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24章 味の好みの違いと言うには
第1話 食卓上の悩み
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琴田さんは数ヶ月ほど前に煮物屋さん近くのマンションでひとり暮らしを始められ、常連さんになられた若い女性である。
ビールとともに、メインの鱈とねぎとえのきの煮物を頬張りながら「はぁ~」と満足げな息を吐く。
「やっぱりここのご飯がいちばん美味しいです~」
「ありがとうございます」
そう言っていただけるのは大変喜ばしいことだ。実家におられる時には親御さんの美味しいご飯も食べてこられただろうが、自立した今はなかなかそうもいかないと思うので、この煮物屋さんで少しでも堪能していただけたら幸いだ。
琴田さんには数年お付き合いをされている男性がおられるとのこと。だがひとりの時間も大事にしたいので、会うのは週末だけにしているのだそうだ。
今日は平日。仕事の帰りに立ち寄られた琴田さんである。ひとりの時間と言いつつ、こうして佳鳴たちとのお話を楽しんでくださる。
「やっぱり一緒に暮らすなら、食の好みってある程度合っていた方が良いですよねぇ?」
琴田さんがそんなことをおっしゃるのは、もしかしたら彼氏さんとのご結婚を意識されているのだろうか。
「そうですねぇ。お家でご飯を作られるんでしたら、その方が良いかも知れませんね」
佳鳴と千隼は一緒に暮らしていて、主に千隼が作ってくれたご飯を食べているが、ふたりは父親が作ってくれた食事で育っているので、味覚や好みがほぼ同じである。だからこそこうして一緒に飲食店が経営できている。
だが結婚となると、別々に育ったふたりが一緒に暮らし始めるのだから、大きく変わって来るだろう。濃い味で育った人と薄味で育った人が一緒になると、擦り合わせが大変そうだ。
「ですよねぇ。うん、やっぱり今の彼氏との結婚は難しいかなー?」
琴田さんはそう言って首をひねった。
「彼氏さんと味覚が大きく違っている感じなんですか?」
「多分そうだと思います。彼氏、一緒にご飯食べてると、結構いろんなものに醤油とかソースどばっと掛けちゃうんですよ。冷や奴とかお浸しとか、具材が醤油で浮くんじゃ無いかってぐらい。なので濃い味が好きなんだろうなぁって」
「お醤油とかソースでしたら、もしかしたら塩っ辛いのがお好みなんでしょうか?」
琴田さんは「あ、そうですね」とぱっと目を見開く。
「確かに確かに。それぞれの好みもあるんでしょうし、外で自分の分にだけそうしてるんだったらまぁ良いかなと」
そして琴田さんは小鉢の海藻ナムルを口に入れて「ん~」と口元を綻ばす。
「美味しい~。これも彼氏は醤油とか足しちゃうんだろうなぁ。勿体無い」
「お味の好みは本当にそれぞれですよねぇ。うちはお出汁を効かせた優しい味を心掛けてますので、薄いと感じる方もおられるかも知れません」
「私には最適です。この味を守っていただけたら嬉しいです」
「はい。精進します」
佳鳴が笑みを浮かべると、琴田さんは嬉しそうに「ふふ」と小さく笑った。
数日後訪れた琴田さんは、何かあったのか難しい顔をして椅子に掛ける。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。あの」
佳鳴からおしぼりを受け取りながら琴田さんは口を開く。が「んん」とすぐに閉じてしまう。
「どうかされました?」
軽く促してみると、琴田さんはまた「んん~」と唸る。
「あ、先に注文しますね。ビールでお願いします」
「はい。お待ちくださいね」
きんと冷えた瓶ビールを出して栓を抜き、グラスを添えてお出しする。琴田さんはグラスに注いでさっそくぐいと傾けると「はぁっ」と息を吐いた。
「実は、彼氏からプロポースされまして」
「あら」
それはおめでたいことだと思うのだが、琴田さんは顔をしかめたままである。
「私、すぐに返事ができなくて。待ってって言っちゃったんです」
琴田さんはそう言ってうなだれてしまった。
「何か気に掛かることとかがあるんですか?」
佳鳴が聞くと、琴田さんは「はぁ」と小さな溜め息を吐く。
「前にも少し言ってた、ご飯のことがやっぱり気に掛かってしまって」
「ああ、彼氏さん、お醤油やソースをどばっと掛けちゃうっておっしゃってましたねぇ」
「はい。今は付き合っているだけだから良いんです。これまでデートも外食ばかりだったんで、そうされてもあまり気にならなかったんです。塩っ辛いものが好きなんだなって。でも一緒に暮らすことになったら、外食ばかりってわけにもいかなくなると思うんです。今は週末だけ会うのでそれで済んでるんですけど」
「そうですねぇ。毎日のことになりますからねぇ。お金もそうですし、あまり身体にも良く無いでしょうから」
「はい。私、結婚しても仕事は続けたいので、家事の分担にもよりますけど、どちらかが作ることになると思うんですけど、私が作ったものにも醤油とかどばっと掛けられちゃうのかなって思うと、すごくショックを受けてしまって」
琴田さんはそう言って切なそうに目を伏せた。
確かに心を込めて作ったものに、少しの味足しならともかく、味そのものが変わってしまう様なことをされてしまうのは悲しいことだろう。
味の好みは千差万別なのだろうが、大きくずれてしまえば作ることが苦痛にだってなるかも知れない。
作る側は相手に美味しいものを食べて欲しいと思って作る。特に意識をしていなくても、相手に「美味しい」と言ってもらえればとても嬉しいのだから、きっとそういうことなのだ。
お醤油やソースだけで無く、七味やマヨネーズ、ケチャップなどを日常的に多く使う人もいるだろう。それが悪いとは言わない。だが度を過ぎれば作り手の思いを踏みにじる行為と等しいとも言える。そしてマナーも良く無いだろう。
一般の飲食店、煮物屋さんも含めてそういうお店でお出しするものは、それぞれに変化はあれど、平均的に「美味しいと思われるもの」だ。それらの中から皆自分の好みの味を探して食事にありつく。
煮物屋さんの常連さんたちは、幸いにも佳鳴と千隼が丹精込めて作った料理を何も足さず美味しいと笑顔になってくださる。それは本当に幸せなことなのだと思う。
だから佳鳴も千隼ももっと頑張ろうと思える。お客さま方にもっと美味しいものを食べていただきたいと。
「それに……」
琴田さんはまたぽつりと口を開く。
「彼氏が作ってくれたとして、私、それを美味しいって食べることができるのかなって。作る時ってどうしても自分の好みの味で調味をすると思うんです。煮物だったら醤油が強かったり、野菜炒めとかだったらソースどぼどぼとか、そうなっちゃうんじゃ無いかなぁって。それだと多分私には辛くて食べられない様な気がして。そして、そしたらそんなことが諍いの原因になるんじゃ無いかなって思って」
佳鳴は「そうですねぇ」と同意する。
「お食事は毎日のことですから、味の好みが大きく違ってしまうと難しいのかも知れませんねぇ。だからと言って別々に作るのも大変でしょうし」
「仕事をしながらですから、互いに難しいですよね。割り切ってしまえば良いんでしょうけども……。それに塩分の取り過ぎも心配です」
「そうですね。高血圧とか腎臓とかが気に掛かりますねぇ。プロポースをお受けするにしてもお断りするにしても、お話し合いをされるのが良いのかも知れませんね」
「そうですね。私が即答できなかったのはどうしてなのか、それをちゃんと言わなきゃ納得もしてもらえませんもんね。ご飯の好み以外が合うかどうかとかはそれこそ一緒に暮らさないと判らないことだと思いますけども、その前にできることはやっておかないと。あの……」
琴田さんは少し逡巡する様に不安げに目を泳がし、やがて「うん」と頷く。
「あの、今度、ううん、明日にでも彼氏をこのお店に連れて来ても良いですか? 店長さんとハヤさんには嫌な思いをさせてしまうかも知れませんけど」
「はい。こちらはいつでも大丈夫ですよ。お待ちしておりますね」
佳鳴が笑顔で言うと、琴田さんはほっとした様に頬を緩ませて「ありがとうございます」と口角を上げた。
ビールとともに、メインの鱈とねぎとえのきの煮物を頬張りながら「はぁ~」と満足げな息を吐く。
「やっぱりここのご飯がいちばん美味しいです~」
「ありがとうございます」
そう言っていただけるのは大変喜ばしいことだ。実家におられる時には親御さんの美味しいご飯も食べてこられただろうが、自立した今はなかなかそうもいかないと思うので、この煮物屋さんで少しでも堪能していただけたら幸いだ。
琴田さんには数年お付き合いをされている男性がおられるとのこと。だがひとりの時間も大事にしたいので、会うのは週末だけにしているのだそうだ。
今日は平日。仕事の帰りに立ち寄られた琴田さんである。ひとりの時間と言いつつ、こうして佳鳴たちとのお話を楽しんでくださる。
「やっぱり一緒に暮らすなら、食の好みってある程度合っていた方が良いですよねぇ?」
琴田さんがそんなことをおっしゃるのは、もしかしたら彼氏さんとのご結婚を意識されているのだろうか。
「そうですねぇ。お家でご飯を作られるんでしたら、その方が良いかも知れませんね」
佳鳴と千隼は一緒に暮らしていて、主に千隼が作ってくれたご飯を食べているが、ふたりは父親が作ってくれた食事で育っているので、味覚や好みがほぼ同じである。だからこそこうして一緒に飲食店が経営できている。
だが結婚となると、別々に育ったふたりが一緒に暮らし始めるのだから、大きく変わって来るだろう。濃い味で育った人と薄味で育った人が一緒になると、擦り合わせが大変そうだ。
「ですよねぇ。うん、やっぱり今の彼氏との結婚は難しいかなー?」
琴田さんはそう言って首をひねった。
「彼氏さんと味覚が大きく違っている感じなんですか?」
「多分そうだと思います。彼氏、一緒にご飯食べてると、結構いろんなものに醤油とかソースどばっと掛けちゃうんですよ。冷や奴とかお浸しとか、具材が醤油で浮くんじゃ無いかってぐらい。なので濃い味が好きなんだろうなぁって」
「お醤油とかソースでしたら、もしかしたら塩っ辛いのがお好みなんでしょうか?」
琴田さんは「あ、そうですね」とぱっと目を見開く。
「確かに確かに。それぞれの好みもあるんでしょうし、外で自分の分にだけそうしてるんだったらまぁ良いかなと」
そして琴田さんは小鉢の海藻ナムルを口に入れて「ん~」と口元を綻ばす。
「美味しい~。これも彼氏は醤油とか足しちゃうんだろうなぁ。勿体無い」
「お味の好みは本当にそれぞれですよねぇ。うちはお出汁を効かせた優しい味を心掛けてますので、薄いと感じる方もおられるかも知れません」
「私には最適です。この味を守っていただけたら嬉しいです」
「はい。精進します」
佳鳴が笑みを浮かべると、琴田さんは嬉しそうに「ふふ」と小さく笑った。
数日後訪れた琴田さんは、何かあったのか難しい顔をして椅子に掛ける。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。あの」
佳鳴からおしぼりを受け取りながら琴田さんは口を開く。が「んん」とすぐに閉じてしまう。
「どうかされました?」
軽く促してみると、琴田さんはまた「んん~」と唸る。
「あ、先に注文しますね。ビールでお願いします」
「はい。お待ちくださいね」
きんと冷えた瓶ビールを出して栓を抜き、グラスを添えてお出しする。琴田さんはグラスに注いでさっそくぐいと傾けると「はぁっ」と息を吐いた。
「実は、彼氏からプロポースされまして」
「あら」
それはおめでたいことだと思うのだが、琴田さんは顔をしかめたままである。
「私、すぐに返事ができなくて。待ってって言っちゃったんです」
琴田さんはそう言ってうなだれてしまった。
「何か気に掛かることとかがあるんですか?」
佳鳴が聞くと、琴田さんは「はぁ」と小さな溜め息を吐く。
「前にも少し言ってた、ご飯のことがやっぱり気に掛かってしまって」
「ああ、彼氏さん、お醤油やソースをどばっと掛けちゃうっておっしゃってましたねぇ」
「はい。今は付き合っているだけだから良いんです。これまでデートも外食ばかりだったんで、そうされてもあまり気にならなかったんです。塩っ辛いものが好きなんだなって。でも一緒に暮らすことになったら、外食ばかりってわけにもいかなくなると思うんです。今は週末だけ会うのでそれで済んでるんですけど」
「そうですねぇ。毎日のことになりますからねぇ。お金もそうですし、あまり身体にも良く無いでしょうから」
「はい。私、結婚しても仕事は続けたいので、家事の分担にもよりますけど、どちらかが作ることになると思うんですけど、私が作ったものにも醤油とかどばっと掛けられちゃうのかなって思うと、すごくショックを受けてしまって」
琴田さんはそう言って切なそうに目を伏せた。
確かに心を込めて作ったものに、少しの味足しならともかく、味そのものが変わってしまう様なことをされてしまうのは悲しいことだろう。
味の好みは千差万別なのだろうが、大きくずれてしまえば作ることが苦痛にだってなるかも知れない。
作る側は相手に美味しいものを食べて欲しいと思って作る。特に意識をしていなくても、相手に「美味しい」と言ってもらえればとても嬉しいのだから、きっとそういうことなのだ。
お醤油やソースだけで無く、七味やマヨネーズ、ケチャップなどを日常的に多く使う人もいるだろう。それが悪いとは言わない。だが度を過ぎれば作り手の思いを踏みにじる行為と等しいとも言える。そしてマナーも良く無いだろう。
一般の飲食店、煮物屋さんも含めてそういうお店でお出しするものは、それぞれに変化はあれど、平均的に「美味しいと思われるもの」だ。それらの中から皆自分の好みの味を探して食事にありつく。
煮物屋さんの常連さんたちは、幸いにも佳鳴と千隼が丹精込めて作った料理を何も足さず美味しいと笑顔になってくださる。それは本当に幸せなことなのだと思う。
だから佳鳴も千隼ももっと頑張ろうと思える。お客さま方にもっと美味しいものを食べていただきたいと。
「それに……」
琴田さんはまたぽつりと口を開く。
「彼氏が作ってくれたとして、私、それを美味しいって食べることができるのかなって。作る時ってどうしても自分の好みの味で調味をすると思うんです。煮物だったら醤油が強かったり、野菜炒めとかだったらソースどぼどぼとか、そうなっちゃうんじゃ無いかなぁって。それだと多分私には辛くて食べられない様な気がして。そして、そしたらそんなことが諍いの原因になるんじゃ無いかなって思って」
佳鳴は「そうですねぇ」と同意する。
「お食事は毎日のことですから、味の好みが大きく違ってしまうと難しいのかも知れませんねぇ。だからと言って別々に作るのも大変でしょうし」
「仕事をしながらですから、互いに難しいですよね。割り切ってしまえば良いんでしょうけども……。それに塩分の取り過ぎも心配です」
「そうですね。高血圧とか腎臓とかが気に掛かりますねぇ。プロポースをお受けするにしてもお断りするにしても、お話し合いをされるのが良いのかも知れませんね」
「そうですね。私が即答できなかったのはどうしてなのか、それをちゃんと言わなきゃ納得もしてもらえませんもんね。ご飯の好み以外が合うかどうかとかはそれこそ一緒に暮らさないと判らないことだと思いますけども、その前にできることはやっておかないと。あの……」
琴田さんは少し逡巡する様に不安げに目を泳がし、やがて「うん」と頷く。
「あの、今度、ううん、明日にでも彼氏をこのお店に連れて来ても良いですか? 店長さんとハヤさんには嫌な思いをさせてしまうかも知れませんけど」
「はい。こちらはいつでも大丈夫ですよ。お待ちしておりますね」
佳鳴が笑顔で言うと、琴田さんはほっとした様に頬を緩ませて「ありがとうございます」と口角を上げた。
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