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第2部
距離感
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あの人の目に映っているのは俺じゃない。
心地好い低音でりんご売りの娘にパヴィナの事を尋ねるリューシを眺めつつ、ノットは掌に爪を食い込ませた。
彼は自分をよく見てくれている。
何が得意で何が不得意か、どこが上達してどこを改善しなければならないのか、恐らくは自分よりも知っている。正に理想的な上司だ。上司としてなら他に望むものはない。しかし、ノットが渇望しているのはその眼差しだけではなかった。
欲深いのは重々承知の上だ。それでもあの強く美しい光の中に自分を捉えて欲しいと思ってしまう。ただの部下ではなく、一人の男として彼の前に立てたなら。何度願っただろう。
だがそれが叶う事はない。それもわかっていた。
彼の傍にはバルトリスがいる。セドルアがいる。
自分には軍医長のような距離の近さもなければ、皇子のような権力もない。銃の腕の他には何もないただの兵士だ。銃がなければこうして隣に立つ事も出来なかった。
だからあの二人が心底羨ましい。何食わぬ顔で彼の側にいられる二人が恨めしい。自分の知らない彼を知っている二人に嫉妬する。
リューシ本人が彼らをどう見ているのかまではわからないが、女の名もろくに上がらない彼の心を捕らえるとすれば、それはあの二人のどちらかだろう。今、リューシがその目に映そうとしているのは確実に彼らだ。決して自分ではない。己の欲するものを持つ者に、どうして寛容になれようか。
『傷1つ付けるな』
自分だけに聞こえるよう、耳に吹き込まれたその台詞。それは守り通せという命令か、はたまた彼に手を出すなという警告か。尋ねるまでもない。
余裕がない? 余裕がないのは自分の方だ。誰かを牽制出来るような立場でない自分には、その一言でさえも羨望の対象だった。去勢を張ってみせても彼は手に届かないのだ。
リューシが娘に礼を言い、りんごを一つ購入する。赤く丸いそれは放物線を描いてノットの掌に収まった。
◇◇◇
「外れ、か」
「え?」
たった今得た聞き込みの成果を簡潔に言えば、投げつけたりんごを受け取ったノットは間抜けな声を上げた。予想外の反応に面食らう。すぐ側に控えていたというのに、今の話を聞いていなかったのだろうか。
「今の娘だ」
考え事でもしていたのかと訊いても答えはなく、「申し訳ありません」とだけ返される。
「まあいい……今の娘だが、パヴィナという名に心当たりもなければそのような魔術師の話を聞いた事もないらしい」
「なかなか当たりませんね」
「そう簡単に情報が得られるものでもないだろう。ウィランドン中を捜し回ったならともかく、まだ宿場町を巡っただけだ」
だけ、とは言っても様々な場所から人の集まって来る所だ。闇雲に捜すよりは確かだと敢えて宿からあまり離れずに動いていたのだが、アテが外れた。歩き回って得られたのは周辺の地理だけであった。
「他を当たってみますか」
りんごを弄びながらノットが言う。
「……いや、今日はもうよそう」
「なぜ」
「もう日が落ちる。勝手のわからない宿場町で夜にうろつくのは不用心だ」
「まあ……そうですね。あまり遅くなっても俺が殺されるし……」
「は?」
「いえ、こっちの話です」
本当は隊長とどこかの酒場で一杯やりたいところなんですがね、と笑う。
「馬鹿言え。下戸に飲ませられるか」
そう切り返せばノットは唖然とした表情で立ち止まった。
「なぜ、酒が苦手だと……」
「あまり俺を見くびってくれるなよ、ノット」
トンと拳で軽く胸を小突く。
「お前の上司は部下の嗜好も知らない愚図か?」
「いえ……そんな、」
「それとも、俺がお前を見ていないとでも?」
「……っ、」
くっと息を詰める音がする。 図星か? とリューシは口角を上げた。
若者にはよくあるコンプレックスだ。自分の事を見てくれる人などいないと頭から決め付ける。
特別何かが出来るわけではない者は「自分には何もない」と悩む。逆に、どんなに傑出したものがあっても、それしか己にはないのだと卑屈になる者もいる。
自分に注目して当然だと言わんばかりのこの青年に限ってそれはないだろうと、そう心のどこかで思っていたが、決め付けていたのはこちらの方だったようだ。いくら生意気でも年相応の葛藤は持っている。
──もしかすると、先程の上の空はこれが原因だろうか。
あり得ない話ではない。
そこに考えが至ったリューシは「ノット」と再度呼び掛けた。
「お前は自分には射撃しかないと思っているんだろうが、射撃の腕で声を掛けたと思っているならとんだ思い上がりだ」
「え」
「射撃なら俺の方が上だからな。俺はむしろお前の生意気さが気に入っている」
きょとんとするノットの顔が少年っぽさを見せ、思わず笑ってしまいそうになる。それを堪え、
「お前はいい目をしている。射撃が出来ようが出来まいが、それは大した問題ではない。俺はフィンネル・ノットの意志の強さを買っているんだ」
「……!」
二度は言わんぞ、と背を向けて歩みを再開する。
この部下はここで聞き返してくる程無粋ではないだろう。少々むず痒いような気分でリューシは足を早めた。
◇◇◇
宿へ戻ると、見事に4人共が熟睡していた。
慣れない船旅とそれに伴う船酔いで、疲労も限界だったのだろう。こちとら外で歩き通しだったのに、と怒る気にはならなかった。
むしろもう暫く寝かせておいた方が良さそうだ。
そういうわけで、夕飯はノットと二人で用意する。宿に備え付けられている台所を使っていいかと女将に尋ねれば、いつでも自由に使用していいという事であった。リューシら以外の宿泊客は外食か保存食で済ませるずぼらな者ばかりらしく、使う者が誰もいないのだと言う。それならば顔を合わせる心配もない。食材を運び、直ぐに調理に取りかかった。
「隊長、料理なんて出来たんですね」
リズミカルに包丁を動かすリューシに、ノットが感心した様子で言う。
彼には野菜を切るという役割を与えたのだが、如何せん不味かった。このままではミハネの菓子と張り合う代物が出来上がってしまう。危機感を覚えたリューシは本人が「任務は最後まで遂行せねば」と妙な義務感で渋るのを宥め交代したのであった。
「……ま、これぐらいはな」
前世で自衛隊に入る前まで自炊していたからだとは流石に言えず、適当に濁す。他の上手い説明も思いつかなかった。
手際良く食材を捌いていく手元を見つめていたかと思えば、ノットが、
「……やっぱり俺もやってみようかな……」
ただの傍観者と化している部下の小さな呟きにふっと笑みが零れる。
「なら、やってみるか」
「え?」
心底驚いたという表情が向けられた。それに続くいいんですか、という問いは素直で、自分に気に入っていると言わしめた生意気さはどこにもない。こいつもこんな風にものを言うのかと知らず知らず後から笑いが込み上げる。
あまりの出来に取り上げてしまったが、飲み込みのいい男だ。少々手解きしてやればそれなりになるかも知れない。
「ほら、持ってみろ」
「え、あ、はい」
ノットの手に包丁を握らせ自分はその背後に回る。右手を添わせてやれば、不意を突かれたのかびくりと肩が跳ねた。
「始めは俺が動かしてやる。まずは感覚を掴め」
「……っ、は、はい……」
とん、とん、とゆっくり包丁を上下させる。感覚を理解し易いよう、丁寧に。
「こう、押して切るんだ。お前は引いて切ろうとしていただろう」
「……っはい……」
「添えるだけにするから、今度は自分で動かせ」
ぎこちなく動かすのを直接手に感じながらそこはそうだ、それはこうしろと指示をする。それに頷き素直に従うノットは、何というか、微笑ましい。訓練で見る射撃手としての彼からは想像出来ないような姿である。
──そういえば、“彼女”にも料理を教えてやった事があった。
暫くそんな“講習”を続けていれば、不意に古い記憶が蘇った。
その時も確か、こんな風にして手を添えて教えたのだ。自分にどうしても手料理を振る舞うと言って聞かない“彼女”に押し切られる形で教え始めた。少し不器用だった“彼女”の上達はのんびりしたものだったが、1ヶ月もすれば味噌汁とお浸しを作ってみせた。炊きたての白米と一緒に出された時には照れ臭いような気分だったのを覚えている。……ああ、そうだ。美味しいと言う自分に“彼女”は得意気な顔をしていた──
「隊長?」
首を捻らせて見上げてくるノットの声にハッとして我に返る。指示を急に止めて黙り込んでしまったのだと客観的に気付き、慌てて「悪い」と謝罪した。
ここ最近はついぞ“彼女”を思い出す事などなかったというのに。何を今になって──
なぜ忘れられない。どうしてこうも“彼女”は俺の中に留まり続けるのか。苦い気分で頭の中から“彼女”を追いやる。
“彼女”の影から逃れるように、改めてまな板の上の食材に目をやった。右から左へ、だんだんと切り口が規則正しくなっている。
「なかなか良くなってきた。そろそろ1人でやってみろ」
「えっ」
「見ててやるから」
そう言って手を離そうとした時、カタッと背後で物音がした。
「おいおい、随分仲良しじゃねぇか」
「バルトリス……」
振り向いた先にはすっかり顔色の良くなった悪友がいた。
「もういいのか」
「おう、すっかりな」
晴れやかに答えたバルトリスはしっかりとした足取りで二人に近づき、自然な動作でリューシの肩を抱いて引き離す。
「野郎がそんなにくっついちゃあ暑苦しくてかなわねぇ」
「そう言うお前がくっついてどうする」
ノットより酷いぞと軽口を叩けばぎゅうぎゅうと後ろから抱き込んでくる。
「そういう事言うかお前は」
じゃれるように頬をつつかれ、困惑する。こいつはこんなにスキンシップの激しい男だっただろうか。記憶が確かならふれあいは頭を撫でてくる程度だったはずだが。
持て余してノットの方を見ると包丁をまな板に取り落とすように置いて形容し難い表情で凝視している。これは良くない。
「おいバルトリス。やめろ」
とんとんと抱き締めている腕を叩く。別に不快なわけではないが、部下の目の前でこんな真似をされては面目が立たない。
「ん~? 何をだ?」
「っおい! バルトリス!」
肩に回されていた腕が腰に移動し、思わず声を荒らげた。それを気にするでもなくバルトリスは一層強く腕に力を込めて逃がすまいとする。
軍服ではない薄いシャツ1枚だけの肌にはありありと感触が伝わる。あっと気付いた。
──頭を撫でてくる程度ではなかった。
この間の朝。
同じように腰を抱いた腕。
愛おしむような深緑の目。
触れかけた唇。
「──っ」
意図せずとも一気に顔に熱が集中する。端から見ればみっともない顔をしているだろう。その証拠に正面のノットが目を見開いている。駄目だ。これでは面目も何もあったものではない。わかっているが、どうしようもなかった。
「どうしたリューシ」
耳元で低く優しい響きが言う。
「ん? 何だよ急に黙っちまって……」
吐息が耳を擽り、顔の熱は引くどころかどんどん上昇するようだ。ああ、心臓がうるさい。 何だこれは。何なんだ。
「なあリューシ、何か言えよ。怒ってんのか? ふざけて悪かったよ、なあ」
何も言えずにいれば、心地好いバリトンの声が情けない響きを帯び始める。腕の中で黙って俯くばかりのリューシに少々不安を覚えたらしい。抱き込んだまま眉を下げている。
「……い……ん、に」
「ん?」
「いい……っ加減、離れろ馬鹿が!!」
全力で振り払われ、バルトリスがうおっとよろめきながら離れる。
「急にべたべたべたべたしやがって……っ」
まだ熱い顔で自分より長身の男を見上げて睨み付けた。この情けない状態では恐ろしくも何ともないのは鏡を見なくともわかる。だが、こうでもしなければ……
──こうでもしなければ、何だ……?
得体の知れない自分の思考回路に不安になる。何を考えているのか自分でわからない。 目の前が霞み、眉を寄せた。
「リューシお前……」
バルトリスがおっかなびっくりというように呟く。霞んだ視界で彼の顔色は窺えないが、そんな事はどうでもよかった。
「直ぐ飯を作る! さっさと殿下達を起こしてこいアホ!!」
有無を言わせず台所からバルトリスを蹴り出し、リューシは怒涛の勢いで夕食作りに取りかかる。最早部下の前で云々どころではない。 幸か不幸か、いつまでも熱を持っている顔をノットが凝視しているなどという事には気付きもしなかった。
◇◇◇
食卓に夕食──というより朝食程度のものだが──を並べると同時に、バルトリス、目を擦りながらレイドとリーンが続いて現れる。
「わ……いい匂い……」
「……!」
料理の匂いに覚醒したのか、二人がバルトリスを追い抜いて食卓を囲んだ。大きな子供のようだと苦笑しながらリューシはノットの運んできた水をそれぞれの位置に置く。
「ほら、立ってないでさっさと座れ」
「これ全部隊長が!?」
「いや。ノットも手伝った」
椅子に腰掛けながら目を輝かせるリーンに言い、なあとノットを見やれば照れたように頷いた。
「サラダの野菜切っただけですけどね……」
「それでも手伝いは手伝いだ」
トマト、レタス、キュウリ、トウモロコシを彩り良く盛り付けたサラダは彼の努力の結晶である。所々に歪な形のものがあるのはご愛敬だ。
さあ食べるかと言いかけて気づく。
「……殿下は?」
やけに静かなバルトリスに尋ねれば、「ああ、」と頭を掻いた。
両者共につい先程のあれこれはおくびにも出さない。
バルトリスは30も後半、リューシも精神年齢で言えばバルトリス以上にいい年だ。いつまでも引きずる程思春期を拗らせてはいない。気を抜けば挙動不審になりそうであっても、だ。
「それが、全然起きなくってよ……」
「は?」
「努力はしたんだぜ? 呼んでも揺さぶっても起きねぇし……流石に叩き起こすわけにいかんだろ」
あれってもうわざとじゃねぇのか、とげんなりした様子で言う。
「まさか」
「とにかく俺じゃ起きねぇからよ、お前が起こしてこい」
「どういう理論だ。俺なら起きるのか」
「だと思うぜ……俺としてはもうそのままほっといてもいいんだが」
「いや、それは駄目だろう」
「あーくそ、わかってるよ。そういう事だから、お前が手短に起こしてきてくれ。まったく、勘弁してくれっての……」
結局のところわけがわからないが、自分がセドルアを起こさなければならないらしい。そう了解したリューシは首を捻りながらも2階の宿泊部屋に向かった。
扉を開けると、セドルアは部屋のど真ん中にいた。
「殿下」
壁の方を向いて横になっている背中に呼び掛ける。反応はない。本当に深く眠っているのだろうか。
「殿下、夕食の準備が整いました。そろそろお目覚めになって下さい」
音量を上げて再度声をかけてみるが、やはり無反応である。また狸寝入りか? と疑うが、そうする理由がわからない。やはり寝入ってしまっているのか、それとも、まだ気分が悪いのか。宿を出る前にはかなり良くなっているように見えたが。
「まだお加減が優れませんか」
レイドに飲ませた酔い止めを持ってきた方がいいだろうか。そう考えながら尋ねれば、少し身じろいだ。
「……ああ」
ようやく返された言葉にほっと息をつく。
「お辛いようでしたら、こちらに食事を運びましょう。薬は──」
「来い」
「え?」
「いいから、来い」
「はあ」
起き上がるのを手伝えという事かと納得し、セドルアの側に寄る。手を貸そうとした瞬間、くるりとセドルアが仰向けになった。突然の挙動に驚く間もなく手首を掴まれ、バランスを崩す。
「は……っ!?」
ぐらりと傾いた体は当然重力に従って倒れ、セドルアの上に覆い被さる。混乱しているうちにそのまま抱き止められ、ぐるりとまた横向きになった。
「でん、か……? これは、どういう……」
デジャヴ、という言葉が頭を過った。思わず顔がひきつる。また抱き枕なのか。俺はそんなに綿が詰まっているように見えるのか。
「じっとしてろ」
腕を解こうとすれば肩口でくぐもった声が制止する。
「いや、しかし殿下」
「駄目だ」
やんわりと脱け出そうとすればぎゅっとしがみついてきた。バルトリスの包み込むようなものとはまた違う、言うなれば、幼子がぬいぐるみを放すまいとするような抱え方だ。母性が擽られる──と言ったらおかしいかも知れないが、何だろうか。邪険に出来ない。もっとも、この皇子がこんな行動を取った事に動揺しているというのもある。そうは言ってもこのまま抱かれているわけにもいかないのだが。
「殿下、私は抱き枕ではありません」
「知っている」
間髪入れず返された答えに頭を抱えたくなる。何なんだこの状況は。俺にどうしろと言うのか。
さらさらと肩に埋められている頭を撫でてみる。恐ろしい事に、皇子に対して失礼になるのではというところには思い至らなかった。
「殿下。夕食が冷めてしまいますよ」
意図せず口調までぐずる子供に言い聞かせるようなものになり、ようやくしまったと思う。しかしセドルアは額を肩に押し付けてくるだけで何も言わない。これでは本当に子供のようではないか。一体この皇子はどうしたのだろうか。
……まあ扱いについて気にしないならそれはそれでいい。が、ともかく1階に連れて行かなければならない。リューシは自分にしがみついている背中をとんとんとあやすように叩きながら言う。
「せっかく作ったものですから、温かいうちに召し上がって頂きたいのですが」
ぴくりと背中でセドルアが反応した。
「……お前が作ったのか」
思わぬ部分に食い付かれ面食らう。自分が調理したものかどうかというのは重要なのだろうか。そうは思えないが。
「ええまあ、大部分は。サラダは──」
「起きる」
ノットが、と言うのを遮ってセドルアが急に抱き締める力を緩めた。そのまますっくと立ち上がる。手を貸す必要はなかったらしい。
「殿下、お加減が優れないのでは……」
「冗談だ」
はあ? と素で声が漏れる。それを気にも留めずセドルアはすたすたと部屋を出て行く。
「早く行くぞ」
出入口で振り返ったその顔は見慣れた無表情だ。冗談だという言葉通り、特に変わった様子はない。
──いや、何の冗談だったんだ。
結局何がしたかったのだろうか。この部屋に来る前と同様に首を捻りながらセドルアの後を追う。
食卓に着いた時には、まだ料理は温かかった。
心地好い低音でりんご売りの娘にパヴィナの事を尋ねるリューシを眺めつつ、ノットは掌に爪を食い込ませた。
彼は自分をよく見てくれている。
何が得意で何が不得意か、どこが上達してどこを改善しなければならないのか、恐らくは自分よりも知っている。正に理想的な上司だ。上司としてなら他に望むものはない。しかし、ノットが渇望しているのはその眼差しだけではなかった。
欲深いのは重々承知の上だ。それでもあの強く美しい光の中に自分を捉えて欲しいと思ってしまう。ただの部下ではなく、一人の男として彼の前に立てたなら。何度願っただろう。
だがそれが叶う事はない。それもわかっていた。
彼の傍にはバルトリスがいる。セドルアがいる。
自分には軍医長のような距離の近さもなければ、皇子のような権力もない。銃の腕の他には何もないただの兵士だ。銃がなければこうして隣に立つ事も出来なかった。
だからあの二人が心底羨ましい。何食わぬ顔で彼の側にいられる二人が恨めしい。自分の知らない彼を知っている二人に嫉妬する。
リューシ本人が彼らをどう見ているのかまではわからないが、女の名もろくに上がらない彼の心を捕らえるとすれば、それはあの二人のどちらかだろう。今、リューシがその目に映そうとしているのは確実に彼らだ。決して自分ではない。己の欲するものを持つ者に、どうして寛容になれようか。
『傷1つ付けるな』
自分だけに聞こえるよう、耳に吹き込まれたその台詞。それは守り通せという命令か、はたまた彼に手を出すなという警告か。尋ねるまでもない。
余裕がない? 余裕がないのは自分の方だ。誰かを牽制出来るような立場でない自分には、その一言でさえも羨望の対象だった。去勢を張ってみせても彼は手に届かないのだ。
リューシが娘に礼を言い、りんごを一つ購入する。赤く丸いそれは放物線を描いてノットの掌に収まった。
◇◇◇
「外れ、か」
「え?」
たった今得た聞き込みの成果を簡潔に言えば、投げつけたりんごを受け取ったノットは間抜けな声を上げた。予想外の反応に面食らう。すぐ側に控えていたというのに、今の話を聞いていなかったのだろうか。
「今の娘だ」
考え事でもしていたのかと訊いても答えはなく、「申し訳ありません」とだけ返される。
「まあいい……今の娘だが、パヴィナという名に心当たりもなければそのような魔術師の話を聞いた事もないらしい」
「なかなか当たりませんね」
「そう簡単に情報が得られるものでもないだろう。ウィランドン中を捜し回ったならともかく、まだ宿場町を巡っただけだ」
だけ、とは言っても様々な場所から人の集まって来る所だ。闇雲に捜すよりは確かだと敢えて宿からあまり離れずに動いていたのだが、アテが外れた。歩き回って得られたのは周辺の地理だけであった。
「他を当たってみますか」
りんごを弄びながらノットが言う。
「……いや、今日はもうよそう」
「なぜ」
「もう日が落ちる。勝手のわからない宿場町で夜にうろつくのは不用心だ」
「まあ……そうですね。あまり遅くなっても俺が殺されるし……」
「は?」
「いえ、こっちの話です」
本当は隊長とどこかの酒場で一杯やりたいところなんですがね、と笑う。
「馬鹿言え。下戸に飲ませられるか」
そう切り返せばノットは唖然とした表情で立ち止まった。
「なぜ、酒が苦手だと……」
「あまり俺を見くびってくれるなよ、ノット」
トンと拳で軽く胸を小突く。
「お前の上司は部下の嗜好も知らない愚図か?」
「いえ……そんな、」
「それとも、俺がお前を見ていないとでも?」
「……っ、」
くっと息を詰める音がする。 図星か? とリューシは口角を上げた。
若者にはよくあるコンプレックスだ。自分の事を見てくれる人などいないと頭から決め付ける。
特別何かが出来るわけではない者は「自分には何もない」と悩む。逆に、どんなに傑出したものがあっても、それしか己にはないのだと卑屈になる者もいる。
自分に注目して当然だと言わんばかりのこの青年に限ってそれはないだろうと、そう心のどこかで思っていたが、決め付けていたのはこちらの方だったようだ。いくら生意気でも年相応の葛藤は持っている。
──もしかすると、先程の上の空はこれが原因だろうか。
あり得ない話ではない。
そこに考えが至ったリューシは「ノット」と再度呼び掛けた。
「お前は自分には射撃しかないと思っているんだろうが、射撃の腕で声を掛けたと思っているならとんだ思い上がりだ」
「え」
「射撃なら俺の方が上だからな。俺はむしろお前の生意気さが気に入っている」
きょとんとするノットの顔が少年っぽさを見せ、思わず笑ってしまいそうになる。それを堪え、
「お前はいい目をしている。射撃が出来ようが出来まいが、それは大した問題ではない。俺はフィンネル・ノットの意志の強さを買っているんだ」
「……!」
二度は言わんぞ、と背を向けて歩みを再開する。
この部下はここで聞き返してくる程無粋ではないだろう。少々むず痒いような気分でリューシは足を早めた。
◇◇◇
宿へ戻ると、見事に4人共が熟睡していた。
慣れない船旅とそれに伴う船酔いで、疲労も限界だったのだろう。こちとら外で歩き通しだったのに、と怒る気にはならなかった。
むしろもう暫く寝かせておいた方が良さそうだ。
そういうわけで、夕飯はノットと二人で用意する。宿に備え付けられている台所を使っていいかと女将に尋ねれば、いつでも自由に使用していいという事であった。リューシら以外の宿泊客は外食か保存食で済ませるずぼらな者ばかりらしく、使う者が誰もいないのだと言う。それならば顔を合わせる心配もない。食材を運び、直ぐに調理に取りかかった。
「隊長、料理なんて出来たんですね」
リズミカルに包丁を動かすリューシに、ノットが感心した様子で言う。
彼には野菜を切るという役割を与えたのだが、如何せん不味かった。このままではミハネの菓子と張り合う代物が出来上がってしまう。危機感を覚えたリューシは本人が「任務は最後まで遂行せねば」と妙な義務感で渋るのを宥め交代したのであった。
「……ま、これぐらいはな」
前世で自衛隊に入る前まで自炊していたからだとは流石に言えず、適当に濁す。他の上手い説明も思いつかなかった。
手際良く食材を捌いていく手元を見つめていたかと思えば、ノットが、
「……やっぱり俺もやってみようかな……」
ただの傍観者と化している部下の小さな呟きにふっと笑みが零れる。
「なら、やってみるか」
「え?」
心底驚いたという表情が向けられた。それに続くいいんですか、という問いは素直で、自分に気に入っていると言わしめた生意気さはどこにもない。こいつもこんな風にものを言うのかと知らず知らず後から笑いが込み上げる。
あまりの出来に取り上げてしまったが、飲み込みのいい男だ。少々手解きしてやればそれなりになるかも知れない。
「ほら、持ってみろ」
「え、あ、はい」
ノットの手に包丁を握らせ自分はその背後に回る。右手を添わせてやれば、不意を突かれたのかびくりと肩が跳ねた。
「始めは俺が動かしてやる。まずは感覚を掴め」
「……っ、は、はい……」
とん、とん、とゆっくり包丁を上下させる。感覚を理解し易いよう、丁寧に。
「こう、押して切るんだ。お前は引いて切ろうとしていただろう」
「……っはい……」
「添えるだけにするから、今度は自分で動かせ」
ぎこちなく動かすのを直接手に感じながらそこはそうだ、それはこうしろと指示をする。それに頷き素直に従うノットは、何というか、微笑ましい。訓練で見る射撃手としての彼からは想像出来ないような姿である。
──そういえば、“彼女”にも料理を教えてやった事があった。
暫くそんな“講習”を続けていれば、不意に古い記憶が蘇った。
その時も確か、こんな風にして手を添えて教えたのだ。自分にどうしても手料理を振る舞うと言って聞かない“彼女”に押し切られる形で教え始めた。少し不器用だった“彼女”の上達はのんびりしたものだったが、1ヶ月もすれば味噌汁とお浸しを作ってみせた。炊きたての白米と一緒に出された時には照れ臭いような気分だったのを覚えている。……ああ、そうだ。美味しいと言う自分に“彼女”は得意気な顔をしていた──
「隊長?」
首を捻らせて見上げてくるノットの声にハッとして我に返る。指示を急に止めて黙り込んでしまったのだと客観的に気付き、慌てて「悪い」と謝罪した。
ここ最近はついぞ“彼女”を思い出す事などなかったというのに。何を今になって──
なぜ忘れられない。どうしてこうも“彼女”は俺の中に留まり続けるのか。苦い気分で頭の中から“彼女”を追いやる。
“彼女”の影から逃れるように、改めてまな板の上の食材に目をやった。右から左へ、だんだんと切り口が規則正しくなっている。
「なかなか良くなってきた。そろそろ1人でやってみろ」
「えっ」
「見ててやるから」
そう言って手を離そうとした時、カタッと背後で物音がした。
「おいおい、随分仲良しじゃねぇか」
「バルトリス……」
振り向いた先にはすっかり顔色の良くなった悪友がいた。
「もういいのか」
「おう、すっかりな」
晴れやかに答えたバルトリスはしっかりとした足取りで二人に近づき、自然な動作でリューシの肩を抱いて引き離す。
「野郎がそんなにくっついちゃあ暑苦しくてかなわねぇ」
「そう言うお前がくっついてどうする」
ノットより酷いぞと軽口を叩けばぎゅうぎゅうと後ろから抱き込んでくる。
「そういう事言うかお前は」
じゃれるように頬をつつかれ、困惑する。こいつはこんなにスキンシップの激しい男だっただろうか。記憶が確かならふれあいは頭を撫でてくる程度だったはずだが。
持て余してノットの方を見ると包丁をまな板に取り落とすように置いて形容し難い表情で凝視している。これは良くない。
「おいバルトリス。やめろ」
とんとんと抱き締めている腕を叩く。別に不快なわけではないが、部下の目の前でこんな真似をされては面目が立たない。
「ん~? 何をだ?」
「っおい! バルトリス!」
肩に回されていた腕が腰に移動し、思わず声を荒らげた。それを気にするでもなくバルトリスは一層強く腕に力を込めて逃がすまいとする。
軍服ではない薄いシャツ1枚だけの肌にはありありと感触が伝わる。あっと気付いた。
──頭を撫でてくる程度ではなかった。
この間の朝。
同じように腰を抱いた腕。
愛おしむような深緑の目。
触れかけた唇。
「──っ」
意図せずとも一気に顔に熱が集中する。端から見ればみっともない顔をしているだろう。その証拠に正面のノットが目を見開いている。駄目だ。これでは面目も何もあったものではない。わかっているが、どうしようもなかった。
「どうしたリューシ」
耳元で低く優しい響きが言う。
「ん? 何だよ急に黙っちまって……」
吐息が耳を擽り、顔の熱は引くどころかどんどん上昇するようだ。ああ、心臓がうるさい。 何だこれは。何なんだ。
「なあリューシ、何か言えよ。怒ってんのか? ふざけて悪かったよ、なあ」
何も言えずにいれば、心地好いバリトンの声が情けない響きを帯び始める。腕の中で黙って俯くばかりのリューシに少々不安を覚えたらしい。抱き込んだまま眉を下げている。
「……い……ん、に」
「ん?」
「いい……っ加減、離れろ馬鹿が!!」
全力で振り払われ、バルトリスがうおっとよろめきながら離れる。
「急にべたべたべたべたしやがって……っ」
まだ熱い顔で自分より長身の男を見上げて睨み付けた。この情けない状態では恐ろしくも何ともないのは鏡を見なくともわかる。だが、こうでもしなければ……
──こうでもしなければ、何だ……?
得体の知れない自分の思考回路に不安になる。何を考えているのか自分でわからない。 目の前が霞み、眉を寄せた。
「リューシお前……」
バルトリスがおっかなびっくりというように呟く。霞んだ視界で彼の顔色は窺えないが、そんな事はどうでもよかった。
「直ぐ飯を作る! さっさと殿下達を起こしてこいアホ!!」
有無を言わせず台所からバルトリスを蹴り出し、リューシは怒涛の勢いで夕食作りに取りかかる。最早部下の前で云々どころではない。 幸か不幸か、いつまでも熱を持っている顔をノットが凝視しているなどという事には気付きもしなかった。
◇◇◇
食卓に夕食──というより朝食程度のものだが──を並べると同時に、バルトリス、目を擦りながらレイドとリーンが続いて現れる。
「わ……いい匂い……」
「……!」
料理の匂いに覚醒したのか、二人がバルトリスを追い抜いて食卓を囲んだ。大きな子供のようだと苦笑しながらリューシはノットの運んできた水をそれぞれの位置に置く。
「ほら、立ってないでさっさと座れ」
「これ全部隊長が!?」
「いや。ノットも手伝った」
椅子に腰掛けながら目を輝かせるリーンに言い、なあとノットを見やれば照れたように頷いた。
「サラダの野菜切っただけですけどね……」
「それでも手伝いは手伝いだ」
トマト、レタス、キュウリ、トウモロコシを彩り良く盛り付けたサラダは彼の努力の結晶である。所々に歪な形のものがあるのはご愛敬だ。
さあ食べるかと言いかけて気づく。
「……殿下は?」
やけに静かなバルトリスに尋ねれば、「ああ、」と頭を掻いた。
両者共につい先程のあれこれはおくびにも出さない。
バルトリスは30も後半、リューシも精神年齢で言えばバルトリス以上にいい年だ。いつまでも引きずる程思春期を拗らせてはいない。気を抜けば挙動不審になりそうであっても、だ。
「それが、全然起きなくってよ……」
「は?」
「努力はしたんだぜ? 呼んでも揺さぶっても起きねぇし……流石に叩き起こすわけにいかんだろ」
あれってもうわざとじゃねぇのか、とげんなりした様子で言う。
「まさか」
「とにかく俺じゃ起きねぇからよ、お前が起こしてこい」
「どういう理論だ。俺なら起きるのか」
「だと思うぜ……俺としてはもうそのままほっといてもいいんだが」
「いや、それは駄目だろう」
「あーくそ、わかってるよ。そういう事だから、お前が手短に起こしてきてくれ。まったく、勘弁してくれっての……」
結局のところわけがわからないが、自分がセドルアを起こさなければならないらしい。そう了解したリューシは首を捻りながらも2階の宿泊部屋に向かった。
扉を開けると、セドルアは部屋のど真ん中にいた。
「殿下」
壁の方を向いて横になっている背中に呼び掛ける。反応はない。本当に深く眠っているのだろうか。
「殿下、夕食の準備が整いました。そろそろお目覚めになって下さい」
音量を上げて再度声をかけてみるが、やはり無反応である。また狸寝入りか? と疑うが、そうする理由がわからない。やはり寝入ってしまっているのか、それとも、まだ気分が悪いのか。宿を出る前にはかなり良くなっているように見えたが。
「まだお加減が優れませんか」
レイドに飲ませた酔い止めを持ってきた方がいいだろうか。そう考えながら尋ねれば、少し身じろいだ。
「……ああ」
ようやく返された言葉にほっと息をつく。
「お辛いようでしたら、こちらに食事を運びましょう。薬は──」
「来い」
「え?」
「いいから、来い」
「はあ」
起き上がるのを手伝えという事かと納得し、セドルアの側に寄る。手を貸そうとした瞬間、くるりとセドルアが仰向けになった。突然の挙動に驚く間もなく手首を掴まれ、バランスを崩す。
「は……っ!?」
ぐらりと傾いた体は当然重力に従って倒れ、セドルアの上に覆い被さる。混乱しているうちにそのまま抱き止められ、ぐるりとまた横向きになった。
「でん、か……? これは、どういう……」
デジャヴ、という言葉が頭を過った。思わず顔がひきつる。また抱き枕なのか。俺はそんなに綿が詰まっているように見えるのか。
「じっとしてろ」
腕を解こうとすれば肩口でくぐもった声が制止する。
「いや、しかし殿下」
「駄目だ」
やんわりと脱け出そうとすればぎゅっとしがみついてきた。バルトリスの包み込むようなものとはまた違う、言うなれば、幼子がぬいぐるみを放すまいとするような抱え方だ。母性が擽られる──と言ったらおかしいかも知れないが、何だろうか。邪険に出来ない。もっとも、この皇子がこんな行動を取った事に動揺しているというのもある。そうは言ってもこのまま抱かれているわけにもいかないのだが。
「殿下、私は抱き枕ではありません」
「知っている」
間髪入れず返された答えに頭を抱えたくなる。何なんだこの状況は。俺にどうしろと言うのか。
さらさらと肩に埋められている頭を撫でてみる。恐ろしい事に、皇子に対して失礼になるのではというところには思い至らなかった。
「殿下。夕食が冷めてしまいますよ」
意図せず口調までぐずる子供に言い聞かせるようなものになり、ようやくしまったと思う。しかしセドルアは額を肩に押し付けてくるだけで何も言わない。これでは本当に子供のようではないか。一体この皇子はどうしたのだろうか。
……まあ扱いについて気にしないならそれはそれでいい。が、ともかく1階に連れて行かなければならない。リューシは自分にしがみついている背中をとんとんとあやすように叩きながら言う。
「せっかく作ったものですから、温かいうちに召し上がって頂きたいのですが」
ぴくりと背中でセドルアが反応した。
「……お前が作ったのか」
思わぬ部分に食い付かれ面食らう。自分が調理したものかどうかというのは重要なのだろうか。そうは思えないが。
「ええまあ、大部分は。サラダは──」
「起きる」
ノットが、と言うのを遮ってセドルアが急に抱き締める力を緩めた。そのまますっくと立ち上がる。手を貸す必要はなかったらしい。
「殿下、お加減が優れないのでは……」
「冗談だ」
はあ? と素で声が漏れる。それを気にも留めずセドルアはすたすたと部屋を出て行く。
「早く行くぞ」
出入口で振り返ったその顔は見慣れた無表情だ。冗談だという言葉通り、特に変わった様子はない。
──いや、何の冗談だったんだ。
結局何がしたかったのだろうか。この部屋に来る前と同様に首を捻りながらセドルアの後を追う。
食卓に着いた時には、まだ料理は温かかった。
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