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49話 暗転

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 すべてがうまくいっていると、懸念を追い払いたくなるものだ。夫に溺愛され、民に慕われ、経営は軌道に乗っている。幸せなのに、わざわざ嫌なことを考えたくもない。

 油断していたのだろう。
 その朝、たまたまリヒャルトはそばにいなかった。政務に追われていたのかもしれないし、なにかトラブルがあったのかもしれない。晩餐のあと呼び出され、夜はソフィアの部屋を訪ねなかった。

(甘えん坊さんがいないと、寂しいものね)

 とはいえ、一人も悪くない。久しぶりにルツと朝食を楽しもうとソフィアは思った。または行儀悪く書類に目を通しながら食べるのも、理にかなっている。菓子職人からは新作菓子のレシピが、学匠からはバター製造機、ヨーグルトと牛乳の瓶詰め工場の設計案が届いている。財務書類、牧場に併設される菓子工房の見取り図……目を通さなければならないものが、山とある。それと、ネイリーズ伯爵から届いたバニラの苗と取り扱い説明書──

 テーブルに手を伸ばした時、ドアが開け放たれ、バサバサッと書類が落ちた。

「あっ!」

 叫んだ瞬間、ソフィアは愕然とした。ゾロゾロと、ドアの向こうから兵士がなだれ込んでくる。なす術を持たず、ただただ目を見開くばかりであった。最初はクーデターが起こったのか、隣国が攻めてきたのかと思った。兵士の一人がソフィアの長ったらしい本名を読み上げ、

「反逆罪で拘束します」

 と宣言して、初めてこれは自分の身だけに起こったことだとわかった。国全体に起こった事件ではなく、個人的なことだと知って安堵するのは妙なことだ。
 血相変えたルツが隣の小部屋からやってきて、甲冑姿の兵士につかみかかろうとしていた。小さな老婆は戦士の目をし、懸命にソフィアを守ろうとしている。頑強な兵士との体格、力量差は歴然である。兵士は虫でも払うように、ルツを弾き飛ばすだろう。老いたルツの体は床に叩きつけられ、骨が砕けるかもしれない。

「待って!!」

 ソフィアはルツを止めた。

「後ろめたいことはなにもありません。捕らえたいのなら、捕らえればいいでしょう」

 昂然と胸をそらし、言い放った。ルツは充血した目をこちらに向ける。

(大丈夫よ。自分を粗末にしないで?)

 ソフィアは見返すことで、思いを伝えた。兵士は堂々としたソフィアにひるみながらも、手錠をかけた。

 ガチャリ……冷たい金属音にソフィアは身震いする。本当は恐ろしかった。その証拠に膝はガクガクしている。ソフィアを立たせているのは、気迫だけだった。なんでもないふうを装うのは、ルツに無茶をさせないためだ。

「すぐ戻ってくるわ。ルツ、おまえは自分の仕事をして、待っていなさい」

 余裕の笑みを見せる裏で、奥歯を噛み締める。ちょっとでも油断したら、ガチガチ音を立ててしまう。

 ソフィアはなるべく思考を止め、歩くことのみに専念した。悲鳴を上げ、道を空ける使用人たちの顔は見ない。知った顔が目に入ったら最後、崩れ落ちてしまうだろう。魂が半ば抜けたような状態だ。赤い絨毯が血の色に見える。
 連行される途中に通った地下道は、悪夢のようだった。あちらこちらから罪人の嗚咽や怒号がこだまし、ソフィアを責め立てる。視界は狭まり、世界が歪んで見えた。
 
 気の遠くなりそうな距離を歩いて、独房に押し込まれたあと、足元からせり上がってくる冷気に気づく。錠の音を合図に、ソフィアは膝をついた。

 壁、天井、四方を石に囲われている。鉄格子のはまった完全なる牢屋だ。寝返りをしたら落ちる幅のベッドに手をつくと、カビの臭いがした。もっとひどい臭気はベッドの下からだ。排便用の桶が臭いを発している。

 ソフィアは壁際に腰を下ろし、現状を整理しようと思った。
 思い当たることはなにもないし、冷静に分析もできない。最愛の旦那様に守られた暖かい部屋から、突然地下の独房へ移動されたのだ。ソフィアは自分で思っている以上に混乱していた。

 これは悪い夢なのだと思ったり、逆に今までのことが夢で、これが現実なのだと思ったりもした。

(このリエーヴへ向かう時、たくさんの兵士に囲まれて、人質として連れて行かれるものだと思っていたものね。大事にされて愛されるなんてこと、考えもしなかったわ)

 本来、ソフィアは敵国の王女で人質のようなものである。国との関係が悪化すれば、いつ殺されてもおかしくない立場だ。そう考えれば、少し気持ちは楽になった。

 今までが異常だった。自分のいるべき場所は寒い牢屋で、天蓋つきベッドのある豪華な寝室ではない。ソフィアは無理に思い込もうとした。

 せめて、ルツのショールを羽織ってから行くべきだった。底冷えする寒さはソフィアの体温を奪っていく。ガタガタ震えるのが、寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、悲しみや怒り、その他の感情のせいなのか──ソフィアにはわからなかった。

 看守の気配に気づかなかったのは、震えのせいだ。いつからだろう。薄闇の向こうに男たちが見えた。

「公爵夫人だってよ?」
「見ろよ、あの肌の白さ! やっぱり高貴な女はちげぇな!」
「こんな淑女でも、喘いだりするんだろうか?」
「剥いちまえば、女は全部一緒だよ」
「しかし、いいのか……?」
「ビビんなよ? どーせ、半日後には拷問部屋へ連れてかれる運命だ」

 暗いせいで、表情はよく見えない。だが、ギラギラする好色な視線はわかる。
 ソフィアの知る封建社会では、貴人だろうが罪人に人権はない。とらえられた女性の前途は悲惨である。ソフィアは壁づたいに、鉄格子からできるだけ離れようとした。

 しかし、四畳半ぐらいしかない独房だ。後ずさろうが、下卑た視線から逃れる方法はない。彼らがなにをしようとしているかは、鈍感なソフィアだってわかる。

(ごめんなさい、リヒャルト様。わたくし、操を守ることができません。汚れたわたくしをあなたは拒絶されるでしょう……)

 愛する夫はどこでなにをしているのか? ソフィアの身が蹂躙されようとしているのに、どうして助けに来てくれないのか? 絶望に陥ったソフィアは、初めて最愛の人を呪った。濡れた頬が冷たい。

(辱められるぐらいなら、死を選ぶわ。抵抗すれば、暴力を振るわれるでしょう。これから、わたくしはどうやって死ねるかだけを考えることにする)

 欲望にまみれた男たちが手を伸ばしてくる。錠の外れる音で、ソフィアは悲鳴上げそうになった。彼らはソフィアを踏みにじろうとしている。肉体だけでなく、誇りも権利も希望も……すべて。

 ソフィアはまぶたを閉じ、涙を落とした。
 
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