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執事ネイサンの驚愕~執事視点~

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 その日は、テイラー夫人は夜からの出勤。メイドのミリーも子供が夏風邪をひき、午前中の清掃のみで帰宅してしまった。だからお嬢様の朝食とランチは俺が作った。

 後片付けをしていると、坊ちゃまが婚約者のご令嬢を連れてサプライズ訪問してきた。

 そろそろ王都に到着する頃だと思っていたが、よりによって今日か……。おもてなしをするお菓子があっただろうか。

 なるほど、式が近づいてきている。もうリハーサルなども済ませないといけない時期だ。

 さすがに実妹が式に出ないのは、体裁が悪いものな。

 お嬢様が頑固だから、アポなしで婚約者と対面させることにしたらしい。

 里帰りをお互い済ませ、さまざまな手続きを終えて王都に戻ってこられたのだ、あとの障害はメイベルお嬢様だけ。

 お嬢様がラスボス、と言うわけか。



 幸い昨日テイラー夫人が作っていったガトーショコラが保冷庫にあったので、それを温めてお出しすることにした。

 トレイにお茶とケーキを乗せて、応接室の扉を開けた時、俺は危うくトレイをぶちまけるところだった。

「ルシールに謝りなさい!」
「絶対に嫌──きゃぁあ!」

 パシンッ!

 お嬢様をハムのように縛りあげて膝の上に乗せ、そのお尻を叩いているエイベル坊ちゃま。ものすごい笑顔だけど、前に見た時の優しいそれではない。

 婚約者のルシール様が、もうそれくらいで、と止めに入るも、ルシールは少し黙っていてくれるか、とにべもない。

「その女がいけないのよっ、お兄様をたぶらかすから、何よ、鯖みたいな髪の色っ! しかも鉄面皮!」
「まだ言うかっ!」

 パシンッ!

 音だけ聞くと、けっこう容赦ない力のように思える平手打ち。

 そういえば昔「いいかい、優しい人間を怒らせるのだけはやめなさい。ものすごく怖いからね」と祖母が言っていたな、なんてぼんやり思い出しながら、俺はその不思議な光景に見入っていた。

「バカバカバカッ、お兄様なんて嫌いっ、ホクロ星人っ! 頬っぺに風穴男!」

 お嬢様は顔を真っ赤にしながら坊ちゃまを振り返り、罵詈雑言を投げつけている。エイベル坊ちゃまのあのサイコパスな顔を見ても負けていない。

 ただホクロ星人と、めったに笑わないとは言え頬っぺに風穴はブーメランだぞ、お嬢様。

 あれ……もしかしてこれ、日常だった? 慣れているのか?

「僕はメイベルが大好きだよっ」

 パシンッ!

「でもね、わからずやはお仕置きだっ」

 パシンッ!

「僕はルシールを生涯の伴侶として愛しているっ、謝るまでお尻ぺんぺんだからねっ」

 パシンッ!

 俺はお茶のセットをティーテーブルに置くと、お仕置き中の坊ちゃまの腕を掴んだ。

「止めないでくれ、ネイサン。ルシールは、僕が本気で愛したただ一人の異性なんだ」
「左様でございましょう。しかしながら、坊ちゃま、ルシール様がドン引きしておられますよ」

 そこで初めて、ハッと我に返ったエイベル坊ちゃま。

 震えているルシール様を振り返り、あれ、僕はいったい何を──、と動揺している。

「エイベル君、私、暴力は嫌いなの」
「あ、いや違うんだ、これはお仕置きで」
「もう立派なレディの妹さんを縛りあげて、お尻を叩くなんて」
「聞いてくれ、ルシール。僕はメイベルの我儘を諌めるつもりで──」
「尊厳を無視しているみたいじゃない。今度私にもやってみてくれるかしら」
「だって君を侮辱したことを分からせるために……ふぁっ!?」
「ちょっと興奮したというか、スパンキングって興味があって」

 二人の不思議なやりとりに気を取られていると、その脇を風のようにメイベルお嬢様が通り抜けていった。

 縛られた姿のまま、転びそうになりながら扉に体当たりし、部屋を出ていく。

 俺は慌ててお嬢様を追いかけた。

「お嬢様っ、転びますよ!」

 扉が開いたままだった自室に飛び込むと、ベッドにダイブしてうつ伏せになり、肩を震わせて嗚咽を堪えている。

「お嬢様、ロープを解きますね」
「入って来ないで」
「しかし」
「私いま、目から鼻水が出そうなの」
「ハンカチをお持ちします」
「見られたくないのっ!」

 俺は息をついた。

 そう言えば、お仕えしてもう四年以上経つが、気丈なお嬢様が泣いたところを見たのは、最初の頃、初めて俺がきつく叱った時だけだな。

「大丈夫でございます、私は使用人ですので、人と思わなくて結構です」

 メイベルお嬢様の嗚咽が止まる。

「使用人は人だわ」
「……ふっ、そうですね」

 俺は椅子を持ち出してベッドの前に置いた。音に気づいたのか、お嬢様が今にも泣きそうな顔を上げてこちらを見た。

「こちらにいらしてください」
「え?」
「抱っこで慰めてさしあげましょう」  

 今だけ、坊ちゃまの代わりをしよう。俺はそう思った。

 ダメだって分かっている。そんなことをしたら俺が耐えられない。

 なぜなら俺は、この十も年齢が下のブラコンお嬢様を愛してしまったからだ。

 公私混同など以ての外、雇い主の娘であり、お仕えしお世話すべき十も離れた小娘に懸想するなど言語道断。

 そう思っていたこの俺が、逆に絡め取られてしまった。この傲慢で我儘でひねくれたお嬢様に。

 触れれば想いを知られてしまう。

 だが、今傷ついたお嬢様を慰めるには、エイベル坊っちゃまの代わりに甘やかすことが一番に思えた。

 お嬢様は、俺の提案に目を丸くした。それから、芋虫のような恰好で起き上がると、危なっかしくよたよた近づいてきた。

 可愛いな!

「今日のこと、誰かに言ったらクビだからね」
「承知致しました」

 お嬢様が膝の上にちょこんとのる。ふっくらしたお尻の感触や、甘い香りを意識しないよう、俺はお嬢様のロープを解くことに専念した。……くっそ固いなっ、どんな縛り方だよ。

「本当に誰にも言わないでよ」
「お約束いたします」

 やっとお嬢様の腕のロープが外れた。それと同時に、お嬢様の気張っていた表情が崩れる。眉尻が下がり、引き結んでいた唇から嗚咽が漏れた。くしゃっと泣き顔に変わる。

 両腕を俺の首に回すと、糊のきいた白シャツの胸に顔を埋め、わんわん泣き始めたではないか。

 俺は吹き抜けの天井を仰いだ。可愛いなぁ……。

 失礼致します、と呟いてから背中に手を回し、よしよしと膝を揺すりながらあやしてやる。

 十八の女性にすることではないとは思ったが、今彼女がとても傷ついているように見えたのだ。

「今日はこのネイサンが、お嬢様の言うことを何でもお聞きしますよ。何か食べたいものはございませんか?」

 柔らかい髪に隠れた耳を見つけると、そう囁いた。本当はその福耳を口に含んで舌で転がし、さらに耳の穴に息を吹きかけたい。

 こんな不埒なことを考えているなどと──ロリコン変質者であることは、決して知られてはいけない。この身分違いの片恋は、墓場まで持っていくべき想いだ。

 俺は保護者代理。今は彼女の兄だと、自分に言い聞かせる。

「お嬢様の好きな、抹茶のパウンドケーキなどいかがでしょう。今からでもお焼きしますが」

 エイベル坊ちゃまには作れないだろうから。あの方の、唯一できないことが料理だ。

 甘いものが大好きなメイベルお嬢様に、あまりお菓子を与えてはいけない。体重を気にされていたから。しかしこれくらいしか、エイベル坊っちゃまに勝てるものはない。

 まったく……勝つってなんだよ。張り合ってどうする。

「……たい」

 ひっくひっくしゃくりあげながら、メイベルお嬢様は言った。

「ううう……、じゃ、じゃあ、お休みのチュウして、添い寝も」

 それから、唇に人差し指を置いて潤んだ目で俺を見あげた。
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