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6 この恋が運命なら(※ノア視点)
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「最近、考えるんですよ。あと2年か3年したら、あなたと何処で暮らそうかなって」
そう口に出した時、俺の心に嘘はなかった。
「え……」
アグネスの蕩けた笑顔が、たちまち消える。
俺は気付かないふりをして、続ける。
時が迫っていた。
この可哀相な侯爵夫人に、逃亡するだけの気概を与えなくては。
もうすぐ、あの件が明るみに出る。
「あなたに洗濯を教えてあげたし、料理ば俺がするし。あなたは今ほど着替えなくてよくなるから、それも俺が手伝ってあげられるし」
全て失い、逃げ延びた先での暮らしが、少しでも明るくなるように。
それが、俺の役目だった。
平民出の下級将校である俺にとって、アグネスは王族と同じくらい雲の上の存在だ。本来は。
士官学校を出た俺は、運よく宮廷の近衛兵に抜擢された。だが着任する直前、白紙に戻された。俺に落ち度はない。それは自分がいちばんよく理解していた。
その夜。
俺は枢機卿団から密命を受けた。
悪魔崇拝の疑いで、ある侯爵を調査しているという。
夫人の関与を精査せよとの事だった。
メイラー侯爵夫人アグネス・ユーリーンは、俺より8才年上の大人の女。でも、儚く美しい、粉雪のようなひとだった。
なんのしがらみもない下級将校だから、消えても支障がない。
逃亡先での暮らし方も教えてやれ。
そう言われた。
「……」
頼りないようで、芯の最奥に鋭い棘を隠したような、アグネスの瞳。
彼女の悲しみに触れるうち、俺はいつしか、心からこの可哀相な夫人を愛してしまった。
疑いと諦めを呑み込んだ、悲しい微笑み。
それが本当に美しかった。
「こんな事を望むなんて、俺は狂っていると思いますか?」
「いいえ。ただ……」
「アグネス」
決断してもらわなくてはいけない。
アグネスは夫の悪魔崇拝に加担していなかった。むしろ、自分の夫が恐ろしい邪教の儀式に没頭している事すら知らない。
だが宗教裁判ともなれば、妻であるアグネスにも疑惑は付きまとう。
最悪な事に、悍ましい儀式の中には赤ん坊の死体を用いたものがあるそうで、流産を経験したアグネスが積極的に関与してもおかしくないと一瞬でも疑われたら最後、彼女は火炙りになる。
「あなたが、そんな事を言ってくれるとは思わなかったから」
メイラー侯爵の逮捕まで、もう秒読みに入っている。
アグネスの名付け親でもある枢機卿から、メイラー侯爵の悪事を悟らせずに、恋に溺れた幸せな状態のまま、地の果てまで逃がしてやってほしいと懇願された。
「俺だって、命懸けですよ。あなたは本物の侯爵夫人で、俺なんか」
「やめて」
アグネスが俺を捕らえ、柔らかな唇を押し付けてくる。
甘い痺れと、迫る死の予感が、俺を狂わせたのは事実だった。
「……ノア」
甘い囁きが、愛しい。
「そう。ここでは、あなたと俺。二人きり」
アグネスを抱き寄せ、覆い被さって唇を奪う。
俺でよかった。
このひとのためなら、命も惜しくはない。
柔らかな髪を撫でる。
そのまま、どうか俺だけを見つめていて……
「どうです? 舞踏会もドレスもないけど、ずっとずっと、俺がいます。俺と二人で、どこかの小屋で、鶏を飼って、野菜を育てて、釣った魚を焼いたり煮たりしながら、大きなパンを焼いて、それを何日か食べて……」
質素で穏やかな暮らしを、上級貴族のこのひとが受け入れられるだろうか。
懸念を吹き飛ばしたのは、アグネスの笑顔だった。俺の腕の中で、アグネスはまるで初恋に浮かれる乙女のように、頬を染めて笑った。
ただ、愛しくて。
思わず、笑みが零れた。
「できそうですか?」
「釣り方を教えて」
「よかった。けど、まずはレディ・ポワゾンに池を作ってもらわないと。それか川。あなたを育ててあげますよ。知ってますか? 糸の先に針をつけて、餌だと思わせて飲ませるんです。針が喉に突き刺さって──」
「知ってるわよ」
アグネスが俺の頬を撫でる。
そういう時の彼女は、年下の俺を可愛く思っているようで、擽ったい。擽ったいが、その優しい甘さが癖になる。
甘い猛毒だ。
「ねえ。俺と逃げる覚悟はありますか?」
「……」
「メイラー侯爵のいない土地へ。あの男の妻じゃなくて、俺の女になれますか? あなたの火遊びじゃなくて……此処まで落ちて来れますか?」
ただの厄介な任務だったのに。
俺はこのひとに溺れている。
「あなたが、俺を狂わせたんですよ。愛してる、アグネス」
「ノア……」
そう、落ちて来ればいい。
俺の女になればいい。
恐い思いなど、しなくていい。
どこか遠くの地の果てで、二人で……
「私も、愛してるわ」
この恋が俺たちの運命なら────俺があなたを、死なせはしない。
そう口に出した時、俺の心に嘘はなかった。
「え……」
アグネスの蕩けた笑顔が、たちまち消える。
俺は気付かないふりをして、続ける。
時が迫っていた。
この可哀相な侯爵夫人に、逃亡するだけの気概を与えなくては。
もうすぐ、あの件が明るみに出る。
「あなたに洗濯を教えてあげたし、料理ば俺がするし。あなたは今ほど着替えなくてよくなるから、それも俺が手伝ってあげられるし」
全て失い、逃げ延びた先での暮らしが、少しでも明るくなるように。
それが、俺の役目だった。
平民出の下級将校である俺にとって、アグネスは王族と同じくらい雲の上の存在だ。本来は。
士官学校を出た俺は、運よく宮廷の近衛兵に抜擢された。だが着任する直前、白紙に戻された。俺に落ち度はない。それは自分がいちばんよく理解していた。
その夜。
俺は枢機卿団から密命を受けた。
悪魔崇拝の疑いで、ある侯爵を調査しているという。
夫人の関与を精査せよとの事だった。
メイラー侯爵夫人アグネス・ユーリーンは、俺より8才年上の大人の女。でも、儚く美しい、粉雪のようなひとだった。
なんのしがらみもない下級将校だから、消えても支障がない。
逃亡先での暮らし方も教えてやれ。
そう言われた。
「……」
頼りないようで、芯の最奥に鋭い棘を隠したような、アグネスの瞳。
彼女の悲しみに触れるうち、俺はいつしか、心からこの可哀相な夫人を愛してしまった。
疑いと諦めを呑み込んだ、悲しい微笑み。
それが本当に美しかった。
「こんな事を望むなんて、俺は狂っていると思いますか?」
「いいえ。ただ……」
「アグネス」
決断してもらわなくてはいけない。
アグネスは夫の悪魔崇拝に加担していなかった。むしろ、自分の夫が恐ろしい邪教の儀式に没頭している事すら知らない。
だが宗教裁判ともなれば、妻であるアグネスにも疑惑は付きまとう。
最悪な事に、悍ましい儀式の中には赤ん坊の死体を用いたものがあるそうで、流産を経験したアグネスが積極的に関与してもおかしくないと一瞬でも疑われたら最後、彼女は火炙りになる。
「あなたが、そんな事を言ってくれるとは思わなかったから」
メイラー侯爵の逮捕まで、もう秒読みに入っている。
アグネスの名付け親でもある枢機卿から、メイラー侯爵の悪事を悟らせずに、恋に溺れた幸せな状態のまま、地の果てまで逃がしてやってほしいと懇願された。
「俺だって、命懸けですよ。あなたは本物の侯爵夫人で、俺なんか」
「やめて」
アグネスが俺を捕らえ、柔らかな唇を押し付けてくる。
甘い痺れと、迫る死の予感が、俺を狂わせたのは事実だった。
「……ノア」
甘い囁きが、愛しい。
「そう。ここでは、あなたと俺。二人きり」
アグネスを抱き寄せ、覆い被さって唇を奪う。
俺でよかった。
このひとのためなら、命も惜しくはない。
柔らかな髪を撫でる。
そのまま、どうか俺だけを見つめていて……
「どうです? 舞踏会もドレスもないけど、ずっとずっと、俺がいます。俺と二人で、どこかの小屋で、鶏を飼って、野菜を育てて、釣った魚を焼いたり煮たりしながら、大きなパンを焼いて、それを何日か食べて……」
質素で穏やかな暮らしを、上級貴族のこのひとが受け入れられるだろうか。
懸念を吹き飛ばしたのは、アグネスの笑顔だった。俺の腕の中で、アグネスはまるで初恋に浮かれる乙女のように、頬を染めて笑った。
ただ、愛しくて。
思わず、笑みが零れた。
「できそうですか?」
「釣り方を教えて」
「よかった。けど、まずはレディ・ポワゾンに池を作ってもらわないと。それか川。あなたを育ててあげますよ。知ってますか? 糸の先に針をつけて、餌だと思わせて飲ませるんです。針が喉に突き刺さって──」
「知ってるわよ」
アグネスが俺の頬を撫でる。
そういう時の彼女は、年下の俺を可愛く思っているようで、擽ったい。擽ったいが、その優しい甘さが癖になる。
甘い猛毒だ。
「ねえ。俺と逃げる覚悟はありますか?」
「……」
「メイラー侯爵のいない土地へ。あの男の妻じゃなくて、俺の女になれますか? あなたの火遊びじゃなくて……此処まで落ちて来れますか?」
ただの厄介な任務だったのに。
俺はこのひとに溺れている。
「あなたが、俺を狂わせたんですよ。愛してる、アグネス」
「ノア……」
そう、落ちて来ればいい。
俺の女になればいい。
恐い思いなど、しなくていい。
どこか遠くの地の果てで、二人で……
「私も、愛してるわ」
この恋が俺たちの運命なら────俺があなたを、死なせはしない。
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