浮気な彼と恋したい

南方まいこ

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13.筆が勝手に

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 その日、海翔は家に戻ってからも書道に励んだ。
 家の作りは洋風だが、一階の離れには書物を書くための特別なスペースがある。たまに父が雑誌の取材など受けたり、撮影に使ったり、企業の事案だったり、用途は無限だ。
 二十畳以上ある和室の中央に書道机を用意し、その机の前に海翔は礼儀正しく座った。
 無音の中、ピンと張りつめる空気を感じながら、半紙に筆を滑らせる。紙と筆の擦れる音は、余計なことを考えなくて済むので好きだ。
 けど、誠人と書き上げてから思う。

 ――あれ、何で誠人さんの名前を……

 この時、改めて重症だと思った。
 無意識でこれを書いたのだから、病院へ行ってもいいレベルだ。
 ああ、もう、と書いた紙をぐしゃっと握り、はっとして、しわしわになった紙を綺麗に伸ばしていると、カタっと小さな物音と同時に、「珍しいな、人の名か?」と部屋の入口付近から声が聞えた。

「あ……、ち、違う、これは筆が勝手に」

 自分でも変な言い訳をしていると思うが、本当に勝手に筆が動いたんだ! と混乱しながら言い訳をしていると、のっそりと和室へ入って来た父は、含み笑いをこぼし、「どんな文字でもいい、大切にしなさい」と言う。
 そのまま父が海翔の前へ座り、改まった姿勢を取ると、美しく象られた口が開き、「近々、大学で書道のイベントがあるだろう?」と珍しく海翔の通っている大学の話をし始めた。

「あー、そういえば、先輩が企業の企画案件だって言ってた」
「それな、安本やすもとの仕事なんだ」

 ニッコリ微笑んだ父を見て、なるほど、仕事のパートナーの顔に泥を塗るなと言いたいのか、と海翔は察した。
 仕事で知り合った安本英明やすもとひであきという男は、長年、父親の良きパートナーだった。
 それこそ、母が男を作って出て行く時ですら、家庭より安本との仕事を選んだくらいだ。もう二人は付き合っていてもいいレベルだったが、まあ、海翔が生まれている時点で、父はノーマルな人間なのだろうと思う。
 自分としては二人が恋人になったとしても、受け止める度量があるし、何ならイチャついてもらっても構わない。我ながら出来た息子だな、と鼻高々に海翔は胸を張りながら、「イベント頑張るよ」と言えば。

「そうじゃなくて、気にせずやりなさい、と言いたかったんだ」

 父親としてと言うよりは、師匠としての言葉だと思った。

「最初、安本は他の大学に申し込んだが、企画編集部のお偉いさんに、私の息子がいる大学を嗅ぎ付けられて、急遽、お前の大学に変更になったらしいからな」
「そっか……、分かった」

 安本も大変だなと海翔は思った。そんなに気を遣わなくてもいいのに、と逆に気の毒になる。結婚もしておらず、子供のいない安本は、海翔との接し方が分からないようで、幼少期は異常なほど気を遣ってくれていた。
 最近は、そうでもなくなったが、それでも書道家の父、大鳳千秋おおとりちあきの息子だという姿勢は変わっておらず、実に謙虚な人物だった。
 父は、じっと海翔の書いた文字を眺め「で、その人物は学校の人間か?」と聞いて来るので「違う」と答えた。

「……ねえ、変なこと聞くけど、母さんとは恋愛結婚だった?」
「そうだよ」
「ふーん、どうやって付き合ったの? きっかけは?」
「きっかけって、そんなの、別に……、仕事したり、出かけたり、お互いに良い所を見つけて、自然に……?」

 それを聞き、一番苦手な分野だなと思った。
 こう言っては何だが、最終目的はセックスなのに、そんなじれったいことするなんて海翔には無理だと思う。
 前々から、恋愛に関しては疎いと言うか、理解出来ないことが多かったが、父の話を聞いて尚更、理解出来ないと思った。

「もしかして、大学で好きな人が出来たのか? もしそうなら、同じ趣味を見つけたり、自分のことを知ってもらったり、そういうことから始めた方がいいぞ」
「好き……? いや、好きではないかな」

 ――そう、好きじゃなくて、誠人のアレが忘れられなくて、早く抱かれたいだけだ! 

 と、そんなことを言えば、父は倒れてしまうかも知れないので、海翔は自重する。

「ちょっと気になるだけだよ。今何してるのか、誰といるのか、とか……、何となく知りたくなるだけ……」
「海翔、それを世間一般で、好きと言うんじゃないか? それに、何とも思わない相手の名前書いたりしないだろ?」

  諭すように言う父の言葉に海翔は反論をする。

「これは筆が勝手に!」
「お前は……、子供の頃からそうだが、言い当てられると、すぐに人のせいにしたり、物のせいにする。いい加減その癖を直しなさい」
 
 ぐちぐちと小言が始まり、相談する人を間違えたなぁ、と反省をしていると父の携帯が鳴る。恐らく安本からだろうと察した海翔は、どうせ仕事の話で長くなるし、このままここに居たら、また小言が始まると感じて、さっさと書道道具を片付けると部屋を出た。
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