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第二章
19.5話
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(テレサ視点)
私はあの時、心が何かに囚われていた。正体の掴めない、何か恐ろしいものに。それでも、それが分かっていてもなお、どうすることもできず、心が従うままに動いていた。頭では、理性ではダメだと、危険だと分かっていても。そんなことをすればもう戻れないと分かっていても、私はあの時、頬を撫でるあの風に身を任せようとしていた。
ハッとして上体を起こす。まだ薄暗い部屋と咄嗟に動いたせいで皺ができてしまったベッドのシーツに、先程までの光景が夢だったと分かり、ほっとして肩を落とした。いや、違う。夢ではない。あれは現実だったのだ。見下ろした夜の景色も、私を引き止めたあの澄んだ声も、私を繋ぎ止めてくれたあの白い手も。全て、現実に起きたことなのだ。それだけは忘れてはいけない。両頬を叩き自分を戒める。
一部の方しか知らない、私の自殺未遂。当事者でありながらも私の記憶は曖昧だった。覚えていることは片手で数え切れるほどしかない。一つは自分の心が何かに囚われていた記憶。理性が警鐘を鳴らしていてもそれを無視するほどに強い感情に行動が流されてしまっていた。そしてもう一つは忘れてはいけない、自分がこの命を投げ出そうとしてラインホルト様に救われたこと。それから最後に……あの瞬間。
『待って!』
澄んだ空色の瞳が私を捉えたあの瞬間、支配されていた感情が少しだけ自分の元に帰ってきたように思えたことも、確かにこの胸に刻まれているのだ。命を救われたばかりのあの時はとても冷静ではなくて、直前の出来事だから覚えていたのだと思っていたけれど、きっとそうではない。あの方の迷いのない瞳を見た瞬間少しだけ私は解放されたのだ。だからこそ、自分が命を捨てようとしていることに気づいた。その後すぐに、また心はあのどんよりとした感情に支配されてしまったけれど。
……思えば、それはどうしてだろう?何か、またあの救いようのない絶望感の理由がその場に現れたからではないのだろうか?だとしたらそれはどこに?
ふと思考を張り巡らせると無意識に体が震えだしたのがわかった。長所は明るさだと言われている自分のこんな姿を見たら友人達はなんと言うだろう?自分を嘲るように小さく笑った。
「早く準備をして、ラインホルト様のところに行かなくては!」
自分に言い聞かせるように大きな声を出してベッドから出て立ち上がった。そうだ。今一番気にすべきはラインホルト様に届けられた鴉の羽の方なのだ。あの素晴らしいお方にあんな不吉なものを届けるのだ。犯人はきっと正気ではない。子爵家の娘にすぎない私を下に見ることなく、美しい微笑みを携えて話しかけてくださるあの方に!よりにもよって!鴉の羽を!
どうやら怒りが目を覚ましてくれたらしく、次第に頭が回り始めてきた。今日も調査をしなくては!素早く着替えて、ラインホルト様のお部屋にお迎えに行った。
「おはようございます」
「おはよう、ラズリアさん」
侍女のラナさんも一緒に寮から校舎の方へと向かう。いつも通りに挨拶をすると返ってきた気品のある声に笑顔を返した。しかしよく見てみると、その美しい瞳の下にはうっすらと隈ができているように思えた。
「昨夜はお眠りになられなかったのですか?」
私が聞くとラインホルト様は苦笑いをして「さすがラズリアさんね」と小さく溢した。さすが、の意味はよく分からなかったけれどそれは考えずに、続けられる言葉に耳を澄ました。
「最近、夢見が良くなくて……不思議な夢ばかり見るの」
「それは……」
自分もつい先程まで現実でもある悪夢にうなされていたので、他人事には思えず、その儚げな表情にますます心配になってしまった。
「私でもお役に立てることがありましたら、何でも仰せになってくださいね」
「えぇ、ありがとう」
ラインホルト様がそうおっしゃった後、その後ろでラナさんも私に小さく頭を下げていた。おそらくラインホルト様には気付かれないように。きっと彼女も心配していたのだろう、どこか苦しげでそれでも抱え込んでしまう自分の主人を。
私は彼女にもラインホルト様にも向けて首を振った。私がしていただいたことに比べたらこんな事は比べるにも値しないほど小さな事だ。とにかくどうか目の前のこの尊いお方を苦しめる種が全て静かになくなってくれるように、と祈ることしか、非力な私にはできなかった。
私はあの時、心が何かに囚われていた。正体の掴めない、何か恐ろしいものに。それでも、それが分かっていてもなお、どうすることもできず、心が従うままに動いていた。頭では、理性ではダメだと、危険だと分かっていても。そんなことをすればもう戻れないと分かっていても、私はあの時、頬を撫でるあの風に身を任せようとしていた。
ハッとして上体を起こす。まだ薄暗い部屋と咄嗟に動いたせいで皺ができてしまったベッドのシーツに、先程までの光景が夢だったと分かり、ほっとして肩を落とした。いや、違う。夢ではない。あれは現実だったのだ。見下ろした夜の景色も、私を引き止めたあの澄んだ声も、私を繋ぎ止めてくれたあの白い手も。全て、現実に起きたことなのだ。それだけは忘れてはいけない。両頬を叩き自分を戒める。
一部の方しか知らない、私の自殺未遂。当事者でありながらも私の記憶は曖昧だった。覚えていることは片手で数え切れるほどしかない。一つは自分の心が何かに囚われていた記憶。理性が警鐘を鳴らしていてもそれを無視するほどに強い感情に行動が流されてしまっていた。そしてもう一つは忘れてはいけない、自分がこの命を投げ出そうとしてラインホルト様に救われたこと。それから最後に……あの瞬間。
『待って!』
澄んだ空色の瞳が私を捉えたあの瞬間、支配されていた感情が少しだけ自分の元に帰ってきたように思えたことも、確かにこの胸に刻まれているのだ。命を救われたばかりのあの時はとても冷静ではなくて、直前の出来事だから覚えていたのだと思っていたけれど、きっとそうではない。あの方の迷いのない瞳を見た瞬間少しだけ私は解放されたのだ。だからこそ、自分が命を捨てようとしていることに気づいた。その後すぐに、また心はあのどんよりとした感情に支配されてしまったけれど。
……思えば、それはどうしてだろう?何か、またあの救いようのない絶望感の理由がその場に現れたからではないのだろうか?だとしたらそれはどこに?
ふと思考を張り巡らせると無意識に体が震えだしたのがわかった。長所は明るさだと言われている自分のこんな姿を見たら友人達はなんと言うだろう?自分を嘲るように小さく笑った。
「早く準備をして、ラインホルト様のところに行かなくては!」
自分に言い聞かせるように大きな声を出してベッドから出て立ち上がった。そうだ。今一番気にすべきはラインホルト様に届けられた鴉の羽の方なのだ。あの素晴らしいお方にあんな不吉なものを届けるのだ。犯人はきっと正気ではない。子爵家の娘にすぎない私を下に見ることなく、美しい微笑みを携えて話しかけてくださるあの方に!よりにもよって!鴉の羽を!
どうやら怒りが目を覚ましてくれたらしく、次第に頭が回り始めてきた。今日も調査をしなくては!素早く着替えて、ラインホルト様のお部屋にお迎えに行った。
「おはようございます」
「おはよう、ラズリアさん」
侍女のラナさんも一緒に寮から校舎の方へと向かう。いつも通りに挨拶をすると返ってきた気品のある声に笑顔を返した。しかしよく見てみると、その美しい瞳の下にはうっすらと隈ができているように思えた。
「昨夜はお眠りになられなかったのですか?」
私が聞くとラインホルト様は苦笑いをして「さすがラズリアさんね」と小さく溢した。さすが、の意味はよく分からなかったけれどそれは考えずに、続けられる言葉に耳を澄ました。
「最近、夢見が良くなくて……不思議な夢ばかり見るの」
「それは……」
自分もつい先程まで現実でもある悪夢にうなされていたので、他人事には思えず、その儚げな表情にますます心配になってしまった。
「私でもお役に立てることがありましたら、何でも仰せになってくださいね」
「えぇ、ありがとう」
ラインホルト様がそうおっしゃった後、その後ろでラナさんも私に小さく頭を下げていた。おそらくラインホルト様には気付かれないように。きっと彼女も心配していたのだろう、どこか苦しげでそれでも抱え込んでしまう自分の主人を。
私は彼女にもラインホルト様にも向けて首を振った。私がしていただいたことに比べたらこんな事は比べるにも値しないほど小さな事だ。とにかくどうか目の前のこの尊いお方を苦しめる種が全て静かになくなってくれるように、と祈ることしか、非力な私にはできなかった。
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