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三、変 ★
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明らかにこの日は違った。
中心街の道路沿いに面してガラス張りの造りになっている洒落たダイニングバーでバイトしている俺は、昼のランチタイムからの切り替わりで交代した。
店先にはテラスが設けてあり、過ごしやすい日はテラスでオープンカフェも楽しめる。今からがいい季節だ。心地良い風を感じながら親しい人たちと食事や酒も堪能できる。
今日はテラスの客もまばらだ。
まだまだ春と言っても肌寒い。酒が入ればちょっとは違うのかな?俺は飲む方じゃないからよく分からない。酒を飲みながら楽しそうに会話が弾んでいるのを見るとこっちまで嬉しくなる。
客が帰った後のテーブルを片付けてまた次のテーブルの支度にかかる。
新しいグラスを取りにカウンターへ向かう。カウンターには他の従業員に交じって陽斗もグラスなどの片付けをしていた。高校生の陽斗はもう上がりの時間。
「陽斗、上がりだよ」
店長が声をかけて促す。
「はい。これまで済ませます」
学校には絶対バレないようにってバイトしてるけど、別に家庭環境、生活面で困ることないだろうに。
ま、一つは俺もいるからかな。これって惚気てる?
「今日、泊っていい?」
こっそりと近寄ってきて陽斗が尋ねる。
「俺、帰り遅いから先帰ってて」
それがOKの返事。
これからの時間が忙しくなるんだよな‥‥
夕食時間となると何処も飲食店は稼ぎ時なんだろうけど。
カフェエプロンの腰紐を結び直してテーブルのセッティングに向かった。
ガラス張りの向こう側は夕暮れ時。
帰路に就く人達や学生、夕飯の買い出しだろう様々な人が行き交っていた。
帰り道、「ちょっと寄っていこうか」てな感じで店に足を運ぶ。
(今日も忙しくなるかな‥‥)
気合いを入れ直すように表の風景に目をやる。
何だろう、俺は凄く気になった。
たくさんの人が行き交う波間に目につく影が。
(え…?待って‥‥)
喉元まで声が出そうになった。
多分、他の人には〝こんな人もいるんだろうな〟くらいの日常に溢れている存在なんだろうけど、人の波間にちらちら見え隠れするその透明に近い瑠璃色の髪――
テーブルを挟んで身体を乗り出すようにしてその影を追っていた。
心臓がドキドキする。
(…ねぇ‥‥誰?)
今にも追って出て行きそうになった。でも、足が動かない。視線はずっとその影を追っているけれど、
(待っ‥‥て‥‥)
意識が遠退いていく――
そっからは全く覚えない。
昼間なのか、夜なのか、分からない。
薄暗い部屋――それに、染みついているお香の匂い。
(‥‥へ‥‥?)
我に返ったのと同時に腰の辺りに痛みを覚えた。
「…痛って――‥‥」
「ここはどこ?私は誰?」状態。
辺りを見回してみるけど、薄暗くて視界がはっきりとしない。
どこかで打ったのだろうか、腰を押さえながら四つん這いになっている俺の掌に畳の感触が伝わってくる。
記憶を辿るようにして俺は目を瞑った――
確か‥‥バイト中だったはず。
瞼の奥にテーブルに並べたグラスや夕方の景色を覚えている。それから――?
(――ここは?)
瞼を開けても薄暗い世界は変わらなかった。
頭の中が混乱している。現実なのか、夢なのか。四つん這いの格好のまま俺は片手で髪を掻いた。
人の声――?の様にも聴こえる。微かに物音が聴こえたんだ。
うな垂れていた首をもたげて見渡すと、この薄暗い視界に少し目が慣れてきたようで、襖の隙間から僅かに光が漏れていた。
痛みが和らいだ腰を庇いながらまるで動物かのように四つ足歩行で光の漏れる方へ動く。
できるだけ音を立てないように‥‥何か俺、不審者みたいじゃないかって自分がしてることが恨めしく感じた。置かれている状況が把握できていないから余計に身体中に緊張が纏っている。
ぎこちない恰好で襖に近づくと、人間の条件反射なのかな、心理的反射なのか、ほんの数ミリの隙間から中を覗いてみようとする。あれ、ほら、昔話にあるような「ただし、決して覗いてはなりません」のような状況?必死なんだけど、何か苦笑いする。
ぼんやりとする明かりだけ――
人の気配はない。また、心理的反射?泥棒かよってな感じでその襖をそぉぉっと開けてみた。
(誰も居ない‥‥)
そこには。
襖を開いた部屋はさらに奥の部屋からの明かりで先程よりはずっと視界がよかった。
(‥‥!)
やっぱり、物音は気のせいじゃなかった。この奥の部屋だろう、確かに物音が聴こえる。
(誰か‥‥居る?)
目の前に今度は面の広い障子戸があった。
何の確信かは分からないけど、ここは現実じゃない。
俺は今、夢を見てるんだ。きっとそう。ぎゅっと瞼を閉じて〝これは現実じゃない〟って振り解くようにまたゆっくりと瞼を開けた。だけど、目の前の光景は何も変わらない。
障子戸の向こう側からは微かな物音が聴こえていて気になった。
その先に何か答えがあるかもしれないと、また泥棒みたいにそぉぉっと障子戸を開けて覗いてみた。
「明後日は〝二十四節季神楽 啓蟄の舞〟そなたもそろそろ支度を整えておかねばな‥‥」
白銀の長髪の男が何かに語りかけている。
(この人は‥‥何者?)
もうちょっとだけ‥‥ドキドキしながらもその先が知りたくてあと数ミリ障子戸を開けてみた。
片目を凝らして見入った視界に、吊り下げられた銀製の鳥籠が。中には自分が見たこともない綺麗なとても綺麗な瑠璃色の蝶が穏やかに羽を揺らしていた。
男が鳥籠の扉を開けて中へ手を差し伸べると、瑠璃色の蝶は慣れた様子で指先に止まる。
男は籠の中からゆっくりと指先を出して顔元に近づけるとその蝶に向かって優しく息を吹きかけた。
サラサラと瑠璃色の鱗粉が舞い落ちて――やがてその姿が人となる。
(!‥‥なっ、なに?)
映画でも観ているのか?
(CGの世界じゃん!いや、俺は今、映画を観てるんだ!)
混乱する自分に言い聞かせるように、二、三度頭を振ってみたけど‥‥
目の前の現実は変わらなかった。
「…アオ、いつもの役目、大儀であった――」
男の前に現れたのは――蝶になった人間?人間になった蝶?
透き通るほどの白肌に透き通るほどの瑠璃色のさらりとした髪。
すっとした両眼は目の前の初老の男を見上げている。
「ありがたいお言葉――」
「変わらず――アオは綺麗だ」
口元に少し笑みを見せながら男はアオの耳元から首へと舌先を滑らせていく。
それと同時にアオの羽織っている着物を慣れた手つきで剥いだ。
露になった美しい白肌の全裸――
「翠螟様、またお香を焚かれたのですか?」
そう言いながらアオはくん、と首を伸ばして翠螟の唇に顔を近づけて微かに笑んだ。
「厄介な虫たちがいつ出てくるかもしれないからね」
翠螟は優越な笑みを湛えるとアオに口づけをした。
見ちゃいけない!
そんなことを考える余裕があるのか――?
これって…覗きだよな。しかもこんな訳の分からない状況の中で、俺って何してるんだろ。早くここから帰りたい!
どこに‥‥?
障子戸の奥から吐息のような声が漏れてくる。
さらにバクバクする心臓を感じながらも俺は奥の様子が気になって仕方なかった。気配を押し殺してもう一度、障子戸の数ミリの隙間から覗いてしまった。
――はっきりと顔が見えなかったけど‥‥
パン、パンッ‥‥
激しく揺さぶる音が座敷中に響いていた。
「翠螟…様ぁぁ‥‥」
アオの声にならない声が喘いでいた。
四つん這いの格好で臀部を持ち上げられながら悦に満たされるアオが顔を擡げる。
気が遠退くような激しさの中で薄っすらと開いた瞳と、
――目が合った?
一瞬、そう感じた。
――思い出した!
この目、この髪‥‥
『‥‥大丈夫――』
そう声をかけてくれた人――
そうなの?
君は一体、誰なの?
障子戸のこっち側の薄暗い座敷で俺は膝を抱えて顔を埋めていた。
しばしその色事を丸めた身体に感じながら息を潜めていた。
何の音も聞こえなくなった――?
耳に衝くほどの静まり返った座敷に、不意に障子戸を開ける音が耳に届いて俺はとっさに身構えてその方に目を凝らす。
「貴方がここに来てはいけない――」
その声の主はふわりといつの間にか俺の傍らに座していた。
「え‥‥?」
息を吐く間も、現状を理解する間もなく、
「ここに…来てはいけない――」
目の前にはっきりとその色白の顔が見えたかと思った瞬間――
柔らかな息を感じて俺はそのまま意識が分からなくなった。
中心街の道路沿いに面してガラス張りの造りになっている洒落たダイニングバーでバイトしている俺は、昼のランチタイムからの切り替わりで交代した。
店先にはテラスが設けてあり、過ごしやすい日はテラスでオープンカフェも楽しめる。今からがいい季節だ。心地良い風を感じながら親しい人たちと食事や酒も堪能できる。
今日はテラスの客もまばらだ。
まだまだ春と言っても肌寒い。酒が入ればちょっとは違うのかな?俺は飲む方じゃないからよく分からない。酒を飲みながら楽しそうに会話が弾んでいるのを見るとこっちまで嬉しくなる。
客が帰った後のテーブルを片付けてまた次のテーブルの支度にかかる。
新しいグラスを取りにカウンターへ向かう。カウンターには他の従業員に交じって陽斗もグラスなどの片付けをしていた。高校生の陽斗はもう上がりの時間。
「陽斗、上がりだよ」
店長が声をかけて促す。
「はい。これまで済ませます」
学校には絶対バレないようにってバイトしてるけど、別に家庭環境、生活面で困ることないだろうに。
ま、一つは俺もいるからかな。これって惚気てる?
「今日、泊っていい?」
こっそりと近寄ってきて陽斗が尋ねる。
「俺、帰り遅いから先帰ってて」
それがOKの返事。
これからの時間が忙しくなるんだよな‥‥
夕食時間となると何処も飲食店は稼ぎ時なんだろうけど。
カフェエプロンの腰紐を結び直してテーブルのセッティングに向かった。
ガラス張りの向こう側は夕暮れ時。
帰路に就く人達や学生、夕飯の買い出しだろう様々な人が行き交っていた。
帰り道、「ちょっと寄っていこうか」てな感じで店に足を運ぶ。
(今日も忙しくなるかな‥‥)
気合いを入れ直すように表の風景に目をやる。
何だろう、俺は凄く気になった。
たくさんの人が行き交う波間に目につく影が。
(え…?待って‥‥)
喉元まで声が出そうになった。
多分、他の人には〝こんな人もいるんだろうな〟くらいの日常に溢れている存在なんだろうけど、人の波間にちらちら見え隠れするその透明に近い瑠璃色の髪――
テーブルを挟んで身体を乗り出すようにしてその影を追っていた。
心臓がドキドキする。
(…ねぇ‥‥誰?)
今にも追って出て行きそうになった。でも、足が動かない。視線はずっとその影を追っているけれど、
(待っ‥‥て‥‥)
意識が遠退いていく――
そっからは全く覚えない。
昼間なのか、夜なのか、分からない。
薄暗い部屋――それに、染みついているお香の匂い。
(‥‥へ‥‥?)
我に返ったのと同時に腰の辺りに痛みを覚えた。
「…痛って――‥‥」
「ここはどこ?私は誰?」状態。
辺りを見回してみるけど、薄暗くて視界がはっきりとしない。
どこかで打ったのだろうか、腰を押さえながら四つん這いになっている俺の掌に畳の感触が伝わってくる。
記憶を辿るようにして俺は目を瞑った――
確か‥‥バイト中だったはず。
瞼の奥にテーブルに並べたグラスや夕方の景色を覚えている。それから――?
(――ここは?)
瞼を開けても薄暗い世界は変わらなかった。
頭の中が混乱している。現実なのか、夢なのか。四つん這いの格好のまま俺は片手で髪を掻いた。
人の声――?の様にも聴こえる。微かに物音が聴こえたんだ。
うな垂れていた首をもたげて見渡すと、この薄暗い視界に少し目が慣れてきたようで、襖の隙間から僅かに光が漏れていた。
痛みが和らいだ腰を庇いながらまるで動物かのように四つ足歩行で光の漏れる方へ動く。
できるだけ音を立てないように‥‥何か俺、不審者みたいじゃないかって自分がしてることが恨めしく感じた。置かれている状況が把握できていないから余計に身体中に緊張が纏っている。
ぎこちない恰好で襖に近づくと、人間の条件反射なのかな、心理的反射なのか、ほんの数ミリの隙間から中を覗いてみようとする。あれ、ほら、昔話にあるような「ただし、決して覗いてはなりません」のような状況?必死なんだけど、何か苦笑いする。
ぼんやりとする明かりだけ――
人の気配はない。また、心理的反射?泥棒かよってな感じでその襖をそぉぉっと開けてみた。
(誰も居ない‥‥)
そこには。
襖を開いた部屋はさらに奥の部屋からの明かりで先程よりはずっと視界がよかった。
(‥‥!)
やっぱり、物音は気のせいじゃなかった。この奥の部屋だろう、確かに物音が聴こえる。
(誰か‥‥居る?)
目の前に今度は面の広い障子戸があった。
何の確信かは分からないけど、ここは現実じゃない。
俺は今、夢を見てるんだ。きっとそう。ぎゅっと瞼を閉じて〝これは現実じゃない〟って振り解くようにまたゆっくりと瞼を開けた。だけど、目の前の光景は何も変わらない。
障子戸の向こう側からは微かな物音が聴こえていて気になった。
その先に何か答えがあるかもしれないと、また泥棒みたいにそぉぉっと障子戸を開けて覗いてみた。
「明後日は〝二十四節季神楽 啓蟄の舞〟そなたもそろそろ支度を整えておかねばな‥‥」
白銀の長髪の男が何かに語りかけている。
(この人は‥‥何者?)
もうちょっとだけ‥‥ドキドキしながらもその先が知りたくてあと数ミリ障子戸を開けてみた。
片目を凝らして見入った視界に、吊り下げられた銀製の鳥籠が。中には自分が見たこともない綺麗なとても綺麗な瑠璃色の蝶が穏やかに羽を揺らしていた。
男が鳥籠の扉を開けて中へ手を差し伸べると、瑠璃色の蝶は慣れた様子で指先に止まる。
男は籠の中からゆっくりと指先を出して顔元に近づけるとその蝶に向かって優しく息を吹きかけた。
サラサラと瑠璃色の鱗粉が舞い落ちて――やがてその姿が人となる。
(!‥‥なっ、なに?)
映画でも観ているのか?
(CGの世界じゃん!いや、俺は今、映画を観てるんだ!)
混乱する自分に言い聞かせるように、二、三度頭を振ってみたけど‥‥
目の前の現実は変わらなかった。
「…アオ、いつもの役目、大儀であった――」
男の前に現れたのは――蝶になった人間?人間になった蝶?
透き通るほどの白肌に透き通るほどの瑠璃色のさらりとした髪。
すっとした両眼は目の前の初老の男を見上げている。
「ありがたいお言葉――」
「変わらず――アオは綺麗だ」
口元に少し笑みを見せながら男はアオの耳元から首へと舌先を滑らせていく。
それと同時にアオの羽織っている着物を慣れた手つきで剥いだ。
露になった美しい白肌の全裸――
「翠螟様、またお香を焚かれたのですか?」
そう言いながらアオはくん、と首を伸ばして翠螟の唇に顔を近づけて微かに笑んだ。
「厄介な虫たちがいつ出てくるかもしれないからね」
翠螟は優越な笑みを湛えるとアオに口づけをした。
見ちゃいけない!
そんなことを考える余裕があるのか――?
これって…覗きだよな。しかもこんな訳の分からない状況の中で、俺って何してるんだろ。早くここから帰りたい!
どこに‥‥?
障子戸の奥から吐息のような声が漏れてくる。
さらにバクバクする心臓を感じながらも俺は奥の様子が気になって仕方なかった。気配を押し殺してもう一度、障子戸の数ミリの隙間から覗いてしまった。
――はっきりと顔が見えなかったけど‥‥
パン、パンッ‥‥
激しく揺さぶる音が座敷中に響いていた。
「翠螟…様ぁぁ‥‥」
アオの声にならない声が喘いでいた。
四つん這いの格好で臀部を持ち上げられながら悦に満たされるアオが顔を擡げる。
気が遠退くような激しさの中で薄っすらと開いた瞳と、
――目が合った?
一瞬、そう感じた。
――思い出した!
この目、この髪‥‥
『‥‥大丈夫――』
そう声をかけてくれた人――
そうなの?
君は一体、誰なの?
障子戸のこっち側の薄暗い座敷で俺は膝を抱えて顔を埋めていた。
しばしその色事を丸めた身体に感じながら息を潜めていた。
何の音も聞こえなくなった――?
耳に衝くほどの静まり返った座敷に、不意に障子戸を開ける音が耳に届いて俺はとっさに身構えてその方に目を凝らす。
「貴方がここに来てはいけない――」
その声の主はふわりといつの間にか俺の傍らに座していた。
「え‥‥?」
息を吐く間も、現状を理解する間もなく、
「ここに…来てはいけない――」
目の前にはっきりとその色白の顔が見えたかと思った瞬間――
柔らかな息を感じて俺はそのまま意識が分からなくなった。
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