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 男を捕えてから数日後、結婚してから1年が経過した。だが、ラートがフェルミとの結婚記念日に何かをするなどあり得ない。だというのに、フェルミは食事に誘われたのである。

「一体何の用かしら?」
「マザコンとの二度目の食事ですね」

 フェルミだけでなく、ファーリも嫌な予感がした。なんとなく、伯爵家を追い出された時のことを思い出す。ファーリは、用があると食堂に共に行かなかった。

 ひとりで食堂に入ると、そこには子爵夫妻とラート、そして借金取りの男が座っていた。トラムたちも部屋で待機している。

「フェルミさん、いつまで座っているの? 全く、あれほど可愛がってあげたのに、嫁としての責任も果たせないし。挨拶ぐらいしたらどうなの?」

 子爵夫人に会うのも久しぶりだ。持参金の全てを手に入れ、更にフェルミを連帯保証人にして借金を重ねた彼らは、彼女の機嫌をとるという演技すらしないようだ。
 カロナは彼女の指示なのか、最近フェルミの部屋を訪れることはない。彼女の背後に立っており、フェルミを一瞥するその瞳は冷たかった。

 ちらっとトラムを見ると、ほんのわずかに彼が頷いた。フェルミは、ファーリがいないのが少々心細いが、今はひとりじゃないと、顔をあげた。目の前にいるラートと視線が合う。まっすぐ彼を見つめると、視線をそらされた。

「お待たせいたしました」

 フェルミも、おいそれとは追い出されないだろうという思いがあった。安易に彼女を追い出せば、伯爵家に借金することができないからだ。ただ、先方がいつまでも融資してくれるとは限らない。

(もしかして、もうお金を借りれないからって、用済みになった私を追い出そうとするのかしら)

 フェルミは、子爵夫妻とラートを順番に見つめた。追い出されるかもしれないが、心は晴れ晴れとしている。

(大丈夫。私は、大丈夫)

 相変わらず、世界に飛び出す自信なんてない。未知の向こう側を見る勇気だって、これっぽちも湧かなかった。怖くてたまらない気持ちのほうが圧倒的に大きい。それでも、ここにいるよりははるかに大きく一歩一歩進んで行けると思った。

(あの男は、「たかが草を枯らすだけのスキルを怖がってるとか、この国のやつらは情けない弱虫ばかりがそろってやがる。バカバカしいにもほどがあるな」って言ったわ。つまり、外国だと、私のスキルなんて大したことがなくて、そのせいで嫌われるなんてことないんだわ。この国じゃないところなら、髪の色も瞳の色も目立たないもの。だから、皆に嫌われるなんてことはない)

 皮肉にも、フェルミに小さな自信の芽を植えてくれたのは、借金取りの男だった。あの時の彼の言葉は、本心だったにちがいない。あの言葉を聞いた時から、彼と同じような考えの人たちのいる外国の方が、自分が生きる場所なのかもしれないと思っていたのである。

 フェルミが簡単な挨拶をしたあと、ラートが持ち上げたグラスを彼女に向けた。

「おい、お前。あー、名前はなんだったか。とにかく、今日かぎりでここを出ていけ」
「え……?」

 フェルミは、まさか名前まで覚えていないのかと驚いたが、ラートは出て行けと言った言葉に驚愕して言葉を失っていると勘違いする。

「あのね、フェルミさん。言いたくはなかったけれど、うちには跡継ぎが必要なのよ。ラートの血を引くね。でも、あなたときたら、ドアが開かないようにして、ラートを拒んでいたそうね?」
「どうしてそれを……」

 フェルミが、鍵をかけてタッセルでドアノブをくくっていたことは、ファーリたちと借金取りの男しか知らないはずだ。それを知っているということは、もしかしたら、ラートも来ていたことがあるのだろうか。
 フェルミはぞっとして自分の体を抱きしめるように右手で左腕を掴んだ。

「フェルミ、うちは確かに取るに足らない子爵家だ。だが、伯爵家のご令嬢だからといって、今はうちの息子の嫁なんだぞ? なのに、一番の仕事を放棄するなど……。こちらにも我慢の限界がある。このことは、伯爵家に報告ずみだ。あちらからは、お前を自由にしていいと言われている。つまり、どういうことか、わかるか?」
「……」

 子爵の言葉に、その嫁の名を借りて伯爵家に借金まで作ったのは誰だと言いたかった。だが、ここで言えば激高されるだろう。無用なトラブルは、たいていの場合悪手でしかない。口をつぐんで俯いた。

「俺たちは、客人とともに新しい事業を立ち上げることになった。新しい土地で、一から出直す。そこに、お前はいらないというわけだ。お前は、うちにとって疫病神以外の何者でもない。わかったら、とっとと出ていけ」
「……」

 フェルミの肩が小さく震える。俯いた彼女の表情は、誰にも見ることができないため、青ざめて恐怖に駆られているように見えるだろう。

「若奥様、こちらにサインを……」

 トラムが、フェルミに一枚の紙を差し出した。色々書かれているが、そこにはラートと子爵夫妻、伯爵夫人、そして借金取りの男のサインが記入されていた。

「これは?」
「離縁状だ。なんと、客人まで保証人としてサインしてくださったんだ。さっさとそれに記入して出ていけ」

 フェルミは、その書類に一通り目を通すと、震える指先でサインをした。これで、この家とは無関係になるのだ。かといって、どこにも行くあてはない。

「若奥様、いえ、フェルミ様。旦那様からの心遣いです。どうぞお受け取り下さい」
「これは……。お世話になりました……」

 トラムが渡したのは、小さな巾着に入ったいくばくかのお金だった。伯爵家とはちがい、多少の旅費はくれるようだ。
 フェルミが頭を下げて別れを告げると、子爵夫妻はせいせいしたといった表情で笑った。ラートは相変わらず彼女を睨みつける。
 借金取りの男は苦虫を噛んだような顔をしていたが、何も言わずに部屋を出ていくフェルミの背中を見ていた。

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