どうやらハクラシスがまだ寝ていないことに気がついてしまったようだ。
「ルルー……、まだ寝ていないのか。体に障るぞ」
ハクラシスは椅子から立ち上がり、ルルーを迎え入れるため、ドアを開けた。
ーーーー
『おい、レイズン、起きないのか。今日はうまい朝食を作ってくれるんじゃなかったのか? 早く起きて狩りに行くと、張り切っていたのは誰だ』
「うー……ん、小隊長殿ぉ……」
レイズンはうーんと伸びをして、声のほうに手を伸ばした。そして声の主の首に腕を絡めようとしたが、手は虚しく空を掴み、目が覚めた。
(あー……夢か……。久々に見たな……小隊長殿の夢)
レイズンはまだぼんやりとした眼で、いまだ見慣れぬ騎士団寮のくすんだ天井を見上げた。
外はまだ日が昇りきっておらず、部屋は薄暗い。起きるにはまだ早いなと、レイズンは布団にくるまり、寝返りを打つと目をつむった。
王都に来てから一カ月が過ぎようとしていた。
アーヴァルは約束通り、レイズンの復帰を認め、復帰の手続きをしてくれた。
さすが騎士団長自ら指示しただけあり、翌日には配属先が決まり、寮の手配までしてくれたのだが、その所属先というのがこれまでの雑用を兼ねた下位小隊ではなく、なんと上位部隊である弓兵部隊であり、しかもその中でも上位クラスの部隊への配属だったのだ。
そして手配された寮というのも、相部屋ではなく贅沢な個室ということで、さすが上位とレイズンも驚いた。
アーヴァル曰く、以前贈った弓が使えるなら昇級試験はクリアしたようなものだという。
あの弓がまさか騎士団の昇級に関わってくるとは……。こうなることを見越してのことなのか、なんだか少し怖くなる。
だがさすがにいくら騎士団長の推薦があったとはいえ、何もせずいきなり病気療養していた下級騎士が昇級するなどありえないことであり、とりあえず力量を見ようと一応形ばかりの試験が行われた。
試験の様子を見るために集まった隊員の中にはレイズンの過去を知っている者もいて、試験開始までヒソヒソと耳打ちする声が聞こえていた。
中には色仕掛けで騎士団長に取り入った恥知らずだという声まで聞こえたが、レイズンは気にしなかった。
平民の下位騎士が療養から復帰してすぐ上位の部隊に推薦されるなど、あり得ないことくらいレイズンでも分かっている。
しかもその推薦者が騎士団長となると、レイズンが過去にやらかしたあの事件も絡んでそんな不名誉な噂が流れるのも当然だ。
まあ、嘘ではなかったし、自分の実力がどれくらいなのかよく分かっていなかったこともあり、反論する気もなく言われても仕方がないかくらいの気持ちだった。
だがそのヒソヒソ声もレイズンが弓を引くと、ピタリとやんだ。
試験場には、試験者を中心に放射状に的が10枚立てられ、それぞれに番号が振られている。
試験者は試験官がランダムに読み上げる番号の的を順番に射っていくのだが、試験官の数字の読み上げは早く、次の矢を番えるのに精一杯で狙いを定める暇がない。次の読み上げまでに射らねばならず、的の中心どころか、矢を的に当てることすら難しいときた。
本来は本番前に予め練習してから臨むのだが、レイズンはなんとそれを練習なしのぶっつけ本番で行い、その上すべての的に当てたのだ。しかも殆どの矢は的の中心に近い位置を貫いていた。
これにはもう誰も文句は言えなかった。矢を番え射るまでの動作も澱みなく、力むことなく流れるように射る様を、みな啞然として眺めていた。
「よし、レイズン、もういいぞ。団長が推薦されただけある。文句なしの合格だ。長く病気療養と聞いていたが……体が細い割に矢の勢いもいい。一体これまでどんな訓練をしていたんだ?」
試験官をしていた部隊長が満足そうにレイズンに声をかける。
「訓練らしいことはしていませんが、山でよく狩りをしていました。小型から大型までの獣を弓とナイフだけで狩っていました」
レイズンの言葉に部隊長がなるほどと頷いた。
「そうか、では実践あり、といったところだな。山で足腰がよく鍛えられてるせいか、体幹が強く安定性があって、反応もよく俊敏だ。山に慣れているのもいい。良い戦力になりそうだ。馬には乗れるのか」
「いえ、馬は持っていなくて……。騎乗して射るなどはしたことがありません」
「そうか。それならばいずれ騎馬にも慣れてもらわないといけないな。また乗馬の練習時間も都合つけよう」
「……ありがとうございます」
「寮の部屋に部隊服を届けよう。武具はこちらにあるものでいいな? こだわりがあるなら自分で用意したものを使っても良いが……」
「武具にこだわりはありません。こちらのを使わせてください」
道行の邪魔だからと、結局ハクラシスから貰ったシースナイフ以外は全て置いてきてしまった。アーヴァルからも貰った立派な弓矢も。
アーヴァルだけではなくもしかしてハクラシスまでも、レイズンを騎士団に戻すため、弓やナイフの使い方を教えていたのだろうか。そんなくだらない疑念さえ心に浮かぶ。
ここに立っていると、なんだか山小屋での生活が夢の中の出来事のように思えた。長い夢を見ていて、今やっと現実に帰ってきた。そんな気分だ。
レイズンは部隊長からの問いかけに言葉少なに答えながら、すーっと頭が冷えてくるのを感じていた。
レイズンはその日、正式に弓兵として部隊への配属が決まると、忙しい日々を送るようになった。
さすが有能な騎士ばかりが所属するだけあり、小隊にいた頃のような呑気さは一切ない。ただ夢中で訓練に励んだ。
ハクラシスとはその後も会えてはいないが、それでも訓練場にいると、稀にハクラシスを見かけることがあった。
とはいえ遠くのほうで、複数の人間に囲まれながら早足で通り過ぎていくのを見るだけなのだが。
忙しいのかイライラしているのか、いつも眉間にシワを寄せたような厳しい顔つきで、周囲のことなど構うことはなく歩いていく。
(ああ、小隊長だった頃もあんな顔してたな……)
怖くて誰も寄せ付けないような、そんな雰囲気だ。ああ昔の自分なら恐ろしくて声などかけられなかっただろうと、そう思わず笑いが込み上げるのを、レイズンは袖で汗を拭くふりをしてごまかした。
ハクラシスを囲む輪の中にはいつもアーヴァルもいて、アーヴァルだけはたまにこちらへ目をやり、何も知らないハクラシスの横で、アーヴァルだけがレイズンを見て薄く笑う。
アーヴァルとはあの日それっきり……というわけはなく、あれからも何度か閨に呼ばれていた。
そうやってなすがままになっているのは、ことあるごとにハクラシスのことを持ち出し、抵抗すればするほど執拗に責めるアーヴァルに疲れてしまったから、というのが大きい。
抱かれるたびに泣きたくなるのを堪えながら、情事が終われば、あのハクラシスとその妻が住む屋敷があるあの庭を横切り、寮に戻る。
真っ暗な中歩いていると、あの明るい光が灯る二階の窓が目に入り込む。それをわざと無視して足早に通り過ぎる。そして二階に明かりのない夜は、屋敷に戻るハクラシスと偶然出くわすのではないかという不安とほんの少しの期待を滲ませながら歩くのだ。
だが幸いというべきか、残念なというべきか、今のところ偶然出会った試しはない。
いっそのことあの屋敷に突撃してしまおうかと思うこともある。しかしそんな勇気もなく、アーヴァルに抱かれる日々を過ごしていた。
(……今日あんな夢を見たのはきっとアーヴァル様の髭のせいだ)
忘れたくても忘れられないあの人の夢。
街で会った時とは違い、今のアーヴァルには顎髭がある。
形の良いアーヴァルの顎髭はハクラシスの髭とは毛質も感触も違う。だがそれでも目をつむり口元にその少しごわついた毛が当たると、いやでも彼を思い出す。
アーヴァルに抱かれていることを、ハクラシスには知られたくない。
彼の側にいるために、いつか会って彼の口からきちんと事情を聞くためにここに残ったのに。後悔ばかりが先に立つ。
……だが例えアーヴァルとのことがなくても、彼と彼の大事な妻の前にしゃしゃり出て、どちらが大切なのだと聞く勇気などレイズンにはない。
結婚までした妻のほうが大事に決まっている。彼は妻に会うために王都へ行き、山小屋に戻るどころか、レイズンに手紙すら寄越さなかったのだから。
レイズンは丸くなった布団の中で、ズビッと音を立てて鼻を啜った。
ジワッと滲み出た涙を枕に吸わせて、出なかったことにした。
今日も朝から部隊長による厳しい訓練が待っている。
朝日がカーテンの隙間から室内を照らし始めた頃、レイズンはのそりと起き上がり、一人きりの部屋でしばらくぼうっとくうを眺めていた。
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