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番外編
番外編 犬になったレイズン1
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「もういいです! ハクラシスなんか知らないんですからね!」
そうふてくされて朝食の席を立ち、外に駆け出していったレイズンを、ハクラシスは呆気に取られて見ていた。
——ことの発端は、朝食を食べながらのレイズンのお喋りに、ハクラシスが心ここに在らずといった態度をとったことだった。
「——で、酒屋のおっちゃんが言うには、山で行方不明になった人は、必ず犬になって帰ってくるって。それで、じゃあそうなったらどうしたらいいかって聞いたらさ、……って、ハクラシス聞いてます?」
「ん——、……ああ」
いつものように食卓には、数切れのパンと焼いた卵にハム。それと今日はレイズンが採ってきた、真っ赤に熟れたピカピカの野いちごが並んでいた。
それはレイズンが昨日たまたま入り込んだ西の山の奥で、見事な野いちごの群生地を見つけ、そこで採取したものだった。その場所は野いちごだけではなく美しい白い花々が咲き乱れ、まるでニンフたちが遊ぶ庭のようで、レイズンはこの山にこんな美しい場所があったんだと、ひとり興奮したほどだ。
ハクラシスはパンに卵を乗せると、それを口に運びながら、耳はレイズンのほうへ向けて、目は手元の書きつけを眺めていた。
「絶対聞いてないですよね!」
「聞いてる、きいてるぞ。昔から伝わるおとぎ話のことだろう。妖精に悪さすると犬になるという……」
「ほら、聞いてないじゃないですか! それと似ているんですけど、違うんですよ! もう! 最近ハクラシス、なんだか上の空ですよね。俺の話を聞くのも面倒臭そうですし」
「そんなことはない」
慌てて書つけをテーブルの上に置いたが、もう遅かった。
レイズンは珍しく怒り心頭といった様子で、朝食もそこそこに、冒頭のセリフを残しプリプリと出て行ってしまった。
——ここに戻った日から1年ほど経ち、レイズンとハクラシスはこの生活にすっかり馴染み、2人で過ごす時間が当たり前のようになっていた。
そのせいか、最近ではまるで倦怠期の夫婦のように、どうでもいいことで喧嘩をすることもある。
だがハクラシスは、いつも人の顔色ばかりを見ていたレイズンが、自己主張するようになったことが嬉しくもあり、
『これからずっと何年、何十年と一緒にいることになるんだ。ささいなことで喧嘩をしても、乗り越えていけばいい』
と、呑気に構えていた。
(それにしても、あのレイズンがメシを残して出ていくなんてな)
いつも朝から残さずしっかり食べて、さらに間食までねだるくらいなのに。
それほど今回は、ハクラシスに対して怒っているということなのだろう。
たしかにここのところ、忙しくてレイズンの話をちゃんと聞いてやれなかったところはあった。そこは反省せねばならない。
(レイズンのことだ、昼になれば腹を空かせて帰ってくるだろう。今日くらいは、朝の仕事も免除してやるか)
朝の仕事もほったらかしで出ていってしまったレイズンを、ハクラシスはそっとしてやることにした。——というのは建前で、本音では、あんなに怒っているレイズンは久々で、下手に取り繕って、アーヴァルの庭で再会したときのように『もう一緒にいたくない』と言われるのが怖いのだ。
騎士団で鬼と呼ばれた男はどこへやら、最近のハクラシスはレイズンに弱い。
ほとぼりが冷めたら、いつものように腹が減ったと、へへへと笑いながら帰ってくるだろう。そんなふうに考えながら、ハクラシスはいつものように朝の仕事に取りかかった。
◇
「なんだ、レイズンの奴はまだ帰らないのか」
馬の世話をして薪を割り、畑を見て家周辺の草を刈って、やっと昼飯かといった時間。
ハクラシスは一人で昼食の準備をしながら、独り言ちた。
今日は朝ほとんど食べていないレイズンのために、いつもより肉多めでスープを作り、普段なら甘くて食事に向かないからと出さないはずのジャムの瓶まで出した。
そしてレイズンの好きな厚切りのハムまで。
「一体どこまで行ったんだ」
もしかして腹立ち紛れに街へ行き、ブーフと朝っぱらから飲んでいるのだろうか。
(充分ありえるな)
だが馬は2頭ちゃんと馬房に繋がれていた。出ていった勢いそのまま、歩いて行ったのだろうか。それならば、夜に迎えに行ってやらねばならない。
もかして家に戻り辛くて、どこかに隠れているのかもしれないと、念の為馬小屋や物置小屋などを見て回ったが、レイズンがいた気配はなく、ハクラシスは仕方なく家に戻り1人分のスープを器に注いだ。
あとで街にでも行ってみるかと考えながら、1人寂しくスープを啜り、パンを齧っていると、ドアの向こうからドンという音が聞こえた。
(レイズンか?)
やはり腹が減って帰ってきたんだろう。意地を張っていたが我慢できなくなったんだなと、ハクラシスはいそいそと立ち上がり、何気ない顔を装いドアを開けた。
——だが、そこにはただ風が吹くだけで、外には誰もいなかった。
「……なんだ、風がドアを揺らしただけか」
少しがっかりした声でそう呟くと、ドアを閉めようとした。その時。
キャンという鳴き声と、ブニッという何か柔らかいものを挟んだ感触が手に伝わった。
下を見ると、丸太のような体躯の動物がドアに挟まれ、キャヒキャヒと鳴きながら前進しようとバタバタと足をバタつかせていた。
「……? なんだこいつは」
押さえていたドアを離すと、その動物は勝手に家の中に入り込み、後ろ足で立ち上がると、ハクラシスの足にしがみついた。
薄茶色の短い密集した毛に、丸太のように太い体躯。短く太い手足に大きな丸い顔。鼻は黒く大きくて、目はつぶら。短いフサフサの尻尾を懸命に振りながら、ハッハと舌を出しては、ハクラシスにしがみついていた。
「……なんだ犬か? それとも熊の子か? それにしちゃ短足で体が太いな」
レイズンならかわいい! と言って抱き上げるのだろうが、動物に対してとくに何も感じないハクラシスは、その動物を足先で持ち上げて、ヒョイとドアの外に蹴り出した。
「犬なのかなんなのか知らないが、家にいつかれちゃ困る」
その動物が丸太のようにゴロンと外に転がると、ハクラシスはドアを閉めた。
そして食事を再開させると、またすぐにドアにドンドンとぶつかる音と、キャヒキャヒという鳴き声が聞こえ始めた。
時間が経てばそのうちどこかへ行くだろうと無視を決め込んでいると、そのうち体当たりからドアを爪で掻く音に変わり、あの独特な鳴き声も、心なしか切なげなものになったように聞こえ始めた。
「……なんなんだ一体」
根負けしたハクラシスがドアを開けると、ハッハと舌を出し、千切れるんじゃないかというくらい尻尾を振ってこっちを見ていた。
「腹が減っているのか?」
野生の動物に餌付けすることは、山に住む者にとって非常に危険なことだ。
餌場として認知されると、美味い食べ物を狙ってその後もここへ漁りにくるかもしれないし、他にも仲間を呼ぶ可能性もある。
……だがこいつは餌をもらうまで、ここから出ていかないかもしれない。
ハクラシスはその動物——仮に犬として——のつぶらな目を見ながら考えた。
犬も尻尾を振りながらこっちを見ている。
どことなく誰かを思い出すその愛嬌ある顔に、餌をやらぬことに対してなんとなく罪悪感を覚え、仕方なく餌を与えることにした。
その犬はハッハと舌を出し、やはり千切れるくらいの勢いで尻尾を振りながら家の中をのそのそと歩き回ると、レイズンがいつも座る椅子にストッと器用に飛び乗った。
「ああ、おい、だめだ。そこはレイズンの椅子だ」
犬はハクラシスが『レイズン』と言った瞬間、「ヒャン」と鳴き、大人しくハクラシスに両脇を持たれて、床に下ろされた。
「仕方のないやつだ。ちょっと待っていなさい、今餌の準備をしてやるからな」
そうしてキッチンに行き、犬にやれるものはないか探した。
乾いてカチカチになったパンの端切れと、生の獣肉のこま切れを見つけると、それを使ってないボウルに適当に盛った。
それを持ちテーブルの方を振り返ると……。
「おい! 椅子の上に上がっちゃいかんと……!」
犬はまた懲りずにレイズンの椅子の上に乗っていて、さらにはジャムの瓶をとろうと、懸命に短い前足を伸ばしているところだった。
「ジャムがほしいのか? それはレイズンのだからだめだ。それに甘いものは動物には向かん。さ、お前はこっちだ」
犬はハクラシスが「レイズン」と言うと同時に「ヒャン」と鳴き、また両脇を摑まれて床に降ろされた。そして差し出された皿を見て、「ヒーン」とがっかりしたように耳を倒して渋い顔をした。
「なんだなんだ。食べないのか? もしかして肉は嫌いなのか。変わったやつだな」
少し考え、試しにテーブルの上に用意していたレイズン用に切り分けていたパンの端に、さっき犬が欲しがっていたジャムを塗りつけて食べさせてみた。
すると犬はまた嬉しそうに尻尾を振り、ハクラシスの手からパンを食べると、さも美味しかったというようにペロペロと舌を何度も出し入れさせていた。
「なんだ、本当にジャムが食べたかったんだな。ジャムの味を知っているとは、どこかで飼われでもしていたのか? 甘いものをねだるなんてまるでレイズンのようだな」
ハクラシスが「レイズン」と言うと、また犬は「ヒャン」と鳴き、椅子に腰掛けるハクラシスの周りを何度もクルクルと回った。そしてハクラシスの前でパタンと腹を見せて寝転がった。
「……どうした、腹を撫でろというのか? 野生の癖に妙に人懐こいな。ジャムといい、どこかの飼い犬が逃げてきたんじゃないだろうな」
まさか本当にそうなのであれば、飼い主を探しにいかねばならなくなる。下手をすると飼い主が見つかるまで、うちで預からないといけない。
「弱ったな。……家に犬がいるのを知ったら、レイズンは喜ぶかもしれないが」
そこでまた犬が「ヒャン」と鳴いた。
「さっきからやけにレイズンの名に反応するな」
「ヒャン」
この犬はさっきから、レイズンの名に反応するかのように鳴く。
まさかなと思いながら「……お前の名前が“レイズン”だというわけじゃないだろうな」とたわむれに聞くと、犬はぴょんと立ち上がり、嬉しそうに尻尾を振りながらハクラシスの膝に前足を乗せると、「ヒャンヒャン」と鳴き始めた。
「まさか本当に名前が同じなのか」
頭を撫でると、舌をペロペロと出しながら、気持ちよさそうに大人しく撫でられている。
「名が一緒なだけあって、なんだかお前を見ていると、レイズンを思い出すな」
ハクラシスは犬の頭を撫でながら、ぼんやりと朝の出来事を思い出していた。
そう、レイズンと喧嘩をする発端となった、レイズンが街で聞いてきた噂話。
『行方不明になった者が犬になって帰ってくる』
たしかそんな話をしていた。
人が犬になって戻ってくるなど、おとぎ話でもあるまいし。まさかそんなことが現実に起こるはずなど……。
そこまで考え、ふと自分が撫でている犬の顔を見た。
薄茶色の柔らかな毛、黒目がちな瞳。愛嬌のある表情。そして甘いものが好き。
本物のレイズンは舌を出したり、こんなずんぐりむっくりな体型などしていないが、全体的な愛くるしさは似ている。
さっきからどことなく似ているなとは思っていたが、まさか……。
「——お前、もしかしてレイズンか?」
「ヒャン!」
それこそ本当にたわむれのように聞いただけだった。
だが、その犬はレイズンと呼ばれた途端、必死で膝を駆け上がると、両肩に短い足を乗せて、ハクラシスの顔をベロベロとはしゃぐように舐め始めた。
「ぶは! こら! やめなさい!」
「ヒャウンヒャウン」
「こら、やめないか! ぶっ! おい! やめろ! つまみ出すぞ! ……ったく」
口も髭も何もかもがベチャベチャになったハクラシスがやっとの思いで引き離すと、犬のレイズンはハクラシスに抱え上げられたまま「ヒャン!」と元気よく鳴いた。
「本当にレイズンなのか? ……これをアーヴァルが見たら、大笑いするだろうに」
アーヴァルなら『犬のほうが愛らしいだろ。帰ってきたんだから、このままこれを飼えばいい』などと言い出しそうである。
「人間に戻す方法を考えなくてはな」
そう言いながらハクラシスは、もう一度レイズンに餌、もとい食事を与えることにした。
今度はちゃんとした食事で、柔らかいパンにジャム、そして生肉ではなくしっかりと火の通った肉。スープは汁が多いと食べにくそうであったから、汁を少なめにしてやると、ガツガツと食べていた。
やはり先ほどは生肉だったから食べなかったらしい。
普通の犬や獣なら生でも気にせず食べるだろうから、やはりこれはレイズンなのかもしれない。
「あークソッ! 朝レイズンの話をちゃんと聞いてやればよかったんだ」
レイズンの朝の話では、もし犬になって帰ってきたらどうすべきか、そのあたりまで言及していたように思う。だが、ハクラシスはその肝心の内容を受け流していたせいで、聞き逃してしまっていた。
「よし、レイズン。とりあえず街へ行こう。お前を元に戻す方法を探さなければな」
この犬が本当に人間のレイズンなのかまだ疑わしくはあったが、ハクラシスは気を取り直して、とりあえず噂の出どころである街へ行くことにした。もしかすると本物のレイズンはブーフと酒場にいるかもしれないし、この犬の飼い主が探していることがわかるかもしれない。
ハクラシスはスープで汚れてしまった犬のレイズンの口を布巾で拭いてやると、食事を終わらせ、レイズンを抱えて外へ出た。
そうふてくされて朝食の席を立ち、外に駆け出していったレイズンを、ハクラシスは呆気に取られて見ていた。
——ことの発端は、朝食を食べながらのレイズンのお喋りに、ハクラシスが心ここに在らずといった態度をとったことだった。
「——で、酒屋のおっちゃんが言うには、山で行方不明になった人は、必ず犬になって帰ってくるって。それで、じゃあそうなったらどうしたらいいかって聞いたらさ、……って、ハクラシス聞いてます?」
「ん——、……ああ」
いつものように食卓には、数切れのパンと焼いた卵にハム。それと今日はレイズンが採ってきた、真っ赤に熟れたピカピカの野いちごが並んでいた。
それはレイズンが昨日たまたま入り込んだ西の山の奥で、見事な野いちごの群生地を見つけ、そこで採取したものだった。その場所は野いちごだけではなく美しい白い花々が咲き乱れ、まるでニンフたちが遊ぶ庭のようで、レイズンはこの山にこんな美しい場所があったんだと、ひとり興奮したほどだ。
ハクラシスはパンに卵を乗せると、それを口に運びながら、耳はレイズンのほうへ向けて、目は手元の書きつけを眺めていた。
「絶対聞いてないですよね!」
「聞いてる、きいてるぞ。昔から伝わるおとぎ話のことだろう。妖精に悪さすると犬になるという……」
「ほら、聞いてないじゃないですか! それと似ているんですけど、違うんですよ! もう! 最近ハクラシス、なんだか上の空ですよね。俺の話を聞くのも面倒臭そうですし」
「そんなことはない」
慌てて書つけをテーブルの上に置いたが、もう遅かった。
レイズンは珍しく怒り心頭といった様子で、朝食もそこそこに、冒頭のセリフを残しプリプリと出て行ってしまった。
——ここに戻った日から1年ほど経ち、レイズンとハクラシスはこの生活にすっかり馴染み、2人で過ごす時間が当たり前のようになっていた。
そのせいか、最近ではまるで倦怠期の夫婦のように、どうでもいいことで喧嘩をすることもある。
だがハクラシスは、いつも人の顔色ばかりを見ていたレイズンが、自己主張するようになったことが嬉しくもあり、
『これからずっと何年、何十年と一緒にいることになるんだ。ささいなことで喧嘩をしても、乗り越えていけばいい』
と、呑気に構えていた。
(それにしても、あのレイズンがメシを残して出ていくなんてな)
いつも朝から残さずしっかり食べて、さらに間食までねだるくらいなのに。
それほど今回は、ハクラシスに対して怒っているということなのだろう。
たしかにここのところ、忙しくてレイズンの話をちゃんと聞いてやれなかったところはあった。そこは反省せねばならない。
(レイズンのことだ、昼になれば腹を空かせて帰ってくるだろう。今日くらいは、朝の仕事も免除してやるか)
朝の仕事もほったらかしで出ていってしまったレイズンを、ハクラシスはそっとしてやることにした。——というのは建前で、本音では、あんなに怒っているレイズンは久々で、下手に取り繕って、アーヴァルの庭で再会したときのように『もう一緒にいたくない』と言われるのが怖いのだ。
騎士団で鬼と呼ばれた男はどこへやら、最近のハクラシスはレイズンに弱い。
ほとぼりが冷めたら、いつものように腹が減ったと、へへへと笑いながら帰ってくるだろう。そんなふうに考えながら、ハクラシスはいつものように朝の仕事に取りかかった。
◇
「なんだ、レイズンの奴はまだ帰らないのか」
馬の世話をして薪を割り、畑を見て家周辺の草を刈って、やっと昼飯かといった時間。
ハクラシスは一人で昼食の準備をしながら、独り言ちた。
今日は朝ほとんど食べていないレイズンのために、いつもより肉多めでスープを作り、普段なら甘くて食事に向かないからと出さないはずのジャムの瓶まで出した。
そしてレイズンの好きな厚切りのハムまで。
「一体どこまで行ったんだ」
もしかして腹立ち紛れに街へ行き、ブーフと朝っぱらから飲んでいるのだろうか。
(充分ありえるな)
だが馬は2頭ちゃんと馬房に繋がれていた。出ていった勢いそのまま、歩いて行ったのだろうか。それならば、夜に迎えに行ってやらねばならない。
もかして家に戻り辛くて、どこかに隠れているのかもしれないと、念の為馬小屋や物置小屋などを見て回ったが、レイズンがいた気配はなく、ハクラシスは仕方なく家に戻り1人分のスープを器に注いだ。
あとで街にでも行ってみるかと考えながら、1人寂しくスープを啜り、パンを齧っていると、ドアの向こうからドンという音が聞こえた。
(レイズンか?)
やはり腹が減って帰ってきたんだろう。意地を張っていたが我慢できなくなったんだなと、ハクラシスはいそいそと立ち上がり、何気ない顔を装いドアを開けた。
——だが、そこにはただ風が吹くだけで、外には誰もいなかった。
「……なんだ、風がドアを揺らしただけか」
少しがっかりした声でそう呟くと、ドアを閉めようとした。その時。
キャンという鳴き声と、ブニッという何か柔らかいものを挟んだ感触が手に伝わった。
下を見ると、丸太のような体躯の動物がドアに挟まれ、キャヒキャヒと鳴きながら前進しようとバタバタと足をバタつかせていた。
「……? なんだこいつは」
押さえていたドアを離すと、その動物は勝手に家の中に入り込み、後ろ足で立ち上がると、ハクラシスの足にしがみついた。
薄茶色の短い密集した毛に、丸太のように太い体躯。短く太い手足に大きな丸い顔。鼻は黒く大きくて、目はつぶら。短いフサフサの尻尾を懸命に振りながら、ハッハと舌を出しては、ハクラシスにしがみついていた。
「……なんだ犬か? それとも熊の子か? それにしちゃ短足で体が太いな」
レイズンならかわいい! と言って抱き上げるのだろうが、動物に対してとくに何も感じないハクラシスは、その動物を足先で持ち上げて、ヒョイとドアの外に蹴り出した。
「犬なのかなんなのか知らないが、家にいつかれちゃ困る」
その動物が丸太のようにゴロンと外に転がると、ハクラシスはドアを閉めた。
そして食事を再開させると、またすぐにドアにドンドンとぶつかる音と、キャヒキャヒという鳴き声が聞こえ始めた。
時間が経てばそのうちどこかへ行くだろうと無視を決め込んでいると、そのうち体当たりからドアを爪で掻く音に変わり、あの独特な鳴き声も、心なしか切なげなものになったように聞こえ始めた。
「……なんなんだ一体」
根負けしたハクラシスがドアを開けると、ハッハと舌を出し、千切れるんじゃないかというくらい尻尾を振ってこっちを見ていた。
「腹が減っているのか?」
野生の動物に餌付けすることは、山に住む者にとって非常に危険なことだ。
餌場として認知されると、美味い食べ物を狙ってその後もここへ漁りにくるかもしれないし、他にも仲間を呼ぶ可能性もある。
……だがこいつは餌をもらうまで、ここから出ていかないかもしれない。
ハクラシスはその動物——仮に犬として——のつぶらな目を見ながら考えた。
犬も尻尾を振りながらこっちを見ている。
どことなく誰かを思い出すその愛嬌ある顔に、餌をやらぬことに対してなんとなく罪悪感を覚え、仕方なく餌を与えることにした。
その犬はハッハと舌を出し、やはり千切れるくらいの勢いで尻尾を振りながら家の中をのそのそと歩き回ると、レイズンがいつも座る椅子にストッと器用に飛び乗った。
「ああ、おい、だめだ。そこはレイズンの椅子だ」
犬はハクラシスが『レイズン』と言った瞬間、「ヒャン」と鳴き、大人しくハクラシスに両脇を持たれて、床に下ろされた。
「仕方のないやつだ。ちょっと待っていなさい、今餌の準備をしてやるからな」
そうしてキッチンに行き、犬にやれるものはないか探した。
乾いてカチカチになったパンの端切れと、生の獣肉のこま切れを見つけると、それを使ってないボウルに適当に盛った。
それを持ちテーブルの方を振り返ると……。
「おい! 椅子の上に上がっちゃいかんと……!」
犬はまた懲りずにレイズンの椅子の上に乗っていて、さらにはジャムの瓶をとろうと、懸命に短い前足を伸ばしているところだった。
「ジャムがほしいのか? それはレイズンのだからだめだ。それに甘いものは動物には向かん。さ、お前はこっちだ」
犬はハクラシスが「レイズン」と言うと同時に「ヒャン」と鳴き、また両脇を摑まれて床に降ろされた。そして差し出された皿を見て、「ヒーン」とがっかりしたように耳を倒して渋い顔をした。
「なんだなんだ。食べないのか? もしかして肉は嫌いなのか。変わったやつだな」
少し考え、試しにテーブルの上に用意していたレイズン用に切り分けていたパンの端に、さっき犬が欲しがっていたジャムを塗りつけて食べさせてみた。
すると犬はまた嬉しそうに尻尾を振り、ハクラシスの手からパンを食べると、さも美味しかったというようにペロペロと舌を何度も出し入れさせていた。
「なんだ、本当にジャムが食べたかったんだな。ジャムの味を知っているとは、どこかで飼われでもしていたのか? 甘いものをねだるなんてまるでレイズンのようだな」
ハクラシスが「レイズン」と言うと、また犬は「ヒャン」と鳴き、椅子に腰掛けるハクラシスの周りを何度もクルクルと回った。そしてハクラシスの前でパタンと腹を見せて寝転がった。
「……どうした、腹を撫でろというのか? 野生の癖に妙に人懐こいな。ジャムといい、どこかの飼い犬が逃げてきたんじゃないだろうな」
まさか本当にそうなのであれば、飼い主を探しにいかねばならなくなる。下手をすると飼い主が見つかるまで、うちで預からないといけない。
「弱ったな。……家に犬がいるのを知ったら、レイズンは喜ぶかもしれないが」
そこでまた犬が「ヒャン」と鳴いた。
「さっきからやけにレイズンの名に反応するな」
「ヒャン」
この犬はさっきから、レイズンの名に反応するかのように鳴く。
まさかなと思いながら「……お前の名前が“レイズン”だというわけじゃないだろうな」とたわむれに聞くと、犬はぴょんと立ち上がり、嬉しそうに尻尾を振りながらハクラシスの膝に前足を乗せると、「ヒャンヒャン」と鳴き始めた。
「まさか本当に名前が同じなのか」
頭を撫でると、舌をペロペロと出しながら、気持ちよさそうに大人しく撫でられている。
「名が一緒なだけあって、なんだかお前を見ていると、レイズンを思い出すな」
ハクラシスは犬の頭を撫でながら、ぼんやりと朝の出来事を思い出していた。
そう、レイズンと喧嘩をする発端となった、レイズンが街で聞いてきた噂話。
『行方不明になった者が犬になって帰ってくる』
たしかそんな話をしていた。
人が犬になって戻ってくるなど、おとぎ話でもあるまいし。まさかそんなことが現実に起こるはずなど……。
そこまで考え、ふと自分が撫でている犬の顔を見た。
薄茶色の柔らかな毛、黒目がちな瞳。愛嬌のある表情。そして甘いものが好き。
本物のレイズンは舌を出したり、こんなずんぐりむっくりな体型などしていないが、全体的な愛くるしさは似ている。
さっきからどことなく似ているなとは思っていたが、まさか……。
「——お前、もしかしてレイズンか?」
「ヒャン!」
それこそ本当にたわむれのように聞いただけだった。
だが、その犬はレイズンと呼ばれた途端、必死で膝を駆け上がると、両肩に短い足を乗せて、ハクラシスの顔をベロベロとはしゃぐように舐め始めた。
「ぶは! こら! やめなさい!」
「ヒャウンヒャウン」
「こら、やめないか! ぶっ! おい! やめろ! つまみ出すぞ! ……ったく」
口も髭も何もかもがベチャベチャになったハクラシスがやっとの思いで引き離すと、犬のレイズンはハクラシスに抱え上げられたまま「ヒャン!」と元気よく鳴いた。
「本当にレイズンなのか? ……これをアーヴァルが見たら、大笑いするだろうに」
アーヴァルなら『犬のほうが愛らしいだろ。帰ってきたんだから、このままこれを飼えばいい』などと言い出しそうである。
「人間に戻す方法を考えなくてはな」
そう言いながらハクラシスは、もう一度レイズンに餌、もとい食事を与えることにした。
今度はちゃんとした食事で、柔らかいパンにジャム、そして生肉ではなくしっかりと火の通った肉。スープは汁が多いと食べにくそうであったから、汁を少なめにしてやると、ガツガツと食べていた。
やはり先ほどは生肉だったから食べなかったらしい。
普通の犬や獣なら生でも気にせず食べるだろうから、やはりこれはレイズンなのかもしれない。
「あークソッ! 朝レイズンの話をちゃんと聞いてやればよかったんだ」
レイズンの朝の話では、もし犬になって帰ってきたらどうすべきか、そのあたりまで言及していたように思う。だが、ハクラシスはその肝心の内容を受け流していたせいで、聞き逃してしまっていた。
「よし、レイズン。とりあえず街へ行こう。お前を元に戻す方法を探さなければな」
この犬が本当に人間のレイズンなのかまだ疑わしくはあったが、ハクラシスは気を取り直して、とりあえず噂の出どころである街へ行くことにした。もしかすると本物のレイズンはブーフと酒場にいるかもしれないし、この犬の飼い主が探していることがわかるかもしれない。
ハクラシスはスープで汚れてしまった犬のレイズンの口を布巾で拭いてやると、食事を終わらせ、レイズンを抱えて外へ出た。
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